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五章 鴉を追って
21話
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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性
声の方向に顔を向けると、いくつか影が見えた。
ミィラスは石墨を放り出し、パルラのもとへと駆け出した。近づくにつれ、影の正体が明らかになる。明らかに風体の良くない男たちだ。
男たちの輪の中にパルラがいる。ミィラスは輪の中に飛び込み、彼女を背にかばった。
「あなたたちは何者か」
ミィラスが誰何する間に、男たちはにやにやとした笑みを浮かべ、手にした得物をちらつかせてみせる。
なるほど、盗賊か。
ヴァインの街の治安の良さも、この地域までは及ばないらしい。
ミィラスはすっと背筋を伸ばし、無言で男たちを見据えた。
後ろでパルラが震えている。
金品を手渡せば、大人しく帰ってくれるのだろうか?
ミィラスは手元の路銀と、懐にある金のロケットのことを考えた。盗賊たちが満足するだけの価値はあるだろうか?
いや。ミィラスはその考えを打ち消した。金目のものを出したが最後、恐らく自分はここで殺され、パルラはひどい目に遭わされる。
ミィラスは武器と呼べるものを持たなかったし、片腕を負傷している。抵抗しても意味をなさないだろう。だが、パルラは──彼女だけは逃がさなければ。
ミィラスの右腕が使い物にならないことは一目瞭然だ。だが盗賊たちはすぐには襲ってこない。この弱々しい獲物をどういたぶったものか、考えているのだろう。
あるいは──パルラを差し出せば、ミィラスの命は見逃してもらえるかもしれない。自分には使命がある。魔物を探し出し、アシェラを捕まえるという使命が──ゆえにここで死ぬわけには──
ミィラスは前を向き、盗賊たちを見据えて言った。
「このような蛮行に走ってはなりません。あなた方の行いを、神は見ておられます」
その言葉に、盗賊たちは腹を抱えて笑い出した。
空高く、雲が流れていく。ぼうぼうと耳元で巻き上がる風。砂埃がちりちりと脛を打つ。法衣が旗のように翻った。
彼らに己の言葉は届かないと分かっていたが、ミィラスは言う。
「その刃物で何か傷つけ奪うほど、あなた方もまた傷つき奪われるのです。罪を重ねる前に、とく立ち去りなさい」
説諭とも、懇願とも取れた。
盗賊の頭とおぼしき男がずいと前に出た。垢と酒のにおいがむっと漂ってくる。ぼさぼさのひげには、脂の塊のようなものがこびりついており、爪は黒ずんで汚かった。
「てめえの立場をよく分かってねえみてえだな。俺たちが去れと言われて回れ右するように見えるか?」
「言葉は尽くすためにあります」
ミィラスが言うと、頭は「ははん」と鼻でせせら笑い、両腕を広げた。
「知ってるぜ、尊いドリード神を奉るくそ坊主どものことはな。神の教えに従って清く正しく生きてやがる。俺たちとは正反対の、頭の良いお偉い方々さ。だがな、そんな奴らが、布施だの供物だのと言って、俺たちから金や食いもんをぶん取っていくんだ。だから、俺たちゃ逆に取り立ててやるんだ」
ミィラスは男の濁った双眸に、生活への諦観を読み取った。それはきっと救民院を訪れる者たちや、泣いていたニネアの中にもあったかもしれない。貧民の中には、生活苦のために盗みなどの犯罪に手を染める者もいる。盗賊にまでなった彼らは武器で金品を脅し取り、時には命まで奪うのだろう。
神職たちは、聖典や楽器、食料や奉仕活動で以て、救民院や小聖堂、あるいは街角で、務めを果たしている。今いるのがこの荒野で、相手が盗賊だったとして、ミィラスのやることに変わりはあるだろうか──
「教団に寄せられる布施は、信徒の善意によるものです。まかり間違っても搾取ではない。あなた方のような人を助けるためのものなのです」
そう言いながらミィラスは、本当に聖ドリード教団が彼らの生活を困窮させるほどの供出を強いたのだろうか、と考えていた。彼らを浅ましい身の上に貶めるほどの? ベトラ・スーム選王侯が、またはカザの統轄下にあるヴァインの小聖堂が、そのような振る舞いを許すだろうか? あるいは彼らや議会の目の届かぬ末端では、教団の神職たちが民から蓄えを吸い上げていたというのか? 教団が腐敗しているとでも?
悠長に思考している場合ではなかった。二人を取り囲む輪はじわじわと狭まっていく。
「まずはてめえを三枚おろしにしてやる。その次は女だ。殺す前に楽しませてもらうがな」
下卑た笑いが周囲で起こる。パルラはますます青ざめ、小声でドリード神への祈りの言葉を唱えていた。
「私の身をどうしようが、私からあなたがたを満足させる価値を取り出すことはできない。だが、私を殺すというのならば、私の命を以て、神の御許にてあなたがたの救済を乞いましょう。その代わり、彼女は見逃してください」
神は救ってくれるだろうか、自分たちを、そして彼らを。ミィラスは半ば絶望しながら、己の中に肯定も否定もなく、いまこの瞬間の窮地をどうにかしようと必死に考えていた。白夜城の惨劇を、神が救うことはなかった。だが、ミィラスは未だ敬虔なドリード神の信徒であった。ゆえに、祈りの果てに神の奇跡がもたらされるという、教団の教義を忘れることはなかった。同時に、この状況を打破するのは絶望的であり、数拍後には口を開けてミィラスを飲み込むであろう死の予感をひしひしと感じてもいた。
ミィラスは自身の声を震わせないように声を絞り出した。早くこの恐ろしい時間が──そしてこのあとに訪れるであろうおぞましい瞬間が早く過ぎ去ってほしいと願いながら。
「そこまで言うのなら、その肝っ玉に免じて、お前を試してやろう」
盗賊の頭が言った。
「なに、簡単なことだ。てめえがよく知る神へ祈りを捧げるだけだ。その間、俺がお前にどんなことをしても続けろ。最後までやり遂げられれば見逃してやる。だが、一度でも命乞いをしたら、そのときは」
盗賊の頭はにやりと笑う。どうせ彼らにはパルラを見逃す気などない。
ミィラスは拳を握りしめた。これが神からの試練だなどとは思わない。単なる不幸だ。この世に存在する不幸の一つに、自分の足が取られただけだ。だが盗賊たちの残虐な好奇心はたった今、自分に向いている。パルラならば、彼らの注意がミィラスに向いているうちに、隙を見て逃げ出すことができるかもしれない。少なくとも、彼女が助かるにはこれしか方法がない。
大丈夫、やり遂げる。これだけは。
ミィラスは胸の前で手を組んだ。身体が強張っている。指先と呼吸の震えはかろうじて隠せている。法衣の下は汗でびっしょりと濡れていたが、それも彼らからは見えない。だが深い孔雀色の瞳には、生への固執と死への恐怖、そして今すぐ逃亡したいという願望が現れていた。それを読み取れるほどの洞察力を盗賊たちは持ち合わせていなかったが、パルラは違った。彼女はミィラスの覚悟が細い糸の上で震えていることを感じ取っていた。そこに自分の命が乗せられていることも。
ミィラスが祈り始めると──〝力ある言葉〟を失っているミィラスのそれが、果たして祈りと呼べるのかどうかは甚だ疑問であったが──盗賊の頭はナイフで若い聖典楽師の頬をなぜた。皮膚を切られる感触のあと、ミィラスの頬から首筋へ生温かいものがつたう。傍らでパルラがひっと息を飲む気配がした。
ミィラスは祈りの姿勢を崩さなかった。
続いて盗賊の頭は、ミィラスの折れた右腕を鷲掴むと、ぐっと力を込めた。
右腕に激痛が走る。骨の軋む音がする。ミィラスはぐっと呻いた。だらだらと流れる汗と、頬の血が混じり合い、襟元を汚していく。それでも組んだ手を崩すことはなかった。
盗賊の頭は拳を握ると、ミィラスの腹を殴りつける。臓腑が破裂せんばかりの衝撃に、青年は身体をくの字に曲げ、血の混じった唾液を吐いた。肺が痙攣し、息が吸えない。
「やめて! お願い! 殺さないで!」
パルラが悲鳴を上げる。盗賊たちは面白がって二人をはやし立てた。
「……大丈夫、私は祈りをやめていません」
パルラへの言葉と盗賊への言葉が交ざってしまった。呼吸すらままならず、口の中は血でぬるぬるし、殴られた腹は破れそうなほど痛みを訴えている。それでも彼は言った。
そばでパルラが涙目になりながら首を振る。
盗賊の頭は、幾度もミィラスに拳を振るった。
一発殴られるたびに、痛みで意識が遠のいた。見習い時代の罰則で食らった杖打ちなど、これに比べれば屁のようなものだ。痛みと苦しみが心臓を貫く。だがミィラスは何よりも、人間の悪意によってなされる暴力というものに対して、苦痛にまさる深い失望を感じていた。
人の世は広くて深い。上を見れば明るく、下を見ればどこまで淀みうる。
彼は裕福な家に生まれ、恵まれた環境と高度な教育を与えられて育ち、周囲の人間も穏やかで道徳心のある者ばかりだった。教団においても、厳粛な教義と美しい音楽を学び、衆生を導くよう教育されてきた。つまり彼は、悪意というものに触れる機会に恵まれなかったとも言える。
絶望するのか、いや。
それでも彼は降参しなかった。
「次は片腕を切り落とす」
盗賊の頭が言う。それを聞いた仲間たちが、ミィラスの手足を掴んで動けないようにした。
パルラが彼らの視界から外れた。
ミィラスは一瞬だけパルラに視線を送る。
君は逃げなさい。ここでさようならだ。
その意図が伝わったのか、彼女は目を見開いた後、身を翻して駆け出した。盗賊たちはミィラスに注意を向けていて気づかない。パルラは丘を駆け下る。
行ってしまう。
彼女が逃げることを望んだのは自分なのに、ミィラスの心は痛みを訴えた。
懐で、ロケットの中の岩塩がカラリと音をたてる。
ああ、マクールの形見。渡していない。
ミィラスも、やがてマクールと同じく、ドリード神の御許に行くのだろう。
そのまえに、この岩塩の欠片をパルラに渡せばよかった。彼女の唯一の肉親だったマクールの、志の証だから。
すっかり彼女の姿が見えなくなったとき、ミィラスは初めて盗賊たちに抵抗した。四肢を掴む男たちの手を振り払おうと、めちゃくちゃにもがく。
盗賊たちは、それまで大人しかった聖典楽師が突如獣のように暴れ出したので、面食らった様子で彼を取り押さえにかかった。
ミィラスは必死だった。少しでも時間を稼がなければならない。そのぶんパルラが遠くへ逃げられる。
だが、すでに体力と気力の限界だ。ひとしきり暴れたミィラスの身体は抑えつけられる。自分はここで終わりなのだ、と彼は悟った。アシェラを追うこともままならず、魔物を止めることもできなかった。ここで落命することが運命だったとしても、悔いばかりが残る。一つ誇れるとするならば、自分は最後までドリード神を信じ、信仰に殉じて死ぬのだということだけだった。
ミィラスの目の前で、銀色の刃物の光が閃いた。それはまっすぐにミィラスの右腕に伸びて、ざっくりと切り落とし──否、右腕を掴んでいた盗賊の手を抉った。
「ぎゃあっ」
盗賊が叫び、ミィラスの身体が自由になる。
ミィラスは体勢を崩し、地面に膝をついた。
なにか、赤い風のようなものが動いている。それが何なのかを追う前に、ミィラスの手を引く者がいた。
「立って!」
パルラだった。
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性
声の方向に顔を向けると、いくつか影が見えた。
ミィラスは石墨を放り出し、パルラのもとへと駆け出した。近づくにつれ、影の正体が明らかになる。明らかに風体の良くない男たちだ。
男たちの輪の中にパルラがいる。ミィラスは輪の中に飛び込み、彼女を背にかばった。
「あなたたちは何者か」
ミィラスが誰何する間に、男たちはにやにやとした笑みを浮かべ、手にした得物をちらつかせてみせる。
なるほど、盗賊か。
ヴァインの街の治安の良さも、この地域までは及ばないらしい。
ミィラスはすっと背筋を伸ばし、無言で男たちを見据えた。
後ろでパルラが震えている。
金品を手渡せば、大人しく帰ってくれるのだろうか?
ミィラスは手元の路銀と、懐にある金のロケットのことを考えた。盗賊たちが満足するだけの価値はあるだろうか?
いや。ミィラスはその考えを打ち消した。金目のものを出したが最後、恐らく自分はここで殺され、パルラはひどい目に遭わされる。
ミィラスは武器と呼べるものを持たなかったし、片腕を負傷している。抵抗しても意味をなさないだろう。だが、パルラは──彼女だけは逃がさなければ。
ミィラスの右腕が使い物にならないことは一目瞭然だ。だが盗賊たちはすぐには襲ってこない。この弱々しい獲物をどういたぶったものか、考えているのだろう。
あるいは──パルラを差し出せば、ミィラスの命は見逃してもらえるかもしれない。自分には使命がある。魔物を探し出し、アシェラを捕まえるという使命が──ゆえにここで死ぬわけには──
ミィラスは前を向き、盗賊たちを見据えて言った。
「このような蛮行に走ってはなりません。あなた方の行いを、神は見ておられます」
その言葉に、盗賊たちは腹を抱えて笑い出した。
空高く、雲が流れていく。ぼうぼうと耳元で巻き上がる風。砂埃がちりちりと脛を打つ。法衣が旗のように翻った。
彼らに己の言葉は届かないと分かっていたが、ミィラスは言う。
「その刃物で何か傷つけ奪うほど、あなた方もまた傷つき奪われるのです。罪を重ねる前に、とく立ち去りなさい」
説諭とも、懇願とも取れた。
盗賊の頭とおぼしき男がずいと前に出た。垢と酒のにおいがむっと漂ってくる。ぼさぼさのひげには、脂の塊のようなものがこびりついており、爪は黒ずんで汚かった。
「てめえの立場をよく分かってねえみてえだな。俺たちが去れと言われて回れ右するように見えるか?」
「言葉は尽くすためにあります」
ミィラスが言うと、頭は「ははん」と鼻でせせら笑い、両腕を広げた。
「知ってるぜ、尊いドリード神を奉るくそ坊主どものことはな。神の教えに従って清く正しく生きてやがる。俺たちとは正反対の、頭の良いお偉い方々さ。だがな、そんな奴らが、布施だの供物だのと言って、俺たちから金や食いもんをぶん取っていくんだ。だから、俺たちゃ逆に取り立ててやるんだ」
ミィラスは男の濁った双眸に、生活への諦観を読み取った。それはきっと救民院を訪れる者たちや、泣いていたニネアの中にもあったかもしれない。貧民の中には、生活苦のために盗みなどの犯罪に手を染める者もいる。盗賊にまでなった彼らは武器で金品を脅し取り、時には命まで奪うのだろう。
神職たちは、聖典や楽器、食料や奉仕活動で以て、救民院や小聖堂、あるいは街角で、務めを果たしている。今いるのがこの荒野で、相手が盗賊だったとして、ミィラスのやることに変わりはあるだろうか──
「教団に寄せられる布施は、信徒の善意によるものです。まかり間違っても搾取ではない。あなた方のような人を助けるためのものなのです」
そう言いながらミィラスは、本当に聖ドリード教団が彼らの生活を困窮させるほどの供出を強いたのだろうか、と考えていた。彼らを浅ましい身の上に貶めるほどの? ベトラ・スーム選王侯が、またはカザの統轄下にあるヴァインの小聖堂が、そのような振る舞いを許すだろうか? あるいは彼らや議会の目の届かぬ末端では、教団の神職たちが民から蓄えを吸い上げていたというのか? 教団が腐敗しているとでも?
悠長に思考している場合ではなかった。二人を取り囲む輪はじわじわと狭まっていく。
「まずはてめえを三枚おろしにしてやる。その次は女だ。殺す前に楽しませてもらうがな」
下卑た笑いが周囲で起こる。パルラはますます青ざめ、小声でドリード神への祈りの言葉を唱えていた。
「私の身をどうしようが、私からあなたがたを満足させる価値を取り出すことはできない。だが、私を殺すというのならば、私の命を以て、神の御許にてあなたがたの救済を乞いましょう。その代わり、彼女は見逃してください」
神は救ってくれるだろうか、自分たちを、そして彼らを。ミィラスは半ば絶望しながら、己の中に肯定も否定もなく、いまこの瞬間の窮地をどうにかしようと必死に考えていた。白夜城の惨劇を、神が救うことはなかった。だが、ミィラスは未だ敬虔なドリード神の信徒であった。ゆえに、祈りの果てに神の奇跡がもたらされるという、教団の教義を忘れることはなかった。同時に、この状況を打破するのは絶望的であり、数拍後には口を開けてミィラスを飲み込むであろう死の予感をひしひしと感じてもいた。
ミィラスは自身の声を震わせないように声を絞り出した。早くこの恐ろしい時間が──そしてこのあとに訪れるであろうおぞましい瞬間が早く過ぎ去ってほしいと願いながら。
「そこまで言うのなら、その肝っ玉に免じて、お前を試してやろう」
盗賊の頭が言った。
「なに、簡単なことだ。てめえがよく知る神へ祈りを捧げるだけだ。その間、俺がお前にどんなことをしても続けろ。最後までやり遂げられれば見逃してやる。だが、一度でも命乞いをしたら、そのときは」
盗賊の頭はにやりと笑う。どうせ彼らにはパルラを見逃す気などない。
ミィラスは拳を握りしめた。これが神からの試練だなどとは思わない。単なる不幸だ。この世に存在する不幸の一つに、自分の足が取られただけだ。だが盗賊たちの残虐な好奇心はたった今、自分に向いている。パルラならば、彼らの注意がミィラスに向いているうちに、隙を見て逃げ出すことができるかもしれない。少なくとも、彼女が助かるにはこれしか方法がない。
大丈夫、やり遂げる。これだけは。
ミィラスは胸の前で手を組んだ。身体が強張っている。指先と呼吸の震えはかろうじて隠せている。法衣の下は汗でびっしょりと濡れていたが、それも彼らからは見えない。だが深い孔雀色の瞳には、生への固執と死への恐怖、そして今すぐ逃亡したいという願望が現れていた。それを読み取れるほどの洞察力を盗賊たちは持ち合わせていなかったが、パルラは違った。彼女はミィラスの覚悟が細い糸の上で震えていることを感じ取っていた。そこに自分の命が乗せられていることも。
ミィラスが祈り始めると──〝力ある言葉〟を失っているミィラスのそれが、果たして祈りと呼べるのかどうかは甚だ疑問であったが──盗賊の頭はナイフで若い聖典楽師の頬をなぜた。皮膚を切られる感触のあと、ミィラスの頬から首筋へ生温かいものがつたう。傍らでパルラがひっと息を飲む気配がした。
ミィラスは祈りの姿勢を崩さなかった。
続いて盗賊の頭は、ミィラスの折れた右腕を鷲掴むと、ぐっと力を込めた。
右腕に激痛が走る。骨の軋む音がする。ミィラスはぐっと呻いた。だらだらと流れる汗と、頬の血が混じり合い、襟元を汚していく。それでも組んだ手を崩すことはなかった。
盗賊の頭は拳を握ると、ミィラスの腹を殴りつける。臓腑が破裂せんばかりの衝撃に、青年は身体をくの字に曲げ、血の混じった唾液を吐いた。肺が痙攣し、息が吸えない。
「やめて! お願い! 殺さないで!」
パルラが悲鳴を上げる。盗賊たちは面白がって二人をはやし立てた。
「……大丈夫、私は祈りをやめていません」
パルラへの言葉と盗賊への言葉が交ざってしまった。呼吸すらままならず、口の中は血でぬるぬるし、殴られた腹は破れそうなほど痛みを訴えている。それでも彼は言った。
そばでパルラが涙目になりながら首を振る。
盗賊の頭は、幾度もミィラスに拳を振るった。
一発殴られるたびに、痛みで意識が遠のいた。見習い時代の罰則で食らった杖打ちなど、これに比べれば屁のようなものだ。痛みと苦しみが心臓を貫く。だがミィラスは何よりも、人間の悪意によってなされる暴力というものに対して、苦痛にまさる深い失望を感じていた。
人の世は広くて深い。上を見れば明るく、下を見ればどこまで淀みうる。
彼は裕福な家に生まれ、恵まれた環境と高度な教育を与えられて育ち、周囲の人間も穏やかで道徳心のある者ばかりだった。教団においても、厳粛な教義と美しい音楽を学び、衆生を導くよう教育されてきた。つまり彼は、悪意というものに触れる機会に恵まれなかったとも言える。
絶望するのか、いや。
それでも彼は降参しなかった。
「次は片腕を切り落とす」
盗賊の頭が言う。それを聞いた仲間たちが、ミィラスの手足を掴んで動けないようにした。
パルラが彼らの視界から外れた。
ミィラスは一瞬だけパルラに視線を送る。
君は逃げなさい。ここでさようならだ。
その意図が伝わったのか、彼女は目を見開いた後、身を翻して駆け出した。盗賊たちはミィラスに注意を向けていて気づかない。パルラは丘を駆け下る。
行ってしまう。
彼女が逃げることを望んだのは自分なのに、ミィラスの心は痛みを訴えた。
懐で、ロケットの中の岩塩がカラリと音をたてる。
ああ、マクールの形見。渡していない。
ミィラスも、やがてマクールと同じく、ドリード神の御許に行くのだろう。
そのまえに、この岩塩の欠片をパルラに渡せばよかった。彼女の唯一の肉親だったマクールの、志の証だから。
すっかり彼女の姿が見えなくなったとき、ミィラスは初めて盗賊たちに抵抗した。四肢を掴む男たちの手を振り払おうと、めちゃくちゃにもがく。
盗賊たちは、それまで大人しかった聖典楽師が突如獣のように暴れ出したので、面食らった様子で彼を取り押さえにかかった。
ミィラスは必死だった。少しでも時間を稼がなければならない。そのぶんパルラが遠くへ逃げられる。
だが、すでに体力と気力の限界だ。ひとしきり暴れたミィラスの身体は抑えつけられる。自分はここで終わりなのだ、と彼は悟った。アシェラを追うこともままならず、魔物を止めることもできなかった。ここで落命することが運命だったとしても、悔いばかりが残る。一つ誇れるとするならば、自分は最後までドリード神を信じ、信仰に殉じて死ぬのだということだけだった。
ミィラスの目の前で、銀色の刃物の光が閃いた。それはまっすぐにミィラスの右腕に伸びて、ざっくりと切り落とし──否、右腕を掴んでいた盗賊の手を抉った。
「ぎゃあっ」
盗賊が叫び、ミィラスの身体が自由になる。
ミィラスは体勢を崩し、地面に膝をついた。
なにか、赤い風のようなものが動いている。それが何なのかを追う前に、ミィラスの手を引く者がいた。
「立って!」
パルラだった。
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