西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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四章 西翼の鴉

16話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《アシェラ》
ベトラ・スーム選王候の妻で、美貌の女性
《ベトラ・スーム選王候》
カミル香国の西側領土の統治者
《マクール》
西翼議会の議員を務める青年で、パルラの兄




 その声とともに、広間中の視線が入り口のほうへ向いた。ミィラスも例外ではなかった。彼は背筋に冷たいものが走ったように緊張して、彼女の登場を待った。

 最初に見えたのは、青絹布の美しいひだであった。入り口のアーチの影から滑り出るように、まずドレスの裾が見え、次に宝石のちりばめられたベルトが見え、真っ白な首元、最後に顔が現れる。

 招待客はみな一様にほうとため息をついた。中には魂を抜き取られたように呆けている者もいる。無理もない。礼装で着飾ったアシェラの美しさは、普段の何倍にも増幅し、もはや圧力といっても良いほど、空気を伝わって広間中を支配していた。
 だが同時に、険しい表情で目を背けている客も数名いた。

 彼女の蒼玉の瞳が、ぐるりと広間を見渡し、ミィラスを見つける。ミィラスとアシェラ、ふたりの視線が一瞬、絡み合った。くらりとしためまいを感じたミィラスはしかし踏みとどまり、会釈をして視線をそっと下げる。彼の顔は青ざめていたが、それ以外はいたって平静――少なくとも外見上は――だった。

「そういえば、王都にある大聖堂での暮らしについて、常々伺いたいと思っていたのです」

 マクールは変わらぬ態度で話しかけてくる。ミィラスはあいまいに笑った。自分は今、冷静なのだろうか。否、天敵に見つかった小動物のように、身動きができないだけだ。どうかこのまま過ぎ去れば良いが。

 その後、宴はにぎやかに進行していった。あちらこちらのテーブルで、議員たちが西翼領の運営について議論を交わし、商人たちは互いに仕事の話をしながら、横目でちらちらと議員たちの動向をうかがっていた。

「教団での、パルラの様子はどうでしょうか。昔からお転婆な娘なので、規律が厳しいという環境でどのように過ごしているのか気になっていたのです」

 マクールがそのように尋ねる。ミィラスは、パルラはおおむね元気に日々の勤めを果たしているようだと言い、ついでに町で彼女が男に絡まれていたときのことを話した。

「その者は、どんな男でしたか」

 眉を寄せたマクールの問いに、ミィラスは覚えている限りの相手の特徴を話す。すると、彼は思い当たるものがあるようで、「奴め」と言った。

「まったくしつこい、嫌な男だ。こちらから願い下げた結婚話をまだ蒸し返すとは」

 マクールは鼻筋にしわを寄せた。

「奴が王都にいたということは、商談か何かのために赴いていたのでしょうが。それにしても二年前、私にもっと力があれば、奴が妹に近づく余地などなかったものを」

 マクールが議員になったのは、昨年のことだという。
 彼はため息をつきながら言った。

「二年前に、父が急逝したのです。父は役人で、それなりの財産を残してくれました。そして降って湧いた財というものは、悪意を引き寄せがちだということを、そのときに学びました」

 詐欺まがいの商談を持ちかける者から、縁談話を持ってくる者まで、近づいてくる者は多岐にわたった。
 町でミィラスが出会った男も、そういった手合いのひとりだという。

「当時の私も小役人でしたが、ただ無力な人間です。妹を守るためには、金や人脈が必要でした。父の遺したそれらが最初は助けてくれましたが、いずれ底を突くのは目に見えていた」

 そんなとき、パルラが言ったという。

『私、兄さんのお荷物になりたくないの。兄さんに守ってもらわなくても、自分の身は自分でなんとかするわ。だから兄さんは、残った父さんの財産を自分のために使って』

「パルラは自ら聖ドリード教団に向かい、踊り子になった。そして私は一念発起し、政界を志すことにしました」

 父の元同僚のつてで、議会堂での職を得た。そこで働きながら政治について学んだ。それだけではない。議員として必要な教養を得るために、私塾にも通ったのだ。

「休日には町角に立って、多くの論客たちと議論をしました。はじめは彼らが何を言っているのかすら理解できなかった私も、次第に議論についていけるようになりました」

 ある日、マクールたちのもとに、ひとりの男がやってきた。議会堂で働いていた彼には、それが選王侯であることが分かった。彼は供をつけずにぶらぶらと街なかを歩いており、たまたま論客たちの集まりに目を留めたのだ。
 選王侯は彼らに議論を持ちかけた。すると、論客たちの様子が変わった。
 マクールの他にも、相手が選王侯であることに気づいた者がいた。彼らは西翼議会の統治がいかに優れているかを論じた。
 マクールは戸惑った。いつも街の政治について、真剣に議論を交わしていた彼らが、今はただおべっかを言うだけの太鼓持ちになっている。選王侯が求めているのは、市民としての率直な意見ではないのか?

 マクールは意を決した。

『最近、市場で塩の取引価格が高騰しています。安定的な供給があり、需要が増大したわけでもないのに、妙だと思います。塩は必需品なだけに、家計に響いています』

 選王侯の目が、じっとマクールを見た。

『原因はなんだと思うかね?』

 マクールは選王侯をまっすぐに見つめ返し、「塩の品質の低下です」と言った。

「このところ、塩に砂やゴミなどの異物が混じるようになったと市場で耳にします。市民は、より高品質な塩、たとえば朱瑠アケルから輸入した湖塩を求めるようになりました。するとその需要に目をつけた商人が、朱瑠アケル産の塩を買い占め、高値で売りはじめた」

 選王侯は「ふむ」と言った。

 マクールは続ける。

「塩鉱山への予算を削減されたのではないですか? 時折見かける岩塩坑の労働者が、近頃忙しくて働きにくいとぼやいていました。労働環境の変化で、塩の品質が落ちた。私はそう考えます」

 すると、選王侯は微笑みながらマクールに言った。

「なるほど、労働者がそのように言っていたのか。たしかに、塩に混じる異物を除くために人手がかかり、経費が増え、それが価格に影響を与えている。目の付け所は良いと言えるだろう。だが君の推察は一部間違っている。塩鉱山への予算は例年通りだ。労働者の数も最適になっている。岩塩坑での働き手が足りないという話は耳にしたかね?」

「いいえ……」

 マクールはたじろいだ。反論を受けてどうすればいいか分からなくなった。そんな彼に、選王侯はまっすぐな視線を向ける。

「君は、岩塩がいかにして生産されるか知っているかね? 採掘されたばかりの岩塩の色は?」
「塩は……白色ではないのですか?」

 選王侯は首を振る。

「西翼領で採れる岩塩は、薄い赤、桃色をしているのだよ。塩に含まれる不純物のなせるわざだ。だが、掘り出したままの塩は食用には適さない。ゆえに、採掘した岩塩を水に溶かし、釜で煮詰めている。この工程を踏むことで、やっと市場に出回る白い塩になるのだ。君の論理は、まだもう少し詰められるようだ」

 マクールは恥じ入った。日々政治について学び、論客たちと交流することで、自分は何でも知っている気になっていた。そして、自分は太鼓持ちではない、しっかりした意見とそれを述べる度胸の持ち主であると示したかった。彼は己の、身の程をわきまえない虚栄心に気がついたのだった。
 選王侯は失望したにちがいないと思うと、マクールの心はしぼんでいく。
 だが、選王侯は言った。

「塩の品質低下については、私も懸念していたのだよ。……そうだ、これから塩鉱山に行ってみよう。せっかくだ、君も来なさい」

 その言葉に、マクールは驚いた。この身に余る、だが、またとない機会だった。
 彼は選王侯とともに塩鉱山の視察に赴き、塩の品質低下の原因が、鉱山設備の老朽化にあることを発見したのだった。故障したまま設備を使っており、労働環境の悪化と品質の低下を招いていたのだ。

 マクールの話を聞いたミィラスは、つい苦笑を浮かべた。目の前の彼も、選王候の議論にしてやられたと知って、親近感が湧いた。

「選王侯はとても活動的で、親しみやすい方ですね」
「ええ、本当に」

 マクールもかすかに微笑んだ。

「しかし、このことがきっかけで私は見いだされ、議会の末席に加わったのです。侯がもし、執務室で机に向かっているばかりの御方であったなら、私は今もくすぶっていたでしょう」

 これは岩塩坑に行った時のものです、とマクールは懐から何かを取り出した。
 一欠片の岩塩である。

「議員となっても、私にはまだまだ学ぶべきことが多い。鉱山で拾ったこの岩塩は、自戒の証なのです。傲り高ぶることがないようにと」

 マクールは照れくさそうに言って、岩塩を懐にしまう。

「聖ドリード教団では、謙虚と節制の精神を培うと聞きます。私の話を聞いて、さぞや呆れたことでしょう」

 ミィラスは首を振った。

「マクール殿のそれは、見栄や虚勢というよりは、向上心ゆえの行動だったのではないですか。私にはそのように聞こえました」

 それを聞いたマクールは、「ああ」と感じ入るように胸に手を当てる。

「それは、私にとっては救いです。なにせ妹を余所にやってまで、己の夢を追いかけたことに、負い目があったので。あなたの口から、妹の息災と、私への肯定を言っていただけたのは、とても嬉しい」

 会話をしながらミィラスは、このマクールという青年が、妹の様子を訊く目的だけでなく、宴の場に慣れない自分を気遣って側にいてくれているのだということに気がついた。

 議会と大聖堂は、普段はあまり関わりを持たないが、互いに影響し合っていることは事実である。だが、エヌス司祭長は別としても、一介の聖典楽師が政治や社交の場に引っ張り出されることは滅多にない。ゆえに、招待客たちはミィラスを扱いかね、簡単な挨拶が済めば遠巻きに眺めているだけであった。ミィラスとしては一向に構わないのだが、マクールは配慮してくれているのだ。
 野暮かとは思いつつ彼に感謝を述べると、マクールはにこやかに答える。

「ミィラス殿を見ていると、昔の自分のことがなんとなく思い出されました。その若さで聖典楽師なのですから、並の努力ではなかったと思います。今まで沢山苦労なされたのでしょう」
「苦労というほどのものでは……」

 ミィラスは苦笑して視線をやや下げる。年が近いとはいえ、このように気楽に労われるというのは、もしかしたら久々かもしれない。このあっけらかんとした様子は、さすがあのパルラの兄というべきか。

 そこへ、アシェラがやってきた。

「マクールさん、ミィラス先生、ご機嫌いかが」
「こんにちは奥様」

 マクールが会釈をする。彼はアシェらに対し気負う様子はなかった。
 ミィラスは、冷たい汗が背中を這うのを感じながら、アシェラに対して会釈を返した。

「昨日、授業を休講になさったでしょう。もしかしたら体調でも崩されたのではないかと思いましたわ」

 アシェラが心配そうに見上げてくるので、ミィラスは「恐れ入ります」と微笑んだ。

「体調を崩したわけではないのです。アシェラさんこそ、夜更かしをされたそうですね。お疲れではありませんか?」
「きちんと休みましたので、もうすっかり平気ですわ。聖典を読んでいたらつい夢中になってしまって」

 ミィラスは顔に微笑みを保ちながら、ふと疑問に思ってアシェラに問うた。

「聖典の、どの部分を読んだのですか?」
「最初から、最後まで」

 そう答えるアシェラの微笑みは謎めいていた。その表情からなにか読み取れるものはないかと、ミィラスは目をこらしたが、得られるものは無かった。むしろ、見つめれば見つめるだけ、アシェラの美貌に取り込まれそうになるので、危険な綱渡りをしている気分である。

「全てを読んだのですか?」
「ええ」

 一晩で読破できるほど、聖典は易しくないはずだ。彼女が読む聖典は一般的なカミル語で記述されているものだが、それでも古い文法が用いられている。アシェラがいかに優秀であれど、学びたての知識では、全ての項目の理解はおろか、読解すら困難なはずだ。だが、彼女は自信に溢れていた。

 並の聖典楽師でさえ、聖典を一から読み込むには二日かかる。もっとも、彼らはそもそも読み込む必要はないので、仮に頁の文字を目で追ったとして、二日だ。

「今日、ミィラス先生に授業の成果をお見せできると思いますわ」

 アシェラの言葉に、ミィラスは頷くしかなかった。

「楽しみにしています」
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