西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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四章 西翼の鴉

17話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《アシェラ》
ベトラ・スーム選王候の妻で、美貌の女性
《ベトラ・スーム選王候》
カミル香国の西側領土の統治者
《マクール》
西翼議会の議員を務める青年で、パルラの兄




 宴も終わりにさしかかった頃、選王侯が声をあげた。

「名残惜しいが、閉会の時間が近づいてきた。皆、存分に楽しめただろうか」

 広間のあちらこちらで、選王侯への感謝の言葉があがる。
 選王侯はうなずくと、ミィラスを手で指し示した。

「今宵は、大聖堂より来訪した聖典楽師、ミィラス殿にも来てもらっている」

 急に名指しされたミィラスは、驚いて身を固くした。
 侯は言った。

「西翼領のさらなる発展を祈念して、ミィラス殿に〝祝福の詩〟を吟じてもらおうと思うのだが、どうだろうか」

 賛成、賛成、と声があがる。ミィラスは心臓を掴まれた心地になった。〝聖典の詩〟〝力ある言葉〟を失っている今の自分には、〝祝福の詩〟を吟ずることはできない。だが、それを打ち明けることなどできるはずもない。
 いったいどうすればいい。

「あなた」

 アシェラが、選王侯に言った。

「その役割、わたくしにやらせていただけませんこと?」

 選王侯は「どういうことだね」と妻に問うた。アシェラは微笑む。

「せっかくミィラス先生の授業を受けたのですもの。学びの成果を皆様に見ていただきたいのです」

 すると選王侯は大変気をよくした様子で、妻に向かって頷いた。

「良いだろう。ミィラス殿、伴奏を頼めるかな」

 ミィラスは竪琴を持つ手に力を込めながら、「はい、ですが……」と口ごもった。
 アシェラが〝祝福の詩〟を吟唱したとして、〝力ある言葉〟を知らぬ者にはその効力は発揮できない。
 だが今は、「領主夫人が神の教えをきちんと学んでいる姿勢を周囲に示す」ことを求められているのだ。効力云々でない。
 ミィラスとしても、この窮地を脱するには、場の成り行きに任せるしかない。
 そう思えばこそ、竪琴を構え、弦に指を置いた。

 竪琴の清らかな調べが流れる。短い前奏のあと、アシェラがすうっと息を吸い、唇を開いた。
 彼女が吟じ始めたのは、まぎれもない〝祝福の詩〟だった。しかもカミル語ではなく、〝力ある言葉〟による吟唱だった。ミィラスは驚きのあまり、演奏の手を止めそうになる。

 どういうことだ? いや、あるいは、まさか──

 彼女は〝力ある言葉〟を、完全にものにしているようだった。ありえない、とミィラスは呆然とした。
 彼は領主夫人をじっと注視した。すると、彼女の身体の内で、何かが光を放っていることに気がつく。それは彼にしか見えないものだった。
 星のような光。
 アシェラの〝力ある言葉〟の源が、その光であることに気がついたとき、恐ろしい可能性に思い至った。

 あの夢――

 夢の中でアシェラがミィラスの口から引きずり出し、飲み込んだもの――あれはまさしくあの光ではないか。あれこそがミィラスの中にあった〝力ある言葉〟そのもの。つまり、ミィラスが〝力ある言葉〟を失ったのは――

「あなたが、私から奪い取ったのですね」

 ミィラスの言葉は、掠れ震えていて、誰の耳にも届かなかった。
 アシェラの吟じる〝祝福の詩〟が、やがて変容しはじめた。その異変に気づいたのは、やはりミィラスしかいなかった。

 真実は偽りに、清きは汚れに、白は黒に、昼は夜に、生は死に……。

 その〝祝福の詩〟は、もはや形を変え、呪いの言葉と化していた。ミィラスはぞっとして竪琴から指を離し、演奏をやめる。しかし不可解なことに音は鳴り続けた。

「ぎ、吟唱をやめ――」

 ミィラスが絞り出した声は、途中でかき消える。彼の喉が縛り上げられたようになり、気道が塞がったのだ。ミィラスは床に倒れ込む。
 マクールが、ミィラスの様子がおかしいことに気がついた。

「ミィラス殿? どうしたのです? 大丈夫ですか?」

 呼吸を奪われたミィラスは、声を出すことが出来ず、ただ苦しげにマクールに目で訴えるほかなかった。しかし伝わらない。
 ミィラスは力を振り絞ってアシェラを指さした。マクールはじっとミィラスを見つめる。
 やがてマクールは、卓の上の盃を手に取った。そしてそれを――ためらうことなくアシェラに向かって投げつけた!
 議員たる彼が、領主夫人へ、明らかな害意を見せた。

 その場に緊張が走った。それは唐突な暴力への困惑や恐怖ではない。ミィラス以外の招待客たちはうろたえつつも、そのうちの一部は妙に冷めた目で、飛んでいく盃を追っていた。
 盃はまっすぐにアシェラに向かっていった。しかし、彼女に当たることはなかった。
 盃が燃え上がり、空中で消失したのである。
 だが、それで一度アシェラの吟唱が途絶えた。ミィラスの喉が解放され、彼は咳き込みながらひゅうひゅうと喉を鳴らして息を吸い込む。
 気がつけば、広間は尋常でない冷気に覆われていた。

「ミィラス殿、しっかりして」

 マクールがミィラスを助け起こす。
 そのとき、アシェラがけたたましい笑い声を上げた。

「あははははは!」

 普段の上品な彼女からは想像もつかない、不快な声だった。呆気にとられる招待客たちの前で、アシェラの足下から黒い瘴気がたちのぼる。
 瘴気は粘り気のある液体のように、膨張し、質量を持ち始めた。何かの形になろうと、不気味にうごめいている。
 ミィラスは鼻を覆った。とんでもない悪臭が漂ってきたのだ。まるで腐肉のような――

「ミィラス殿!」

 マクールの声に、ミィラスははっとした。招待客たちがアシェラから遠ざかろうと、走り出していた。みなが夫人の異常に気づいたのだ。広間は悲鳴と怒号に満たされ、人々が出口に殺到する。

「扉が開かない!」

 誰かが叫んだ。
 瘴気はやがて、巨大な生き物の姿になった。
 黒い鴉。
 ミィラスにはそのように見えた。黒い躰に翼が生えていたからだ。しかし、それに嘴はなく、代わりにのこぎりのような歯が並ぶ邪悪な口があり、粘液をしたたらせていた。さらには何本も突き出た骨のような突起、潰れたような目玉、ぶよぶよとした気味の悪いこぶを漆黒の羽毛が覆っている――

 吐き気を催すような、醜悪な姿の魔物が、そこにいた。
 魔物が口を上に向け、粘液をまき散らしながら咆哮する。その耐えがたい鳴き声に、ミィラスの脳は揺れ、視界がちかちかと明滅した。
 やがて魔物は身もだえしながら、黒い炎を放つ。周囲はまばゆい暗黒に包まれた。
 冷たい火柱がたちのぼり、渦を巻く。
 何も見えなくなる。
 悲鳴があがる。
  魔物のはばたきが巻き起こす砂塵が、皮膚に突き刺さった。
 地面が割れ、壁が崩れ、天井は吹き飛んだ。
 地獄の底から響くような、怨嗟の雄叫びが鼓膜を突く。

 ミィラスはとっさにスルフ《守護》の言葉を唱えた……。

 その日、白夜城は崩壊した。

 ミィラスは瓦礫のなかにいた。
 広間の崩落によって、ミィラスの法衣は破れ、右腕は折れていた。しかし、彼は立っていた。
 目の前には、魔物と、その側に佇むアシェラがいる。
 領主夫人は魔物の背にのぼり、ミィラスを一瞥した。その唇がゆっくりと弧を描く。
 彼女の凄絶な微笑みに、ミィラスは魅入られたように硬直した。そして、魔物が彼女を乗せて空に飛び去っていくのを、ただ見ていることしかできなかった。

 魔物が空の点になり、やがて見えなくなったとき、ミィラスはやっと周囲を見渡した。
 瓦礫。
 人々の亡骸。
 ミィラスは倒れているマクールの姿を見つけた。

「マクール……マクール殿」

 ミィラスは彼のそばに膝をつき、震える指で、その身体に触れた。
 彼は冷たく凍りつき、息絶えていた。
 彼はさっきまでミィラスの隣にいたのだ。あの一瞬で命が刈り取られたというのか。
 アシェラが立っていた場所の近くに、ベトラ・スーム選王侯が投げ出されている。彼の半身は、瓦礫の下敷きになっていた。
 侯は、かすかに息がある。
 ミィラスは駆け寄り、瓦礫をどかそうとした。しかし、折れた腕でなにができよう。

「ミィラス……」

 息も絶え絶えの選王侯の瞳からは、今にも光が失われようとしていた。

「アシェラは……?」

 その言葉に、ミィラスは顔を歪めた。答えることができなかった。

「どうか、死にゆく私のために、同胞のために、〝弔いの詩〟を……」

 ベトラ・スーム選王侯は、その言葉を言い残し絶命する。
 侯の最期の願いは、残酷にミィラスの胸を突き刺した。

 彼は天を仰ぐ。

 嗚呼、〝言葉〟さえあれば。

 なぜ今の私には、死者へ向ける弔いの祈りさえ許されていない。ドリード神よ、今も天から見ておられるなら、教えてください。なぜ我々にこのような試練をお与えになったのですか。それとも、これはあなたにとっても、予想外の出来事だったのですか。ならば、いまこそ神の奇跡をお示しになり、我々をお救いください。ここにいる、死んでしまった者たちの命を、此岸に戻してください。私はどうなってもかまいません。どうぞこの身を引き裂いてください。どうか、どうか。

 穴が空いた天井から、空が見えた。
 ミィラスは、空を流れる雲が静かに割れていき、そこから光の柱が降りてくるのを目にした。
 降り注ぐ光。
 ミィラスは立ち上がり、神の意志が行われるのを待った。
 しかし、雲はやがて閉じ、光は消えた。
 静寂。

 ミィラスはがくがくと震え、声を地面に向かってたたきつけた。

「なぜお救いくださらない! こんな不条理があってたまるものか! どうして彼らは、選王侯は、マクールは死んだ! あの魔物はなんなんだ!」

 ミィラスは倒れ伏すと、地面に額を打ちつけ、慟哭した。
 ただひとり、生き残ってしまった。
 取り戻した唯一の〝力ある言葉〟スルフ《守護》が、彼だけを魔物の黒き炎から守ったのである。
 しかし、それが何になろうか?
 鴉の魔物はアシェラが呼び出したのだろう。呪いの言葉に変えられた〝祝福の詩〟――あれがきっと召喚の呪文となっていたのだ。アシェラがミィラスの〝力ある言葉〟を奪ったのは、それを唱えるためだ。つまりこの惨劇は、ミィラスが引き起こしたといっても良かった。

「私が、彼らを殺したのだ」

 ミィラスはマクールのもとに戻った。彼の身体にまとわりついている霜を払い、凍った両手を重ね合わせて胸の上に置く。〝弔いの詩〟すら失っているミィラスには、これしかできなかった。
 マクールの襟元から、何かがのぞいていた。
 桃色をした岩塩の欠片。
 砕けて小さくなっている。
 ミィラスの懐から黄金のロケットがカシャンと落ち、蓋が開いた。
 岩塩とロケットを見比べる。
 ああなんと皮肉なことだ、ちょうど良い大きさではないか──
 彼は折れていない方の腕を伸ばして桃色の欠片を拾い上げると、ロケットの中に収めて蓋を閉じた。なぜそうしたのか分からない。だが、そうするのが当然のように思えたのだ。

 ミィラスは立ち上がる。街のほうから、誰か――大勢の人間が駆けつけてくる気配がする。突然の白夜城の崩壊に仰天した人々が、何事かとやってきたのだ。
 ミィラスはロケットを握りしめ、魔物が飛び去った方向を見つめた。

 追わねばならぬ。

 あの魔物は行く先々で不幸をまき散らすにちがいない。
 神に見放されようと、自分は行かねばならぬ。
 だが、すぐには行けない。ここにいる死者たちを放ってはおけない。

 ミィラスは、駆けつけてきた人々に声を掛けられるまで、じっと立ち尽くしていたのだった。
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