西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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三章 西翼領

10話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《カザ》
西翼領のヴァインの街で、小聖堂の主監を務める神職




 王都を出発し、徒歩で、あるいは荷馬車に揺られながら、ミィラスはやがて西翼領へ辿り着いた。目の前にあるのは、西翼の都であるヴァインの街の入り口である。

 街道と街を隔てる門は石造りの堅牢なものだったが、石組みに絡む蔦には花が咲き、また風雨によって削られた聖人像はどこか柔和な雰囲気をたたえ、暢気でひなびた印象であった。
 だが街に一歩踏み入れば、一気に都会的な空気が押し寄せる。大通りにはさまざまな店舗が並び、色とりどりの布や職人の手による陶器などが並ぶほか、青果の新鮮な香りや、肉をいぶす煙が漂い、目や鼻や耳に飛び込んでくる情報の多さに、ミィラスはしばらくぽかんとしていた。
 街娘たちがくすくす笑いながら通り過ぎていく。ミィラスは我に返ると、大通りを西に向かって歩き出した。行き交う人々は、王都に比べてみな歩調が早く、ミィラスはしばしば追い越されたり目の前を横切られたりした。実に、商人が多い街のようだ。

 ヴァインの街は、十字に交差した大通りを取り巻くように広がっており、ミィラスがくぐった門は十字の東側。そこから西に歩けばやがて中心街へ辿り着く。その付近に聖ドリード教団の小聖堂があることを知っていたミィラスは、まずはそこを訪ねることにした。

 小聖堂ではちょうど午後の礼拝が行われていた。十人ほどの神職が祭壇の前に並び、聖典の頁を繰っている。
 ミィラスの存在に気がついたひとりが、「あっ」と声をあげると、他の者もみな顔を上げて彼を見た。地方の神職のなかには、聖典楽師と馴染みのない者もいる。さすがにこれほど大きな街であれば、これまでに聖典楽師が派遣されたこともあろうから、彼らはミィラスの年齢に驚いたのかもしれない。彼らは竪琴を携えた青年を、物珍しげな視線でじろじろと見た。

 にわかに注目を浴びたミィラスは、礼拝を中断させたことを詫び、簡単な挨拶をした。
 ひとりの男が進み出て、「ここの長をしております、カザと申します」と名乗った。
 カザの階級は、その法衣を見るに聖典楽師の一つ下にあたり、小聖堂の主監であった。小聖堂とは言っても、西翼領ではもっとも大きな教団の施設であり、周辺地域の小聖堂を取りまとめる立場である。

 彼はミィラスが大聖堂から派遣されてきたこと、目的がベトラ・スーム選王侯への謁見であることを知ると、表情を曇らせた。
 それも無理からぬことだった。ここは西翼領における聖ドリード教団のれっきとした出先機関である。ならば、領主である選王侯に謁見し、その信仰心を確かめるのは、彼らの役割でもよいはずだ。しかしエヌス司祭長は、それでは足りぬと判断し、若き聖典楽師を送り込んだ。その裏側には、ヴァインの街で活動しておきながら、領主の信仰心にゆらぎを許したカザたちへの遠回しな非難もあろう。

 カザにとって、その事実は喉元に苦いものを感じるには十分であった。かといって、遠路はるばるやってきた聖典楽師を追い返すわけにもいかない。階級はこの若造のほうが上なのだ。
 その場の神職たちは、ミィラスの来訪に浮き足立っていたが、主監たるカザは、エヌス司祭長がこの青年にかけた期待はいかばかりなのだろうかと計りかねていた。

 ミィラスはといえば、さっそく己がカザの矜恃を傷つけたことに気づいた。しかし、彼らの管轄地域である西翼領で、断りもなく活動したなら、彼らを軽んじたということに他ならない。ミィラスは、己がこの小聖堂を訪ねないわけにはいかなかったこと、それがエヌス司祭長の意図通りであろうということ、さらにそれがカザたちの不手際を指摘するものであることを、このとき理解した。

 二人は互いに固い表情で、ぎこちなく言葉を交わす。

「領主夫人のことはお聞き及びで?」

 カザの問いに、ミィラスは「辺境から迎えられ、宗教が異なるとだけ」と答えた。

「そうですか……」

 カザはミィラスを一瞥し、ふっと鼻息をもらした。

「夫人がなにか?」

 ミィラスが眉をあげると、カザは「あまり良い噂を聞きませんもので」と言った後に、青年をちらちら見ながら続ける。

「なんでも、その美貌で若い男をたぶらかすとか……」

 含みのある言い方に、ミィラスは苦笑した。

「だとしても、私の役目に変わりはありません」
「ええ、そうでしょうとも」

 カザはやや興醒めした様子である。

 ミィラスはこれ以上の長居は無用と判断し、その場を辞した。小聖堂を出る間際、神職たちの好奇の視線が向けられる。ミィラスは彼らに会釈を返すと、街の雑踏へ足を踏み出した。

 ミィラスが向かう領主の館は小高い丘の上にあった。その途中、丘の中腹には、平たい円柱状をした建造物が佇んでいる。
 ミィラスは、これが世に名高い《議会堂》かと感慨深く眺めた。
 カミル香国に四人の選王侯が存在することは前述の通りであるが、この者たちは〝侯〟であっても貴族ではない。この国に貴族というものは存在しない。王家があって貴族がいないのは、制度の上では民草に身分差が存在しないことを示している。それは神のもとで平等性を重んじているからだ。君主の選び方も、そういった文化が影響していた。

 そして、王が選挙で選ばれるのと同様、選王候も議会で選挙によって選ばれる。
 この国にある四つの議会。それぞれ《東翼》《西翼》《南翼》《北翼》と呼ばれ、四人の選王侯とは、それぞれの議会を統括する総裁スームを指している。

 議会は国を東西南北に四分割して領地を持つ。名目上、総裁もとい選王侯が領主とされているが、領地運営は議会全体が行っていた。
 ミィラスが見上げている議会堂は、正しくは《西翼議会堂》である。その歴史ある建物の、大理石の壁には天体図が見事な彫刻で施されており、《西翼》の象徴である金星は真正面、玄関の上に輝いていた。議員たちは毎日あの星の下をくぐり、この西翼領の政策について議論しているのだろう。

 ひとしきり議会堂を眺めたミィラスは、ベトラ・スーム侯の居城を目指して坂道を登っていった。
 その城――白夜城は、議会堂と同じく大理石で出来ていた。しかしながら、議会堂が古風で重々しい趣であったのに対し、こちらは優美で華やかな印象を与える。それは城全体に繊細な意匠が取り入れられているせいかもしれないし、周囲を取り囲む薔薇の生け垣がそう思わせるのかもしれない。なんにせよ、城を維持するのにも、生け垣の手入れをするのにさえも、相当な費用と人手が要るはずである。

 ミィラスは無意識に、それら諸経費を頭の中で計算してしまい、師ケイラーから学んだ商学が、未だに己の中に顕在であることを知って驚いた。

 城の前に立ちすくんでいるミィラスを不審に思ってか、門番が近寄ってきた。
 ミィラスは我に返ると、門番に一ゆうして名乗る。

「聖ドリード教団、大聖堂から参りました、聖典楽師のミィラスと申します。ベトラ・スーム選王侯閣下への謁見を賜りたい」

 大柄な門番はミィラスを見下ろし、携えていた槍の石突きでタンと地面を突いた。

「閣下はご多忙だ。帰れ」

 とりつく島もない。だが、ミィラスも簡単に引き下がるわけにはいかなかった。

「大聖堂の長であるエヌス司祭長より、こちらに参上するよう仰せつかっているのです。どうか侯へのお目通りを」
「司祭長様から……?」

 門番は怪訝な顔をしたあと、首を振った。

「だとしても、事前の申し入れもなく訪問するとは、礼儀知らずも甚だしい。とく去れ」

 もっともな言い分である。
 だが訪問を予告しなかったのには理由があるのだ。もし本当に選王侯が異教の神を信仰していた場合、聖典楽師が送り込まれると分かった時点で証拠を隠滅される恐れがあった。ミィラスはいわば抜き打ち検査官のようなもの。相手にごまかす時間を与えないための策だった。
 この門番に非はない。むしろ、よく働いているといえるだろう。

 ミィラスは「こちらの不手際をお詫びします」と軽く頭を下げた。

「では、西翼議会を通して正式に謁見の申し入れをするとしましょう。侯のお立場を考慮して、できるだけ大事にせず済ませたかったのですが……」

 ミィラスは踵を返すと、ゆっくりと坂を下った。背後で門番が少し戸惑っている気配がする。ミィラスをこのまま議会に行かせてよいものか、行かせた場合、彼の主人に不利益が生じはしないか……と考えているのだろう。この若い聖典楽師は、なにか侯にとって不都合な情報を議会にもたらすつもりなのでは、と。

 ミィラスは慎重に歩を進める。あと十歩のうちに、門番が彼を呼び止めねば、門番もミィラスも互いに機会を逸するだろうと思われた。そうなれば城に入るために別の策を考えねばならない。ミィラスは平然としているように見せながら、意識を背後へ向けていた。

 二歩、三歩、四歩と遠ざかる。

 白夜城は突然の来訪者に門扉を開くのか、否か。

「……待て。止まれ」と門番の声。

 ミィラスは「はい」と振り返った。
 固い表情で門番は告げる。

「……侯はお忙しい。夜まで待てるなら、取り次いでやろう」
「ありがとうございます」

 ミィラスは微笑んだ。
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