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豊潤な郷【30】

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 歩澄が目を覚ますと、澪はその腕の中にいた。眠る前は歩澄の横に座り、頭を撫でていたはずだ。それがどういうわけだか、共に褥の中にいた。
 その存在を確かめるかのように、歩澄が手で澪の頬を包み込む。直ぐに目を開けた澪は、柔らかく微笑んだ。

「何だ……眠っていなかったのか」

「少し、眠りました。昨日は夜更かしをしてしまったので」

 澪はそう言いながら体を起こした。

「夜更かし? しっかりと睡眠をとらせてもらったと言っていたではないか」

「はい。前日はたくさん眠りました。昨日は少し落様とお話をしまして……」

 歩澄はその言葉に何も言わず、顔をしかめた。

「ふふ……そのような顔をなさらずとも大丈夫です。匠閃郷の話や初めて潤銘郷に行った時の話をしたのです」

「お前の過去については……」

「それはしていません。誰彼構わず言うつもりもありません故。潤銘城の方々は特別です」

「そうか……。澪……その、すまなかったな。お前と梓月の事……」

「いいえ、謝るのは私です。歩澄様に誤解をさせるような真似をしてしまったのですから……」

 澪が顔を伏せると、暗赤色の髪が揺れ、一つに結ってあった先が肩からはらりと前に落ちた。歩澄はその長い髪を、すくって唇を押し当てた。

 たった数日離れただけだというのに、その仕草を見るのがとても久方ぶりに見えた。澪は満たされていく気持ちに、自然と笑みが零れる。

「おかしいですね……こうして歩澄様と一緒にいられるだけで十分だと思っていたはずなのに……貴方様といるとどんどん欲が湧いてきます」

「欲?」

「……いいませんよ」

 ふいっと澪が顔を背ければ、歩澄は半分体を起こし「何故だ……言え。全て叶えてやる」と眉間に皺を寄せて言った。

 澪は、視線を逸らしながらも歩澄らしいと思った。しかし、澪の言う欲は潤銘郷、溯雅ノ國の未来をも左右させるもの。それというのも、一番の願いは刀を全て取り返し、歩澄の側に一生添い遂げたいというもの。それも、他の女人になど目を向けず己だけに愛情を注いで欲しいと思っていた。
 既に歩澄が秀虎と澪を正妻に迎える意向を確認している事など知る由もない澪は、未だにいずれ己は側室となるか、匠閃郷に帰される身であると思っているのだ。そんな己が、大それた欲を口走るなどあってはならないと自重したのだった。

「以前も言ったと思うが、私はお前の望みなら全て叶えてやりたいと思っている。だから遠慮なく言え」

「そうですね……では、一先ず潤銘城に帰りたいです」

 澪がようやく歩澄の目を見つめると、歩澄は「一先ず……な」と軽く頷いた。


 既に起きて支度を終えていた瑛梓を訪ねると、馬車を出した家来がそこで待機していた。
 その姿を見て歩澄はどれ程眠っていたのかと驚いた。夜明けを待ち、時折休憩をしながら歩澄と瑛梓を追ってきたのだ。それなりの時を要したはずだが、馬車も準備が整っているという。

 聞けば、その家来達は何度も翠穣郷に足を運んでおり、最短距離でやってきたという。一時も休まずに辿り着いた歩澄と瑛梓と同じくらいの時間だった。

 無我夢中で馬を走らせた歩澄は、そのような道があったとはと項垂れていたが、一行は潤銘郷に戻る準備を進めた。

 伊吹は名残惜しそうに澪を見つめたが、歩澄が引き裂くように澪を馬車に押し込み、出発させた。
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