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赤髪の少女【1】

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 満月の宵であった。夜中に目を覚ました歩澄は、寝所を抜けて縁側へと出た。異様に明るい空を見上げようと思ったのだ。
 千依の一件から六日が経った。まだ歩澄の心の傷は癒えないが、ほんの少しずつ前を向こうと気持ちを取り戻しつつあった。
 千依を嫁がせる原因となった徳昂の処罰も残すところ後四日。未だ天嶺てんれいの役は外したままである。刑を終えた後、そうすぐに澪に手を出す程馬鹿な男ではない。

 暫し徳昂と秀虎の事を考えていた。不意に誘われるようにして振り向いたのは、微かな音が聴こえたからである。
 こんな夜中に厨房の方から声がする。辿るように近付けば、それは綺麗な歌声であった。
 皆が眠る部屋とは離れた場所。こんなところで誰が。そう思うがこの城で女の声といったら澪しか思い付かない。
 まさかと思いつつも廊下を抜け、徐々に近付く声を追う。はっきりと聴こえた澄んだような歌声。それは天から降り注ぐようで、顔を上げた。

 その刹那、歩澄は息を飲んだ。満開に咲いた桜の木。そよぐ風に花弁が舞う。その枝の上に腰をかけた女が月を見上げて美しい声を奏でていた。
 月明かりに照らされた髪は鮮やかな赤。普段、黒に近い暗赤色の髪は何故か光輝く赤い色をしていた。

 桜色の花弁と月明かりと煌めく赤。その幻想的な姿に歩澄は目を奪われた。何者かに体を乗っ取られたかのように動かなくなった。ただじっと風に揺れる髪と、浮き上がる白い肌を見ていた。その頬には大粒の涙が伝っており、視線の先には月ではなく何かが存在しているように見えた。
 生意気で高飛車で遠慮のない澪。普段泣き言一つ言わず、時には統主に食って掛かるような勝ち気な姫。然れど、人気のないところで涙を溢す様は、殺生をした後の己と重なる部分があった。

 歩澄はようやく動くようになった足で、柱の影に腰を下ろした。心地の良い声だった。目を閉じ、暫しその歌声に聴き入る。

 思い出すのは同じ赤い髪色をした少女の事。

 当時九つだった歩澄は、父に連れられ匠閃郷へと出向いた。本来名工とは直接の交渉はできないのだが、父が潤銘郷統主とあって目通りが叶ったのだ。鍛刀についての話をする際、歩澄は村で遊んでいるよう申し付けられた。
 父の重臣が付く中、何の宛もなく河原へと向かった。海が近くにある潤銘城とは違い、そよそよと水が流れる小川。なんとも田舎くさい村だと子供ながらに思った。
 真冬の川になど誰も来るはずがない。そう思っていたのに、先客がいた。あの冷たい水に足をつけ、ぐずぐずと泣いていた。
 歩澄は、己よりも年下の幼女を見るのは初めてであった。
 水に濡れて真っ赤に染まる不思議な髪。動く度に宝石が散りばめられているかのように輝き、美しかった。

 当時の歩澄の心は渇ききっていた。異国の血液を含んだ見た目は、時期統主に相応しくないと陰口を叩かれていると知っていた。父も母も、その内民を納得させると言っていたが、幼い歩澄には受け入れがたいことであった。

 そんな中、突然現れた美しい髪をした少女。気味が悪いと言われ続けた青碧の瞳を見つめ、綺麗だと言った。

 碧空石など異国に流通しなければ、神室家に異国の血が入ることもなかった。そう考えていた歩澄であったが「凄く素敵だね。碧空石みたいで綺麗な目」そう少女が言ってくれたから、少しだけその瞳の色が好きになれた。

 初めて他人に褒められ、無垢な笑顔を向けられた。この少女のことをもっと知りたいと思った。

「大きくなったらお嫁さんになる」そうまで言った少女は、約束を守ってはくれなかった。
 少女の存在は、歩澄にとって救いだった。どこにいても邪魔者扱いされているようで、孤独だったのだ。そんな心に光を灯してくれた少女も簡単に歩澄を裏切った。

 約束の時、歩澄は冷たい風の中丸一日河原で待っていた。家来が止めようともそこを一歩も動かなかった。それでも少女が現れることはなかった。

 ただ覚えているのはあの鮮やかな赤い髪と、不思議な味をした握り飯。何度も忘れようと努力した。統主として生きていく上で不要な記憶だからだ。
 しかし、どうしても忘れられなかった。

 人はいつか裏切る。信用した途端に失われていくのだ。幸せなど長くは続かない。民の幸せと家臣の事だけ考えて生きればいい。己の幸せなど考える必要もないのだ。

 澪の髪色を思い出す。匠閃郷の女はあの特殊な髪をした人間が多いのか……それとも、あの村だけなのか。何度も調べたがわからなかった。

 まさか……と一瞬頭を過るが、直ぐに考え直す。澪は匠閃郷の姫だ。いくら村で暮らしていたことがあったとはいえ、あのような場所にいるはずがない。それにあの異様な強さ。相当な修羅場を潜っていなければ身に付かぬもの。あのような無垢な少女が、澪のように強く逞しく生きられるものか。

 歩澄は首を振り、己の考えを否定した。

「私がずっと蒼くんの傍にいるよ」

 そんな言葉が脳裏を過る。こんなこと、覚えていても意味がない。そうわかってはいるのに。

 十五で統主となった時、蒼は役名である歩澄を受け継いだ。世話役であった秀虎でさえ、今では歩澄と呼ぶ。
 両親が死に絶え、もう己の事を蒼と呼ぶ者は誰もいない。

 ただ美しい歌声だけが、今の歩澄の心を満たしていた。
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