となりの天狗様

真鳥カノ

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参章 飯綱山の狐使い

二十

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「許せない……!」
 そう、地の奥底から這い出て来るかのような声が響いて来た。声の主の気配は、あっと言う間に三郎の背後にまわり、大きくその腕を振りかぶった。
 そして……ぺちっと、何やら軽い音が聞こえた。
「……え」
 何の音か、藍には咄嗟にわからなかった。首をかしげる藍の元に怨嗟のこもった声と、烈しい息切れの声が続けて聞こえてきた。
「さ~ぶ~ろ~う~! いったい……なにやって……あいを……!」
 その声は、まさしく息も絶え絶えで、もはや何を言おうとしているかさえわからない。かろうじてその言葉を向けられた本人である三郎には、伝わったようだった。
「太郎、お前なぁ……こんなに凄んでるのに、少しも怖くねぇよ。しまらねえなぁ」
 三郎の背後には、太郎が立っていた。拳を突き出したつもりがきちんと届かなかったようで、掌でぽんと叩いた程度に留まっていた。それよりも、今立っていることの方が苦しそうだった。
「た、太郎さん! 大丈夫ですか?」
「兄者、ご無理なさらず……!」
「い、いいから……言ってやらなきゃ気が済まない……!」
 太郎はそう言って、必死に腕を振り回してぽかぽか叩き続けた。
「ああ、もう! 何なんだよ。痛くはねえけど鬱陶しいぞ」
 三郎がそう言って太郎を引き剥がすも、太郎はなおも三郎を睨みつけていた。
「何なんだはこっちのセリフだ、三郎! よくも藍を危険な目に……そうならないように藍を探せって言ったのに」
「残念。俺はお嬢を探せとは言われたが、守れとは言われてねえよ。太郎が熱を上げてるって噂の姫なら、俺の手なんか借りずとも切り抜けられると思ったもんでね」
 そう言って投げてよこした視線は、挑発としか受け取れないものだった。思わず、藍の腕にぎゅっと力が籠った。すると、腕の中にいた管狐たちがぴくんと動いた。
 痛かったかと思って力を緩めた次の瞬間、管狐たちは藍の腕の中から同時に飛び出した。そして、三郎の元に駆けて行ってしまった。
「おう、お前ら。無事で良かった。さっきは偉かったな」
 三郎が頭を撫でようとしたその時だった。管狐たち三人は、三人そろって三郎に突進した。
「な!? お前ら、何すんだ」
「ご主人様、ひどいです!」
「最低です!」
「きちくです!」
「鬼畜って、どこでそんな言葉覚えて……」
 戸惑う三郎を、管狐たちは続けてぽかぽかと殴りつけていた。一人ひとりはか弱い力ではあったが、なにせ三人同時だ。見た目よりも効果があるようだ。
「やめろやめろ! 何がひどいんだよ、いったい」
「お姉さんをいじめました!」
「い、いじめた!?」
 太郎の追及は軽く躱した三郎だが、管狐たちの言葉は躱せないようだった。
「お姉さんを突き飛ばしました!」
「お姉さんが石に当たったら怪我します!」
「お姉さん、きっと怖かったです……!」
 三郎は、三人に責め立てられて初めてわなわなと震えだした。先ほどまで浮かべていた余裕綽々の空気が、見る見るうちに消え失せていく。
 逆に、太郎と治朗の方が皮肉をにじませた笑みを浮かべた。
「三郎……嫌われたね」
「自業自得だな」
「き、嫌われてない!」
 そう言って管狐たちの頭を撫でようとするも、三人同時にそっぽ向かれてしまった。さすがに危機的状況とみたのか、ショックだったのか、三郎は助けを求める視線を投げてよこした。
 太郎も治朗も、それをため息交じりに受け流した。ここで助け船を出すか否か、決めるのは自分たちではないと判断したのだ。
 二人は視線を以て、判断を委ねた。今回一番の被害を被っているであろう、藍に。決定権を持つ者が藍だと察した三郎は、懇願するように藍を見つめた。
 藍は、大きく息を吐いて、また吸って、大きな声で呼びかけた。
「琥珀ちゃん、珊瑚ちゃん、翡翠ちゃん!」
 強い口調に、三人は肩を震わせた。おそるそおる振り返り、藍のことを見上げたら、藍の厳しい視線が目に入ったようだ。
 藍は腰に手を当てて仁王立ちになり、三人に向けて言い放った。
「三人とも……助けてくれてありがとうね! 家に美味しいクッキーがあるから、食べに来ない?」
「……『くっきー』ってなんですか?」
「とっても甘くて、サクサクしてて、美味しいんだよ~」
「た……たべます!」
 三人の声が、一つに重なった。三郎を責め立てていたことが一瞬で吹き飛び、三人は藍の元に駆け寄って来た。 
 取り合うように藍の手を取って両側にひっついて、離れようとしない。
「お、お前ら……俺は……?」
 呆然として、力の抜けた声で呟くと、三人には気付かれないほどに小さく、藍が振り返った。その顔には、勝利を確信した笑みが浮かんでいた。
「さぁ、いこうか!」
「はーい」
 藍と管狐三人は、今度こそ三郎のことなど振り返りもせずに歩き出した。当然、太郎と治朗も、振り返ることなくそれに続いた。
 騒然とする商店街の中に、三郎が一人ぽつんと取り残されていたのだった。
「ああ、もう……! わかったよ。俺が悪かったよ!」
 その叫びが藍たちに届いたのか届いていないのか……定かではなかった。
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