となりの天狗様

真鳥カノ

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五章 天狗様、奔る 

十八

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 触れていたのは、ほんの数秒のこと。
 唇が離れると、呆然としている藍の顔が、太郎の瞳に映っていた。その瞳に、鋭い光が宿った。
 次の瞬間、太郎の背に大きな黒い翼が広がった。その翼を、大きく何度も羽ばたかせる。ただ落ちている時よりもずっと激しい速さで落ちていった。
「ひっ!?」
 思わず悲鳴をあげる藍の頭に、そっと温かな手が添えられた。背中に回された手にもぐっと力が籠もった。その次の瞬間、太郎と藍は、風を切って旋回して、再び空に舞い上がっていた。
 羽ばたきが緩やかになって、ようやく耳をさくような轟音は止んだ。同時に、太郎が深く息をつく声が聞こえた。
「はぁぁ…………助かった……」
 先ほどまでの険しい顔つきが一転、いつもの、やんわりゆるやかで暢気な表情に戻っていた。
(ああ、太郎さんだ……)
 自然に、そう思った。そして、ホッとしていた。どうしてかわからないが。
 太郎は、藍を抱えたまま先ほど落ちた場所よりもずっと高く飛んでいた。その横顔に、光が当たった。
 いつの間にか暮れかけていた夕日の、茜色の光だ。太郎の髪が、頬が、瞳が、朱く染められていく。その顔を見て、藍はまた、別の安心感を覚えていた。
 ずっと前にも、この顔を見た。こうして、抱きかかえられた。こうして黒い翼を広げて、真っ赤に染まる空を飛んだ。
 そうだった。あの日の空もこんな風に、燃えるような茜空と静かな夜が混ざり合って、稜線がまるで鮮やかな花のようだった。
「太郎さん……」
「なに?」
 振り返った太郎の顔を、まっすぐに見ることができなかった。
 そのことを、別の意味に受け取ったのか、太郎は慌てふためきだした。
「あの、藍……ほんとにごめんね」
「は、はい? 何が……ですか?」
 かろうじて太郎を見ると、申し訳なさそうな顔と、何かを恐れている顔が合わさって青ざめた顔を向けていた。
 どうしてそんな顔になっているのか、藍にはまったくわからなかった。
「その……さっき、君に……許可なく……唇……!」
「あ! あれは……!」
 藍まで、じっとしていられなくなった。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られていたが、太郎の腕にしっかりと抱き留められているため身動きができなかった。
「あの、ごめんね。咄嗟に君から気をもらうしか方法がなくて。く、く、口移しが一番効率がいいもんだから……降りたら気が済むまで殴るか投げるかしてくれていいから。あとティッシュなら持ってるから拭いて!」
「……拭き取る……」
 藍の中で、その言葉は何故だかしっくりこなかった。これまでだったら、間違いなく怒ってその通りにしていたはずなのに。
 先ほどの唇の感触を拭い去りたいとは、今は全く思っていなかった。
「太郎さん、私、ずっと前にも、こうして太郎さんに助けてもらいましたよね……?」
 謝り倒していた太郎は、急に目を丸くして、藍を見つめ返した。そして、どこか嬉しそうにはにかんで、頷いた。
「ようやく、気付いてくれたね」
 藍の目の前にあるこの笑みは、あの時に見たものと同じだった。
「あやかしに呼ばれて山道からはずれた君を、こっそり連れ戻したんだった。あの時も、こんな空の中、飛んでいたね」
 その笑顔を見て、思い出した。あの時も、こんな茜空に照らされたこの人の顔を、とてもきれいだと思ったのだった。
 あの時からずっと、この人にまた会いたいと、思っていたのだった。
(ああ、そうか……私はずっと……!)
 気恥ずかしさから、また顔を逸らしてしまった藍を、太郎は小さく笑った。
「顔、真っ赤だね」
「へ!?」
 やはり隠しきれなかったか、と焦ったが、太郎はただただ柔らかく微笑んでいた。
「あの時と同じ、茜色に染まってるね」
「そ…………そう、ですね……太郎さんも……」
「そう?」
 自分では気付いていないらしい。なんだか可笑しくなって、藍はくすくす笑った。すると太郎も同じように笑い出した。
 二人の笑い声が、二人だけの静かな空に響いていた。
「ところで藍……相談なんだけど」
「はい?」
 急に太郎の表情が張り付いたような笑みに変わった。なんだか、汗までかいているように見える。
「あの……そろそろ降りてもいいかな? 昔と違って君、その……大きくなってるから……さすがに辛くなってきて……」
 気付けば太郎の両腕はぷるぷる震えている。 
「そ、そんな大事なこと遠慮しないでください……!」
「いや、これでも僕、男だし……あ、ダメだ!」
 急に、ガクンと大きく傾いた。かと思うと、急速に落下していった。さきほど落ちた場所より高い場所から真っ逆さまに落ちている。
 今度こそ間違いなく、おしまいだと思った。その時ーー
「お姉さーん! 太郎坊様ー!」
 可愛らしい声が聞こえた。そして、気付くと藍たちは銀色の光に包まれて、宙を浮いていた。銀色の光と思ったそれは、光に包まれた真っ白な狐の姿をしていた。
「お姉さんたち、無事です!」
「間に合いました!」
「良かったです」
 狐たちは、琥珀と珊瑚と翡翠の声でそう言った。あの少女たちなのだと、わかった。
「琥珀ちゃんたち……ありがとう!」
 抱きしめてあげたかったが、今は身動きがとれなかった。ふと、下を見ると、気が遠くなりそうなほど遠い地上に、三人の姿があった。
 心配そうな顔をする治朗と、大きく手を振る三郎と、あきれ顔の僧正坊だ。
「助かったぁ…………!」
 今度こそ、本当に、そう思ったのだった。すると傍にいた太郎の眉根がぴくんと跳ね上がった。太郎の表情がみるみる曇っていき、よくわからないが、マズい、と藍は思った。
「なんで? さっき僕だって助けたじゃない。なんで三郎たちの方がそんなに安心してるの!? ねえ何で!?」
 藍は、思った。
 ああ、この面倒くさい感じ……本当に助かって、元に戻ったんだなぁ……と。
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