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四章 西翼の鴉
13話
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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《アシェラ》
ベトラ・スーム選王候の妻で、美貌の女性
授業は次の日から行われた。教室としてあてがわれた応接室には、夫人のために文机と黒板が運び込まれた。
ミィラスは白墨を手に取り、さらさらと黒板に文字を書き込んだ。
「まずは、基本的な祈りの言葉から覚えていきましょう。礼拝は勿論、式典でも用いられるものです」
ミィラスがゆっくりと祈りの言葉を口にすると、夫人が復唱する。それを幾度か繰り返し、よどみなく言えるようになるまで練習する。さらにミィラスは夫人に板書をさせ、授業のあとも復習をするように言った。
「なにか分からないことはありますか、奥様」
「ひとつ、お願いがありますの」
夫人が言った。
「ミィラス様は先生なのですから、へりくだってわたくしを『奥様』と呼ぶ必要はありませんわ。どうぞ『アシェラ』とお呼びになって。わたくしの名ですわ」
ミィラスはまばたきし、夫人を見つめた。相手は領主の妻である。気安く名前を呼ぶことは憚るべきだ。だが、夫人の無邪気な願いを突っぱねて、今後の授業に差し障りが出ても困る。ミィラスは困惑し、是とも否とも言えないでいた。
「……いけないかしら?」
夫人が悲しそうに――しかしその表情さえも美しく――言うので、ミィラスは白墨を置き、彼女に向き直る。
「では、『アシェラさん』とお呼びしましょう。よろしいでしょうか」
すると夫人――アシェラはぱっと顔を輝かせ、こくりと頷いた。その表情を見ると、ミィラスは身体のどこかがむずがゆいような、妙な心地になった。
「では、わたくしは『ミィラス先生』とお呼びしますわね」
アシェラはふふふと笑って、板書を続ける。
大聖堂では、聖典楽師が見習い少年たちに対して教鞭をとる。相手が変わったとしても、自身が授業を行うことにおいて、ミィラスはさしたる障害は感じていなかった。しかし、少年たちには感じなかった高揚感のようなものが、彼の中にはあった。ふわふわと風に舞う綿毛のように、落ち着きなく、とらえどころのない――だが、傍目にはミィラスはいたって冷静に見えただろう。彼は長年の修行によって、心を落ち着ける術を学んでいたし、たとえ内心平静でなくとも、それを表に出さない訓練も受けていた。
「今日の授業はここまでです」
ミィラスが告げると、アシェラがペンを置く。
「こうして学んでみると、奥が深いものですのね。明日の授業も楽しみですわ」
「明日は、今日学んだことを確認してから、続きをしましょう」
ミィラスは退出の意を告げ、アシェラに見送られながら城外に出た。
*
選王侯が手配したミィラスの逗留先は、かなり行き届いた宿屋だった。ミィラスは、風呂がついた客室というものを初めて見た。宿の者に入浴したい旨を告げると、湯を運んできてくれるという仕組みらしい。
食事もまた、山の幸、川の幸を使った料理で、何皿も運ばれてきた。
色とりどりの皿を前に、ミィラスは「ううん……」と腕を組む。
ドリード神の教えでは暴食は悪しき行為とされている。禁忌とされる食材こそないが、あらゆる食物は少しずつ摂るべし、とあって大聖堂での食事はとても質素だ。また飲酒も神職にとっては厳禁である。
酒の代わりに香りの良い茶が用意されていて気遣いを感じたが、料理の数はいささか多すぎたし、手がかかり過ぎている気がした。
なるほど、サムシィも肥えるはずである。
ミィラスは食事を口に運びながら、これが当分続くのであれば、宿屋側に料理の品数を減らしてもらうよう頼まねばなるまいと考えた。聖典楽師とはミィラスが考える以上に、このような待遇を受けるものなのだ。神職とはいえ、俗世で人と関わるならば、その場所の流儀に従う必要もあろう。
とはいえ、食べきれないほどの量は困るし、贅沢に慣れてしまうのも怖い。
頭の中でサムシィが「お前は堅い奴だ」と言ってきたが、彼は彼、自分は自分である。
ミィラスはやっとの思いで、料理の半分ほどを腹に収めたのだった。
*
授業を始めてから、およそ一週間が経った。
ミィラスは、アシェラの驚異的な学びの速さに、驚きを禁じ得なかった。彼女はたった一週間で基本的な祈りの言葉を全て覚え、聖典に記された膨大な神話もほとんど暗記した。
ミィラスが正直に賞賛の言葉を贈ると、アシェラはにっこりと顔をほころばせた。
「わたくし、夜も必死に勉強しましたのよ」
ミィラス先生に喜んでほしくて、と付け加える彼女の声には、蠱惑的な響きがあった。ミィラスは、宿屋に宿泊することにして正解だったと、己の判断の正しさを認識した。この城は彼女の領域だ。気を緩めると、いつのまにか彼女に絡めとられてしまう気がする。まるで石組みに蔦が絡みつくように――
だが、たとえ誘惑的に感じたとしても、それに惑わされるのは己の問題だ。大聖堂においても、神職と踊り子が隠れて逢瀬を重ねていただとか、街でこっそり恋人を作っていただとか、そういった話はまれにあることだ。ミィラスも見習い少年への講義中に、生徒の一人が板書と見せかけて恋文を書いていたのを没収したことがある。──ちなみにその時のミィラスは、少年の文法間違いをきっちり添削した上で、修行に励むように諭した。
彼女の魅力は、人間的な魅力でもある。それは素晴らしい特性であり、それ以上のものではない。
「アシェラさんが優秀な生徒なので、私も教え甲斐がありますよ」
ミィラスは微笑し、白墨を手に取る。
「今日からは、教義の内容に入っていきましょう」
ミィラスはアシェラに背を向け、のっぺりとした黒板に文字を走らせた。
ドリード神の教え、教義というものは、人間が生きるうえで守らなければならない事項をまとめたものである。信徒はこれを指針として、日々の生活を送っている。
人を陥れてはいけない。
人を傷つけたり、殺してはならない。
日々の糧には感謝を捧げるべし。
子を慈しみ育てよ。
過去に囚われてはならない。
嘘をついてはならない。
弱きものには慈悲を与えよ。
老いたものを尊重すべし。
慢心を戒めよ。
ここに挙げたものはほんの一部にすぎない。聖典には実に多くの、信徒が守るべき事項が記されている。〝聖典の詩〟の半分ほどは、これらの教えを詩という形にして、民草に親しみやすいよう編まれたものや、もっと分かりやすい過去の逸話などである。残り半分は〝弔いの詩〟や〝祝福の詩〟などの祈りの言葉が占めていた。
「ミィラス先生、質問があります」
アシェラが手を挙げる。
「どうぞ」
ミィラスがうながすと、アシェラは問いを口にした。
「ドリード神の教えでは、『嘘はいけない』とありますわ。けれど、相手を慮ってつく嘘もありますでしょう。そのような嘘も、神は禁じているのですか?」
ミィラスは微笑んだ。見習い少年たちからも、似たような質問が飛び出すからだ。
「聖典のいう嘘とは、心にやましさを生む虚偽の言葉のことです。人を思いやったがために生まれた嘘は、ドリード神もお許しになるでしょう」
アシェラは首をかしげた。
「では、どうしてそのように聖典に記さないのですか? 人のための嘘は許されると」
ミィラスは言う。
「人は存外弱い生き物です。許される嘘があることを聖典に記せば、たとえ利己的な嘘をついたとしても、『これは誰それを慮ってついた嘘なのだ』と自分を欺いてしまうでしょう。そうなれば罪は二重になってしまいますね」
アシェラはふむふむと頷きながら、ペンで書き付ける。
「自分を欺いてしまうほど、人間は弱いのですね」
「とはいえ、聖典は人間の弱さを批判してはいません。心の弱さは人間が元来持つ性質であるからです。同時に自ら律することができるのは人間の強さでもあると、私は思います」
その後も教義に関する授業は続き、アシェラは疑問があれば積極的にミィラスに尋ねた。
日を追うごとに、アシェラの質問は鋭く、当を得たものになっていった。時折教義そのものの矛盾をついてくることがあるので、ミィラスは彼女からの質問には、やや緊張して応答にのぞんだ。
聖典自体が古いこともあり、歴史の中で解釈が変わった箇所もある。ミィラスはそのことに留意するよう注釈しつつ、聖典の矛盾がいかにして生まれたかを丁寧に説明した。
「つまり、聖典の同じ文言でも、時代によって考え方に違いがある、ということもあるのですね」
アシェラの理解は早かった。
授業を終え、ミィラスは宿屋に戻った。品数を減らしてもらった夕食をとり、入浴する。明日の授業の準備を済ませると、彼は寝具にもぐりこんだ。
*
深い眠りに身を委ねていたミィラスは、急な身体の硬直により、意識を浮上させた。
硬い。重い。苦しい。何が起こった?
まるで全身を鎖で縛られたかのような違和感で、指先ひとつ動かない。ミィラスは、唯一動かすことのできる目を、右へ左へとせわしなく動かした。
部屋の隅に、何者かが立っていた。
その者は闇の中にあって、ぼんやりとその姿を浮かび上がらせている。しなやかな肢体、なだらかな肩、丸い乳房、柳のような腰。そして、はっとするような美貌。そこにいたのは、ほとんど全裸といっても差し支えない格好をしたアシェラだった。
まとっているのは、霧のように透けた薄布一枚きり。その下には妖艶な身体がある。
アシェラはゆっくりとミィラスに近づくと、横たわる彼の身体の上におおいかぶさった。ミィラスは動くことができないまま、目を見開いていた。寝具越しに、彼女の体温が伝わってくる。やわらかな肌の感触や、呼吸も――
ミィラスの心臓は早鐘を打っていた。これは夢ではないのか? だとすればいったい何が起こっている? 彼女はどうしてここにいるのだ?
アシェラが柔らかく微笑んだ。まるで、こうしてミィラスに触れることを待ち望んでいたとでもいうように。彼女の指がするりとミィラスの指にからみつく。
ミィラスは、頭の芯がしびれるのを感じた。彼はいま、離れていこうとする思考の端を掴み、なんとか繋ぎとめていた。とっさの防衛本能である。しかし、何から自分を守ろうとしているのか、分からない。何か恐ろしいものだ。
アシェラが、その唇をそっと、ミィラスのそれに重ねる。途端、彼の身体がかっと熱くなった。肺の空気は全て逃げ、全身の血管が破れて血がほとばしるような心地がする。
たまらなく苦しかった。彼女を押しのけて、何をしているのだと咎めればよいのか、それとも起き上がって美しい身体をかき抱いてしまえばよいのか、彼には分からなかった。少なくとも、彼に身体の自由があったのなら、彼女に手を伸ばしていたにちがいない。
アシェラの髪の毛が、はらりとミィラスの額にかかる。アシェラの口づけは長く呼吸を奪った。
ミィラスは、自分はむしろこの接吻を受け入れるべきなのではないかという思いに囚われた。だが彼とて聖典楽師であり、誘惑する者にとって一筋縄にはいかない。この突然の出来事に驚いていたこともあって、青年は無意識に、心に障壁を築いて彼女を拒絶していた。だが、このままでは息ができずに窒息してしまう。
もし彼女を受け入れたなら、この苦しみから解放されるのではないか――?
アシェラがふふっと笑声をこぼす気配がした。すると、ミィラスの身体の熱が、触れあっている唇を通って彼女のほうへ流れこんでいく。彼の身体はどんどん冷えていき、同時に思考はぼやけて、脳内が甘い官能に満たされた。
ミィラスの口内が淡く光を放つ。それは星の光に似ていた。アシェラは両手でミィラスの顔を固定し、その光へ舌を伸ばす。それはしばらく抵抗するかのように明滅していたが、やがてアシェラの舌に捕まった。彼女はその輝きをずるりとミィラスから引きずり出し、喉を鳴らして飲み込んでしまった。
途端、深い穴に落とされたかのような不安がミイラスを襲った。今、なにかとても信じられないほど恐ろしいことが起こった気がする。しかしそれ以上考える前に、彼の視界は暗転した。意識を失ったのだった。
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《アシェラ》
ベトラ・スーム選王候の妻で、美貌の女性
授業は次の日から行われた。教室としてあてがわれた応接室には、夫人のために文机と黒板が運び込まれた。
ミィラスは白墨を手に取り、さらさらと黒板に文字を書き込んだ。
「まずは、基本的な祈りの言葉から覚えていきましょう。礼拝は勿論、式典でも用いられるものです」
ミィラスがゆっくりと祈りの言葉を口にすると、夫人が復唱する。それを幾度か繰り返し、よどみなく言えるようになるまで練習する。さらにミィラスは夫人に板書をさせ、授業のあとも復習をするように言った。
「なにか分からないことはありますか、奥様」
「ひとつ、お願いがありますの」
夫人が言った。
「ミィラス様は先生なのですから、へりくだってわたくしを『奥様』と呼ぶ必要はありませんわ。どうぞ『アシェラ』とお呼びになって。わたくしの名ですわ」
ミィラスはまばたきし、夫人を見つめた。相手は領主の妻である。気安く名前を呼ぶことは憚るべきだ。だが、夫人の無邪気な願いを突っぱねて、今後の授業に差し障りが出ても困る。ミィラスは困惑し、是とも否とも言えないでいた。
「……いけないかしら?」
夫人が悲しそうに――しかしその表情さえも美しく――言うので、ミィラスは白墨を置き、彼女に向き直る。
「では、『アシェラさん』とお呼びしましょう。よろしいでしょうか」
すると夫人――アシェラはぱっと顔を輝かせ、こくりと頷いた。その表情を見ると、ミィラスは身体のどこかがむずがゆいような、妙な心地になった。
「では、わたくしは『ミィラス先生』とお呼びしますわね」
アシェラはふふふと笑って、板書を続ける。
大聖堂では、聖典楽師が見習い少年たちに対して教鞭をとる。相手が変わったとしても、自身が授業を行うことにおいて、ミィラスはさしたる障害は感じていなかった。しかし、少年たちには感じなかった高揚感のようなものが、彼の中にはあった。ふわふわと風に舞う綿毛のように、落ち着きなく、とらえどころのない――だが、傍目にはミィラスはいたって冷静に見えただろう。彼は長年の修行によって、心を落ち着ける術を学んでいたし、たとえ内心平静でなくとも、それを表に出さない訓練も受けていた。
「今日の授業はここまでです」
ミィラスが告げると、アシェラがペンを置く。
「こうして学んでみると、奥が深いものですのね。明日の授業も楽しみですわ」
「明日は、今日学んだことを確認してから、続きをしましょう」
ミィラスは退出の意を告げ、アシェラに見送られながら城外に出た。
*
選王侯が手配したミィラスの逗留先は、かなり行き届いた宿屋だった。ミィラスは、風呂がついた客室というものを初めて見た。宿の者に入浴したい旨を告げると、湯を運んできてくれるという仕組みらしい。
食事もまた、山の幸、川の幸を使った料理で、何皿も運ばれてきた。
色とりどりの皿を前に、ミィラスは「ううん……」と腕を組む。
ドリード神の教えでは暴食は悪しき行為とされている。禁忌とされる食材こそないが、あらゆる食物は少しずつ摂るべし、とあって大聖堂での食事はとても質素だ。また飲酒も神職にとっては厳禁である。
酒の代わりに香りの良い茶が用意されていて気遣いを感じたが、料理の数はいささか多すぎたし、手がかかり過ぎている気がした。
なるほど、サムシィも肥えるはずである。
ミィラスは食事を口に運びながら、これが当分続くのであれば、宿屋側に料理の品数を減らしてもらうよう頼まねばなるまいと考えた。聖典楽師とはミィラスが考える以上に、このような待遇を受けるものなのだ。神職とはいえ、俗世で人と関わるならば、その場所の流儀に従う必要もあろう。
とはいえ、食べきれないほどの量は困るし、贅沢に慣れてしまうのも怖い。
頭の中でサムシィが「お前は堅い奴だ」と言ってきたが、彼は彼、自分は自分である。
ミィラスはやっとの思いで、料理の半分ほどを腹に収めたのだった。
*
授業を始めてから、およそ一週間が経った。
ミィラスは、アシェラの驚異的な学びの速さに、驚きを禁じ得なかった。彼女はたった一週間で基本的な祈りの言葉を全て覚え、聖典に記された膨大な神話もほとんど暗記した。
ミィラスが正直に賞賛の言葉を贈ると、アシェラはにっこりと顔をほころばせた。
「わたくし、夜も必死に勉強しましたのよ」
ミィラス先生に喜んでほしくて、と付け加える彼女の声には、蠱惑的な響きがあった。ミィラスは、宿屋に宿泊することにして正解だったと、己の判断の正しさを認識した。この城は彼女の領域だ。気を緩めると、いつのまにか彼女に絡めとられてしまう気がする。まるで石組みに蔦が絡みつくように――
だが、たとえ誘惑的に感じたとしても、それに惑わされるのは己の問題だ。大聖堂においても、神職と踊り子が隠れて逢瀬を重ねていただとか、街でこっそり恋人を作っていただとか、そういった話はまれにあることだ。ミィラスも見習い少年への講義中に、生徒の一人が板書と見せかけて恋文を書いていたのを没収したことがある。──ちなみにその時のミィラスは、少年の文法間違いをきっちり添削した上で、修行に励むように諭した。
彼女の魅力は、人間的な魅力でもある。それは素晴らしい特性であり、それ以上のものではない。
「アシェラさんが優秀な生徒なので、私も教え甲斐がありますよ」
ミィラスは微笑し、白墨を手に取る。
「今日からは、教義の内容に入っていきましょう」
ミィラスはアシェラに背を向け、のっぺりとした黒板に文字を走らせた。
ドリード神の教え、教義というものは、人間が生きるうえで守らなければならない事項をまとめたものである。信徒はこれを指針として、日々の生活を送っている。
人を陥れてはいけない。
人を傷つけたり、殺してはならない。
日々の糧には感謝を捧げるべし。
子を慈しみ育てよ。
過去に囚われてはならない。
嘘をついてはならない。
弱きものには慈悲を与えよ。
老いたものを尊重すべし。
慢心を戒めよ。
ここに挙げたものはほんの一部にすぎない。聖典には実に多くの、信徒が守るべき事項が記されている。〝聖典の詩〟の半分ほどは、これらの教えを詩という形にして、民草に親しみやすいよう編まれたものや、もっと分かりやすい過去の逸話などである。残り半分は〝弔いの詩〟や〝祝福の詩〟などの祈りの言葉が占めていた。
「ミィラス先生、質問があります」
アシェラが手を挙げる。
「どうぞ」
ミィラスがうながすと、アシェラは問いを口にした。
「ドリード神の教えでは、『嘘はいけない』とありますわ。けれど、相手を慮ってつく嘘もありますでしょう。そのような嘘も、神は禁じているのですか?」
ミィラスは微笑んだ。見習い少年たちからも、似たような質問が飛び出すからだ。
「聖典のいう嘘とは、心にやましさを生む虚偽の言葉のことです。人を思いやったがために生まれた嘘は、ドリード神もお許しになるでしょう」
アシェラは首をかしげた。
「では、どうしてそのように聖典に記さないのですか? 人のための嘘は許されると」
ミィラスは言う。
「人は存外弱い生き物です。許される嘘があることを聖典に記せば、たとえ利己的な嘘をついたとしても、『これは誰それを慮ってついた嘘なのだ』と自分を欺いてしまうでしょう。そうなれば罪は二重になってしまいますね」
アシェラはふむふむと頷きながら、ペンで書き付ける。
「自分を欺いてしまうほど、人間は弱いのですね」
「とはいえ、聖典は人間の弱さを批判してはいません。心の弱さは人間が元来持つ性質であるからです。同時に自ら律することができるのは人間の強さでもあると、私は思います」
その後も教義に関する授業は続き、アシェラは疑問があれば積極的にミィラスに尋ねた。
日を追うごとに、アシェラの質問は鋭く、当を得たものになっていった。時折教義そのものの矛盾をついてくることがあるので、ミィラスは彼女からの質問には、やや緊張して応答にのぞんだ。
聖典自体が古いこともあり、歴史の中で解釈が変わった箇所もある。ミィラスはそのことに留意するよう注釈しつつ、聖典の矛盾がいかにして生まれたかを丁寧に説明した。
「つまり、聖典の同じ文言でも、時代によって考え方に違いがある、ということもあるのですね」
アシェラの理解は早かった。
授業を終え、ミィラスは宿屋に戻った。品数を減らしてもらった夕食をとり、入浴する。明日の授業の準備を済ませると、彼は寝具にもぐりこんだ。
*
深い眠りに身を委ねていたミィラスは、急な身体の硬直により、意識を浮上させた。
硬い。重い。苦しい。何が起こった?
まるで全身を鎖で縛られたかのような違和感で、指先ひとつ動かない。ミィラスは、唯一動かすことのできる目を、右へ左へとせわしなく動かした。
部屋の隅に、何者かが立っていた。
その者は闇の中にあって、ぼんやりとその姿を浮かび上がらせている。しなやかな肢体、なだらかな肩、丸い乳房、柳のような腰。そして、はっとするような美貌。そこにいたのは、ほとんど全裸といっても差し支えない格好をしたアシェラだった。
まとっているのは、霧のように透けた薄布一枚きり。その下には妖艶な身体がある。
アシェラはゆっくりとミィラスに近づくと、横たわる彼の身体の上におおいかぶさった。ミィラスは動くことができないまま、目を見開いていた。寝具越しに、彼女の体温が伝わってくる。やわらかな肌の感触や、呼吸も――
ミィラスの心臓は早鐘を打っていた。これは夢ではないのか? だとすればいったい何が起こっている? 彼女はどうしてここにいるのだ?
アシェラが柔らかく微笑んだ。まるで、こうしてミィラスに触れることを待ち望んでいたとでもいうように。彼女の指がするりとミィラスの指にからみつく。
ミィラスは、頭の芯がしびれるのを感じた。彼はいま、離れていこうとする思考の端を掴み、なんとか繋ぎとめていた。とっさの防衛本能である。しかし、何から自分を守ろうとしているのか、分からない。何か恐ろしいものだ。
アシェラが、その唇をそっと、ミィラスのそれに重ねる。途端、彼の身体がかっと熱くなった。肺の空気は全て逃げ、全身の血管が破れて血がほとばしるような心地がする。
たまらなく苦しかった。彼女を押しのけて、何をしているのだと咎めればよいのか、それとも起き上がって美しい身体をかき抱いてしまえばよいのか、彼には分からなかった。少なくとも、彼に身体の自由があったのなら、彼女に手を伸ばしていたにちがいない。
アシェラの髪の毛が、はらりとミィラスの額にかかる。アシェラの口づけは長く呼吸を奪った。
ミィラスは、自分はむしろこの接吻を受け入れるべきなのではないかという思いに囚われた。だが彼とて聖典楽師であり、誘惑する者にとって一筋縄にはいかない。この突然の出来事に驚いていたこともあって、青年は無意識に、心に障壁を築いて彼女を拒絶していた。だが、このままでは息ができずに窒息してしまう。
もし彼女を受け入れたなら、この苦しみから解放されるのではないか――?
アシェラがふふっと笑声をこぼす気配がした。すると、ミィラスの身体の熱が、触れあっている唇を通って彼女のほうへ流れこんでいく。彼の身体はどんどん冷えていき、同時に思考はぼやけて、脳内が甘い官能に満たされた。
ミィラスの口内が淡く光を放つ。それは星の光に似ていた。アシェラは両手でミィラスの顔を固定し、その光へ舌を伸ばす。それはしばらく抵抗するかのように明滅していたが、やがてアシェラの舌に捕まった。彼女はその輝きをずるりとミィラスから引きずり出し、喉を鳴らして飲み込んでしまった。
途端、深い穴に落とされたかのような不安がミイラスを襲った。今、なにかとても信じられないほど恐ろしいことが起こった気がする。しかしそれ以上考える前に、彼の視界は暗転した。意識を失ったのだった。
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