となりの天狗様

真鳥カノ

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四章 鞍馬山の大天狗

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「あ、本当だ。すごく美味しいです、母君」
 全員が食卓につくと、皆が一斉に優子の煮っころがしの皿に箸を伸ばした。そして、皆太郎と同じように舌鼓を打った。
「ありがとう。太郎さんにそう言われると自信出るわ~」
 四月からこっち、三食を作るのは太郎が買って出ていた。そのため、母の料理が食卓に並ぶ機会がほぼなかった。太郎の料理も絶品だったために何も言わなかったが、久しぶりに口にするとやはり懐かしさがこみ上げてくる。
「これが、店に行けばいつでも食べられるということですか」
 いつもは黙々と食べる治朗が、珍しくそう訊ねた。
「そうねぇ、だいたいいつでも出してるわね。意外と人気で、いつも全部出ちゃうのよ。昨日はちょっと作り過ぎちゃった。捨てるのがあまりにももったいなくてね」
「珍しいですね。いつもはそれほど廃棄は出さないようにできてるのに」
 基本的に、優子は余った料理は店じまいの際に廃棄している。余りがそれほどたくさん出ないことと、食中毒を避けるためだ。
 ただ、昨日だけは違ったようだ。優子が持ち帰った煮っころがしは今から何人かの注文を受けても対応できるほど大量だった。これほどの量を廃棄するのは、作り手として気が引けたのだろう。
「私は嬉しいよ。朝からお母さんの煮っころがし食べられて。でも何で昨日に限って、こんなに大量に作ったの?」
「団体のお客様が来られたのよ」
「団体って何人くらい?」
「11名様だったわ」
「それは……多いね」
 優子の店は人気だが店構えとしては大きくはない。カウンター席とテーブル席がいくつかあり、一度に入れるのはおよそ20人ほどだろう。そんな店に一度に11人も入って来たら、きっとてんてこ舞いだったに違いない。
「それが人数も多かったんだけど、とにかくよく食べる人たちばかりでね。その時出せる料理があっという間に全部なくなっちゃったのよ。とにかく色々作り足しながらやってたんだけど追いつかなくて……他の常連さんたちは『今日は大儲けだな』とか言ってくれたけど、途中で帰すことになっちゃったし、申し訳なかったわ。儲かったんだけどね」
「で、これだけ大量に作り過ぎたと」
 目の前の大皿に載る煮っころがしは、今の優子の話を一目で裏付ける量だった。
「なんだか煮っころがしを気に入ってくれたみたいだからたくさん作ってたんだけど、間に合わなくてね。それで時間がかかりますって謝りに行ったら、幹事っぽい人が言うのよ」

『いや、そこまでして頂くのは申し訳ない。もう十分、楽しませて頂いた。我々は失礼しよう。今作っていただいている分も、お代を払おう。その代わり、また寄らせて頂く』

「そう、言ってたわ」
「随分太っ腹ですね」
 作り過ぎた分まで払ったということは、今藍たちが口にしている皿のものは、そのお客の奢りと言うことになる。藍は胸の内でひそかに合掌した。
「せめて次にいつ来られるのかお聞き出来たら良かったのに。そうしたら、あらかじめ準備もできるんだけど」
「訊けなかったんですか?」
「それがね、不思議なの。全員店を出られたからお見送りしようと外に出たら、もういなくなってたのよ。ほんの一瞬なのに」
「それって……」
 藍が、まさか、と思うと同時に、他の太郎と治朗も顔を見合わせていた。考えていることは、同じのようだ。 
 その客は人間ではなく、あやかしだったのでは、と。
 だが、やっていることは大量に料理を食べたことと、一瞬で姿を消したことのみ。器の大きさまで見せつけて去ったのだから、それほど悪いモノとも思えなかった。
(まぁ、油断してたら何が起こるかわからないけど)
 昨日、藍が奇妙な襲われ方をしたばかりだったので、敏感になっているだけかもしれない。
 ほんの少し緊張を解いた藍たちに、優子はまったく気付かずに明るい声を向けた。
「でも今度その人が来たら、藍ちゃんにお手伝い頼むわね」
「藍ですか? 兄者ではなく?」
 太郎が少し驚き、それを上回る驚きようで治朗が言った。納得がいかない、というように。
「そうよ。藍ちゃんの煮っころがしはもう絶品なの。これだけは、もう私を超えられちゃったのよね」
「や、やめてよ、お母さん。そんなわけないでしょ」
 太郎と治朗の視線が合いに刺さる。太郎の興味深そうな視線も気になるが、太郎を差し置いて声がかかったことに対する治朗の視線が針のように痛い。
 そんなことには気付かず、母はコロコロ笑いながら言った。
「そうだわ、今日お手伝いしてくれない? 昨日途中で帰っちゃったお客さんたちが来るかもしれないし。あの団体さんが来ないとも限らないし」
「手伝い? うん、いいよ。学校から帰ったら……」
「ダメだよ」
 えらくきっぱりとした太郎の声が、母と娘の会話を遮った。普段はそんなことはしない。ニコニコと二人の会話を微笑ましく聞いているだけだというのに、今はやや厳しい視線を藍に向けている。
「な、何でですか? 心配なら治朗くんにも来てもらえば……」
「そんなことしたら家に僕一人で寂しい……じゃなくて!」
 太郎はすぅっと指を持ち上げ、壁に掛かったカレンダーを指差した。今日の日付からわずか数日後には、こう書かれている。
『藍 中間試験』と。
「う……」
「藍、せっかく夜遅くまで頑張っていることを無駄にする気? 今は勉強に集中する時でしょ」
「いや、ちょっと煮詰まってるというか……ちょっと息抜きというか」
「煮詰まってる!?」
 太郎は、大仰とも思える素振りで大きくため息をついた。数か月一緒に暮らしていたが、こんな素振りを藍は初めて見た。
「藍……何で言ってくれないの」
「はい?」
「困ってることがあるなら、何で僕に言わないの。僕はいつでも藍の力になりたいのに」
「いや、だって学校の勉強ですし。てん……太郎さんたちに頼るものじゃないかなって」
「頼るものだよ!」
 バンと乱暴なほどに大きく、太郎は食卓を叩いた。よくわからないが、太郎の何かしらの逆鱗に触れたらしい。だが、そうやれば鎮められるのか、わからない。
「あ、あのぅ太郎さん?」
「特訓だ」
「へ?」
「今日から試験の日まで特訓だよ、藍。僕が必ず100点満点をとらせてあげる」
「え、えええぇぇ!?」
 せっかくの煮っころがしの味も、どこかへ吹き飛んでしまった朝だった。
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