空に呑まれた夢

櫻 左近

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⒌遠い空

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 足が疲れのためにぷるぷると震えてきた。両腕の筋肉がかちかちになったように緊張している。
 ただ立っていることが、こんなにも大変だなんて思ってもみなかった。
「……二十八、二十九、三十。よし、良いぞ」
「はぁあ」
 ぐったりと床に崩れ落ちて、コリンは大きく息を吸った。
「ふぅうう」
 そのまま吐き出して床にごろりと転がる。
「ようやく三十秒か。まあまあだな」
 アンディはコリンを見下ろして、ちょっと期待はずれな表情で呟いた。
 なんだか申し訳ないような気がするが、足はわずか三十分ほどの間に疲れのせいでがくがくする。
 どんな訓練が待っているのだろうと、期待と不安に胸を高鳴らせながらやってきたコリンに、一時間ほど立てるか?とアンディは聞いてきた。
「……え?うん、できるけど」
 一体何を言っているのかと首をかしげた少年に、まずは体慣らしだと町を一周走らせた。ゆっくりと遅いペースで走ったにも関わらず、緩やかな上り下りもあったせいか、じっとりと汗をかいた。町自体が標高の高い位置にあるので、肺と気管が冷たい空気でずきずきとする。
 ようやく走り終えて部屋でお茶を飲み干したコリンに、アンディはここからが本番だと正しい立ち方を説明した。
「まず、背筋をまっすぐ伸ばす。胸を張りすぎてもお尻を出しすぎても駄目だ。頭のてっぺんを糸で引っ張られているような感覚で」
 良いながら、コリンの腰骨と肩を押さえて形を整える。
「かかとをつけて、つま先を拳一つ分空けるんだ。……そう。そして、あごの下にも拳一つ分入るくらいの隙間を空けて……」
 ふらつきそうになる体を必死で支えて、コリンは言われる姿勢を保とうとした。
「ほら、肩がずれた」
 右肩をぐいと押さえられる。
「胸を反らせすぎだ。違う、お尻をだすと崩れるぞ。よし。じゃあ数えるからな。……一、二、三、……ほらずれた」
 ようやく姿勢を整えることができても、三秒でどこかがずれてしまう。
 一時間ほど頑張ってようやく三十秒保たせることができたのだ。
「よし、もう一回やるぞ。とりあえず一分を目指して頑張るんだ。一時間立てるようになったら、今度は基本の動きを教えてやるからな」
 励ますようにアンディは言ってくれるのだが、一時間はコリンにとって天より遠く感じる。
「さっ、やるぞ」
「……はい」
 おもりをつけたように鈍くなった体を起こして、コリンは立ち上がった。
「頭のてっぺんを糸でつられているようにまっすぐ。肩は自然に落として、かかとを揃えてつま先を開く。そう、拳一つ分だ。胸とおしりは反らしすぎないように」
 そう言うアンディの姿勢は、彫刻のようにぴんとしていて格好良かった。
「指先が油断してるぞ。ちゃんと神経をソコまで集中させて」
「はい」
 指はぴんと貼るのではなく自然に垂らしておくのだが、だらんとさせるのではなくきちんと垂らしておかなければならない。これが意外と難しい。
「よし、数えるぞ。一、二、三、……」
 どうにか姿勢が整った所へアンディが数え始めた。瞬きするだけでも姿勢が崩れてしまいそうだ。背骨の上を、汗がたらりと流れ落ちた。くすぐったくても身じろぎ一つするわけにはいかない。
「背中、気をつけろ」
 すかさず飛んでくる注意。
「三十五、三十六、三十……」
 数を数えるだけなのに、優雅で格好良く見える。長い髪を後ろで一つに束ね、すっきりとした細身の服を身につけ、幅広のベルトが腰に巻かれているだけなのに、物語に出てくる王子のようだ。
 アンディはこんなところでこんな地味な服を着ているよりも、豪華な金糸の縫い取りのマントに銀の鎧、金の冠をかぶっている方が似合っている。
「五十八、五十九、六十。よし、良いぞ」
 我に返ると、すでに一分。
「よく頑張ったな。やればできるじゃないか」
 にっこりと笑って褒めてくれるアンディに微笑み返そうとしたが、顔の筋肉まで強ばってしまい、不気味に頬を歪めただけになってしまったようだ。
 ぶっと青年が吹き出すのを見て、コリンは真っ赤になってしまった。
「わ、悪い。つい顔が面白くて……いやいや」
 こほんと咳でごまかし、アンディは真面目な表情を作った。
「一分はできるようになったし、今日はもうこんな時間だから、体のほぐし方を教えてやるよ。毎日朝晩きちんと行うと、それだけで動きが全然違ってくる」
 言われて窓の外を見ると、日はずいぶん高くなっていた。
 手足がすでに自分のものじゃないみたいだ。ぎくしゃくと動かすコリンを見て、ふむ、とアンディがコリンの腕をとる。
「普段使わない筋肉を使ったからな。今日は良くほぐしておかないと、明日の朝起き上がれなくなる」
 そう言ってアンディは入念な手入れをコリンが覚えるまで教えてくれた。体のあちこちをのばすストレッチで、やるだけでしっとりと汗をかいた。
「よく頑張ったな。また明後日待ってるよ」
 玄関まで見送り、アンディは笑顔で言った。
「今日は、ありがとうございました」
「ああ。明日はヨセルに教えてもらうんだろう。でもちゃんと毎日、習ったことは家で練習しろよ」
 ぽんぽんと頭を撫でられて、コリンはなんだか兄をもったような気がした。こんなにかっこいい兄がいたら良かったのに。
「はい。ありがとうございました」
 頭を下げてコリンはドリスの店へ向かう。お昼は店で食べることになっていた。
「一分はできるようになったし」
 アンディが言った言葉を胸の中で繰り返す。
 良くできたと褒められたわけではない。どちらかと言えば、まあこんなものかというあきらめの含まれたセリフだった。情けなさが胃にじわっと広がる。
 あちこちの建物から出てくる人の波に乗って、コリンは町の中心へと向かった。噴水を越えていくとドリスの店だ。

 しかし。

 噴水の前に立ち、コリンの足はぴたりと止まった。昨日より人が多いせいか、ドリスの店がどの通りにあったか思い出せない。
「あれ……?」
 来た道を振り返りもう一度噴水の方へ向くが、やっぱりどこが店への道だか解らなくなってしまった。ぐるぐると噴水のまわりを回るが、同じような道が噴水から放射線状に延び、来た方向すら解らなくなってしまう。
「あ、あの、すみません」
 噴水に腰掛けた初老の男性にドリスの店はどこか尋ねたが、知らないと素っ気なく答えられた。
 通りかかった中年女性に聞くと
「ドリスのパン屋?あたしが行くのはミッジの店だからねぇ。ごめんけど解らないよ。ミッジの店じゃ駄目なのかい?」
「はい、すみません。ありがとうございました」
 何人かに聞いてみたが、この町にはパン屋はいくつかあるようで、知っている人はいなかった。
 どうしようか、と途方に暮れて噴水に腰掛けようとした時、
「おい、ガキ」
 柄の悪そうな若者がコリンを呼び止めた。
「お前、ドリスの店に何のようだ?」
 鋭い目で睨み降ろされて、コリンは思わず後ずさった。
「えっ。あの、オレ、そこで働くことになってて」
「そうかい。じゃあ、お前が新しいガキか」
 途端に男の目が優しくなった。
「だったら、あの赤い屋根と紫の看板のある通りをいきな。いい匂いがするから、すぐに解るぜ」
「はい。ありがとうございます」
 どきどきする胸を押さえも、丁寧に教えてくれた男に深々と頭を下げて、コリンは言われた通りに向かって走り出した。
「がんばって働けよ!」
 背中にかけられた声に再び頭を軽く下げ、コリンは通りに入り込んだ。いい匂いが通り中に漂っている。昨日は気づかなかったが、噴水前と比べて油断ならない空気が漂う通りだった。道の端にテーブルを出してカードをしている大柄な老人たちが、コリンをじろじろと眺める。鍋や弁当箱を持った男たちも、ちらりと探るような目をコリンに向ける。
 監視されているような緊張感と怖さ。
 ごくり、とのどを鳴らし、コリンは早足に歩き出した。匂いが濃くなり、見覚えのある立て看板が見えた。
「待ってたよ、コリン」
 お腹の大きなドリスが看板の横で手を振っていた。
「ドリスさん」
 ほっとしたコリンは急いで駆け寄った。
「道に迷ったんじゃないかと思ってたよ。良かった良かった。さあ、ご飯食べたら、ガスの手伝いがまってるよ」
 大きな声でそう言ったドリスは、通りをぐるりと見渡した。
 探るように見ていた通りの住人達が、再び何事もなかったように動き出す。
「あの……」
「大丈夫さ。みんな仲間には何もしないよ。この町の人間は、むやみに他人に手を出したりしない。そんなことをすればドナ様に追い出されるからね。あんたが新顔だから、警戒してるのさ」
 すぐに馴染むよ。
 そう言ってドリスはコリンを店の奥に連れて行った。
「さっきからマリが待ってるんだよ。あんたがきたら一緒にご飯食べるってね。年はあんたより三つ下だけど、この店では一年先輩だからね。色々教えてもらっとくれ」
 奥のテーブルには、ガスとおかっぱ頭の小柄でかわいい女の子がちょこんと座っていた。
「さ、コリンも来たし。ご飯にしようか」
 パンとスープをテーブルに並べ、ドリスはみんなを見回した。
「コリン、この子がマリだ。マリ、しっかり面倒を見てやんな」
 ガスが女の子にそう言うと、はいとかわいい声で答えた。
「よろしくね」
 マリはコリンに微笑んだ。
「うん、よろしく」
 コリンは頭を下げる。
「しっかり食べて、しっかり働いとくれ。山のように仕事があるんだ」
 ドリスの言うとおり、仕事は山積みだった。そのうえコリンの仕事はひたすら地道な作業だった。
 まずは粉をふるってそれぞれ決められた量ごとに容れ物へ入れていく。次にはジャガイモや野菜の皮むき。それに掃除や洗い物に片付けだった。
「もっと優しく丁寧にふるえ」
 時々ガスが鋭く言う。
 ぼぅと考え事をしそうになると篩が雑になるようだ。
「はい」
 コリンは篩を持ち直し、ゆっくとふる。粉雪のようにさらさらとした粉が、器の中で山になっていく。なるべく平らになるように位置を調節しながら篩を動かし、網の上に残るだまを指の腹でそっと潰した。
 三十個ほど置かれた容れ物に、粉をそれぞれ分量を変えながらふるい終えると、コリンは流しへ向かった。大量の洗い物が山積みになっている。昼を食べに来た客や、休憩におやつを食べに来た客に出した皿や、調理道具だ。
「篩に時間がかかったから、先にこれを頼むね。洗ったら、皮むきをすましとくれ」
 大きなお腹を抱えるドリスが狭そうに調理場を横切った。
 たわしに少しだけ木の皮を乾燥させた粉洗剤をつけて、ごしごしと洗うと泡がたつ。その泡で汚れを綺麗にして、最後に水で流すのだ。
 水が少なくなったら井戸に汲みに行くのもコリンの仕事だった。
 家では洗い物なんかしたことがなかったので、こんなに大変だとは思いもしなかった。
(いつも、母さんはこんな大変なことをやってたんだ)
 手伝って、と言われて手伝ったことなんかない。
(ちゃんと手伝ってあげれば良かった)
 ぽろりと涙がこぼれ慌てて腕でぬぐうと、たわしで大鍋をこすり始めた。
 今はとにかく見込みを示せるように頑張らなくてはならない。
「裏も、角も隅から隅まで丁寧に洗っとくれよ」
 ドリスが流しをのぞき込んで言った。
「この容れ物、裏を洗ってないだろ?こういうのは味に響くんだから、きちんとしなくちゃ」
「はい、すみません」
 慌てて洗い直すと、今度はごつごつした容れ物を取り上げる。二のに腕にずきっとした痛みが走った。
「ほら、このとがった隅、洗ってないよ。たわしの角を入れて洗うんだ。難しいなら、この細いブラシを使いな」
「はい」
 アンディの訓練の疲れが、体のあちこちに出てきた。腕を動かすだけではなく、首や顔の筋肉まで動かすと痛むようになってきた。
 渡されたブラシを使って細いところまで綺麗に洗い上げるのを見届けると、ドリスは満足そうに店に戻った。
 ぼうっと考え事をする暇もなく、一心に皿を洗っているうちにすっかり時間は過ぎている。
「時間かかったねぇ。まぁ、初めてだから仕方ないか。明日は皮むきまでできると良いね」
 ドリスに言われ、コリンはしゅんとうなだれた。言われたことの半分もできなかったのだ。
「さ、これは今日のお給金だ。帰りに少しはうまいものを買って帰ると良いよ。ただし、無駄遣いしないようにね」
「はい。ありがとうございます」
 渡された二枚の銀貨を手に、コリンは頭を下げる。銀貨一枚は銅貨二十五枚分だ。銅貨一枚は銅粒と呼ばれる平たく四角い硬貨十枚分だ。
 うまいものって、何だろう。
「それから、これは余ったパンだよ。持て帰って晩と朝にお食べ」
 布にくるんだ四つのパンを渡され、コリンはもう一度礼を言った。
「良いんだよ。さっきマリも持って帰ったからね。その布は明日持ってきな。遅くならないうちに早く帰るんだよ」
「はい。ありがとうございました」
 コリンが店を出るともう薄暗かった。夕方を知らせる鐘が五つ鳴る。昼間に出されていた老人達のテーブルの代わりに、あちこちの店の前に酒を飲むためのテーブルが並べられ始めた。
「コリンは上がったのか?」
 店の奥からガスが声をかけた。
「ああ、今出たよ」
「そうか。時々えらく悲しげな表情をして、ぼぅっとなりかけるが、よく頑張ったみたいだな」
「そうさねぇ。何せ、目の前で……ご両親を殺されたばかりだって言うから。まだまだ悲しいはずなんだよね」
 涙ぐんだ目でドリスは店の外に目をやる。
「しっかり働かせて、早く普通の生活を営ませてやるのが親切だろうよ」
 ガスはドリスの肩を抱いて、ぽんぽんとたたく。
「そうさね。立派に仕事を教えてやらなきゃね」
 夫婦はにっこりと微笑みあった。
「……終わったか?」
 通りの影から現れるように出てきたイオが、コリンの手にした包みを見た。
「迎えに来てくれたの?」
「ああ。暗いからな。それはパンか?」
「うん。ドリスさんに貰った。晩と朝に食べなさいって……いい人だね」
 イオの姿を見て何となくほっとしたコリンは、手の中の銀貨のことを思い出した。
「そうか。じゃあ、どこかでオカズと飲み物を買って帰ると良い。この時間なら、あの店が良いな」
 そう言って歩き出すイオの後ろを、あの、とコリンは声をかけた。
「あの、これ、貰ったんだけど」
 銀貨二枚を見せるとイオは微笑んだ。
「ドリスは適度な額をくれたな。それは今日お前が働いた金額だ。食べ物や飲み物、服なんかもそれで買わなくてはいけない。毎日無駄遣いせず、ちゃんと貯めておきなさい」
「はい」
「とりあえずは、晩ご飯を買って帰るといい。お前の部屋には小さな台所もあるが、料理はまだできないだろう。ただし、掃除はちゃんと自分でしなさい」
「はい」
 噴水を通りすぎて城まで行く途中に、持ち帰りもできる飯屋がいくつかあった。イオに言われておかずを一品と、お茶の葉を少し買う。
 お茶の葉なんて使ったことがなかったが、部屋に戻るとイオが入れ方を教えてくれた。
「ご飯を食べたら、コップを洗って、それから風呂に入りなさい。使用人用の風呂を使えるようにしてある。この城で働く者達がみな交代で入る風呂だ。風呂番に入り方を聞いて、綺麗にしてから寝るようにしなさい。毎日欠かさず入るんだ」
「はい」
 ご飯を一心に食べるコリンを見つめていたイオは、食べ終わった少年にそう声をかけた。
「一階の一番奥に風呂がある。今日はゆっくり寝ることだ」
 何かあったら、隣に来なさい。
 そう言い残しイオは立ち上がった。
「お休み」
「お、お休みなさい」
 イオの姿が扉の向こうに消えると、コリンはほっと息をついた。居てくれると安心するが、じっと見られていると緊張する。立ち上がって台所でコップを洗い、着替えを手に部屋を出た。



『見て見て、母さん。オレ、頑張って今日こんなに貰ったよ』
 コリンの手には銀貨二枚が乗せられていた。
『まあ、頑張ったのね。しっかり働いた?ちゃんとドリスさんの言うことを聞いたの?』『当たり前だよ!オレ、粉もふるったし、皿も洗ったよ。明日は皮むきもできるようにするから!』
 まあ、と母親は微笑んだ。
『皮むきなんて、したことがないでしょう?お皿も洗ったことがないのに、良くできたわね』
『オレだって、やればできるんだよ』
 コリンはどんと胸を張る。
『だから、安心して……して』
 あれ?
 コリンは止まった。何かを言いかけたのだが、それを忘れてしまったのだ。
『どれどれ、そんなに稼げたのか?』
『あなた。コリンが、初めてのお給金をいただいたんですって』
『ほぉ~。頑張ったなぁ。すごいじゃないか』
『もちろん』
 父親に向かってその銀貨を見せると、手をのぞき込んだ父親が恐怖に凍り付く。
『きゃあああああっ!』
 母親が叫んだ。
『父さん!』
 父親はマコビー大佐に襟元を掴み上げられ、放り投げられた。
 マシンガンの銃口が黒く光る。
『やめろ!やめろぉおおおおっ!』
 吠えるマシンガンの向こうに、真っ赤に染まった父親がごろんごろんと弾みながら転がった。
『あなたぁっ!』
 駆け寄る母親。
『駄目だ、母さん!』
 コリンは叫ぶが、にやりと笑ったマコビー大佐のマシンガンが母親に向けられる。
『やめろ!やめてくれ!やめろっ!』
 コリンの絶叫とマシンガンの轟音が響き、あたりはねっとりと赤くなる。
『うわぁああああああっ!』
 声の限りに叫ぶコリンを見もせずに、マコビー大佐の横にいた魔法使いがさっと手を挙げる。
『爆発する!父さん、母さん!』
 二人を庇おうとしたが、足が床に沈み込んで前に進めない。床をかき分けるように進もうにも、どろりと赤い床がまとわりついて、前に進むのを阻む。
『父さん!母さん!』
 必死にかき分けてもかき分けても、二人の所へ行けない。
 血に染まった両親の顔がごろりとコリンの方に向き直った。
『やだぁああああっ!』
 
 ――大丈夫。

 優しい声が聞こえた。
 顔のまわりに暖かい風が吹き、すべての風景が消えた。

 ――大丈夫。

 もう一度声が聞こえ、優しい手が頬と額を撫でた。
 コリンは緑の草が生い茂る丘の中腹に立っていた。よく父さんと散歩に来た所だ。
『コリン』
 向こうのほうに父さんが居る。
『まだ、ここにきては駄目だ。お前はやることがあるだろう』
『父さん!』
 コリンは呼ぶが、父親はずっと向こうに居て声が届かないようだった。
『幸せになりなさい。その為に生きなさい!』
『自分のために生きなさい!』
 父の横に立つ母が大きな声を出した。
『母さん!』   
 叫んでも、二人に声が届かない。
『幸せに』
『自分のために』
 切れ切れに聞こえる声に向かって必死に走ったが、距離は縮まらない。
『父さん!母さん!』
 走っても、叫んでも届かない。



「……あ……」
 微かに開いた目の向こうから朝日が見えた。
 涙でぐしゃぐしゃの顔を枕でぬぐった。
「……う……あ……」
 夢だと解ったのに、まだ心臓はばくばくしている。
 そこにあるのはいつも見ているものばかりなのに、部屋そのものが違う。

 ――ここは、空賊バーダル一家の根城だ。

 それだけを確認すると、コリンはむくりと起き上がった。
 夜が明けたばかりらしく微かに人が動く気配がする。もう一度眠るのが怖くて、ベットから出た。着替えるために服を手にしたがそのまま動けない。
 遠くでゴーンと鐘が鳴った。
(準備して、出なくちゃ)
 のろのろと服を着て、顔を洗い、口をすすいだが、体は目が覚めていないのか、鉛のように重たかった。
「パン……」
 食べなくちゃ、とテーブルの上にパンに手を伸ばして口に入れた。
 もそもそと布を噛むような味気なさしか感じない。その一口を無理矢理飲み下して、コリンは立ち上がった。
 口の中がからからだ。
 昨日残していたお茶を口にすると、少し頭がはっきりしてきた。
 テーブルの上にあるのはえんじ色の本。
 これを鞄に入れ、コリンは部屋を出た。
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