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五章 鴉を追って
19話
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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性
「石碑だわ」
行灯を掲げたパルラが言う。
二人は崩れた壁の残骸を踏み越えて、それに近づいた。
よく磨かれた玄武岩の柱だった。大きさは人の背丈ほど。ミィラスは石のつるりとした表面をつぶさに観察し、手で触れてみるなどした。
ミィラスの指先が、石碑の表面のわずかな凹凸をとらえた。線、溝――何かが彫られている。
どうやら何かを示す文様だったが、あまりにいびつな形をしていた。少なくともミィラスの知る意匠ではなかった。だが、彼はその溝を何度も指でなぞり、形状を覚える。もしかしたら、あの魔物を知る手がかりかもしれないからだ。
「それにしても、妙よね」
パルラが言う。
「こんなところに石碑なんて。壁で塞がれていたし、まるで閉じ込めているみたい」
その言葉に、ミィラスはまばたきした。
「……そうなのかもしれない」
彼は石碑にじっと視線を注ぎながら言った。
「この石碑に、あの魔物が封印されていたのかもしれない。そして、アシェラが封印を解いたんだ。これは紛れもなくそういう用途の墓だ」
「アシェラって誰?」
パルラが首をかしげた。アシェラがベトラ・スーム侯に嫁したのはつい最近なので、それより前に教団に入った彼女は知らないのだ。
「領主夫人だよ」
ミィラスが答えると、パルラは「分からないわね」と眉をひそめた。
「仮にここに魔物が封じられていたとして、その人がどうやって封印を解いたというの?」
「それは……」
ミィラスが口ごもると、パルラが疑うような目を彼に向ける。
「何か知っているの?」
問われ、ミィラスは答えに窮した。パルラの黒檀の瞳は、ごまかしや嘘を許さぬとばかりに彼を射貫いている。
黙り込んだミィラスに、パルラはため息をつく。
「いい?」と彼女は言う。
「私は魔物に兄を殺されているのよ。魔物がどうやってこの世に現れたか、知る権利があると思うの。そして、唯一生き残ったあなたは、魔物に怯える人のために、知っていることを開示すべきだわ」
ミィラスは喉の奥でうなった。パルラの言うことはもっともだった。
そしてさらに、マクールの死に顔を思い出した。一瞬だったけれども、彼はミィラスとともにアシェラに立ち向かってくれた。あのときマクールが盃を投げなければ、ミィラスは窒息死していたかもしれなかった。いわばこの命はマクールに拾われたも同然だ。
志ある青年だったマクール。道半ばで命を落とした彼の無念はいかばかりだろうか。妹にも会えずに。
彼のためならば、己の自尊心などいくらでも捨てよう。ミィラスは息を吸い、パルラに向き直った。
「実は――」
ミィラスは、己が持っていた能力の全てを、アシェラに奪われたことを話した。彼女が、〝力ある言葉〟を使って魔物を呼び出したこと、魔物の発した黒い炎を浴びた者は凍りついて死んだことも。
「なんですって」
パルラは目を剥いた。
「〝力ある言葉〟を奪い取るって、そんなことができるの?」
「分からない」
ミィラスは力なく首を振る。
「けれども、私の中にあった〝聖典の詩〟〝力ある言葉〟はたしかに失われている……」
ミィラスは、アシェラが現れた夜のことを思い出して、ぞっとした。しかし同時に、あのときの甘い官能がよみがえり、彼の脳をしびれさせる。それはもはや呪いのようなものだった。ミィラスはぎゅっと目をつぶってやりすごす。
そんな彼を見て、パルラは目を細めた。
「領主夫人はよほどの美人だったのかしら」
女の勘ほど怖いものはない。ミィラスは素直に、「美しい人ではあった」と認めた。
「ふうん」
パルラはそれ以上は何も言わない。それがありがたくもあり、情けなくもあった。ミィラスは悄然としながら「上に戻ろう」と言った。
次の日の朝、宿をひきはらおうとしたミィラスに、従業員がおずおずと近づいてきた。
「お客様、ご宿泊の料金についてなのですが」
ミィラスの宿泊費用は選王侯が支出していた。彼が亡き今、宿は請求先に困っているのだろう。てっきりミィラスはそう考えたが、従業員は首を振った。
「選王侯閣下は、宿泊費を前払いされました。きっかりひと月分です。お客様は今日で二十日間、お泊まりになりましたので……」
つまり、残り十日分の宿泊代をどうすればよいかという相談であった。選王侯に返金する手続きもできず、遺族であるはずの領主夫人は行方不明である。
ミィラスが「施療院と救民院に寄付をしてください」と言いかけたところで、背後から声がした。
「そんなの、もらっちゃえばいいのよ」
振り返ると、パルラであった。彼女はミィラスが口を開く前に、言葉を続ける。
「今日、あなたがこの街を出て行くんじゃないかって思ったから、来てみたけど、やっぱりね」
パルラはミィラスをじっと見つめると、すうっと息を吸った。
「魔物を追いかけるのでしょ。私も行く」
「なんだって?」
ミィラスは眉を上げた。魔物を追って旅立つ――たしかにパルラの言う通りであったが、彼はひとりで行くつもりだった。
「あなたひとりじゃ無理だっていうことよ」
パルラは言う。
「その怪我した腕じゃ、何をするにも苦労するでしょうし、なにより孤独が一番の毒なのよ。今だって、あなたひどい顔色だわ」
指摘され、ミィラスは自らの顔に触れた。頬はひんやりとし、血が巡っていないのが分かる。
しかし、ミィラスは「だめだ」と首を振った。
「君は教団に帰りなさい。そこで修行を重ねて、立派な踊り子になるんだ。マクール殿もきっと――」
「無駄よ」
パルラがさえぎる。彼女は腰に手をあてて、胸を張った。
「だって、無断で教団を抜け出して来ちゃったのだもの。重大な規律違反だわ。もう私の居場所はないはずよ」
「君は……」
ミィラスは言葉を失った。
「あのう、それで料金はどうしたら」
従業員が二人を交互に見比べながら言う。
「施療院と救民院へ寄付を」
ミィラスの言葉に、パルラが呆れたように苦笑する。
「やっぱり、聖典楽師って融通が利かないわね」
二人は宿屋を出た。
ミィラスはパルラに言う。
「私は、君がついてくることには反対だ。何が起こるか分からないし、君に何かあったら、今度こそマクール殿に顔向けができない」
魔物を追う旅は、いつ終わるとも知れない。よしんば無事に追いつけたとしても、魔物と対面し、真に危険になるのはそこからである。これは身の破滅を覚悟で行く旅なのだ。
だが、パルラは言いつのった。
「本当は私のこと、足手まといだと思っているんでしょう。でも私はあなたのことを助けられるわ。私、取り柄は踊りだけじゃないんだから」
パルラは懐から一枚の紙を取り出した。
「これを見て」
その紙は表面が真っ黒に塗りつぶされていた。だがよく見ると、白く線が浮き上がっている。
「昨日見つけた石碑に刻まれていた模様よ。今朝、写し取ってきたの。石墨を使ってね」
ミィラスは驚いて、まじまじと紙とパルラを見比べた。
「君ひとりで、氷室へ行ってきたのかい?」
「そうよ。どう? 模様を写し取るなんて、あなたには思いつかなかったでしょう。ひとりじゃなにをするにも限界があるわ。でも、二人なら知恵だって二倍よ」
パルラの言うことは正しかった。それに、彼女の気丈な明るさに救われている自分がいることを、ミィラスは自覚せざるを得なかった。
「だけど……本当に危険なんだ。君は魔物を見ていない。あれは、いとも簡単に人間の命を奪う……」
「でも、あなたは生き残った。魔物にも奪えない命があるということよ」
パルラは胸を張り、まっすぐにミィラスを見つめた。
「私はあなたを助ける。ドリード神だって、魔物がこのまま野放しになるのをお望みでないと思うし、立ち向かうのが一人より二人のほうがずっと良いでしょう。私だって神の信徒だもの。これは私に課せられた運命とも言えるわ。だから、私はあなたとともに行く」
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性
「石碑だわ」
行灯を掲げたパルラが言う。
二人は崩れた壁の残骸を踏み越えて、それに近づいた。
よく磨かれた玄武岩の柱だった。大きさは人の背丈ほど。ミィラスは石のつるりとした表面をつぶさに観察し、手で触れてみるなどした。
ミィラスの指先が、石碑の表面のわずかな凹凸をとらえた。線、溝――何かが彫られている。
どうやら何かを示す文様だったが、あまりにいびつな形をしていた。少なくともミィラスの知る意匠ではなかった。だが、彼はその溝を何度も指でなぞり、形状を覚える。もしかしたら、あの魔物を知る手がかりかもしれないからだ。
「それにしても、妙よね」
パルラが言う。
「こんなところに石碑なんて。壁で塞がれていたし、まるで閉じ込めているみたい」
その言葉に、ミィラスはまばたきした。
「……そうなのかもしれない」
彼は石碑にじっと視線を注ぎながら言った。
「この石碑に、あの魔物が封印されていたのかもしれない。そして、アシェラが封印を解いたんだ。これは紛れもなくそういう用途の墓だ」
「アシェラって誰?」
パルラが首をかしげた。アシェラがベトラ・スーム侯に嫁したのはつい最近なので、それより前に教団に入った彼女は知らないのだ。
「領主夫人だよ」
ミィラスが答えると、パルラは「分からないわね」と眉をひそめた。
「仮にここに魔物が封じられていたとして、その人がどうやって封印を解いたというの?」
「それは……」
ミィラスが口ごもると、パルラが疑うような目を彼に向ける。
「何か知っているの?」
問われ、ミィラスは答えに窮した。パルラの黒檀の瞳は、ごまかしや嘘を許さぬとばかりに彼を射貫いている。
黙り込んだミィラスに、パルラはため息をつく。
「いい?」と彼女は言う。
「私は魔物に兄を殺されているのよ。魔物がどうやってこの世に現れたか、知る権利があると思うの。そして、唯一生き残ったあなたは、魔物に怯える人のために、知っていることを開示すべきだわ」
ミィラスは喉の奥でうなった。パルラの言うことはもっともだった。
そしてさらに、マクールの死に顔を思い出した。一瞬だったけれども、彼はミィラスとともにアシェラに立ち向かってくれた。あのときマクールが盃を投げなければ、ミィラスは窒息死していたかもしれなかった。いわばこの命はマクールに拾われたも同然だ。
志ある青年だったマクール。道半ばで命を落とした彼の無念はいかばかりだろうか。妹にも会えずに。
彼のためならば、己の自尊心などいくらでも捨てよう。ミィラスは息を吸い、パルラに向き直った。
「実は――」
ミィラスは、己が持っていた能力の全てを、アシェラに奪われたことを話した。彼女が、〝力ある言葉〟を使って魔物を呼び出したこと、魔物の発した黒い炎を浴びた者は凍りついて死んだことも。
「なんですって」
パルラは目を剥いた。
「〝力ある言葉〟を奪い取るって、そんなことができるの?」
「分からない」
ミィラスは力なく首を振る。
「けれども、私の中にあった〝聖典の詩〟〝力ある言葉〟はたしかに失われている……」
ミィラスは、アシェラが現れた夜のことを思い出して、ぞっとした。しかし同時に、あのときの甘い官能がよみがえり、彼の脳をしびれさせる。それはもはや呪いのようなものだった。ミィラスはぎゅっと目をつぶってやりすごす。
そんな彼を見て、パルラは目を細めた。
「領主夫人はよほどの美人だったのかしら」
女の勘ほど怖いものはない。ミィラスは素直に、「美しい人ではあった」と認めた。
「ふうん」
パルラはそれ以上は何も言わない。それがありがたくもあり、情けなくもあった。ミィラスは悄然としながら「上に戻ろう」と言った。
次の日の朝、宿をひきはらおうとしたミィラスに、従業員がおずおずと近づいてきた。
「お客様、ご宿泊の料金についてなのですが」
ミィラスの宿泊費用は選王侯が支出していた。彼が亡き今、宿は請求先に困っているのだろう。てっきりミィラスはそう考えたが、従業員は首を振った。
「選王侯閣下は、宿泊費を前払いされました。きっかりひと月分です。お客様は今日で二十日間、お泊まりになりましたので……」
つまり、残り十日分の宿泊代をどうすればよいかという相談であった。選王侯に返金する手続きもできず、遺族であるはずの領主夫人は行方不明である。
ミィラスが「施療院と救民院に寄付をしてください」と言いかけたところで、背後から声がした。
「そんなの、もらっちゃえばいいのよ」
振り返ると、パルラであった。彼女はミィラスが口を開く前に、言葉を続ける。
「今日、あなたがこの街を出て行くんじゃないかって思ったから、来てみたけど、やっぱりね」
パルラはミィラスをじっと見つめると、すうっと息を吸った。
「魔物を追いかけるのでしょ。私も行く」
「なんだって?」
ミィラスは眉を上げた。魔物を追って旅立つ――たしかにパルラの言う通りであったが、彼はひとりで行くつもりだった。
「あなたひとりじゃ無理だっていうことよ」
パルラは言う。
「その怪我した腕じゃ、何をするにも苦労するでしょうし、なにより孤独が一番の毒なのよ。今だって、あなたひどい顔色だわ」
指摘され、ミィラスは自らの顔に触れた。頬はひんやりとし、血が巡っていないのが分かる。
しかし、ミィラスは「だめだ」と首を振った。
「君は教団に帰りなさい。そこで修行を重ねて、立派な踊り子になるんだ。マクール殿もきっと――」
「無駄よ」
パルラがさえぎる。彼女は腰に手をあてて、胸を張った。
「だって、無断で教団を抜け出して来ちゃったのだもの。重大な規律違反だわ。もう私の居場所はないはずよ」
「君は……」
ミィラスは言葉を失った。
「あのう、それで料金はどうしたら」
従業員が二人を交互に見比べながら言う。
「施療院と救民院へ寄付を」
ミィラスの言葉に、パルラが呆れたように苦笑する。
「やっぱり、聖典楽師って融通が利かないわね」
二人は宿屋を出た。
ミィラスはパルラに言う。
「私は、君がついてくることには反対だ。何が起こるか分からないし、君に何かあったら、今度こそマクール殿に顔向けができない」
魔物を追う旅は、いつ終わるとも知れない。よしんば無事に追いつけたとしても、魔物と対面し、真に危険になるのはそこからである。これは身の破滅を覚悟で行く旅なのだ。
だが、パルラは言いつのった。
「本当は私のこと、足手まといだと思っているんでしょう。でも私はあなたのことを助けられるわ。私、取り柄は踊りだけじゃないんだから」
パルラは懐から一枚の紙を取り出した。
「これを見て」
その紙は表面が真っ黒に塗りつぶされていた。だがよく見ると、白く線が浮き上がっている。
「昨日見つけた石碑に刻まれていた模様よ。今朝、写し取ってきたの。石墨を使ってね」
ミィラスは驚いて、まじまじと紙とパルラを見比べた。
「君ひとりで、氷室へ行ってきたのかい?」
「そうよ。どう? 模様を写し取るなんて、あなたには思いつかなかったでしょう。ひとりじゃなにをするにも限界があるわ。でも、二人なら知恵だって二倍よ」
パルラの言うことは正しかった。それに、彼女の気丈な明るさに救われている自分がいることを、ミィラスは自覚せざるを得なかった。
「だけど……本当に危険なんだ。君は魔物を見ていない。あれは、いとも簡単に人間の命を奪う……」
「でも、あなたは生き残った。魔物にも奪えない命があるということよ」
パルラは胸を張り、まっすぐにミィラスを見つめた。
「私はあなたを助ける。ドリード神だって、魔物がこのまま野放しになるのをお望みでないと思うし、立ち向かうのが一人より二人のほうがずっと良いでしょう。私だって神の信徒だもの。これは私に課せられた運命とも言えるわ。だから、私はあなたとともに行く」
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