西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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三章 西翼領

12話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《アシェラ》
ベトラ・スーム選王候の妻で、美貌の女性
《ベトラ・スーム選王候》
カミル香国の西側領土の統治者




 食堂にはすでに豪勢な料理が用意されていた。先に席に着いていたベトラ・スーム選王侯は、妻がミィラスをともなって現れたのを見ると、「おや」と言って立ち上がった。

「聖典楽師の客人が来ていることは聞いていたが、よもやこんなにお若いとは」

 すっと優雅な会釈をする選王侯は、明朗闊達な人柄で知られている。愛する妻が若い男と歓談していたことに、とくに気分を害した様子もなく、聖典楽師であるミィラスに対して、しかるべき敬意を払うつもりであることを態度で示した。
 ミィラスは恐縮して、選王侯に対して最敬礼をした。すると彼は鷹揚に笑い、席に着くようにとうながす。
 あらためて見ると、選王侯は地位ある者には珍しく、浅黒い肌をしていた。夫人と並ぶと、二人の肌色の違いがより際立つ。襟元から覗く鎖骨はやや白いところを見ると、顔や二の腕のそれは日焼けであろう。

「今日の視察はどちらへ」

 夫人が夫に問うと、彼は葡萄酒の杯に口をつけながら「施療院だ」と答えた。
 ミィラスはまばたきした。

「施療院……王都の救民院のようなものでしょうか」
「それに近い。救民院は別で設けてはいるが」

 選王侯は卓の上で指を組む。

「ただし、ここ西翼領では、救民院は貧民への食糧配給や生活の支援に専念させ、施療院は病気や怪我の治療を行う場として独立させた。また在野の医者にも知識を提供する役割も担っている。施療院は医療という分野で専門性を高めつつ、対象を貧民に限らないことにした。そうすることで、より高度な技術や知識が培われていく。結果的に、貧民もそうでない者も恩恵を受けることになる」

 ミィラスは思わず興味を惹かれ、尋ねた。

「新しい一つの施設として設けることで、専門性が集約され、煩雑な手続きが減りますね。しかしそれでも尋常でない費用が掛かりそうですが、どのように賄っているのですか? とくに薬代や治療費に関しては」

 選王候が瞳をきらりと輝かせた。この若者から経費の話が出てきたことに、面白そうだという気配を滲ませる。

「我が領は幸いにして岩塩で潤っている。そこから得た富は広く分配せねば。だがそれだけでは勿論足りない。君はなんだと思う?」

 逆に問いかけられ、ミィラスは考え込んだ。王立の救民院であれば、民が納めた税、あるいは教団へ寄付された布施が利用される。だが西翼領には岩塩と、それ以外の財源があるに違いない。

 ミィラスはヴァインの活気を思い返す。あそこまで賑やかで人が溢れているということは、それだけ商売をしている者が多いということだ。

「……街には様々な商店がありました。規模も多様で、大きな店の隣に小さな店も建っていました。大きな商店と小さな商店の数の割合に、王都ほどの差がない気がします」

「ふむ、それで?」

「さらに貧民の姿をあまり見かけませんでした。おそらくこの街には仕事が沢山あり、職にあぶれる者が少ないのでしょう。仕事を斡旋する公的な制度が整っていると思います」

「ほう」

 選王候が少し身を乗り出してきた。
 彼は先進的な考えを持つと聞いている。ならば多少突飛なことを言っても良いかもしれない。ミィラスは続けた。

「あるいは街の商人組合などが、商売を始める者に対し、何かしら最初の援助をしているのではないでしょうか。小さな商店だけを観察すると、店の作りがどれも均一で、同じ規格だったように見えます。組合といえば閉鎖的な印象がありますが、ここではかなり開放されている、などを考えました。王都を筆頭に他の地域で見られる、商会主が特権的に運営をする組合ではない、と」

「ふむ」

 選王候は愉快そうに目を細めて頷いている。
 ミィラスは政治家に政策を論ずる羽目になったことに戸惑いながら、言葉を続けた。

「商売が軌道に乗れば、いわゆる組合費も多く徴収できます。また商売する個人が増えれば、大きな商会がひとつあるよりも徴収先は多く、結果的に総額も大きくなる。つまり、商売で利益を得た者が多くを負担し、そうでない者を援助する。資金的にも、働き口にしても。救民院の仕事は自然と減り、経費も節約できます」

 選王候が「続けたまえ」と言う。夫人は目を丸くして聞いていたが、葡萄酒を口にしてそちらの味に気を取られているようだ。
 ミィラスはじっとりと冷や汗をかき始めていたが、選王候が求めるので仕方がない。

「ここは岩塩の採掘が盛んです。それこそ岩塩坑の労働者が多いなら、消費も多いはず。初めて商売をする者でも、始めやすい環境が整っていると考えます」

 ここまで言ってミィラスが息をついたところで、選王候は「はっはっは」と笑い声を上げた。

「よもや、神職からこのような考察を得られるとは思わなかった。君は政治家になっても良いかもしれない」
「いえ……そんな、恐縮いたします」

 ミィラスはいまだ緊張の解けぬ両手を、卓の下で握り合わせた。エヌス司祭長の言っていたことは、つまりこういうことなのだろう。まともな聖典楽師ならば、世俗の商売について問答するなどあり得ないからだ。

「なにかそういったことに関わった経験が?」
「私の生家が王都の商家でした。そこで見聞きした環境と、この街の違いを考え、若輩なりに憶測を申し上げた次第です」

 選王候は笑いを収め、葡萄酒を一口飲む。

「うむ、実際のところは他にも要因があるが、君の意見は大変参考になった。開放的な組合、実に面白い。いや、私はどうも議論が好きな性質でね。よく周りを困らせているのだよ。しかし、書物を鵜呑みにした机上の空論ではなく、己の経験に裏打ちされた議論は楽しいものだ。ゆえに、私は街に出て視察をするのが好きでね」

 すると夫人が夫のほうを見ながら言う。

「それは大変結構ですけれども、視察ついでに供の者を置き去りにして、ひとりで街なかをぶらつくのはおよしになって。日傘持ちの者がいつも、あなたを見失ったと泣き言を言いにくるのですよ」

 選王侯は呵々と笑った。

「日傘なんぞ差していたら、ここに私がいるぞと喧伝しておるようなものではないか。それに、みな日差しの下で働いておることだ、私も日差しの下で仕事をする」

 日傘――絹を張り刺繍や飾りをほどこした豪華なもの――は貴人にとってある種、己の地位を示すものでもあるのだが、選王侯は意に介さないらしい。
 つまるところ、彼は自らの足で市井を、民の暮らしを見て回っているということなのだろう。そこで得た洞察が、政治にも生かされているのだろうか。
 貧民の困窮を救うのは政治の領分だという、師ケイラーの言葉がよみがえった。

 ミィラスは、この選王侯と西翼議会による街の統治に思いをはせた。同時に王都や、かつての生家を思う。
 ヴァスディ王の膝元である王都はむろん、栄えてはいるけれども、その繁栄の影には、貧民のように救われない者たちがいることも確かだった。そういった者たちの魂の救済を担ってきたのが、聖ドリード教団であり、ミィラスたちの領分といえた。

 ヴァインの街と、王都の違いは、街や人の空気感にもにじみ出ている。
 選王侯は敬虔なドリード信徒でなくてはならぬ。五代前のノアル王がそう定めた。しかし、為政者の資質に、信仰心は必要なのだろうか?

 ミィラスは、自身にこのような疑問が湧いたことに驚いた。
 言うまでもなく、信仰心は必要に決まっている。ドリード神の教えは、人間にもたらされた祝福であると同時に、教えそのものは現実的な倫理や道徳である。

 使用されていなかった祭壇、放置されていた聖典。ミィラスは己の役目をあらためて噛みしめた。

「そういえば、訪問の理由をまだ尋ねていなかったね」

 選王侯の言葉に、ミィラスはすっと顔を上げる。よもや内偵に来たなどとは口が裂けても言えないが、すでに来訪の口実は考えてあった。

「ヴァスディ王の即位から、じきに二十年となります。さらに国号を『香国』と改めてから百年にもなります。王都では盛大な式典が催されるでしょう。閣下はもちろん、夫人も式典に参列されるとか」
「ああ、そうだ」

 選王侯は頷く。
 ミィラスは続けた。

「聞くところによると、夫人は我らがドリード神の〝祝福〟の儀式を受けていらっしゃらないと」
「〝祝福〟?」

 夫人が首をかしげる。すると選王侯はやや渋面になり、「妻は」と言った。

「辺境の生まれでね。ドリード神の教えに触れる機会が少なかったのだ」

「そうでしたか」とミィラスは選王侯の顔色を観察しながら言った。

「しかし、他の選王侯、その夫人らが〝祝福〟の儀式を受けているなか――」
「うむ、君の言いたいことは分かる」

 選王侯はミィラスの言葉を途中で引き取った。

「〝祝福〟を受けていない者が式典に参列することに、異を唱える者がおるのだろう。改号百年は、政治と信仰の繊細な問題をはらんでいる。それに私とてドリード神の教えに従う者。妻に〝祝福〟の儀式を受ける機会を与えなかったことは、私の怠慢といえる。反省しよう」

 選王侯は論理的に的確だった。実際に〝祝福〟はかなり重視されているし、カザが言っていたように夫人の評判が芳しくないとすれば、なおさら受けた方が良い。

「閣下が敬虔な信徒であらせられることは、私も、大聖堂のエヌス司祭長も存じております。ゆえに、式典でつまらぬ波風が立つ前に、私が遣わされたのです」

 選王侯は軽く眉をあげた。

「では、君が妻に〝祝福〟の儀式を?」
「はい」

 ミィラスは緊張していたが、瞳はいささかも揺らぎはしなかった。

「ねえ、あなた」

 夫人が口を開く。

「わたくし、ドリード神の教えをきちんと学んでみたいと思いますの。仮にも領主の妻ともあろう者が、神の教えに疎いようでは、民に示しがつきませんでしょう」

 夫人は美しい顔に微笑みを浮かべて、夫に言った。

「せっかく聖典楽師様がいらしたのだもの。儀式も大事だと思いますけれど、わたくしは教義というものについて、教えを乞いたいと思いますわ」

 司祭長によれば、夫人は異教の神を信奉しているという。しかし、彼女の態度を見ていると、その噂はどうやら真実ではないようにも思える。少なくとも彼女にはドリード神の教えを学ぶ意欲がある、と言っている。また城内において、異教の神を祀る祭壇や祭具の類いが存在する様子もなかった。

 ミィラスは選王侯を見つめた。

「恐れながら申し上げますと、奥様がドリード神の教えを深く理解されることにより、避けられる問題もあろうかと思います。私は一介の聖典楽師ですから、政治や社交のことは分かりませんが……」

 ミィラスの言葉に、選王侯は低くうなった。ミィラスが言外に匂わせた、政治や社交の場において、ドリード神の教えは必須の教養であるという、地位ある者たちにとっての常識を、選王侯が認識していないわけがなかった。

「分かった」

 選王侯は言った。

「妻に、ドリード神の教えを教授する、つまりそういうことであろう」
「おっしゃる通りです」

 ミィラスは頷いて、孔雀色の瞳で選王侯を見た。選王侯はじっと見定めるように若き聖典楽師を見つめている。二人の視線が交錯した。
 やがて、選王侯が納得したようにふうと息を吐いた。

「君の言うことは正しい。ならば、私に異存はない」

 そうと決まったところで、選王侯はさっそく、明日から授業を頼むと言ってきた。城の中の一室を、教室として使って良いと。
 選王侯は親切心から、城内に滞在するための部屋も用意しようと言ってくれたが、ミィラスはそれを辞退した。選王侯にとって、妻が若い男と長時間一緒に過ごすことは好ましくないはずだ。たとえそれが授業で、相手が禁欲的な聖典楽師であったとしてもだ。それに、もっと街を見て回る時間も欲しかったため、ミィラスは、その日の授業を終えたら城外に出ると決め、そのように告げた。

「ならば、宿を手配しよう。良い宿がある。そこならゆっくりくつろげるはずだ」
「お心遣い、感謝いたします」

 礼儀正しく頭を下げるミィラスを、夫人の静かな双眸がじっと見つめていた。
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