【完結:R15】蒼色の一振り

雪村こはる

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豊潤な郷【1】

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 翠穣郷ーー。五つの郷の中で最も自然が多く、鮮度の高い食物が豊富にある郷。穀物は良質に育ち、唯一濾過した純度の高い水がある。

 翠穣郷統主、つゆり伊吹いぶきは翠穣城の敷地内にある畑を耕していた。自ら鍬を振り、汗を拭い笑みを溢す。

 早朝から畑に出ては作物の状態を見るのが習慣である。

「伊吹様! 本日は卵が百六十個獲れました!」

 家来が報告に来ると、伊吹は爽やかな笑みを浮かべ「そうか! ではすぐ城下に持っていってくれ。栄泰郷への出荷があるはずだ」と言った。
 意思の強い瑠璃色の目を細め、畑仕事に勤しむ家来達の姿に心穏やかな気持ちになる。
 手拭いで汗を拭い、そのまま若草色の短髪をごしごしと拭いた。

「汗をかいた。水浴びをする」

 溌剌とした太い声で、重臣である大和やまとに声をかけた。大和は「はっ!」と頭を下げ、伊吹の後に続いた。 
 大柄であり、綺麗についた筋肉は汗により太陽の光を受けて輝いていた。大和はその神々しい肉体美に恍惚の表情を浮かべながら新たな手拭いと召し物を持ち、水浴びの準備を始めた。

「大和、評定の準備は整っているか?」

「はっ! 既に皆集まっていることと存じます!」

 着物を脱ぎながら伊吹は振り返り、「ご苦労」と歯を見せて笑った。

 翠穣郷は穏やかな郷である。統主である伊吹が争い事を嫌う故、村人達の暴動も殆どない。自ら田や畑に出ては、村人達と共に農作業を行う統主を民は皆慕っていた。
 それは家来達も同じ事で、特に重臣の一人である大和は幼い頃より伊吹に憧れて育った。いつか伊吹が統主の座を継いだ暁には、是非重臣として側に使えたいと努力してきたのだ。

 大和は良家の出であり、父は先代統主の重臣であった。統主が交代した今も尚、役職に付き伊吹を支えている。
 
 水浴びを終えた伊吹は、手拭いを受け取り体を拭くと、上質な着物へと袖を通した。泥で汚れた顔も、汗まみれの体もすっかり洗い流し顔を引き締めると、その出で立ちは誰がどう見ても翠穣郷統主のそれである。

「さあ、行こう」

 伊吹は、山吹色の瞳を捕らえ微笑を浮かべた。

「はい!」

 大和は大きく頷き、瞼にかかる紺青の髪を揺らしながら伊吹の後を追った。




ーー


 潤銘郷では、匠閃郷から戻った歩澄一行が馬から降りたところであった。
 栄泰郷に招かれただけの筈が、万浬を研ぐため寄り道をした。計で五日空けての帰郷となった。
 しかし、既に潤銘郷の宿から潤銘城には歩澄一行が匠閃郷に向かうという知らせが来ており、家来達は速やかに歩澄達を迎え入れた。

「長旅、お疲れ様でした」

 すぐに梓月がやって来た。瑛梓は政務で城下に出ている。歩澄が帰って来た時のためにどちらかは城に留まっておこうという話になったのだ。

「私はいい。かなり長いこと馬を走らせたからな。澪を休ませてやれ」

「はい。直に五平と琥太郎もやってくることでしょう」

 梓月がそう言ったところで、ドタドタと騒がしい足音を立て、二人が顔を出した。

「歩澄様、お帰りなさいませ!」

 二人は慌ててその場で膝をつき、頭を垂れた。

「ああ。澪の案内を頼む」

 歩澄が羽織を脱ぎ、梓月に渡す。梓月はそれを受け取り、澪に視線を移した。腰に差してある刀は一振り。歩澄から返してもらったといっていた華月とは違うようだ、と首を傾げた。

「澪……その刀は?」

 思わずそう尋ねた。

「梓月くん、ただいま! これはね、万浬だよ!」

「えぇ!」

 澪の言葉に梓月だけではなく、五平と琥太郎も驚愕した。万浬は誰もが幻の刀として認識しているものである。それを澪が取り返そうとしていたのも知っている。

「そ、それが幻の刀なのか……」

 五平は喉を鳴らし、澪の腰元に目を向けた。

「そう。皇成様からもらったの」

「皇成様から!?」

 更にその場はどっと沸いた。皇成がそのように上質な刀を手土産にくれてやるような人間でないことは皆承知である。

「皇成様はこれが万浬だって気付いてなかったからね。おかげで錆び付いていたの。これを研ぐために匠閃郷まで行ってきたってわけ」

 三人はようやく納得した。琥太郎は「姫様、よかったですね」と満面の笑みを浮かべた。

「……あれ? 琥太郎くん、体調でも悪いの?」

 澪は、琥太郎の変化にすぐに気が付いた。五平と琥太郎とは颯の一件から暫く会っていなかった。二人が稽古に勤しんでいる間、澪も体を鍛え直したりと体が鈍ってしまわぬよう維持に努めていた。
 そのためか、少し前に会った時よりも話しにくそうな琥太郎の声に違和感を覚えた。

「いえ……何ともありませんが」

 しかし琥太郎はぱちぱちと目を瞬かせ、不思議そうに澪を見つめる。その仕草を見て、琥太郎の視線が己よりも上にあることにも気付いた。

「え……琥太郎くん、背伸びた?」

「背? ああ……そうですね。最近体の節々が痛いなと思ってはいたのですが。少し伸びたようですね」

 そう言う琥太郎の声は、やはり以前よりも低い。それは、共に生活をしていた空穏の状態に似ていた。出会った頃には澪よりも少し大きいくらいだった空穏。それがある時からぐんぐん背が伸びていき、声が低くなっていった。

「おー、そろそろ声変わりする頃だからな」

 勧玄はそう言って豪快に笑っていたのだ。
 その内、空穏は九重よりもずっと大きくなり匠閃郷を出ていく頃にはすっかり逞しくなってしまった。

 その姿を思い出し、琥太郎も空穏のように成長してしまうのではないかとあからさまに落ち込んでみせた。

「澪……どうかしたか?」

 不思議に思った歩澄がそう尋ねる。

「琥太郎くんが……可愛くなくなっちゃいますよ!」

 澪の言葉の意味を悟った皆は、おかしそうにどっと笑いに包まれた。

「澪、仕方がないよ。琥太郎も男だからね。これからもっと成長する」

 梓月は笑いすぎて目尻に溜まった涙を指で拭いながら言った。

「えぇ!? 困る、困る! 琥太郎くんはそのままでいてよ!」

「姫様、僕だって強くて逞しい男になりたいですよ」

 口を尖らせて言う琥太郎に、澪は心底肩を落とした。小動物のように小さく、細くか弱い琥太郎が可愛かったのだ。現在十五である琥太郎は、おそらくここからぐんぐん成長する。そう考えただけで愛らしい瞳も、高い声も失っていく悲しさを覚えたのだ。

「澪、皆そうして成長していくのだ。いつか梓月の右腕になる男だと言ったのはお前だ。そこまでいくにはやはり剣術だけでなく、体も成長してもらわねば困る」

 歩澄が諭すように言えば、そんなことを言ったのかと梓月と琥太郎は瞳を揺らした。澪が琥太郎を見込んでいたことを知り、梓月も琥太郎も胸がいっぱいになった。
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