家政夫くんと、はてなのレシピ

真鳥カノ

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1巻

1-1

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  一品目 真っ赤と真っ赤


 車輪が回る。自転車が生む軽やかな音と共に、竹志たけしの頬を涼やかな風が撫ぜた。
 最寄り駅から徒歩十分、大学からは徒歩十五分、自転車なら五分……そんな場所に、その家はあった。ブロック塀の向こうにりガラスの引き戸。真っ白な漆喰しっくいの壁が二階まで続いている。その上には、青い瓦の屋根。
 どこにでもあるような一軒家だ。地元に古くから暮らしている住まいとしてよく見かける。
 竹志が小さい頃通っていた、習字教室だった近所の家によく似ていた。インターホンを押すと子供好きのニコニコしたおばあさん先生が、腰の曲がった姿勢で出迎えてくれたものだ。
 目の前の家の表札には『野保』と書かれている。竹志は今日から、この家に家政夫として通うことになっていた。
 家事代行のアルバイトは初めてではない。だが今回は母のツテで紹介されたアルバイト先だ。竹志自身は会ったことのない人のお宅を初めて訪ねるのだから、どうしても緊張する。竹志はインターホンの前で深呼吸をして、そして意を決してそのボタンを押した。
 インターホンの向こうからは、低く、無愛想ともいえる簡素な答えが返ってきた。そんな声が聞こえてからほどなくして、玄関の戸が開いた。
 そこに立っていたのは、還暦ほどの年の男性だった。
 髪は白く染まり、目や口には深いしわが刻まれている、生きてきた年月を感じさせる容貌だった。だが背筋をピンと伸ばした立ち姿、眉を寄せたまま固まったかのような険しい顔つきは、よわい六十を超えているとは思えないほど引き締まって見える。
 竹志は、男性を見上げたまま呆けてしまった。何故かというと……こんなに大きな人を、初めて見たのだ。
 竹志の身長は平均より上と自負していたから、自分より大きな人と接する機会は多くはなかった。十センチほども高い人となると珍しい。それも、この年齢の人では、会うのは初めてだった。

「君は……いずみくんだったか?」

 険しい面持ちから発せられた声は、その顔と同じくらい険しいものだった。竹志は思わず背筋を正して、教室で発表する時のように大きな声で言った。

「し、失礼しました! 野保のやすさん! いずみ竹志たけしといいます。大学一回生です! 今日から家政夫として働かせていただきます!」
「ああ」

 野保は、聞き返すことはしなかった。そしてじろじろと竹志を見回すこともしなかった。家政“夫”と聞くと、一度は怪訝けげんな目で見られるものと覚悟していたのだが。
 やはり、話がきちんと通っていたためだろうか。
 この仕事は、母のツテで紹介してもらった。それも、相手方も『男性がいい』と言っていたため、即決で決まったようなもの。初めから納得してくれているとはありがたい。
 これ以上の職場はないかもしれないと思っていた。
 じろじろ見回す代わりに、じっと竹志の顔を見つめていた野保は、小さくうなずいた。そして、ようやく口を開いた。

「君、帰ってくれないか」
「……はい?」

 想像と真逆の台詞を言われて固まること数秒。

「あ、いや……まぁ、少し入りなさい」

 野保はそう言って手招きして、家の中へ上げてくれた。促されるまま中に入り、リビングへと通された。
 野保の身長に合わず、天井は少し低かった。特にドアなどはさらに低くなっている。いや、野保の背が高いだけなのか。

「君、そこには気をつけて。頭を打つぞ」

 そう言うと、野保は器用にひょいと頭を下げて通った。

(慣れてる……やっぱり大変なことも多いんだな……)

 よく見ると、ドアの上枠うわわくなど何カ所か傷があった。それと何かを貼り付けたテープの跡も見える。長年暮らしているだけあって、この高身長ならではの苦しみと工夫がうかがえる光景だった。
 リビングに入り、勧められるままソファに腰掛けると、野保は台所のほうへと消えてしまった。そわそわ落ち着かず、部屋の中を見回してみる。すると色々なものが散らかっているのが見えた。
 顔を見た時に感じた清廉さや整然とした印象とは裏腹に、家の中は雑然としていた。竹志が戸惑っていると、野保が戻ってきて湯飲みを差し出した。

「まぁ、どうぞ」

 湯飲みの中では、緑茶が湯気を立てている。だが、お湯を沸かしたにしては戻ってくるのが早い。ペットボトルの緑茶を注いで、電子レンジで温めたらしい。お茶はぬるめだった。
 熱々ではない分、自転車を漕いできた竹志にとっては、ありがたい潤いだ。

「いただきます」

 竹志がお茶を飲む間に野保は向かいの席に座り、飲み終わるタイミングを見計らって、話し出した。

「さて、改めて……私は野保という。娘のあきらに頼まれて、ここに来たんだったな?」
「はい、そうです」

 竹志はうなずいた。野保の娘・晶とは一度“面接”を受けており、その際にあらかたの事情は聞いていた。
 野保は一年ほど前に妻を亡くし、それ以来一人で暮らしている。寝食もままならないといった状態ではないが、妻が亡くなってからの生活レベルが明らかに落ちていると、晶は嘆いていた。
 定年退職となった後も、マスター社員として週に何度か出社しているらしい。週の半分以上は家で過ごしているものの、いきなり家事をこなせるはずもない。
 そこで晶は、家事代行を頼もうと思い立ったのだと聞いている。
 だが野保の顔は、とてもこれから何かを依頼しようという顔には見えなかった。

「せっかくだが、我が家には家政夫は必要ない。もう来てくれなくていい」
「えぇ……?」

 聞いていた話と随分違う。驚く竹志を前に、今度は野保が湯飲みに口をつけた。

「もともと、家事代行なんて頼むつもりはなかったんだ。それを娘がどうしてもと言って聞かなくてね。それで『男の家事代行ならば』と言ったんだ。男で家政夫が務まるほど家事がうまい者は、そういないだろう」
「そ、そうかもしれませんけど……」

 家事代行はやはり女性派遣員が主流と聞く。男性も増えてはいるが、どうしても少数と言わざるを得ない。それを断る理由に使われたということが、なんだか悲しかった。
 それに家の中を見てしまうと、どうしても野保のこれからの生活が心配になってしまう。初対面の竹志がそう思うのだから、家族なら尚のこと心配だろう。野保の娘が家政夫を探していた理由も、何となく理解できたのだった。
 だが野保は構わず、険しい面持ちのまま尋ねた。

「君、ここに来るまでの時間と交通費は?」
「自転車なので、お金はかかってません。大学からここまで五分でした」
「五分……往復十分。それに準備時間と費用は?」

 野保の視線が、竹志の抱えていたバッグに向かった。床に置かせてもらった普段使いのリュックの他にもう一つ持ってきた、リュックよりも大きなトートバッグだ。中には、エプロンや手袋、使い捨てのスリッパ、スポンジなどを詰め込んできた。初めて行く家で何が必要になるかわからないので、家事で必要そうなものをとりあえずピックアップしたのだ。
 野保は、それらの準備の時間も尋ねていた。

「こ、これは家にあったものを詰め込んだので今日のための費用はかかっていません。時間も、ほんの十分程度です」
「そうか。ちょっと待っていなさい」

 竹志が言った内容をメモすると、野保は立ち上がり、ふらりとどこかへ消えた。
 竹志はまた、所在なさげにきょろきょろ見回した。やはり会話する相手がいないと、目に入るものが色々と気になる。
 床のあちこちに物が置きっぱなしになっていて、ほこりも溜まっている。ちらりと見えたシンクには洗いものがいくつもある。庭に面した窓は曇っていて、晴れ晴れとした爽やかな天気が、まったく伝わってこない。

(ああ、勿体ない……日当たりも良い、立派なお家なのに)

 むず疼い思いを抑えていると、野保が戻ってきた。片手には封筒が握られている。

「これ。今日の経費と、お詫びだ」
「え? 貰えませんよ、そんなの」
「手間を取らせたんだ。大した金額でもないから受け取ってくれ」
「む、無理です! 何もしてないんですから」
「いいから。帰りに美味うまいものでも食ったらいい」

 竹志は受け取ろうとしないが、野保も引き下がらない。力ずくで押しつけられてしまったので再び返そうとしたが、野保は腕を組んで、受け取りを拒否している。
 そんなにも帰ってほしいのだろうか。この家は、家事代行者を必要としているように見えるのに。

「うーん……じゃあ、何か手が足りていない家事を一つだけやらせてもらえませんか?」
「いらんと言っている」
「ここで何もせずに帰ると、僕が怒られます。せめて何かやった実績だけでも残さないと……報告もしないといけませんし」

 それは本当だ。竹志の依頼主は、野保の娘なのだ。きちんと業務報告をするように言われているのだった。

「うーむ、そうか……報告か。厄介だな」
「そうですよね? だから、ほんの少しだけやらせてもらえませんか? 料理でも洗濯でも掃除でも、何でもいいですから」

 上目遣いに見る竹志の視線から逃れるように、野保は考え込んだ。ただでさえ眉間に寄ったしわがさらに深く刻まれて、唸り声を上げたかと思うと、しぶしぶといった様子で、台所を指さした。

「じゃあ……皿洗いを頼めるか?」
「合点承知です!」

 竹志は叫ぶなり、意気揚々とバッグからエプロンを取り出して、身につけた。


  ◆


「あ、これはお皿だけじゃなくてシンクも掃除したほうがいいですね」
「む……そうなのか?」

 実際にシンクを目の当たりにすると、そんな言葉がぽろりとこぼれ出た。汚した自覚がなかったのか、野保はたじろいでいる。

「えーと、できれば水切りカゴも……」
「わかった。まとめて頼む」

 気まずそうにそう言う野保に、竹志は思わずニッコリ笑い返してしまった。経緯はどうあれ、任されるのは嬉しい。腕まくりをして、色々と山積みになったシンクに向かう。
 最初に水切りカゴに溜まっていた汚れを洗い流した。カピカピにこびりついていた汚れまで洗って、それから皿を洗う。その次は蛇口に向き合った。水垢や手垢で真っ白になっていたのが気になってたまらなかったのだ。
 キッチンペーパーを使わせてもらって蛇口に巻きつけ、手持ちの洗剤をかけて置いておく。

「あの……時間が空くので窓拭きもしていいですか?」
「あ、ああ。では頼んだ」

 何故か戸惑った様子で、野保はうなずいた。
 竹志は持ってきたバッグをごそごそ探り、窓の前に立った。手持ちのスポンジを使って、まず網戸を拭き、雑巾に洗剤をつけて窓ガラスをおおまかに拭いて、最後に乾拭からぶき。
 ついでにサッシに溜まっていたゴミも取る。
 それが終わると、シンクに戻り、蛇口を磨く。先ほど巻いたキッチンペーパーを取り去り、汚れが浮き出てきたところをスポンジでこすった。

「ふぅ……!」

 使い終わったスポンジをゴミ袋に入れて、完了。
 細かい部分までは手が届かなかったが、ひとまず大きく気になっていたところは何とかなった。
 うんうん、と満足して成果を眺めていると、その隣に野保が並んだ。驚きを隠せないといった顔だ。

「君……この短時間で、こんなにきれいに……窓まで?」
「はい! 本当はもっときっちりやりたかったんですけど……でもちょっとは良くなったでしょう?」
「というよりも、そんなに汚れていたのか、我が家は……」
「えーと……」 

“はい”とは言いづらかった。なるほど、散らかす人の心理とはこういうものかと妙に納得して、竹志は言葉を濁したままにした。

「ご希望があれば、もっと他のことも色々できるんですけどね……ははは」
「他にも……そうか」

 野保は掃除したばかりの窓や台所をチラチラ見ては唸っていた。心が揺れているのがわかる。その様子に、竹志は少しだけ期待していた。

(もう一押しでいけるかな……?)

 元より竹志は家事代行の仕事が好きだった。この野保家のように片付けがいのある部屋を見ると血が騒ぐ。今も、もっと他の場所にも手をつけたくて仕方ない。
 竹志がそんな欲を抑えつつニコニコしていると、野保は低い唸り声を上げて、ちらりと竹志のほうに視線を向けた。

「いや、まぁ今日は十分だよ。うん」
「“今日は”? じゃあ、また続きをしに来てもいいんですか?」
「う、うぅん……」

 迷っている。おそらく最初にきっぱりと『来なくていい』と言ってしまった手前、てのひらを返すようなことを言いづらいのだろう。
 数秒の間、野保が首を捻って困っている様子を確認して、竹志はニッコリ笑った。

「はい! わかりました、ありがとうございます! 今後ともよろしくお願いします!」

 両手を無理やり握ってぶんぶん振り回しながらそう言うと、野保はしぶしぶといった様子でうなずいていた。

(よし、また来ていいみたいだし、頑張るぞ)
「次はいつ来ましょう? というか何曜日がいいとか、色々……」
「君の予定に合わせる。大学が忙しくない日や、特に予定がない日にでも頼む」
「僕の、ですか?」

 まるで竹志の気が向いた時にでもと言われているようだった。竹志は慌てて授業の予定を確認した。

「ええと……じゃあ、次は水曜でどうでしょう?」
「それでいい。これは今日の分だ。世話になったね」

 先ほど渡されたものとは別の封筒を渡された。「経費」と「お詫び」に加えて「お礼」ということだろうか。

「あの、掃除したのは最初にいただいた分で……」
「心付けというやつだ。きれいにしてもらって気分が良くなった。そのお礼だ」

 野保は竹志の手に封筒を握らせると、そのままそっぽを向いてしまった。反論は認めないらしい。
 竹志は深々と頭を下げて、封筒をリュックにしまった。

「ありがとうございます! それじゃあ、失礼します」

 野保は外まで見送りに出て、気難しい顔のまま礼をした。
 竹志は、最初ほどは、その顔が怖いとは思わなかった。


  ◆


 水曜日。今日は二度目の訪問日だ。
 授業が終わればすぐに“お仕事”だから、今日はバッグを二個持っていた。片方には掃除道具をギッシリ詰め込んできたため、大学構内で持ち歩くモノとは思えないほどデコボコに膨らんでいる。おかげで色々な人から、『どこに冒険に出かけるんだ』と聞かれてしまった。
 周囲からちょっとだけ白い目で見られながらも、竹志は授業を終え、自転車に乗った。
 向かうは野保家。春の陽気と心地良い風を一身に受けて、竹志は漕ぎ出した。
 そして、インターホンを鳴らしてブロック塀の前で家主を待っていると、また先日と同じく、険しい面持ちをした男性……野保が、ぬっと顔を出す。

「こんにちは。泉です!」
「さっきインターホンで聞いた。入りなさい」
「はい! お邪魔します!」

 野保が出してくれたスリッパを履き、リビングまでついて歩く。散らかっていて雑然としているのは先日と変わらない。だが今日は、どこか晴れやかだった。庭に面した窓から光がそのまま差し込み、リビングを明るく照らしていた。
 竹志の前に差し出された湯飲みのお茶がゆらゆら揺れる度きらきらと光を撥ね返している。

「この前は、ありがとう」

 おもむろに野保が頭を下げた。何のことかわからずに、竹志は戸惑っていた。

「いや、台所も窓もね、ピカピカになったのを見ていると、なんだか気分が良くてね」
「いいえ。そうするように言われてきたんですから」
「娘に対して、珍しくぐうの音も出なかったよ。掃除してもらうだけで、こうも気分が晴れやかになるものなんだな。それも、あんなにも手際良くできるとは思ってもみなかった。だからその……先日はああ言ってしまったが、できればこれからもお願いしたいんだが……どうだろう」
「はい! よろしくお願いします!」

 竹志は立ち上がってガバッと勢い良く頭を下げた。その勢いに若干押されながらも、野保はお辞儀を返していた。 

「まぁ、来てもらう頻度や日程については後ほど決めるとして……とりあえず今日は、また掃除をお願いしたいんだが、いいかな?」
「はい! そう思って、色々とお掃除グッズ持ってきたんです。ほら!」

 竹志がトートバッグの中身を見せると、野保は眉間にしわを寄せて覗き込んでいた。首をかしげている様子から、どうも何が何やらわからないらしい。

「よくわからないが……何を使うかは、任せるよ。ただし、そのために購入したものについては、今度から領収書かレシートを貰ってきてくれ。ちゃんと払うから」
「わかりました!」

 竹志はうなずきながら、エプロンを身につけてトートバッグの中を漁っていた。
 野保はその様子を静かに、そしてほんの少し楽しげに眺めていた。


  ◆


 まずは、窓を目いっぱい開けた。
 まだほんの少し冷たい風が部屋の中を巡っていく。最初は肌寒さを感じるものの、しばらくすれば空気が馴染んでいく。
 頬に風を感じながら、竹志はまずは床に散らかったものを収納していくことにした。散乱しているものは様々だ。本や雑誌、空の段ボール箱、脱ぎ散らかした服、惣菜などのパック等々。
 明らかにゴミとわかるものは片っ端からゴミ袋に放り込み、そうじゃないものを端に積み上げ、より分けていく。服は洗濯カゴへ、段ボール箱は解体して縛り、本などは野保本人に仕分けをお願いした。
 続いてマスクをつけて、ほこりを落としていった。エアコンの上やカーテンレールの上……高いところから順に。そうして床にほこりが落ちて溜まると、掃除機をかけていく。
 部屋の隅から窓際、サイドボードと進み、ソファの周辺に来た。ソファには野保が座ったまま本の仕分けを続けているので、ぶつからないよう避けて通ろうとすると、野保はちらりとこちらを向いた。そして……

「ん」

 そう言って、ひょいと足を持ち上げた。大きな身の丈の男性が、ソファの上で体育座りしている様は何とも奇妙というか、不思議な感じだった。
 たじろいでいると、野保と目が合った。

「ああ……妻が掃除機をかけている時、いつもこうしていたせいかな……」

 野保はやや恥ずかしそうにうつむいてしまったが、足を下げる気配はない。掃除機をかけ終わるのを待っているのだとわかって、竹志は慌てて足下に掃除機をかけた。
 掃除機の往復が終わり、座り直した野保はそれ以降、何事もなかったように本の仕分けに戻っていた。

(意外な行動だったなぁ)


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