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四章 西翼の鴉
15話
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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《アシェラ》
ベトラ・スーム選王候の妻で、美貌の女性
《ベトラ・スーム選王候》
カミル香国の西側領土の統治者
《マクール》
西翼議会の議員を務める青年で、パルラの兄
中には何も入っていないように見えた。しかしそうではなかった。
小さな光の粒。はじめミィラスは黄金が日光を反射したものと思ったが、違った。それは恒星の明かりにも似た、光そのものだった。
昼の明るさに紛れ、その光は今にも消えそうだった。ミィラスは反射的に指を伸ばす。すると、光はすうっと彼の胸に吸い込まれてしまった。
次の瞬間、ミィラスの頭の中に流星がひとつ、落ちてきた。それは〝力ある言葉〟にあるスルフ《守護》を意味する単語だった。
「!」
彼は驚いてロケットを凝視する。よく見れば、摩耗した表面に聖ドリード教団の紋章らしきものが刻印されているのが分かった。
これは魔除けの護符だろうか。少なくとも〝力ある言葉〟が封じ込められた特別な容器だったのだ。初めて見る代物だ。
紋章があるということは、いつかの時代に、能力ある聖典楽師が作ったものに違いない。なぜこのような品が川底に沈んでいたのだろう。ミィラスはロケットを開け閉めしたり、ひっくり返してみたり、ためつすがめつしたが、もとの持ち主の痕跡らしきものは見当たらなかった。
だが、ミィラスはたったひとつ――たったひとつだけ、スルフ《守護》という言葉を取り戻したことで、鉛のようだった心がほんの少し軽くなるのを感じた。懐かしい友に再会したような、そんな心地である。そして、〝力ある言葉〟を失うという窮地にあって、なぜか一つだけ戻ってきたという、にわかに訪れた珍奇な出来事に、救いを感じたのも事実であった。
ミィラスは空になったロケットを懐に入れ、来た道を戻る。その足取りは先ほどよりも確かで、しっかりと大地を踏みしめていた。
*
翌日の朝。ミィラスの部屋に一通の招待状が届けられた。差出人はベトラ・スーム選王侯である。
硬質な筆致は侯のものであろう。そこには、本日議会の要人や街の名士を招いて宴を催すゆえ、貴殿にもぜひご臨席賜りたい、という旨が記されていた。
ミィラスはその内容に顔を曇らせた。宴に出るということは、アシェラとも顔を合わせるということだ。
夢であれ、現実であれ、恐ろしいことには変わりない。
もし選王候が、妻が別の男の部屋に忍んでいったなどと知ったら。
あるいはただの夢だったとしても、ミィラスの罪悪感には変わりなく、現実として能力の一切が消え失せていることは事実である。
あれが夢か現実かを確認するのは困難だ。できたとして、問うこと自体が到底許されぬ行いだろう。
だが欠席することもできまい。
行くからには、法衣を着る必要がある。それが聖典楽師の礼装であるからだ。
ミィラスは衣桁にかけた法衣の前に立つ。
聖典楽師のために特別にあつらえられたものだ。決して華美ではないが、生地は上等で、いかなるときも清らかな風格を醸し出すように作られている。また身体に合わせて正確な採寸がされていることはもとより、長く使用に耐えるように、細かな調整もなされているという。聖典楽師たちの法衣はどれも同じようでいて、ひとつとして同じものはないのだ。清貧に暮らす彼らの、唯一の贅沢品と言えるだろう。
ミィラスは法衣を衣桁から外し、袖を通した。この衣を身にまとってよいものか、ためらいはしたが、今の自分にはやはり必要なものであった。ミィラスの背筋がぴしりと伸びる。
彼は深呼吸し、ともすれば弱音を吐こうとする心を叱咤して、部屋の外に出た。
城の中に入ったミィラスは、ぶるりと身震いした。今日はいつになく冷えている。回廊を歩くだけで、足下から寒気がのぼってきた。
礼拝室の前を通ったとき、冷気は一段と重くなった。ミィラスは足を止め、部屋の中をのぞき込む。
そういえば、ここの地下は氷室になっているという。冷気が漏れているのかもしれない。そう思って室内を見渡すと、床扉らしきものを見つけた。
その扉はかすかに開いていた。ミィラスは近くに寄り、取っ手を掴んで引き上げる。
扉が完全に開くのと同時に、冷気が立ちのぼった。ミィラスは手を伸ばしてその空気に触れ、首をかしげた。通常、暖かい空気は上昇し、冷たい空気は沈下する。下方に滞留するはずの冷気が昇ってくるというのは妙な話だ。それとも、地下の空間に収まりきらないほど、冷気が充満しているのだろうか。
扉から伸びる階段は、闇の向こうに続いている。ミィラスは近くの燭台に火を灯し、闇に向かって掲げた。その拍子に、懐から黄金のロケットがこぼれ落ちる。
「あっ」
とっさに伸ばした手をすり抜け、ロケットは階段を転がり落ちていく。
カン、カン、カン――と石段にぶつかりながら落ちていったロケットは、やがて最下層に辿り着いたのだろう。カシャン、と最後に聞こえた音は、随分遠かった。
拾いに行かねば。腰を浮かせたミィラスは、耳に奇妙な音を拾う。
カシャリ
かすかな金属音だった。ロケットがたてた音に間違いない。だが問題は、それが〝何者かがロケットを拾い上げた〟音に聞こえたということだ。
ミィラスは闇を凝視した。燭台のほのかな明かりでは、遠くまで照らすことはできない。
「誰かいるのですか?」
ミィラスの声が、階段に反響した。
返答はない。
彼は意を決し、階段に足を降ろした。燭台を掲げながら、冷たい闇の中へ降りていく。
階段を降りるにつれ、ミィラスの吐く息は白くなる。かなり下まで降りたはずだと思ったところで、段差が無くなった。
辿り着いた空間は、使用人が言っていた氷室であろう。予想していたよりも狭い。まるで玄室のようだとミィラスは思った。ここには、どことなく墳墓のような雰囲気が漂っている。
誰もいない。誰も、いない。
ミィラスは燭台で闇を払いながら、氷室の奥に進んだ。途中、床の上にロケットの輝きを見つけて拾い上げる。
最奥の壁は一部が崩れていた。その向こうにさらに空間があるらしい。ミィラスは、その先に何があるのか気になったが、はやくも寒さが限界に達した。
急いで階段を上がり地上に戻る。そして城の者に気づかれる前に、床扉を閉めた。
早足で回廊を歩く。宴の会場である広間が近づくにつれ、ざわざわとした人々の声が聞こえてきた。招待客はすでに集まっているらしい。
ミィラスが入場すると、あまたの視線が彼に向かって投げかけられた。彼らは談笑を一旦やめ、興味津々に、あるいは怪訝な表情で、若い聖典楽師を見た。
「よく来てくれた」
ベトラ・スーム選王侯が出迎える。ミィラスは「お招きいただき、ありがとうございます。閣下」と会釈した。
「皆に紹介しよう。来たまえ」
選王侯はミィラスを連れ、西翼議会の議員や有力商人たちに引き合わせた。選王侯がじきじきに紹介するとあって、彼らは慌てて姿勢を正し、ミィラスと向き合う。
宴というものになじみがないミィラスだったが、招待客たちと言葉を交わすうちに、なんとなく雰囲気を掴みはじめた。
まず、決められた席次というものがない。広間に等間隔で配置された卓の間を自由に行き来するというのがこの宴の流儀らしい。堅苦しい会食と違って、だいぶくだけた印象だ。卓には様々な料理や飲み物が用意され、自由に取って食べて良いらしい。特に商人たちはめいめい食事をとりながら、取引先や議員たちの間を歩き回って、これ幸いと商談に臨んでいるようだ。
料理は実に美味そうだった。しかしミィラスは、次から次に人を紹介されるものだから、それらに手を伸ばす余裕などなかった。
最後に紹介されたのは、ミィラスとそう歳も違わない、若い議員だった。
「マクールと申します」
そう名乗る彼は、短く刈った黒髪に、がっしりとはいかないまでも良い体格をした若者だった。
ミィラスと握手を交わしたマクールは、「実は私の妹が、聖ドリード教団の踊り子をしているのです」と言った。
「パルラという娘です。ご存知ありませんか」
その名を聞き、ミィラスは目を見開きながら彼を見た。日焼けした肌、艶のある黒髪、輝く瞳。たしかに、目の前の男はパルラによく似ていた。
「領主夫人、ご入場!」
その声とともに、広間中の視線が入り口のほうへ向いた。
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《アシェラ》
ベトラ・スーム選王候の妻で、美貌の女性
《ベトラ・スーム選王候》
カミル香国の西側領土の統治者
《マクール》
西翼議会の議員を務める青年で、パルラの兄
中には何も入っていないように見えた。しかしそうではなかった。
小さな光の粒。はじめミィラスは黄金が日光を反射したものと思ったが、違った。それは恒星の明かりにも似た、光そのものだった。
昼の明るさに紛れ、その光は今にも消えそうだった。ミィラスは反射的に指を伸ばす。すると、光はすうっと彼の胸に吸い込まれてしまった。
次の瞬間、ミィラスの頭の中に流星がひとつ、落ちてきた。それは〝力ある言葉〟にあるスルフ《守護》を意味する単語だった。
「!」
彼は驚いてロケットを凝視する。よく見れば、摩耗した表面に聖ドリード教団の紋章らしきものが刻印されているのが分かった。
これは魔除けの護符だろうか。少なくとも〝力ある言葉〟が封じ込められた特別な容器だったのだ。初めて見る代物だ。
紋章があるということは、いつかの時代に、能力ある聖典楽師が作ったものに違いない。なぜこのような品が川底に沈んでいたのだろう。ミィラスはロケットを開け閉めしたり、ひっくり返してみたり、ためつすがめつしたが、もとの持ち主の痕跡らしきものは見当たらなかった。
だが、ミィラスはたったひとつ――たったひとつだけ、スルフ《守護》という言葉を取り戻したことで、鉛のようだった心がほんの少し軽くなるのを感じた。懐かしい友に再会したような、そんな心地である。そして、〝力ある言葉〟を失うという窮地にあって、なぜか一つだけ戻ってきたという、にわかに訪れた珍奇な出来事に、救いを感じたのも事実であった。
ミィラスは空になったロケットを懐に入れ、来た道を戻る。その足取りは先ほどよりも確かで、しっかりと大地を踏みしめていた。
*
翌日の朝。ミィラスの部屋に一通の招待状が届けられた。差出人はベトラ・スーム選王侯である。
硬質な筆致は侯のものであろう。そこには、本日議会の要人や街の名士を招いて宴を催すゆえ、貴殿にもぜひご臨席賜りたい、という旨が記されていた。
ミィラスはその内容に顔を曇らせた。宴に出るということは、アシェラとも顔を合わせるということだ。
夢であれ、現実であれ、恐ろしいことには変わりない。
もし選王候が、妻が別の男の部屋に忍んでいったなどと知ったら。
あるいはただの夢だったとしても、ミィラスの罪悪感には変わりなく、現実として能力の一切が消え失せていることは事実である。
あれが夢か現実かを確認するのは困難だ。できたとして、問うこと自体が到底許されぬ行いだろう。
だが欠席することもできまい。
行くからには、法衣を着る必要がある。それが聖典楽師の礼装であるからだ。
ミィラスは衣桁にかけた法衣の前に立つ。
聖典楽師のために特別にあつらえられたものだ。決して華美ではないが、生地は上等で、いかなるときも清らかな風格を醸し出すように作られている。また身体に合わせて正確な採寸がされていることはもとより、長く使用に耐えるように、細かな調整もなされているという。聖典楽師たちの法衣はどれも同じようでいて、ひとつとして同じものはないのだ。清貧に暮らす彼らの、唯一の贅沢品と言えるだろう。
ミィラスは法衣を衣桁から外し、袖を通した。この衣を身にまとってよいものか、ためらいはしたが、今の自分にはやはり必要なものであった。ミィラスの背筋がぴしりと伸びる。
彼は深呼吸し、ともすれば弱音を吐こうとする心を叱咤して、部屋の外に出た。
城の中に入ったミィラスは、ぶるりと身震いした。今日はいつになく冷えている。回廊を歩くだけで、足下から寒気がのぼってきた。
礼拝室の前を通ったとき、冷気は一段と重くなった。ミィラスは足を止め、部屋の中をのぞき込む。
そういえば、ここの地下は氷室になっているという。冷気が漏れているのかもしれない。そう思って室内を見渡すと、床扉らしきものを見つけた。
その扉はかすかに開いていた。ミィラスは近くに寄り、取っ手を掴んで引き上げる。
扉が完全に開くのと同時に、冷気が立ちのぼった。ミィラスは手を伸ばしてその空気に触れ、首をかしげた。通常、暖かい空気は上昇し、冷たい空気は沈下する。下方に滞留するはずの冷気が昇ってくるというのは妙な話だ。それとも、地下の空間に収まりきらないほど、冷気が充満しているのだろうか。
扉から伸びる階段は、闇の向こうに続いている。ミィラスは近くの燭台に火を灯し、闇に向かって掲げた。その拍子に、懐から黄金のロケットがこぼれ落ちる。
「あっ」
とっさに伸ばした手をすり抜け、ロケットは階段を転がり落ちていく。
カン、カン、カン――と石段にぶつかりながら落ちていったロケットは、やがて最下層に辿り着いたのだろう。カシャン、と最後に聞こえた音は、随分遠かった。
拾いに行かねば。腰を浮かせたミィラスは、耳に奇妙な音を拾う。
カシャリ
かすかな金属音だった。ロケットがたてた音に間違いない。だが問題は、それが〝何者かがロケットを拾い上げた〟音に聞こえたということだ。
ミィラスは闇を凝視した。燭台のほのかな明かりでは、遠くまで照らすことはできない。
「誰かいるのですか?」
ミィラスの声が、階段に反響した。
返答はない。
彼は意を決し、階段に足を降ろした。燭台を掲げながら、冷たい闇の中へ降りていく。
階段を降りるにつれ、ミィラスの吐く息は白くなる。かなり下まで降りたはずだと思ったところで、段差が無くなった。
辿り着いた空間は、使用人が言っていた氷室であろう。予想していたよりも狭い。まるで玄室のようだとミィラスは思った。ここには、どことなく墳墓のような雰囲気が漂っている。
誰もいない。誰も、いない。
ミィラスは燭台で闇を払いながら、氷室の奥に進んだ。途中、床の上にロケットの輝きを見つけて拾い上げる。
最奥の壁は一部が崩れていた。その向こうにさらに空間があるらしい。ミィラスは、その先に何があるのか気になったが、はやくも寒さが限界に達した。
急いで階段を上がり地上に戻る。そして城の者に気づかれる前に、床扉を閉めた。
早足で回廊を歩く。宴の会場である広間が近づくにつれ、ざわざわとした人々の声が聞こえてきた。招待客はすでに集まっているらしい。
ミィラスが入場すると、あまたの視線が彼に向かって投げかけられた。彼らは談笑を一旦やめ、興味津々に、あるいは怪訝な表情で、若い聖典楽師を見た。
「よく来てくれた」
ベトラ・スーム選王侯が出迎える。ミィラスは「お招きいただき、ありがとうございます。閣下」と会釈した。
「皆に紹介しよう。来たまえ」
選王侯はミィラスを連れ、西翼議会の議員や有力商人たちに引き合わせた。選王侯がじきじきに紹介するとあって、彼らは慌てて姿勢を正し、ミィラスと向き合う。
宴というものになじみがないミィラスだったが、招待客たちと言葉を交わすうちに、なんとなく雰囲気を掴みはじめた。
まず、決められた席次というものがない。広間に等間隔で配置された卓の間を自由に行き来するというのがこの宴の流儀らしい。堅苦しい会食と違って、だいぶくだけた印象だ。卓には様々な料理や飲み物が用意され、自由に取って食べて良いらしい。特に商人たちはめいめい食事をとりながら、取引先や議員たちの間を歩き回って、これ幸いと商談に臨んでいるようだ。
料理は実に美味そうだった。しかしミィラスは、次から次に人を紹介されるものだから、それらに手を伸ばす余裕などなかった。
最後に紹介されたのは、ミィラスとそう歳も違わない、若い議員だった。
「マクールと申します」
そう名乗る彼は、短く刈った黒髪に、がっしりとはいかないまでも良い体格をした若者だった。
ミィラスと握手を交わしたマクールは、「実は私の妹が、聖ドリード教団の踊り子をしているのです」と言った。
「パルラという娘です。ご存知ありませんか」
その名を聞き、ミィラスは目を見開きながら彼を見た。日焼けした肌、艶のある黒髪、輝く瞳。たしかに、目の前の男はパルラによく似ていた。
「領主夫人、ご入場!」
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