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豊潤な郷【2】

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 澪は琥太郎の成長を素直に喜べないまま、五平と共に自室までやって来た。歩澄はこれから政務があると言って梓月と秀虎と共に大広間へと向かった。琥太郎は梓月から歩澄の上着を預り、片付けに行っている。

(歩澄様はいつも忙しいな……それなのに匠閃郷まで連れていってもらって悪いことをしたかな……)

 取り返した万浬を手に持ち、ふとそう思う。政務は潤銘郷と匠閃郷の両方であり、城を空けていた間、瑛梓も梓月も忙しかったことだろうと少し胸を痛めた。
 澪は歩澄から部屋でゆっくり体を休めろと言われたが、歩澄達は休んでいる暇などない。本来であれば澪の刀よりも優先したい政務もあったことだろう。そんな中でも澪の体を気遣うのだから、己は余程大事にされているのだろうと澪は顔を赤らめた。

「ここでいいか?」

 先陣をきってきた五平は、澪の部屋の前で止まり、振り返った。赤面している澪に首を傾げて「どうかしたのか?」と尋ねた。

「な、何でもない! ちょっと疲れたみたい」

「そうか? 匠閃郷に行くだけでも出があるのに栄泰郷からそのまま行ったんだろ? 大した体力だぜ。一応歩澄様と恋仲なんだし馬車でも出してもらえばよかったのにな」

 五平は頭の後ろで手を組んでそんなことを言っている。

「いやいや……馬車なんてとんでもない。私は乗ったこともないよ」

「……姫なのにか?」

「名ばかりの姫だからね。それに、馬車に揺られるよりも自分で馬を走らせた方が速い」

「そりゃな……。お前、本当に変わった女だな。潤銘郷にはお前みたいな女はいないぞ」

「……どういう意味よ」

 澪は目を細めてじっとりと睨んでやる。

「淑やかな貴婦人ばっかりだからな。馬なんて乗れないし、刀だって持たないし。男に守ってもらって当然だと思ってる。まあ、俺達もそう思ってるし」

「そう。でも私は違うよ。私は歩澄様に守ってもらおうなんて思ってない。自分の身は自分で守るの」

(歩澄様は、私を守らせてくれないかと言ったけれど……私の性に合わない)

「はっ、お前らしいけどな。ゆっくり休めよ」

 手を挙げて去っていく五平に澪も手を挙げてから自室へと入った。ぴったりと障子を閉めてから着物を脱いだ。
 皇成のところへ行くならと、歩澄から贈られた着物であった。あまり良質な物は着なれないため、好まないのだがみすぼらしい格好で行けば歩澄が笑い者になると秀虎から助言を受け、仕方なく受け取ったのだ。

 歩澄は髪飾りも反物も贈りたがるが、澪は素直に喜べなかった。いつまでも引っ掛かっている「どんなに着飾ったとしても、そんな傷だらけの……」そう言った歩澄の言葉。
 歩澄に慕情を抱く前であれば、誰に何を言われようとも傷付くことなどなかったのに。
 こんなにも思い出して悲しくなるのは、歩澄の言葉がそれ程澪の心に影響を及ぼすからだ。

 襦袢だけになると、歪な形の右手が覗く。枯れ木のような醜い腕。襦袢も脱いで手を背中に回す。関節の柔らかい澪の腕は容易に触れたい場所に触れる。見なくてもわかるぼこぼことした傷痕。
 この傷が消えることは一生ない。わかっている。いつかは歩澄に全てを晒さなければならない。未だに夜伽も拒絶したまま。このままではいつかは歩澄に愛想を尽かされてしまうかもしれない。そうわかっているが、どうしてもこの傷を見られたくはない。

 醜い右腕を左手でぎゅっと掴む。生きて蒼と再び出会えただけでも幸福であると思わなければならない。心のどこかでそうは思うものの、やはり綺麗な姿で出会いたかったという望みは消えない。そんな中、思い浮かぶのは、美人の湯。
 あの湯に浸かった時には傷の痛みが癒えるようで、肌も滑らかになった気がした。毎日でもあの湯に浸かっていたら、右腕の削ぎ落とされた部分は不可能でも細かい刀傷くらいなら消えるのではないかという淡い期待が募った。

「もう一度入りたいな……」

 ぽつりと呟いて、澪は動きやすい着物へと着替えた。


 暫く自室でぼやぼやとしていると、障子の向こう側から梓月の声がした。
 障子を開けると立っていた梓月が「これ、澪の?」そう言って風車を渡した。

「あ……そう。落とすと困ると思って馬にくくりつけたままにしちゃったんだ」

「うん。馬番が届けてくれたよ」

「ありがとう」

 澪は色とりどりの風車を見つめて柔らかく笑みを溢した。

「何だか浮かない顔だね」

「え!?」

 何も語っていないのに、表情だけで変化に気付く梓月に澪は驚きの声を上げた。

「何か考え事でもしてたの?」

「考え事っていう程のことでもないんだけど……あの温泉にまた行きたいなって思ってたんだ」

「なんだ、そんな事か。美人の湯ね。気に入ってもらえたようでよかった。歩澄様にお願いすれば、今日に今日でもすぐに連れてってくれるよ。澪は不思議だね、他の女人のように何かをねだったりしないのだから」

 梓月は何とも可愛らしい悩みにくすくすと笑いながら言った。
 梓月の知る女人は、誰もが「私だけを見てほしい」「宝石を贈ってほしい」「毎日愛を囁いてほしい」と多くを望んだ。そんな女人を可愛らしく思うこともあったが、疎ましく思うことの方が多い。
 おそらく歩澄であれば澪のおねだりなどいくらでも叶えてやるであろう。然れど、湯屋に行きたいくらいでこんなにも浮かない顔をするのだから、梓月は不思議でならないと首を傾げた。
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