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二章 父の墓
9話
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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《ケイラー》
ミィラスの父の友人で、商会顧問であり学者。ミィラスの師でもあった
《ミィラスの母》
控え目な性格で、体調を崩している
今、ミィラスはひとりの聖典楽師として、師の前に立っている。
「父の墓へ詣でてきました」
ミィラスが言うと、ケイラーは「そうか……」と物憂げに頷く。今でも彼は、ミィラスは商人になるべきだったと思っているのだろう。
「父は、私のことを待っていてくれました。霊魂が天へ昇るのを見届けました」
「それは稀有なことだ」
ケイラーは目を見開いてミィラスを見つめた。人の魂は、生者の目には映らないという。だがそれが見えたのならば、ミィラスが並々ならぬ力を持っていることを示していた。彼には聖典楽師としての才覚すらあったのだ。それは喜ばしいことなのであろうが、同時に痛ましいことのように、ケイラーには感じられた。
そのとき、正午を知らせる鐘の音が鳴った。ケイラーは顔を上げて、元弟子に微笑んでみせる。
「食事にしよう。せっかく訪ねてくれたのだから、もてなしをさせてくれ」
その日は天気が良かった。ケイラーは中庭の木陰に卓と椅子を出し、料理を運ばせた。
「母上のことが気になるだろう」
卓を挟んだ向かいで、ケイラーが言った。ミィラスが素直に頷くと、彼は二階の窓に視線を向ける。
「彼女は、君の父上を亡くしてから、本当に気落ちしてしまってね。今は私と夫婦関係にあるが、彼女がこれ以上病まないための、形式上のものだ。普段は部屋に籠もっているが、穏やかに過ごしている。会っていくかね?」
「能うならば、そうしようと思います」
目の前の皿には、香草で包んだ魚の塩焼きが乗っている。昔はよく食卓に上がっていた料理だ。ミィラスは魚を小さく切り分け、口に運んだ。塩気と香草の風味、焼けた脂の香ばしさが口の中に広がり、懐かしい気持ちになる。そう、この味付けには馴染みがあった。何年経っても、師は弟子の好物を覚えていてくれたのだ。それがなんと有り難いことか。
胸が詰まるような、奇妙な気持ちだった。
当時「呪い麦」は大きく騒ぎになり、そのさなかで跡継ぎ息子が教団へ入ったことは、様々な意味で風評を上書きした。しかしもはや世俗から離れてしまった彼には、事件がどのように落とし前をつけられたのか知らされることもなく、修行に励むだけだった。
その甲斐あって聖典楽師に任じられ、司祭長じきじきに仕事を任されるまでになった今、何を憂うことがあろうか?
ケイラーは元弟子の様子を気にしたように首をかしげる。
「大丈夫かね? 気分が良くないようだが」
ミィラスは顔を上げた。ややあって苦笑を浮かべると、師を見つめた。
「私もまだまだです。ですが、先生や両親、商会のみんなが事件を乗り越えたことを、とても嬉しく思います。ですが、私はもっと精進しなければなりません。市井を歩くと、自分が神職としては未熟なことを思い知ります」
その言葉で、あるいはケイラーの心に光が灯ったのかもしれない。
「君はよくやっている。聖典楽師などは、努力次第でなれるものでもない。だが私には年の功というものがある。気になることがあれば、何でも私に話してみるといい」
師はそのように言った。彼がミィラスにしておきたかったことを、ようやく今ここで果たしたいと願っているのだろう。
ミィラスの中にはためらいが浮かんだ。自らの未熟さをさらけ出すことに、抵抗がないわけではなかった。しかし、そういった虚栄心は必要なく、ただミィラスの心の屈託を晴らしてやりたいという、ケイラーの思いやりに応えればよいだけだった。
「貧民街の、とある親子に出会いました」
ミィラスは昨晩のできごとを話した。子を置き去りにしたニネア、赤ん坊を拾った夫婦、そして自らの行いのことも。
ミィラスの告白を聞いたケイラーは「ふうむ……」と学者らしい熟考ののちに、口を開く。
「非常に難しい問題だ。君がしたことが、その赤子にとって最良だったかどうか、君は永遠に疑い続けるだろう。もともと君は、世俗で商売に関わる、つまり利益を求めることを是として生きていくはずだった。しかし聖典楽師の立場に、その視点はない。その意味で、君は今現在のあるべき立場、持つべき視点を守ったのだ」
ケイラーは魚の身を口に運びながら、彼の考えを述べた。
「もっと現実的な話をするならば、貧民の困窮を救うのは、政治の領分だと私は思っている。信仰や、まして聖典楽師ひとりの力で、どうにかなるものではないよ」
「はい」とミィラスは頷く。
「しかし、限られた力の中で、君はできることをした。罪のあがないは、現実では刑罰や服役など様々だが、人の生き方の中で考えるならば、その母親にとっては己の弱さと向き合って成すべき使命であっただろう。君は責任感が強いがゆえに、その者たちの将来が気に掛かるのだろうが……」
ケイラーは指を組み、考えるように卓の上の皿を見つめてから、顔を上げた。
「最近、店に人手が足りなくなってきたのだ。ちょうどいい、救民院に連絡して、その者たちを雇えないか訊いてみよう。子持ちの使用人も多いし、親同士助け合うなら歓迎だ。そうすれば、君も安心して西翼領に旅立てるだろう?」
「その件をご存知で」
ミィラスが瞠目すると、ケイラーは微笑んだ。
「エヌス司祭長様から、私のもとに手紙が届いた。あの御方は、君のことをよく気に掛けてくださっている」
「そうだったのですか」
エヌス司祭長の名を聞くと、ミィラスの背筋がすっと伸びた。
「救民院にも相応の寄付をしておこう。商会が豊かなうちは、それが務めでもある」
「ありがとうございます」
ミィラスが頭を下げると、ケイラーは「頭を上げなさい」と言った。
「今ある富は、本来君に返さねばならないもの。君が頭を下げる必要などない」
ケイラーはさっそく人を呼び、救民院へ遣いに行かせた。
ミィラスは席を立つ。
「名残惜しいですが、私はこれで。最後に母に会っていきます」
「ああ。二階の正面の部屋だ」
ケイラーの言う通り、階段を上がると正面に部屋があった。ミィラスは扉をそっと叩く。返事はない。
扉を開けると、ひとりの婦人が半身を起こして枕にもたれながら、うつらうつらとしていた。痩せて顔色は青白く、窓から差し込む陽光にも負けそうなほど弱々しい。
彼女は人の気配で気がついたのか目を開け、そこに立っている若者を目にした。
それが十三年も会っていなかった息子だと気づくのに数秒を要し、ミィラスから「お久しぶりです、母さん」と声を掛けられてからようやく彼女は目を瞠った。
「お加減はいかがです」
ミィラスが寝台側に椅子を引いてきて腰掛けると、母はぽかんとして息子を見返しながら、ぽつりと呟いた。
「本当に……?」
「はい。会えてうれしいです、母さん」
今のミィラスからは、もう当時の面影は感じられないかもしれない。少年の顔は成人のそれとなり、農園や店を動き回っていた頃の活発さは、神職の静かな落ち着きに取って代わられていた。
母が手を伸ばし、ミィラスの顔や肩に触れた。
「立派になったのね……」
「手が冷たいですね、きちんと食事はしていますか」
ミィラスが母の手を握ると、その手の熱に彼女は驚いたようだ。
「ええ、ええ、そうね。食べてはいるのだけれど」
母はそう言って、ミィラスの大きな手を見る。その表情が徐々に曇っていった。
「……私に、こんなに優しくしなくていいわ」
彼女はそっと手を外して、できるだけ姿勢を正しくしようと背中を伸ばす。
「あなたを教団へやってから、色々悩んだのよ。でも私は正しいことを選ぶことができないの。いつもそう。でもあの人が……お父さんがいた頃は良かったわ。あの人が今までも全部やっていたんだから」
母は窓の外に目をやった。スミレの鉢にミツバチが寄っている。丸い小さな身体でぶんぶんと飛び回る姿は、農園のあちこちでも見かけたものだ。
ミィラスは幼い頃、ミツバチに手を刺されて泣いたことがある。なんでこんなひどいことをするのかと、理不尽にミツバチに対して怒ったものだ。その様子を見た周囲の者は「あ、坊ちゃんもやられましたな!」と笑ったり、「でもこいつらがいないと実らない作物もあるんですよ」と教えてくれたりした。
その後にミツバチの生態を学んで、むやみに触った自分が悪かったと反省したのも思い出だ。
「商会はみんなで動かすもの。十三年前も、あの人が亡くなった時も、みんなで力を合わせたら、なんとかなった。何もしていないのは、私だけよ。まるでミツバチの巣に居候しているみたいね」
そう言った後に彼女ははっとして、ため息をついた。
「ごめんなさい、あなたに言うべきではなかったわ。弱い母を許してちょうだい」
ミィラスもまた、スミレとミツバチを眺めながら口を開く。
「私はミツバチの巣が性に合っていました。母さんは大変だったと思いますが、その巣を保つのに、あなたがいたことは大きかったと思います。商会のみんなは、母さんが『何もしていない』だなんて思っていませんでしたよ」
「そうなの?」
「ええ、当時の子ども目線ですが、今でもそのように思います」
「そう……」
母は安心したのか、安心することにしたのか、再び枕に身体を預けた。
ミィラスは言う。
「今の私は、正反対の……カタツムリの殻のような所に身を置いていますが、そこでもきちんとお役目を頂いているので、心配しないでください」
「カタツムリ……」と母はその喩えに少し笑った。
「はい、遅い歩みで精進しています」
「ふふふ」
ミィラスはそれ以上長居せず、母に挨拶をして部屋を出た。
母が吐露した心情は、自分がもはや商会と関係がなくなったからこそ聞けたのだろう。
ミィラスは階段を降り、ケイラーに感謝の意を告げて、屋敷の外に出た。
振り返り、二階を見上げると、スミレの花が風に揺れている。その上に青空が広がっている。すっと晴れやかで、寂しげな気持ちが胸の中を吹き抜けた。
これで心置きなく西翼領へ赴けるだろう。
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《ケイラー》
ミィラスの父の友人で、商会顧問であり学者。ミィラスの師でもあった
《ミィラスの母》
控え目な性格で、体調を崩している
今、ミィラスはひとりの聖典楽師として、師の前に立っている。
「父の墓へ詣でてきました」
ミィラスが言うと、ケイラーは「そうか……」と物憂げに頷く。今でも彼は、ミィラスは商人になるべきだったと思っているのだろう。
「父は、私のことを待っていてくれました。霊魂が天へ昇るのを見届けました」
「それは稀有なことだ」
ケイラーは目を見開いてミィラスを見つめた。人の魂は、生者の目には映らないという。だがそれが見えたのならば、ミィラスが並々ならぬ力を持っていることを示していた。彼には聖典楽師としての才覚すらあったのだ。それは喜ばしいことなのであろうが、同時に痛ましいことのように、ケイラーには感じられた。
そのとき、正午を知らせる鐘の音が鳴った。ケイラーは顔を上げて、元弟子に微笑んでみせる。
「食事にしよう。せっかく訪ねてくれたのだから、もてなしをさせてくれ」
その日は天気が良かった。ケイラーは中庭の木陰に卓と椅子を出し、料理を運ばせた。
「母上のことが気になるだろう」
卓を挟んだ向かいで、ケイラーが言った。ミィラスが素直に頷くと、彼は二階の窓に視線を向ける。
「彼女は、君の父上を亡くしてから、本当に気落ちしてしまってね。今は私と夫婦関係にあるが、彼女がこれ以上病まないための、形式上のものだ。普段は部屋に籠もっているが、穏やかに過ごしている。会っていくかね?」
「能うならば、そうしようと思います」
目の前の皿には、香草で包んだ魚の塩焼きが乗っている。昔はよく食卓に上がっていた料理だ。ミィラスは魚を小さく切り分け、口に運んだ。塩気と香草の風味、焼けた脂の香ばしさが口の中に広がり、懐かしい気持ちになる。そう、この味付けには馴染みがあった。何年経っても、師は弟子の好物を覚えていてくれたのだ。それがなんと有り難いことか。
胸が詰まるような、奇妙な気持ちだった。
当時「呪い麦」は大きく騒ぎになり、そのさなかで跡継ぎ息子が教団へ入ったことは、様々な意味で風評を上書きした。しかしもはや世俗から離れてしまった彼には、事件がどのように落とし前をつけられたのか知らされることもなく、修行に励むだけだった。
その甲斐あって聖典楽師に任じられ、司祭長じきじきに仕事を任されるまでになった今、何を憂うことがあろうか?
ケイラーは元弟子の様子を気にしたように首をかしげる。
「大丈夫かね? 気分が良くないようだが」
ミィラスは顔を上げた。ややあって苦笑を浮かべると、師を見つめた。
「私もまだまだです。ですが、先生や両親、商会のみんなが事件を乗り越えたことを、とても嬉しく思います。ですが、私はもっと精進しなければなりません。市井を歩くと、自分が神職としては未熟なことを思い知ります」
その言葉で、あるいはケイラーの心に光が灯ったのかもしれない。
「君はよくやっている。聖典楽師などは、努力次第でなれるものでもない。だが私には年の功というものがある。気になることがあれば、何でも私に話してみるといい」
師はそのように言った。彼がミィラスにしておきたかったことを、ようやく今ここで果たしたいと願っているのだろう。
ミィラスの中にはためらいが浮かんだ。自らの未熟さをさらけ出すことに、抵抗がないわけではなかった。しかし、そういった虚栄心は必要なく、ただミィラスの心の屈託を晴らしてやりたいという、ケイラーの思いやりに応えればよいだけだった。
「貧民街の、とある親子に出会いました」
ミィラスは昨晩のできごとを話した。子を置き去りにしたニネア、赤ん坊を拾った夫婦、そして自らの行いのことも。
ミィラスの告白を聞いたケイラーは「ふうむ……」と学者らしい熟考ののちに、口を開く。
「非常に難しい問題だ。君がしたことが、その赤子にとって最良だったかどうか、君は永遠に疑い続けるだろう。もともと君は、世俗で商売に関わる、つまり利益を求めることを是として生きていくはずだった。しかし聖典楽師の立場に、その視点はない。その意味で、君は今現在のあるべき立場、持つべき視点を守ったのだ」
ケイラーは魚の身を口に運びながら、彼の考えを述べた。
「もっと現実的な話をするならば、貧民の困窮を救うのは、政治の領分だと私は思っている。信仰や、まして聖典楽師ひとりの力で、どうにかなるものではないよ」
「はい」とミィラスは頷く。
「しかし、限られた力の中で、君はできることをした。罪のあがないは、現実では刑罰や服役など様々だが、人の生き方の中で考えるならば、その母親にとっては己の弱さと向き合って成すべき使命であっただろう。君は責任感が強いがゆえに、その者たちの将来が気に掛かるのだろうが……」
ケイラーは指を組み、考えるように卓の上の皿を見つめてから、顔を上げた。
「最近、店に人手が足りなくなってきたのだ。ちょうどいい、救民院に連絡して、その者たちを雇えないか訊いてみよう。子持ちの使用人も多いし、親同士助け合うなら歓迎だ。そうすれば、君も安心して西翼領に旅立てるだろう?」
「その件をご存知で」
ミィラスが瞠目すると、ケイラーは微笑んだ。
「エヌス司祭長様から、私のもとに手紙が届いた。あの御方は、君のことをよく気に掛けてくださっている」
「そうだったのですか」
エヌス司祭長の名を聞くと、ミィラスの背筋がすっと伸びた。
「救民院にも相応の寄付をしておこう。商会が豊かなうちは、それが務めでもある」
「ありがとうございます」
ミィラスが頭を下げると、ケイラーは「頭を上げなさい」と言った。
「今ある富は、本来君に返さねばならないもの。君が頭を下げる必要などない」
ケイラーはさっそく人を呼び、救民院へ遣いに行かせた。
ミィラスは席を立つ。
「名残惜しいですが、私はこれで。最後に母に会っていきます」
「ああ。二階の正面の部屋だ」
ケイラーの言う通り、階段を上がると正面に部屋があった。ミィラスは扉をそっと叩く。返事はない。
扉を開けると、ひとりの婦人が半身を起こして枕にもたれながら、うつらうつらとしていた。痩せて顔色は青白く、窓から差し込む陽光にも負けそうなほど弱々しい。
彼女は人の気配で気がついたのか目を開け、そこに立っている若者を目にした。
それが十三年も会っていなかった息子だと気づくのに数秒を要し、ミィラスから「お久しぶりです、母さん」と声を掛けられてからようやく彼女は目を瞠った。
「お加減はいかがです」
ミィラスが寝台側に椅子を引いてきて腰掛けると、母はぽかんとして息子を見返しながら、ぽつりと呟いた。
「本当に……?」
「はい。会えてうれしいです、母さん」
今のミィラスからは、もう当時の面影は感じられないかもしれない。少年の顔は成人のそれとなり、農園や店を動き回っていた頃の活発さは、神職の静かな落ち着きに取って代わられていた。
母が手を伸ばし、ミィラスの顔や肩に触れた。
「立派になったのね……」
「手が冷たいですね、きちんと食事はしていますか」
ミィラスが母の手を握ると、その手の熱に彼女は驚いたようだ。
「ええ、ええ、そうね。食べてはいるのだけれど」
母はそう言って、ミィラスの大きな手を見る。その表情が徐々に曇っていった。
「……私に、こんなに優しくしなくていいわ」
彼女はそっと手を外して、できるだけ姿勢を正しくしようと背中を伸ばす。
「あなたを教団へやってから、色々悩んだのよ。でも私は正しいことを選ぶことができないの。いつもそう。でもあの人が……お父さんがいた頃は良かったわ。あの人が今までも全部やっていたんだから」
母は窓の外に目をやった。スミレの鉢にミツバチが寄っている。丸い小さな身体でぶんぶんと飛び回る姿は、農園のあちこちでも見かけたものだ。
ミィラスは幼い頃、ミツバチに手を刺されて泣いたことがある。なんでこんなひどいことをするのかと、理不尽にミツバチに対して怒ったものだ。その様子を見た周囲の者は「あ、坊ちゃんもやられましたな!」と笑ったり、「でもこいつらがいないと実らない作物もあるんですよ」と教えてくれたりした。
その後にミツバチの生態を学んで、むやみに触った自分が悪かったと反省したのも思い出だ。
「商会はみんなで動かすもの。十三年前も、あの人が亡くなった時も、みんなで力を合わせたら、なんとかなった。何もしていないのは、私だけよ。まるでミツバチの巣に居候しているみたいね」
そう言った後に彼女ははっとして、ため息をついた。
「ごめんなさい、あなたに言うべきではなかったわ。弱い母を許してちょうだい」
ミィラスもまた、スミレとミツバチを眺めながら口を開く。
「私はミツバチの巣が性に合っていました。母さんは大変だったと思いますが、その巣を保つのに、あなたがいたことは大きかったと思います。商会のみんなは、母さんが『何もしていない』だなんて思っていませんでしたよ」
「そうなの?」
「ええ、当時の子ども目線ですが、今でもそのように思います」
「そう……」
母は安心したのか、安心することにしたのか、再び枕に身体を預けた。
ミィラスは言う。
「今の私は、正反対の……カタツムリの殻のような所に身を置いていますが、そこでもきちんとお役目を頂いているので、心配しないでください」
「カタツムリ……」と母はその喩えに少し笑った。
「はい、遅い歩みで精進しています」
「ふふふ」
ミィラスはそれ以上長居せず、母に挨拶をして部屋を出た。
母が吐露した心情は、自分がもはや商会と関係がなくなったからこそ聞けたのだろう。
ミィラスは階段を降り、ケイラーに感謝の意を告げて、屋敷の外に出た。
振り返り、二階を見上げると、スミレの花が風に揺れている。その上に青空が広がっている。すっと晴れやかで、寂しげな気持ちが胸の中を吹き抜けた。
これで心置きなく西翼領へ赴けるだろう。
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