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九章 欠けた歴史、欠けた器
35話
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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性
《ディアン》
ザルバの町で暮らす浮浪少年
「魔物が予告した日まであと二日だ」
ミィラスは祭壇の周辺を掃除していた。
「それまでに、魔物を止めるか、この町の人を守る手立てを考えなければ」
神像の前で香を焚きながら、パルラが言う。
「町の人は武器を沢山用意していたけど、通用するのかしら」
「どうだろう。どちらにせよ手をこまねいているだけでは、またしても大勢が殺されてしまう……。〝力ある言葉〟が旧き神に対して少なからず有効なことは分かっているんだ」
とはいえ、これまでミィラスが魔物から守ることができたのは、自分自身や側にいたパルラだけだ。町全体を守るほどの力はない。それに、ほとんどの〝力ある言葉〟を失っているのだから、できることが少なすぎる。
「前から不思議に思っていたのだけど、〝力ある言葉〟が自分の中から無くなるって、どんな感覚なの? 踊り子は〝力ある言葉〟を使わないし、学ぶこともないから、よく分からなくて」
パルラの問いに、ミィラスは目をしばたたかせた。
「ああ」
そうか、と思った。
今までパルラはミィラスに気を遣って、その問いを投げてこなかったのだろう。聖典楽師にとっては存在意義そのものと言われるほど、繊細で重要な問題だからだ。
ドリード神よりもたらされた──とされる〝力ある言葉〟そして〝聖典の詩〟を学ぶのは男の神職だけで、女である踊り子が学ぶ機会はない。しかも普段の会話や筆記に用いるカミル語と、〝力ある言葉〟は全く異なる言語である。
例えば彼の名は「ミィラス」であるが、それは〝力ある言葉〟における《豊饒》を、カミル語で発音したものなのだ。
さらに〝聖典の詩〟の吟唱は、カミル語と〝力ある言葉〟のそれぞれがあり、人に聞かせるのはカミル語の詩であるが、吟唱する聖典楽師たちは同時に〝力ある言葉〟の詩を頭の内に巡らせている。〝力ある言葉〟の難解さもさることながら、聖典にあるカミル語自体、今と文法が異なる古語であるため、吟唱ひとつですら、淀みなく行うのは非常に難しいのだ。
その膨大な言葉の渦が、今は凪いでいる──ミィラスの中では。
「単純に忘れたというよりも、消えたのだと思う」
ミィラスは喉元をさすった。
「忘れたのであれば、もう一度学べば取り戻せるだろう。でも、今の僕はたとえ聖典を読んでも真の意味では読めないし、発音もできない。本当に根こそぎなくなったみたいなんだ」
「でも、取り戻したものもあるのよね。どういう原理か分からないけど……」
パルラが祭壇の上に鎮座するドリード神像を見上げる。神の表情は穏やかに凪いでいて、目の前にいる二人の信徒に柔和な微笑みを向けていた。
そのとき
ガタン!
廃墟となっている小聖堂から大きな物音がした。二人は驚いてびくりとした。
「少し見てくる。君はここで待っていて」
「ええ……気をつけて」
ミィラスは慎重に小聖堂へ足を踏み入れる。
もとの祭壇があるあたり、もわもわと埃が舞い上がっていた。
じっと目を凝らしていると、壊れた壇の中から小さな影が転がり出てきた。
ミィラスは近寄って声をかけた。
「ディアン、そこで何をしているんだ?」
「うわっ!」
ディアンは飛び退いた。その服の隙間に、これでもかとガラクタが詰め込まれていたので、ミィラスはため息をつく。
「空き巣をしていたのか」
「どうせもう使わねえんだから、俺がもらったっていいだろ」
少年は悪びれない。彼が盗んだのは細かい調度品の一部や、神職たちが使っていたであろう道具など。その中に、筆記に使う古い蝋板があるのを、ミィラスは見て取った。
表面の蝋は一部が砕けてぼろぼろと剥がれていたが、残りの部分に「ディアン」と繰り返し書かれた跡がある。お手本のように整った文字が一行、その下に拙い筆跡のものがいくつも並んでいた。
「じゃあ俺はもう行くから!」
すたこらと退散しようとした少年だったが、ミィラスがすかさず首根っこを掴んだので、体勢を崩してぶらんとぶら下がる格好になった。
「わ! なにすんだよ!」
「尖筆は持っているのか?」
「……え? なんだって?」
きょとんとするディアンに、ミィラスは言う。
「書く道具がないと、その蝋板は使いにくいだろう」
「んなっ!」
ディアンはかっと赤くなって、じたばたと暴れる。
「別に、こいつは売り払うだけだし! 俺には要らねえもんだ! 放せっ」
少年はわんぱくに手足を振り回したが、元々が小柄なのでミィラスはびくともしなかった。大聖堂では元気盛りの見習い少年たちを、こうしていなすこともあったため、意外に慣れたものである。
「少し手伝いをしてくれないか。私とパルラだけだと手が足りないんだ。私の手が空けば、その蝋板の修理ができる」
「だから、要らねえんだって! 俺のじゃねえし!」
ディアンは強情に言い張った。
わざわざ「自分のではない」と主張するあたり、少なからず思い入れがあるのだろう。
この小聖堂にいた神職たちが、唯一この不良少年に優しく接してくれていたのだ、とミィラスは察していた。しかし彼らが魔物の犠牲になり、ディアンが拠り所とできる大人がいなくなってしまったのだ。
彼がいつから浮浪児となったのか定かではない。それでも少年に「ディアン」と名付け世話を焼いていた神職たちにとっては心残りのはずだ。ミィラスが彼らの跡を引き継ぐのであれば、彼らの魂も安らぐだろうか。
魔物の一件がどう決着するか分からない今、この少年を引き受けるのは少々骨が折れそうだが──
ミィラスはゆるく口角を上げ、ディアンに笑顔を向けた。
「その蝋板には君の名前が書いてある。だとしたら、それは君のだろう」
そう言いながら少年を小脇に抱えて外に出る。
それまで不安そうに待っていたパルラが、今度は呆れたように見つめてきた。
ミィラスが町の自警団や親方衆のもとへ出向いてみると、彼らは魔物の黒い炎から身を守るための防壁を築いている最中だった。防壁とはいっても巨大な盾のような物体で、取り付けた車輪で動かせるようになっているらしい。
鍛冶を主な産業としていることから、この町は戦に関わる道具作りにも長けているようだ。
「このような道具は初めて見ました」
ミィラスが言うと、親方の一人が「そうだろうなぁ」とあごひげを撫でながら言った。
「なにせ最後の戦が百年以上前だ。俺たちも古い設計図を引っ張り出してきたんだからな」
おれたちゃ ほいさと……
おれたちゃ ほいさと……
唐突に太い歌声が耳に入った。ミィラスはきょろきょろと周囲を見渡す。
通りを歌いながら歩いて行く男たちがいた。鍛冶職人たちに交じって、人夫が数人だ。
「彼らは?」
「ああ……あれは砂鉄採りと精錬の奴らだ。ルパーネ河の支流には、川底に砂鉄が大量に堆積している場所があるんだ。この町で使う鉄はそこから来てる。今は精錬炉を閉じているから、そこで余った人手を手伝いとして呼んだのさ。この町が駄目になったら、あいつらも仕事が無くなるからな」
「なるほど……」
元気の良い歌声だ。いわゆる仕事歌と呼ばれるものだろう。ミィラスも子どもの頃、農園で使用人たちが歌っているのをよく聞いていたものだ。それを歌っていると、種まきや収穫の作業が手際よく進むのである。
人夫たちの歌には独特の抑揚があり、もちろん歌詞も聞き慣れないものだった。けれど肉体を酷使して働く者たちの、前向きな気持ちや気合いといったものがそこにはある気がした。
まっくろ 川底 さらった日にゃ
まっかな ほむらに ふいご 踏め踏め
まっくろ冥府の まっかな道に
とろとろ流れる 川むこう
おれたちゃ ほいさと踏み越える……
おれたちゃ ほいさと踏み越える……
力強い歌になにやら元気を分けられた気がして、ミィラスはすっと背を伸ばした。が、ふと気づいて眉をひそめた。
冥府だと?
人夫たちは通り過ぎて行ってしまったが、彼らが元気よく口ずさんでいた歌は、ミィラスの脳に残り続けた。
そこへ、ディアンが走り寄ってきて、ミィラスの背中をバシンと叩いた。
「ああ、おかえり」
振り向いたミィラスが言うと、少年は「ん!」とぶっきらぼうに蝋板を差し出す。彼のもう片方の手には新しい尖筆が握られていた。
蝋板はミィラスの手によって、新しい蝋が敷かれ、筆記に差し支えないように修理されていた。また、その際にミィラスは、お手本用に刻まれていた「ディアン」という文字をそっくり写し取り、木枠の部分に全く同じ形になるように刻みつけた。蝋を塗り直しても、それだけは残るように。
蝋の表面には、几帳面な線で図形のようなものが記されていた。簡単に言えばミィラスが描いたここザルバの町の地図であり、その上に不器用に歪んだ印が書き加えられている。
「言われた通りに、見つかるだけ探してきたぜ。チッ! あーあ、疲れた!」
ミィラスは蝋板を見ながら、懐から紙片を取り出した。白夜城の地下の石碑からパルラが写し取ったもの、そして盗賊と出会った石祠群で見た文様のいくつかを書き写したものだ。
ディアンはミィラスに言われて、町の随所に点在する古い石組みや、風化した石祠に残っている文様の場所を、慣れないながらも蝋板の地図に書き加えて来たのだ。
ミィラスは頷いた。
彼は偶然気づいたのだが、この町には旧き神々に関する遺物が、そこかしこに存在していたのだ。大昔の信仰の痕跡として、石祠群と同じあの特徴的な文様が、壊れた石組みに刻まれてあるのを発見したときは、思わず感動した。
これらの石組みは、形状から判断するに防塁の跡だろう。きっとかつては町の規模は今より小さく、防塁によって囲われていたのだ。その後町が外へ広がり、用を成さなくなった防塁が、町の中に崩れた石塊として放置されているに違いない。
「魔物が現れた場所がこの辺りか……」
ミィラスは地図の一点に丸をつける横で、ディアンがぶすくれたように「ちぇっ」と舌打ちした。
「そんなことして何になんのさ。ま、どうでもいいけどさあ。俺も柄にもねえことしちまったぜ!」
「ありがとう。お腹は空いた?」
「空いた!」
ディアンが不機嫌そうに叫んだ。だが実際のところは機嫌を損ねているわけでもないのだ。ミィラスは懐からパンを取り出して少年に渡す。
若い聖典楽師の隣で、町の厄介少年が大人しくもさもさとパンを食っている様子を、周囲の人間は奇異と驚きの目で見つめていた。
ミィラスは蝋板の上に紙を置き、石墨で素早く地図を写し取ると、蝋板をディアンに返す。
「手伝ってくれてありがとう」
「フン」
ディアンは鼻息だけで返事をすると、走り去って行った。またそのうち顔を出すことだろう。
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性
《ディアン》
ザルバの町で暮らす浮浪少年
「魔物が予告した日まであと二日だ」
ミィラスは祭壇の周辺を掃除していた。
「それまでに、魔物を止めるか、この町の人を守る手立てを考えなければ」
神像の前で香を焚きながら、パルラが言う。
「町の人は武器を沢山用意していたけど、通用するのかしら」
「どうだろう。どちらにせよ手をこまねいているだけでは、またしても大勢が殺されてしまう……。〝力ある言葉〟が旧き神に対して少なからず有効なことは分かっているんだ」
とはいえ、これまでミィラスが魔物から守ることができたのは、自分自身や側にいたパルラだけだ。町全体を守るほどの力はない。それに、ほとんどの〝力ある言葉〟を失っているのだから、できることが少なすぎる。
「前から不思議に思っていたのだけど、〝力ある言葉〟が自分の中から無くなるって、どんな感覚なの? 踊り子は〝力ある言葉〟を使わないし、学ぶこともないから、よく分からなくて」
パルラの問いに、ミィラスは目をしばたたかせた。
「ああ」
そうか、と思った。
今までパルラはミィラスに気を遣って、その問いを投げてこなかったのだろう。聖典楽師にとっては存在意義そのものと言われるほど、繊細で重要な問題だからだ。
ドリード神よりもたらされた──とされる〝力ある言葉〟そして〝聖典の詩〟を学ぶのは男の神職だけで、女である踊り子が学ぶ機会はない。しかも普段の会話や筆記に用いるカミル語と、〝力ある言葉〟は全く異なる言語である。
例えば彼の名は「ミィラス」であるが、それは〝力ある言葉〟における《豊饒》を、カミル語で発音したものなのだ。
さらに〝聖典の詩〟の吟唱は、カミル語と〝力ある言葉〟のそれぞれがあり、人に聞かせるのはカミル語の詩であるが、吟唱する聖典楽師たちは同時に〝力ある言葉〟の詩を頭の内に巡らせている。〝力ある言葉〟の難解さもさることながら、聖典にあるカミル語自体、今と文法が異なる古語であるため、吟唱ひとつですら、淀みなく行うのは非常に難しいのだ。
その膨大な言葉の渦が、今は凪いでいる──ミィラスの中では。
「単純に忘れたというよりも、消えたのだと思う」
ミィラスは喉元をさすった。
「忘れたのであれば、もう一度学べば取り戻せるだろう。でも、今の僕はたとえ聖典を読んでも真の意味では読めないし、発音もできない。本当に根こそぎなくなったみたいなんだ」
「でも、取り戻したものもあるのよね。どういう原理か分からないけど……」
パルラが祭壇の上に鎮座するドリード神像を見上げる。神の表情は穏やかに凪いでいて、目の前にいる二人の信徒に柔和な微笑みを向けていた。
そのとき
ガタン!
廃墟となっている小聖堂から大きな物音がした。二人は驚いてびくりとした。
「少し見てくる。君はここで待っていて」
「ええ……気をつけて」
ミィラスは慎重に小聖堂へ足を踏み入れる。
もとの祭壇があるあたり、もわもわと埃が舞い上がっていた。
じっと目を凝らしていると、壊れた壇の中から小さな影が転がり出てきた。
ミィラスは近寄って声をかけた。
「ディアン、そこで何をしているんだ?」
「うわっ!」
ディアンは飛び退いた。その服の隙間に、これでもかとガラクタが詰め込まれていたので、ミィラスはため息をつく。
「空き巣をしていたのか」
「どうせもう使わねえんだから、俺がもらったっていいだろ」
少年は悪びれない。彼が盗んだのは細かい調度品の一部や、神職たちが使っていたであろう道具など。その中に、筆記に使う古い蝋板があるのを、ミィラスは見て取った。
表面の蝋は一部が砕けてぼろぼろと剥がれていたが、残りの部分に「ディアン」と繰り返し書かれた跡がある。お手本のように整った文字が一行、その下に拙い筆跡のものがいくつも並んでいた。
「じゃあ俺はもう行くから!」
すたこらと退散しようとした少年だったが、ミィラスがすかさず首根っこを掴んだので、体勢を崩してぶらんとぶら下がる格好になった。
「わ! なにすんだよ!」
「尖筆は持っているのか?」
「……え? なんだって?」
きょとんとするディアンに、ミィラスは言う。
「書く道具がないと、その蝋板は使いにくいだろう」
「んなっ!」
ディアンはかっと赤くなって、じたばたと暴れる。
「別に、こいつは売り払うだけだし! 俺には要らねえもんだ! 放せっ」
少年はわんぱくに手足を振り回したが、元々が小柄なのでミィラスはびくともしなかった。大聖堂では元気盛りの見習い少年たちを、こうしていなすこともあったため、意外に慣れたものである。
「少し手伝いをしてくれないか。私とパルラだけだと手が足りないんだ。私の手が空けば、その蝋板の修理ができる」
「だから、要らねえんだって! 俺のじゃねえし!」
ディアンは強情に言い張った。
わざわざ「自分のではない」と主張するあたり、少なからず思い入れがあるのだろう。
この小聖堂にいた神職たちが、唯一この不良少年に優しく接してくれていたのだ、とミィラスは察していた。しかし彼らが魔物の犠牲になり、ディアンが拠り所とできる大人がいなくなってしまったのだ。
彼がいつから浮浪児となったのか定かではない。それでも少年に「ディアン」と名付け世話を焼いていた神職たちにとっては心残りのはずだ。ミィラスが彼らの跡を引き継ぐのであれば、彼らの魂も安らぐだろうか。
魔物の一件がどう決着するか分からない今、この少年を引き受けるのは少々骨が折れそうだが──
ミィラスはゆるく口角を上げ、ディアンに笑顔を向けた。
「その蝋板には君の名前が書いてある。だとしたら、それは君のだろう」
そう言いながら少年を小脇に抱えて外に出る。
それまで不安そうに待っていたパルラが、今度は呆れたように見つめてきた。
ミィラスが町の自警団や親方衆のもとへ出向いてみると、彼らは魔物の黒い炎から身を守るための防壁を築いている最中だった。防壁とはいっても巨大な盾のような物体で、取り付けた車輪で動かせるようになっているらしい。
鍛冶を主な産業としていることから、この町は戦に関わる道具作りにも長けているようだ。
「このような道具は初めて見ました」
ミィラスが言うと、親方の一人が「そうだろうなぁ」とあごひげを撫でながら言った。
「なにせ最後の戦が百年以上前だ。俺たちも古い設計図を引っ張り出してきたんだからな」
おれたちゃ ほいさと……
おれたちゃ ほいさと……
唐突に太い歌声が耳に入った。ミィラスはきょろきょろと周囲を見渡す。
通りを歌いながら歩いて行く男たちがいた。鍛冶職人たちに交じって、人夫が数人だ。
「彼らは?」
「ああ……あれは砂鉄採りと精錬の奴らだ。ルパーネ河の支流には、川底に砂鉄が大量に堆積している場所があるんだ。この町で使う鉄はそこから来てる。今は精錬炉を閉じているから、そこで余った人手を手伝いとして呼んだのさ。この町が駄目になったら、あいつらも仕事が無くなるからな」
「なるほど……」
元気の良い歌声だ。いわゆる仕事歌と呼ばれるものだろう。ミィラスも子どもの頃、農園で使用人たちが歌っているのをよく聞いていたものだ。それを歌っていると、種まきや収穫の作業が手際よく進むのである。
人夫たちの歌には独特の抑揚があり、もちろん歌詞も聞き慣れないものだった。けれど肉体を酷使して働く者たちの、前向きな気持ちや気合いといったものがそこにはある気がした。
まっくろ 川底 さらった日にゃ
まっかな ほむらに ふいご 踏め踏め
まっくろ冥府の まっかな道に
とろとろ流れる 川むこう
おれたちゃ ほいさと踏み越える……
おれたちゃ ほいさと踏み越える……
力強い歌になにやら元気を分けられた気がして、ミィラスはすっと背を伸ばした。が、ふと気づいて眉をひそめた。
冥府だと?
人夫たちは通り過ぎて行ってしまったが、彼らが元気よく口ずさんでいた歌は、ミィラスの脳に残り続けた。
そこへ、ディアンが走り寄ってきて、ミィラスの背中をバシンと叩いた。
「ああ、おかえり」
振り向いたミィラスが言うと、少年は「ん!」とぶっきらぼうに蝋板を差し出す。彼のもう片方の手には新しい尖筆が握られていた。
蝋板はミィラスの手によって、新しい蝋が敷かれ、筆記に差し支えないように修理されていた。また、その際にミィラスは、お手本用に刻まれていた「ディアン」という文字をそっくり写し取り、木枠の部分に全く同じ形になるように刻みつけた。蝋を塗り直しても、それだけは残るように。
蝋の表面には、几帳面な線で図形のようなものが記されていた。簡単に言えばミィラスが描いたここザルバの町の地図であり、その上に不器用に歪んだ印が書き加えられている。
「言われた通りに、見つかるだけ探してきたぜ。チッ! あーあ、疲れた!」
ミィラスは蝋板を見ながら、懐から紙片を取り出した。白夜城の地下の石碑からパルラが写し取ったもの、そして盗賊と出会った石祠群で見た文様のいくつかを書き写したものだ。
ディアンはミィラスに言われて、町の随所に点在する古い石組みや、風化した石祠に残っている文様の場所を、慣れないながらも蝋板の地図に書き加えて来たのだ。
ミィラスは頷いた。
彼は偶然気づいたのだが、この町には旧き神々に関する遺物が、そこかしこに存在していたのだ。大昔の信仰の痕跡として、石祠群と同じあの特徴的な文様が、壊れた石組みに刻まれてあるのを発見したときは、思わず感動した。
これらの石組みは、形状から判断するに防塁の跡だろう。きっとかつては町の規模は今より小さく、防塁によって囲われていたのだ。その後町が外へ広がり、用を成さなくなった防塁が、町の中に崩れた石塊として放置されているに違いない。
「魔物が現れた場所がこの辺りか……」
ミィラスは地図の一点に丸をつける横で、ディアンがぶすくれたように「ちぇっ」と舌打ちした。
「そんなことして何になんのさ。ま、どうでもいいけどさあ。俺も柄にもねえことしちまったぜ!」
「ありがとう。お腹は空いた?」
「空いた!」
ディアンが不機嫌そうに叫んだ。だが実際のところは機嫌を損ねているわけでもないのだ。ミィラスは懐からパンを取り出して少年に渡す。
若い聖典楽師の隣で、町の厄介少年が大人しくもさもさとパンを食っている様子を、周囲の人間は奇異と驚きの目で見つめていた。
ミィラスは蝋板の上に紙を置き、石墨で素早く地図を写し取ると、蝋板をディアンに返す。
「手伝ってくれてありがとう」
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