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弐章 比良山の若天狗
四
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教室が騒然とする中、藍は太郎を負ぶって保健室まで運んだ。幸か不幸か、先生は留守にしていたので、勝手にベッドを使わせてもらうことにしたのだった。
ベッドに寝かせ、真っ青な顔から流れる汗を、藍はハンカチでふき取っていた。
意識までは手放していないのか、太郎はずっとかすれたような声で話しかけていた。
「ご、ごめんね」
「いいから、寝ててください」
「でも、お弁当……」
「私のご飯より自分のご飯はどうしたんですか。まさか食べてないんですか?」
「僕は長年鍛えてきてるから、一食や二食や三食は抜いても大丈夫」
「大丈夫じゃないから、こうなってるんでしょうに」
「いや、それは本当に大丈夫なんだ。気にしないで」
太郎は青ざめた顔で笑った。とても、あの日藍を危機から救ってくれた人と同一人物とは思えない、か弱い笑みだった。
「ご飯じゃなくて、何かあるんですか?」
太郎は苦笑いしていたが、それ以上を話そうとはしなかった。普段は必要ないことまであれこれ話しかけてくるのに、こんなに肝心なことは黙り込んでいる。
藍の胸の内に、もやもやした思いが生じていた。
「何なんですか、いったい。ちゃんと話してくれないと、これからどう気を付けたらいいかもわからないじゃないですか」
「君が気にすることは何もないんだよ。僕が自分で何とかするから」
「何とか出来てないじゃないですか」
「それを言われると参っちゃうなぁ」
太郎の力ない笑いだけが保健室に響いた。藍は、笑いとはほど遠い表情を浮かべていた。その顔を見て、太郎も中途半端な笑いを引っ込めたのだった。
「……ごめん」
「謝らなくていいです。その代わり、今日の夕飯は私が作りますからね」
「え、それはダメだよ! 藍のご飯は僕が……」
急に起き上がって抗議する太郎を、藍は力ずくでベッドに押さえつけた。
「いいから、寝てる! こんな状態で家事労働させたら、私がお母さんに怒られちゃうじゃないですか」
聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように、厳しい声音を浴びせた。太郎はまだ抗議しようとしていたが、藍のねめつける視線に怯み、ようやく自分から布団に戻ったのだった。
その時、太郎の視線がベッドサイドのお弁当に向けられた。太郎が持って来た時のまま、未開封だ。
「食べないの?」
「た、食べますよ」
そう言うものの、藍の手はお弁当に伸びようとはしない。太郎の顔が、だんだん悲しそうに変わっていった。
「熱いうちに食べてよ。僕、藍が食べてくれることだけを楽しみに作ったのに……」
だんだん潤み始める太郎の瞳から逃れるように、藍は顔を背けた。
「いや、だって……貧血で倒れた人の前で自分一人お弁当食べるなんてできませんよ」
「僕のことは気にしないで。そうしてくれる方が、僕のためだと思ってよ」
「思えません! これを届けたせいで今倒れてるのに」
そこまで口にして、藍は口をつぐんだ。気に病んでいると知られることまでは、言わないようにしていたのに。
太郎はぼんやりとしていた瞳を瞬かせて、じっと藍の顔を下からのぞき込んでいた。気のせいか、ほんのり頬に赤みが戻ったようにも見える。
「それって、つまり……僕が倒れたのは自分のせいだって思ってるの?」
「ま、まぁ……」
布団に入ったはずの太郎の顔がまたぐんぐん近づいてくる。見えていないはずがないのに、藍の顔色を確認するかのように、太郎の顔が迫ってきた。
「きみはまったく……全然、これっぽちも気にしなくていいんだけどね、ほんのちょびっとでも悪いと思ってるんだとしたら……一つだけお願いしてもいい?」
藍は、すでに後悔していた。弱みを握らせまいと努めていたというのに。だがこうなってしまっては、致し方ない。
「な、何ですか?」
布団の中から、藍よりも大きくて少したくましい、だが真っ白な肌色の手が伸びてきた。
「手を握ってもらっても、いい?」
「手?」
本当にそれだけで済むのか、疑問だ。だがまだ青白い顔と、そんな顔色でも喜色満面な太郎の顔を目の当たりにしては、今更嫌とは言えないのだった。
「は、はい」
藍はおそるおそる、そろりそろりと、太郎の手……というか指を摘まんだ。触れた藍の指先を、太郎の白い指が同じようにそっと包む。
雪のような肌の色と同じく冷たい指だった。だが不思議なことに、触れた先からぽかぽかと温かく染まっていく。
ゆったりとお湯に浸かっているような、心地よい温もりが指先から腕に、肩に、広がっていく。
するとどうしたことか、先ほどまで陶器のように青白かった太郎の頬に、はっきりと赤みが差していた。
「何が起こったんですか?」
こんなに一瞬で回復できるわけがない。眉根を寄せて訊ねる藍に、太郎は少し困り顔で答えた。
「ちょっともらったんだ」
「もらった? 私から? 何を?」
「それは……」
なぜか口ごもる太郎に、藍は言い募った。繋いだままだった手をたぐり寄せるように、今度は藍がぐいぐいにじり寄った。
その時だった。大きな音がしたのは。
「何をしているか、貴様!」
音がしたのは、保健室の入り口。乱暴に開け放ったドアの前に立っていたのは、眉も目尻もこれ以上ないくらいにつり上げて、仁王のように立つ、青年だった。
ベッドに寝かせ、真っ青な顔から流れる汗を、藍はハンカチでふき取っていた。
意識までは手放していないのか、太郎はずっとかすれたような声で話しかけていた。
「ご、ごめんね」
「いいから、寝ててください」
「でも、お弁当……」
「私のご飯より自分のご飯はどうしたんですか。まさか食べてないんですか?」
「僕は長年鍛えてきてるから、一食や二食や三食は抜いても大丈夫」
「大丈夫じゃないから、こうなってるんでしょうに」
「いや、それは本当に大丈夫なんだ。気にしないで」
太郎は青ざめた顔で笑った。とても、あの日藍を危機から救ってくれた人と同一人物とは思えない、か弱い笑みだった。
「ご飯じゃなくて、何かあるんですか?」
太郎は苦笑いしていたが、それ以上を話そうとはしなかった。普段は必要ないことまであれこれ話しかけてくるのに、こんなに肝心なことは黙り込んでいる。
藍の胸の内に、もやもやした思いが生じていた。
「何なんですか、いったい。ちゃんと話してくれないと、これからどう気を付けたらいいかもわからないじゃないですか」
「君が気にすることは何もないんだよ。僕が自分で何とかするから」
「何とか出来てないじゃないですか」
「それを言われると参っちゃうなぁ」
太郎の力ない笑いだけが保健室に響いた。藍は、笑いとはほど遠い表情を浮かべていた。その顔を見て、太郎も中途半端な笑いを引っ込めたのだった。
「……ごめん」
「謝らなくていいです。その代わり、今日の夕飯は私が作りますからね」
「え、それはダメだよ! 藍のご飯は僕が……」
急に起き上がって抗議する太郎を、藍は力ずくでベッドに押さえつけた。
「いいから、寝てる! こんな状態で家事労働させたら、私がお母さんに怒られちゃうじゃないですか」
聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように、厳しい声音を浴びせた。太郎はまだ抗議しようとしていたが、藍のねめつける視線に怯み、ようやく自分から布団に戻ったのだった。
その時、太郎の視線がベッドサイドのお弁当に向けられた。太郎が持って来た時のまま、未開封だ。
「食べないの?」
「た、食べますよ」
そう言うものの、藍の手はお弁当に伸びようとはしない。太郎の顔が、だんだん悲しそうに変わっていった。
「熱いうちに食べてよ。僕、藍が食べてくれることだけを楽しみに作ったのに……」
だんだん潤み始める太郎の瞳から逃れるように、藍は顔を背けた。
「いや、だって……貧血で倒れた人の前で自分一人お弁当食べるなんてできませんよ」
「僕のことは気にしないで。そうしてくれる方が、僕のためだと思ってよ」
「思えません! これを届けたせいで今倒れてるのに」
そこまで口にして、藍は口をつぐんだ。気に病んでいると知られることまでは、言わないようにしていたのに。
太郎はぼんやりとしていた瞳を瞬かせて、じっと藍の顔を下からのぞき込んでいた。気のせいか、ほんのり頬に赤みが戻ったようにも見える。
「それって、つまり……僕が倒れたのは自分のせいだって思ってるの?」
「ま、まぁ……」
布団に入ったはずの太郎の顔がまたぐんぐん近づいてくる。見えていないはずがないのに、藍の顔色を確認するかのように、太郎の顔が迫ってきた。
「きみはまったく……全然、これっぽちも気にしなくていいんだけどね、ほんのちょびっとでも悪いと思ってるんだとしたら……一つだけお願いしてもいい?」
藍は、すでに後悔していた。弱みを握らせまいと努めていたというのに。だがこうなってしまっては、致し方ない。
「な、何ですか?」
布団の中から、藍よりも大きくて少したくましい、だが真っ白な肌色の手が伸びてきた。
「手を握ってもらっても、いい?」
「手?」
本当にそれだけで済むのか、疑問だ。だがまだ青白い顔と、そんな顔色でも喜色満面な太郎の顔を目の当たりにしては、今更嫌とは言えないのだった。
「は、はい」
藍はおそるおそる、そろりそろりと、太郎の手……というか指を摘まんだ。触れた藍の指先を、太郎の白い指が同じようにそっと包む。
雪のような肌の色と同じく冷たい指だった。だが不思議なことに、触れた先からぽかぽかと温かく染まっていく。
ゆったりとお湯に浸かっているような、心地よい温もりが指先から腕に、肩に、広がっていく。
するとどうしたことか、先ほどまで陶器のように青白かった太郎の頬に、はっきりと赤みが差していた。
「何が起こったんですか?」
こんなに一瞬で回復できるわけがない。眉根を寄せて訊ねる藍に、太郎は少し困り顔で答えた。
「ちょっともらったんだ」
「もらった? 私から? 何を?」
「それは……」
なぜか口ごもる太郎に、藍は言い募った。繋いだままだった手をたぐり寄せるように、今度は藍がぐいぐいにじり寄った。
その時だった。大きな音がしたのは。
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