鮮明な月

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第十章 once in a blue moon

84.

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儚げで母の美しかった顔の最後の記憶は、実は無惨な柘榴のように崩れていた。それを思うと今でも心は震えるし、何故と叫びだしそうにもなる。母の仕事はとある会社の総務課で、脚立の上で蛍光灯を変えていただけだったと言う。
偶然倒れた、その場所が悪かったと多くの人が言った。
吹き抜けのエントランスホールを見下ろす一番端の蛍光灯を換えている最中に、心臓発作で手摺側に倒れこんだ。そのまま手摺を乗り越えて四階分の吹き抜けを、一階のエントランスの床まで落下するなんて。それはただもう、運が悪いとしか思えない。一つだけ幸いだったと今でも感じるのは、少なくとも心臓の発作は致命的なもので、ぶつかる痛みを感じる前に既に亡くなっていたことくらい。

頭から落ちる母は瞬間に何かを感じたろうか。

胸の痛み以外に何を感じて、何を思っただろうと生前の面影のない遺体を見下ろし考えていた。同時にまだ未熟な子供だった彼女の息子は、あんたには罰があたったんだと残酷に彼女に似た顔で考える。
不義の子供を宿した母に、最後の罰が訪れた。
そんな風に受け止めた息子は、事故件場を訪れても何も感じられなかったし労災と多額の保険料が支払われても何も感じない。そのまま彼自身も何も変わらないと考えていたのに、その稚拙な考えは脆くも突き崩された。残された日記と身近に母と付き合いのあった職場の同僚から、全ての真実を岩を投げつけられる勢いで叩き付けられたのだ。
多くの真実を聞いて理解した瞬間、息子は呆然と既に骨に変わった母を見つめる。

何故、もっと前に話してくれなかった?

そう問いかけてから、それをさせなかったのは自分だと気がついて唇を噛んだ。母が苦汁を舐めながら必死に自分を産み育てていたことも、自分の居なくなった後を思っていたことも、自分がどんな経緯で産まれ、何故母がそうしてきたかも。知っていたら自分は母を許せていたか?知っていたら、母を労っていたか?知っていたら、母を守ろうとしていたか?問いかけにそうだと答えることもできずに、自分の愚かさを心から憎んだ。憎むと同時に少しでも罪をあがなう為に、母の想い続けた相手と母を最後に一目会わせようと足掻いた。だが、それは更に息子に罪を背負わせるだけ。だから、彼は母を否定して拒否する父や祖母を憎んでいくしかなくなった。
息子はその負の連鎖じみた状態に陥った辺りから、奇妙な異変を感じるようになった。唐突にマンションの開放的な階段から空が見えた瞬間、激しい眩暈で階段に座り込んだ自分に気がつく。

激しい悪寒と眩暈。

マンションの一部外部に開放された階段を降りようとすると、それに襲われて何度もへたりこむ自分。次第にそれは顕著になっていき、通う高校の屋上すら上がれなくなっていく。校舎や建物内の階段を一階降りる程度なら何とかなるが、長い階段やエスカレーターが使えなくなる。やがて吹き抜けに近い場所に近寄ることすらも出来なくなった。景色のいいという場所にも近寄れなくなっていく。その状態が何故起きるのかクリニックにかかったこともあるが、答えは更に残酷な宣告だった。

恐らくPTSD でしょうね。

母の死んだショックで心的外傷後ストレス障害になったと、医師から診断された自分は呆然とする。自分は痛みも何もかも母に負わせて、母を追い詰めてきた。その結果が母の死なのに、自分は女々しくも図々しくもショックを受けて心を病んだ?そんなのは馬鹿げている。何一つ母を助けようともせずにいたのに、自分だけが助けを求めるなんてと思わずにはいられない。診断を受けたその足で母が落下して落ちた現場に行った自分は、以前は立つことが出来た母が落ちた場所に立とうとして出来なかった。近寄ろうとしただけで、激しく眩暈がして世界が揺れる。下が見えもしない距離なのに、その場で嘔吐し倒れた惨めな自分の有り様。会社の人が母の死にショックを受けて倒れたのだと、好意的な方向で自分を労る。

これが、きっと母を疑い追い詰めた自分への罰なのだろう。

心の底から自分はそう考え、二度とそこには足を向けない。母を失った場所を振り返ることも、新しく広大な景色を眺めることも。二度と許されないから、自分は罪を償いながら生きていくしかないのだ。そう眠りにつく度に、罪の重さに泣き出したくなる。

「恭平、大丈夫だよ。……ここにいるよ。」

夢の中にフワリと暖かい柔らかい声が、優しい吐息で耳元に降り落ちる。そして抱きかかえられ優しく背を擦られる暖かい手の感触。何年も夢の中で繰り返した後悔と懺悔に、許しを与えるような穏やかな声。
ホッと安堵の吐息が溢れて体の力が抜け、もういい、ちゃんと向き合えるようになったんだから怖がらなくていいと心が呟くのが聞こえる。一人で背負う筈だったのに、その腕が一緒に背負ってくれると自分の苦悩を理解してくれた。その瞬間から記憶は少しずつ色を変えて、今では時に母の笑顔の夢を見ることすらある。そして彼が包んでくれれば、少しだけ遠くまで光景が見渡せるうになっていく。

「我慢しなくていい、泣いてもいいよ、傍にいるから……ね?」

柔らかく耳を擽る甘い声。実はその低く甘い声が堪らなく好きだと言ったら、相手はどんな顔をするだろう。そんな事を夢の中で思うと、きっと言った途端大型犬みたいにすり寄ってきて嬉しそうにあの藍色がかった瞳をキラキラさせるんだと自分が答える。

「大丈夫…………大丈夫だよ……、恭平。」

その声が好き、もっと囁いていてほしい。また抱き締められて、一緒にあの美しい月夜の湖を眺めたい。そう願うだけで、まるで相手には伝わっているみたいに、優しく囁き声は繰り返される。

「じ……せぇ……。」

夢現に自分が名前を呼ぶと、優しく低く甘える声で「なぁに?」と耳元に囁きかける柔らかい吐息。傍にいてくれて嬉しい、そう夢の中で呟いた言葉は、彼に聞こえているような気がする。




※※※



ふっと薄暗い空に視線を向けた仁聖は、がさつくスーパーの袋を片手に気遣わしげに薄い雲の掛かり始めた夕暮れ空を見上げた。
高校三年の冬。
二学期末の自爆テロなんていう世にも稀な一大事件のお陰で、例年と比較しても一週間も短い冬休みは呆れるほどあっという間に終わった。それでも夏休みの終わりと違うのは、また何時かを期待しないで良いこと。大事な人の直ぐ傍で日常の些細な生活を遅れる幸せは、仁聖にとって産まれてから一番に満たされた日々なのだ。
一応センター試験は受験したものの、専願の推薦入試を受けていた仁聖は一足先に受験戦争から抜け出した。既に卒業後の進路も決まり学生生活も後ほんの少ししかない。しかも、高校生活自体は三年生は、既に自主登校期間に移行し始めている。同じく推薦入試で合格が決まった宮内慶太郎も、生徒会の役員も引き継ぎが終わり気が抜けたと話す始末だ。他の大部分の生徒には申し訳ないことこの上ないが、本心では早く卒業して少しでも独り立ちしたい。大人として認められるようになりたいというのが、今の仁聖の正直な本音でもある。

ひっそり隠すように胸に下げた指輪を早く薬指にはめたい。

大事な人との何もかもを偽って隠して生活するのは大分ストレスで、今まで自分がしたことの無いほど日々我慢していることに気がつく。恭平との関係が面白おかしく噂になっているのは可愛い後輩が教えてくれたが、それが真実なのを隠したいなんて実は一欠片も思ってない。本当は大々的に宣言してしまいたいくらいだ。本当はもっと沢山一緒に歩きたいし、もっと手も繋ぎたい。

ちょっと前まで全然我慢しなかったのに……キスも、手を繋ぐのも。

昨年末に起きた成田了との出来事で、自分の浅はかさが痛切に身に染みた。とは言え、本心では一番大事にしたい人と、もっと身を寄せ合いたいと切に願っている。せめて学生の間は我慢しなきゃと小姑のように言い聞かせていた幼馴染が、一歩先を行くように状況を大きく変えたことが余計その焦燥を深めてもいた。

真希が羨ましい………。

結納を先週終えた坂本真希は、表立っては公言していないが名実ともに村瀬篠のお嫁さんの準備を始めている。彼女は進学を一端断念したといっているが、それだって別に今すぐでなくても大丈夫だと仁聖は思う。何せ坂本真希なのだ、出産して子育てが一段落したら、希望したものは必ず叶えるに違いない。そう分かっているから、仁聖には幸せそうな彼女が羨ましいくてしかたがない。彼女はもう隠す必要性もないのだ。ふぅっと深い溜息をついたその頭をフワリと指が触れて優しく撫でた。

「どうした?ボーっとして?」

少し気遣う様子を浮かべ指輪の光る細くしなやかな手。思わずそっと握り引き寄せて唇を触れると、恭平が少し困ったように苦笑する。その表情に気がついて我に返ったように仁聖は、慌てて手を離した。
以前女性と付き合っていた時は、それほど自分からこんな風に触れたくなることなどなかった。それなのに意図したつもりもないのに、気がつくとついこうしてその肌に触れてしまう。

「ごめん…つい……。」
「ん?いや…別に何も?」

不思議そうに自分を見つめた恭平の視線に恥ずかしげに仁聖は視線を下げると溜息をつく。

「もしかして、俺ってスキシンシップ過多?」

その言葉に少し可笑しそうに横に並んだ恭平が微笑む。
1月末の冷えた空気の中でフワリと微笑むその表情は、とても甘く暖かく漂って、淡雪みたいに消えてしまいそうな程に澄んでいる。うっとりとそれを見つめる仁聖に、思わず更に苦笑を交えて微笑みながら、恭平が少し頬を染めて白い吐息を溢して呟く。

「今更気がついたのか?」
「う…やっぱりそうなの?」

全く否定もされない言葉に、仁聖は躊躇いがちに小さな声で反省すると呟いた。不意に視線を伏せた恭平の様子に、仁聖が不思議そうにその横顔を見つめる。その視線に気がついているように恭平の空いた指が、躊躇いがちにそっと仁聖の指先に触れて指先を絡めた。微かに驚きながらも指先を握るそのひんやりした感触に、仁聖が嬉しそうに微笑む。自分からは過度にふれないように気をつけるようにした反面、そうやって恭平が自分から手を伸ばしてくれることは酷く嬉しい変化でもあった。

「でも………。」
「うん?何?恭平。」

言いよどむその横顔を不思議そうに眺めていると、視線を落したままの恭平が僅かに頬を染めるのに気がつく。

「……お前のせいかな?……嫌じゃない。」

言葉少なでもそう小さく呟く。恭平の姿に胸の奥が疼く気持を抱き、仁聖はその手を大事そうに握りしめる。その感触に恭平は少し恥ずかしそうに視線を伏せながらも、柔らかで穏やかな微笑みを浮かべゆっくりと帰途についていた。

「雪降りそうだね、早く帰ろ。」
「夜半には雲が切れるといいけどな。」
「ん?雪やだから?」

その言葉に恭平は意味ありげに言葉もなく微笑む。
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