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楽園追放の原因となったその果実は林檎ではなく、オレンジだったという。また、冥界の王が妃に食べさせたのも、柘榴ではなくオレンジだったという。みずみずしくあふれ出る果汁は生命のスープ。全てはオレンジから生まれ、オレンジに還る。
「ふざけるな」
男は少女に向かって言った。
ピピッ……ピピ……ピピッ……ピピッ……
ひそひそ……ひそひそ……ひそひそ……
探検隊のレーダーが地中深くで捉えたのは、鼓動のような電子信号と、人間のささやきに似た雑音だった。
彼らは、何かが分厚い岩壁の向こうに存在していることを知ったが、ついぞ辿り着くことはできなかった。岩があまりに強固だったことと、間もなく下された帰還命令が彼らに時間を与えなかったことによる。
正体不明の信号と雑音については、『ブラッドオレンジ計画 第5次報告書』の中で言及されているが、ほんの短い記述に留まった。そして誰にも顧みられることなく、歴史の狭間に消えていった。
中央都市マンダリは混乱の中にあった。突如として発生した大地震により、美しかった建造物群は破壊され、交通、通信、生命維持、あらゆるインフラが機能を停止したためである。
暗闇の中で四角い光が点滅している。
それは、小さな端末の画面であった。崩落した地下街に取り残された少女──ステラは、瓦礫に押しつぶされる恐怖に怯えながら、救難信号を発して外部との連絡を試みていたのだった。
いくら待てど、応答はない。
ステラの細い手足には、あざができている。この程度の軽傷で済んだのは幸運だったが、このまま発見されなければ、死が待っている。
死。
少女にとって、〝死〟の概念は全くの未知であった。少なくとも、〝オレンジ型循環〟から外れることは、通常の人間であれば予測もつかないことであり、計画外の事であり、また大罪であったため、少女は〝死〟というものを理解していなかった。
しかし彼女の視界の端には、いくつもの死体があった。地下街の崩落に巻き込まれた犠牲者たち──この場所には〝死〟の気配が濃厚に漂っていた。〝死〟を知らぬ少女にとって、それはただ生物が物体に変わった結果に過ぎなかったが。
端末の頼りない発光が、暗闇を淡く照らし出す。
ぞわ……ぞぞぞ……ぞるぞる
何かが蠢くような音。ステラは眉間に不安を浮かべて周囲を見渡した。
次の瞬間、にゅるにゅると瓦礫の隙間から無数の何かが這い伸びて来た。
縄──否。蛇──違う。それにはところどころ節があり、表面はつるりとしている。
蔓性の植物。
触手のようにうねるそれらは、あっという間に空間を埋めると、瓦礫の間でひしゃげた数々の死体を覆い尽くしていく。
「あ……!」
ステラの悲鳴は、ほとんど吐息と変わらなかった。
蔓の先端には口のような器官がある。それが死体を貪り食っている。流れ出る体液をすすり、肉を食いちぎり、骨をかみ砕く陵辱的な音がこだました。
蔓の一本が彼女にも伸び、華奢な身体に触れる。
「ひっ」
ステラが手で払いのけるよりも早く、蔓は少女を引きずり倒し、その口内に侵入した。彼女の手から端末が滑り落ち、光を失う。
蔓が喉に潜り込んでくる。圧倒的な異物感と不快感。気道が塞がり息ができない。身体がびくびくと痙攣し、目尻からは涙がこぼれ落ちた。
蛮行はしばらく続いた。だがステラを死なせはしなかった。
やがて少女の意識はオレンジ色に染まっていく。苦痛がほどけていき、ふわふわとした夢見心地に包まれる。甘酸っぱい果実の香りが鼻腔を満たした。身体の芯がじんとしびれ、どこかで聞いたようなわらべ唄が脳裏に浮かび上がった。
オレンジひとつ みのった
枝からぽとり おっこちた
オレンジふたつ みのった
あなたにひとつ あげましょう……
そして、それは唐突に終わる。
気がついたときには、ステラは蔓から解放されていた。彼女はぼうっと虚空を見つめ、甘美なオレンジ色の夢の余韻を味わっていた。恐怖はもはやない。
蔓は瓦礫の隙間を通って、ぞるぞると去って行った。がらんとした空間に、ステラだけが残される。死体は跡形もなく消えていた。
端末が振動し、光が戻る。ステラは横たわったまま、端末を拾い上げた。どうやらどこかの信号をキャッチしたらしい。
気怠い身体をなんとか起こし、ステラは立ち上がる。
もしかしたら、救助隊かもしれない。
「誰か……いるの?」
少女の声が空間を伝っていく。
答える者はいなかったが、彼女は一縷の希望を胸に、信号の発信源に向かった。
歩いて行くうちに、周囲の様相が変わっていく。地下街の残骸から、岩壁、そして見たことのない材質へと。
辿り着いた行き止まりで、ステラは足を止める。
そこにあったのは、一機の黒いカプセルだった。
ピピッ……ピピッ……
心電図に似た電子音とともに、カプセルの無機質な表面に光の線が走る。
シュー……と蒸気を吐き出しながら、少女の目の前で扉が開いていく。そうして露わになった内部は、霜の膜で覆われていた。まるで氷のさなぎのようだ。が、それを突き破るように、にょきっと二本の腕が伸びる。
「……げほっ」
カプセルから覚醒した男は、肺に空気を取り込もうと息を吸った。
次の瞬間、目を見開いた彼は、倒れ込むようにカプセルから転げ落ちた。
男は震える手で機械の側面をなぞり、凹凸を引き出す。彼がそこに収まっていた装置を取り出すのに、手間取っておよそ十秒かかった。その間に、男の顔からは血の気が引いていく。
やっとのことで装置を顔面に装着すると、彼はやや落ち着いて動きを止めた。
ふと、背後で何者かの気配がした。男が振り返ると、ひとりの少女が呆然と突っ立って、こちらを凝視している。
男はびくりと硬直した。
「……誰だ」
警戒の色を滲ませて、問う。
少女は答えなかった。
男が怪訝に思っていると、彼女は目の前で失神した。
ステラが目覚めると、暗闇を照らすカプセルの光が見えた。そして次に、自身の身体にかけられた毛布と、少し離れたところに座っている男が目に入る。
「……起きたか」
男がステラを見た。
ステラはのろのろと身を起こすと、「あなたは誰」と男に尋ねた。
「それは、俺が最初に訊いた」
彼は憮然として言う。
ステラは瞬きした。
「私はステラ。あなたは?」
「……アダムだ。アダム・ベイカー」
男の名を聞いたステラは首をかしげる。
「名前が二つあるの?」
「……は?」
彼が眉を寄せるので、ステラはきょとんとして「アダム・ベイカー」とつぶやいた。
「名と、姓だが」
「〝姓〟って、なに?」
「お前は何を言っているんだ?」
アダムは不思議そうにステラを見る。だが少女からも不思議そうに見返され、居心地が悪くなったのか「まあいい」と言った。
「俺は地上に出る。お前が気を失っている間に、脱出できそうな場所を見つけた。どうやら大規模な地殻変動があったようだが……とにかく、俺にはやることがある」
男はカプセルの中から様々な装置や道具などを取り出すと、手早く一つの荷物にまとめた。
ステラは毛布をたたみ、アダムに差し出す。
「これ、ありがとう」
「ああ」
アダムはぶっきらぼうに答えると、受け取った毛布を荷物の中に放り込む。
「ねえ、それなに? あなたが顔につけているもの」
ステラは、アダムの顔を半分覆っている装置を興味津々に指さした。
「呼吸を補助するマスクだ」と彼は答える。
「ここは酸素が薄すぎる。お前はどうして平気なんだ?」
「酸素が薄いですって? そんなことないと思うけれど……」
ステラはすーはーと深呼吸してみる。普通に呼吸できるし、苦しくもなんともない。
「俺が寝ている間に、人類が環境に適応したのか……?」
アダムはぶつぶつと言いながら、荷物を担いですたすたと歩き出す。
「あ、待って! 置いていかないで」
ステラはアダムの後を追って駆け出した。
アダムが振り返る。
「こっちだ。早く来い。俺は急いでいる」
「ふざけるな」
男は少女に向かって言った。
ピピッ……ピピ……ピピッ……ピピッ……
ひそひそ……ひそひそ……ひそひそ……
探検隊のレーダーが地中深くで捉えたのは、鼓動のような電子信号と、人間のささやきに似た雑音だった。
彼らは、何かが分厚い岩壁の向こうに存在していることを知ったが、ついぞ辿り着くことはできなかった。岩があまりに強固だったことと、間もなく下された帰還命令が彼らに時間を与えなかったことによる。
正体不明の信号と雑音については、『ブラッドオレンジ計画 第5次報告書』の中で言及されているが、ほんの短い記述に留まった。そして誰にも顧みられることなく、歴史の狭間に消えていった。
中央都市マンダリは混乱の中にあった。突如として発生した大地震により、美しかった建造物群は破壊され、交通、通信、生命維持、あらゆるインフラが機能を停止したためである。
暗闇の中で四角い光が点滅している。
それは、小さな端末の画面であった。崩落した地下街に取り残された少女──ステラは、瓦礫に押しつぶされる恐怖に怯えながら、救難信号を発して外部との連絡を試みていたのだった。
いくら待てど、応答はない。
ステラの細い手足には、あざができている。この程度の軽傷で済んだのは幸運だったが、このまま発見されなければ、死が待っている。
死。
少女にとって、〝死〟の概念は全くの未知であった。少なくとも、〝オレンジ型循環〟から外れることは、通常の人間であれば予測もつかないことであり、計画外の事であり、また大罪であったため、少女は〝死〟というものを理解していなかった。
しかし彼女の視界の端には、いくつもの死体があった。地下街の崩落に巻き込まれた犠牲者たち──この場所には〝死〟の気配が濃厚に漂っていた。〝死〟を知らぬ少女にとって、それはただ生物が物体に変わった結果に過ぎなかったが。
端末の頼りない発光が、暗闇を淡く照らし出す。
ぞわ……ぞぞぞ……ぞるぞる
何かが蠢くような音。ステラは眉間に不安を浮かべて周囲を見渡した。
次の瞬間、にゅるにゅると瓦礫の隙間から無数の何かが這い伸びて来た。
縄──否。蛇──違う。それにはところどころ節があり、表面はつるりとしている。
蔓性の植物。
触手のようにうねるそれらは、あっという間に空間を埋めると、瓦礫の間でひしゃげた数々の死体を覆い尽くしていく。
「あ……!」
ステラの悲鳴は、ほとんど吐息と変わらなかった。
蔓の先端には口のような器官がある。それが死体を貪り食っている。流れ出る体液をすすり、肉を食いちぎり、骨をかみ砕く陵辱的な音がこだました。
蔓の一本が彼女にも伸び、華奢な身体に触れる。
「ひっ」
ステラが手で払いのけるよりも早く、蔓は少女を引きずり倒し、その口内に侵入した。彼女の手から端末が滑り落ち、光を失う。
蔓が喉に潜り込んでくる。圧倒的な異物感と不快感。気道が塞がり息ができない。身体がびくびくと痙攣し、目尻からは涙がこぼれ落ちた。
蛮行はしばらく続いた。だがステラを死なせはしなかった。
やがて少女の意識はオレンジ色に染まっていく。苦痛がほどけていき、ふわふわとした夢見心地に包まれる。甘酸っぱい果実の香りが鼻腔を満たした。身体の芯がじんとしびれ、どこかで聞いたようなわらべ唄が脳裏に浮かび上がった。
オレンジひとつ みのった
枝からぽとり おっこちた
オレンジふたつ みのった
あなたにひとつ あげましょう……
そして、それは唐突に終わる。
気がついたときには、ステラは蔓から解放されていた。彼女はぼうっと虚空を見つめ、甘美なオレンジ色の夢の余韻を味わっていた。恐怖はもはやない。
蔓は瓦礫の隙間を通って、ぞるぞると去って行った。がらんとした空間に、ステラだけが残される。死体は跡形もなく消えていた。
端末が振動し、光が戻る。ステラは横たわったまま、端末を拾い上げた。どうやらどこかの信号をキャッチしたらしい。
気怠い身体をなんとか起こし、ステラは立ち上がる。
もしかしたら、救助隊かもしれない。
「誰か……いるの?」
少女の声が空間を伝っていく。
答える者はいなかったが、彼女は一縷の希望を胸に、信号の発信源に向かった。
歩いて行くうちに、周囲の様相が変わっていく。地下街の残骸から、岩壁、そして見たことのない材質へと。
辿り着いた行き止まりで、ステラは足を止める。
そこにあったのは、一機の黒いカプセルだった。
ピピッ……ピピッ……
心電図に似た電子音とともに、カプセルの無機質な表面に光の線が走る。
シュー……と蒸気を吐き出しながら、少女の目の前で扉が開いていく。そうして露わになった内部は、霜の膜で覆われていた。まるで氷のさなぎのようだ。が、それを突き破るように、にょきっと二本の腕が伸びる。
「……げほっ」
カプセルから覚醒した男は、肺に空気を取り込もうと息を吸った。
次の瞬間、目を見開いた彼は、倒れ込むようにカプセルから転げ落ちた。
男は震える手で機械の側面をなぞり、凹凸を引き出す。彼がそこに収まっていた装置を取り出すのに、手間取っておよそ十秒かかった。その間に、男の顔からは血の気が引いていく。
やっとのことで装置を顔面に装着すると、彼はやや落ち着いて動きを止めた。
ふと、背後で何者かの気配がした。男が振り返ると、ひとりの少女が呆然と突っ立って、こちらを凝視している。
男はびくりと硬直した。
「……誰だ」
警戒の色を滲ませて、問う。
少女は答えなかった。
男が怪訝に思っていると、彼女は目の前で失神した。
ステラが目覚めると、暗闇を照らすカプセルの光が見えた。そして次に、自身の身体にかけられた毛布と、少し離れたところに座っている男が目に入る。
「……起きたか」
男がステラを見た。
ステラはのろのろと身を起こすと、「あなたは誰」と男に尋ねた。
「それは、俺が最初に訊いた」
彼は憮然として言う。
ステラは瞬きした。
「私はステラ。あなたは?」
「……アダムだ。アダム・ベイカー」
男の名を聞いたステラは首をかしげる。
「名前が二つあるの?」
「……は?」
彼が眉を寄せるので、ステラはきょとんとして「アダム・ベイカー」とつぶやいた。
「名と、姓だが」
「〝姓〟って、なに?」
「お前は何を言っているんだ?」
アダムは不思議そうにステラを見る。だが少女からも不思議そうに見返され、居心地が悪くなったのか「まあいい」と言った。
「俺は地上に出る。お前が気を失っている間に、脱出できそうな場所を見つけた。どうやら大規模な地殻変動があったようだが……とにかく、俺にはやることがある」
男はカプセルの中から様々な装置や道具などを取り出すと、手早く一つの荷物にまとめた。
ステラは毛布をたたみ、アダムに差し出す。
「これ、ありがとう」
「ああ」
アダムはぶっきらぼうに答えると、受け取った毛布を荷物の中に放り込む。
「ねえ、それなに? あなたが顔につけているもの」
ステラは、アダムの顔を半分覆っている装置を興味津々に指さした。
「呼吸を補助するマスクだ」と彼は答える。
「ここは酸素が薄すぎる。お前はどうして平気なんだ?」
「酸素が薄いですって? そんなことないと思うけれど……」
ステラはすーはーと深呼吸してみる。普通に呼吸できるし、苦しくもなんともない。
「俺が寝ている間に、人類が環境に適応したのか……?」
アダムはぶつぶつと言いながら、荷物を担いですたすたと歩き出す。
「あ、待って! 置いていかないで」
ステラはアダムの後を追って駆け出した。
アダムが振り返る。
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