鮮明な月

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第十四章 蒼い灯火

150.

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その日、まだ昼前の麗らかな陽射しに溢れ常時快適温度に快適湿度に保たれている筈のオフィス藤咲の事務所内が、一瞬にして空気が凍りつく永久凍土のツンドラ地帯に変貌するという事態に襲われた。

「ああぁ?なんだとぉおお?!」

野太くドスの効いた世にも恐ろしい怒号を上げたのは、言うまでもなく一見口さえ開かなければイケメンな社長・藤咲しのぶ。普段の穏和なオネエ口調は何処へやらの怒りに満ちた低い声に、和やかだった事務所内が一瞬で凍りつきシーンと静まり返ったのは言うまでもない。正直なところまた五十嵐海翔が何か学校でしでかしたかと担当でもあるスタッフは息を飲んだが、最近の五十嵐海翔は学校で友達が出来たせいか少し穏やかになっている。それに修学旅行以降一緒に出掛ける友達も出来たらしく、時には楽しげに学校であったことを話してくれるようにすらなったのだ。しかも、時には口論で怪我をさせた担任と、食事をした話までするようになりつつある。強い人見知りと強い不信感が拭われて、気性が荒い野性のアライグマが人になつきはじめたみたいだ等とこっそりスタッフ間では話しているくらいだ。

「何処の誰だっ!うちの子にそんなことしやがったのはっ!」

実際その電話の相手は、五十嵐海翔ではなくて源川仁聖だった。前日の駅の階段での事の顛末と太股の広範囲の内出血の話を聞いて、社長・藤咲の反応が怒号だった訳なのだ。数人スタッフが残っていた事務所の空気が完全に凍って、運悪く聞いてしまったスタッフが恐怖に青ざめている。
電話の向こうの仁聖としては今朝にはもう腫れも引いて痛みもないのだが、広範囲の内出血を心配した恭平に押しきられて病院を受診していたのだった。そうしているうち仁聖が内出血に関して、直ぐには消しようがないものだと今更気がついて電話をしてきたのだ。つまりは足が表に出るような写真は暫く撮れないと今更気がついたから一報をいれてきたのだが、以前何かあったらすぐ連絡とも言われていたわけで。流石に藤咲のうちの子宣言には仁聖も驚くが、まあ事務所のタレントなのでそう言えなくもないのかと納得はする。ただし藤咲に犯人をそう問われても、誰がやったのかに関しては、仁聖にも分からないので全く答えようがないのだ。

「駅だな?ホームは?五番か?!」
『そ…………だけど、それ、聞いてどうすんの?』

確かにあれは五番ホームを降りる階段での出来事なのは事実だが、それをこうして確認されて一体何が分かるのか仁聖にしてみれば地味に疑問ではある。が、藤咲はそこら辺は完全にスルーして、更に現状把握に声を張り上げた。

「骨は?!折れてないのか?」
『あ、診て貰ったけど打撲だけだってー。もう痛みもないから大丈夫だよ。』

そんな風に気にするでもなく仁聖はケロッとしているが、何よりも一番の問題なのは相手が実力行使に出てきたと言うことなのだ。睨んでいるだけなら兎も角、実力行使となると話が変わる。それを藤咲が言っても、仁聖はでも睨んでるのと同一人物かわかんないしという暢気な返答。

人間なぁ、そんなに身の回りに害意を持った人間ばかりいるんじゃやってられねぇよ

藤咲は正直なところ思うが、言うとおり犯人が分からないなら可能性としてはなくはない。なくはないが、そうは全く思えないのも事実だ。少なくとも突き飛ばすような実力行使をするほど、仁聖に害意がある人間は確かにいるのだ。
昨日の外崎宏太からの電話を聞いて直ぐに折り返し仁聖と連絡を取るべきだったと、藤咲は鋭く舌打ちしながら仁聖に今の居場所を問いただす。

『え?ホントに大丈夫だよー?藤咲さん。もうちっとも痛くないんだし。』
「そういう問題じゃないんだよ!あのな、話しておきたいこともある!お前、今家にいるのか?!」
『家……はちょっと困るから、俺がそっち行けばいいでしょ?』

こうなると暢気な仁聖に藤咲の至急性が伝わっていないのはどうにもならないし、仁聖が家でこの話をしたがっていないのにも気がついて藤咲は深い溜め息をつく。一端気持ちを落ち着けるとここに向かって来ると言うなら途中で落ち合うぞと藤咲が意味深に言ったのに、仁聖は不思議そうにならまた後でと返答する。電話を切った藤咲は暫し親指の爪を噛みながら思案すると、少し出てくると憮然とした声でスタッフに告げていた。



※※※



『仁聖のまわりに、彷徨いてんのは余り質が良くねぇな……。』

珍しく外崎宏太は呆れたように言う。
小松川咲子。
目が見えない外崎宏太が、どうにかして発見した仁聖の周辺にいる女の名前だ。
現在二十五歳の小松川咲子の職業は大手塾の社員で講師をしているが、源川仁聖と彼女自身の直接な接点は実は何一つない。それなのに何故この女がそうだと言えるのかというかは、少し遡って説明するしかないだろう。

小松川咲子には七つ年の離れた妹がいるが、この妹が源川仁聖の小学校時代からの同級生で中学までは一緒の学校に通っている。それに中学の間ほんの短い期間だが付き合っていた事があった。その中学生のお付き合いの時点で、小松川咲子は既に大学生・しかも現在源川仁聖が通う大学の文学部に在籍していたようだ。
当時小松川咲子は既に塾のバイト講師になっていたが、源川仁聖は塾には一つも通っていないのでここでも接点はない。ただ可能性としてニアミスしていたと思われるのは、源川仁聖がその当時中学生の癖に大学周辺を彷徨いていたことがあるということで。ただし源川仁聖は八つ年の離れた栄利彩花と付き合ったりはしたものの、タイプが真逆の小松川咲子とは接触してないと思われる。
高校にはいる時点で小松川妹は近郊の別な高校に入っているし、仁聖とは交際も終わっていたので自宅で出会う接点も失われている。何しろ仁聖と小松川妹の交際は僅か二ヶ月で、性交渉もない一緒に下校してファーストフード店に行くとかカラオケに行く程度の年相応の交際だった模様で妹にも良い思い出くらいにしか感じないようだ。

つまりは仁聖にしてみると、姉の咲子とは全く接点がないに等しい。それなのに何故彼女なのかと言うと、彼女は現在自宅から徒歩圏内の塾に勤めている。しかも塾の仕事というのは基本的には夜型で、彼女は事務職でもない兼任講師だ。他の一般企業のように朝から通勤というのがない勤務形態の彼女が、乗る必要のない満員電車に乗って二駅だけ往復して一端自宅に戻り昼過ぎに再度仕事に出る。それはここ数ヵ月の話だった。

『ワザワザ乗る必要のない電車に乗るために定期券まで買って、二駅だけ往復して、それを平日は続けてる。』
「他に理由つきそうか?」
『つくわけねぇだろ?万智の旦那の部下で、事務所は万智のマンションの下だぞ?自腹で定期券かって大学院つーならまだわかるけどよ。』

彼女は朝早くホームに入り、源川仁聖が乗るまでホームからでない。一緒の電車に乗って二駅行き、一応ホームから出はするものの駅の構内からは殆ど出ない。駅のコーヒーショップで五分ほど休憩して、改札を通り電車に乗ると家に戻るのだ。

「……今までどうしてたんだ……?」
『想像だがよ?中学まで妹が一緒だったってことは、自宅ってのは近いんだろ?』

そうか、と藤咲は不快そうに顔をしかめた。つまり現在だけでなくずっと以前から、源川仁聖は小松川咲子に密かにストーキングされていたという事なのかもしれない。例えば中学生の辺りから少しヤンチャな時期があった仁聖に、小松川咲子が目をつけて自宅からストーキングしていても今迄は徒歩だったし仁聖が適当に過ごしていたからまるで気がつかなかったのだろう。
だが、ここに着て源川仁聖は大きく代わり始めてしまったのだ。
今迄は叔父と暮らしていたのに、別な相手と暮らし始め指輪を嵌めるようになった。高校を卒業した途端、駅貼りになるようなモデルは始めているわ、大学生として生活圏まで広げている。しかも、今迄はどちらかと言えば女にだらしない傾向にあったという源川仁聖は、一途に恋までしていて、その相手を心底大事にし始めた。

「その変化は、容認できねぇか?」
『可能性としてはな?アイドルなら兎も角、個人に独占は自分以外は駄目とかいいだしてもおかしくはないかもな。何せ根が深そうだしな。』

それはそうだろう、ワザワザ定期券を買ってスーツ着込んで化粧までして、必要のない満員電車に乗るために、本来なら寝ている筈の時間を削っている。塾で兼任講師の社員の出勤帯は、八幡万智に聞いてもらったら午後の三時からの休憩一時間の八時間勤務だそうだ。つまり朝七時台の電車に乗る必要性は、研修やなにかで外部に出ない限りは必要ない。しかも塾の抗議終了は二十一時で、残務整理二時間で帰宅は午前零時前後。何度も言うが朝七時台の満員電車はまるで必要じゃないのだ。
文学部卒業の小松川咲子は出版関係の仕事かしたかったようたが、就職が上手く出来ずにそのまま塾講師から正社員雇用に変わっている。これで例えば大学の何かを伝に出版関係にいきたいのだとしても、彼女は駅すら出ないで大学までも行っていないのだ。そして仁聖が駅を出て暫くすると家まで帰って、昼過ぎまで家からは出ない。これが既に二ヶ月も続いていて偶然だというには気持ちが悪い。

『うちの若いのにチェックさせたけど、付かず離れずの距離でいるとよ。まあ、視線に関しては確定だろ。でも何もしてないから。ちとな、警察も何もしようがねぇだろうけどな。』

そう、確かに他派だ見ているだけ、ただ同じ電車に乗るだけの人間には、警察は何もすることは出来ない。でもそのストーキングが長ければ長いほど、感情はいりくんで根が深くはっている危険性がある。
根が深いのは一端キレると何するかわかんねぇから、気を付けさせろと外崎宏太は告げたのだ。それを藤咲はまだ見ている段階ならと暫し考え至急性はないかと、仁聖が次に事務所に着たときに話すと考えていたのだった。



※※※



「小松川…………って、同級生の?」

仁聖に話すが、当の仁聖も予想外すぎてまるでピンと来ていない。しかも同級生当人ならまだしも、その姉と言われたら尚更ピンと来る筈もないだろう。『茶樹』の片隅で説明された話に、なんで?と言いたげな仁聖に分からないでもないが藤咲は宏太から受け取った画像を見せる。

小松川咲子

写真を見ても全くピンと来ないくらいの薄い関係だ。言われればあの妹と少し顔がにているかも程度の感覚でしかない、スーツ姿の一人の女性。恭平のように記憶に目立つような花があるわけでもなく、まるで記憶に残っていないのにこの人が自分を見ているといわれても信じることも出来ない。

しかも小松川って…………


小学生の始めに他の同級生と一緒に自分を外人と揶揄したのに、中学にはその事を忘れて小学生から好きだったのと恥じらいなからいってきた小松川。アイコンとしてしか自分を見ない典型的な相手の、しかも姉。

「……どうやって調べるの?こういうの。」
「企業秘密。」

正直なところこの人が睨んでいるということよりも、どうやってこれを調べているのかの方がずっと気になるくらいだ。

「それでな?もし、こいつがお前を突き飛ばした相手なら、直ぐ警察に通報する。いいな?」
「え?でも犯人は見てないよ?俺。」

そこは気にするなと藤咲が言うからには何か方法はあるのだろうが、こんな女性に突き飛ばされたのだろうか。背後にいた大勢の人間の中にこの顔があったかどうかは、流石に仁聖にも判別がつかない。

「危害を加えたのがわかれば、接近禁止位はかけられるからよ。」
「そこまで必要?」
「お前がいらなくてもかけておかないと、次はこれですまないかもしれないんだぞ?心配なんだからよ。」

そっか、と仁聖は素直に納得する。藤咲にとっては自分は商品の一つなんだから、それは大事な事なんだなぁなんて妙に感心していたら、呆れたように藤咲が笑う。

「商品だって心配してんじゃねぇよ、お前は俺の息子みたいなもんだ。うちのスタッフもタレントも俺にとっちゃ大事な子供だ。守るのは当然なんだよ。」

思わぬ言葉に仁聖は目を丸くする。
大事な子供、息子なんだから守って当然。
恭平とは違う立場でそんなことを言われたのは、正直なところ初めてだ。勿論秋晴は叔父として仁聖の事を守ってはくれているのは分かっているが、子供として息子としてなんて言われたことがない。しかもそれが当然なんて、でも藤咲が本気で言っているのは疑う必要もないほど目に見えてわかる。

「……藤咲さんって、…………ほんと男前だよね。」
「あ?普通だろ?」
「いや、…………感動した。」

仁聖が素直にそういったのに少し決まり悪そうに藤咲はクシャクシャと仁聖の頭を撫でて、だから何かあったら直ぐ相談するんだよと笑うのだった。
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