鮮明な月

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間章 ちょっと合間の話3

間話58.記憶する

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狭山明良のまだ体温の残っているホッコリとしたマフラーを首元に巻き付けられながら、結城晴は酷く心細げな声で白鞘知佳に会ったと口にした。それに、冷えきった片手を取り上げた明良は、あからさまに不機嫌になって顔を歪めてみせる。

多分……あの後で明良は知佳と何か……話してるんだ…………。

何を言われるまでもなく、その顔を見ただけでそれが分かるのは晴が随分と明良の機微が理解できるようになったからかもしれない。明良は確実に知佳に対して強い不快感を持っていて、それはどうやっても覆しようもないのが話さなくても晴には分かるのだ。冷たい夜風に真綿のような真っ白な吐息を溢しながら、晴は真正面に明良を見つめてソッと呟く。

「…………チカ…………あの時の事………………。」

晴にあの時の話しをするのを、明良が必死に避けていてくれたのは晴にも分かっている。けれど、今の晴にはこの近郊で知佳と出逢ったことを、明良に対して隠す気にもなれない。あの決断のせいもあるのか今日知佳に会ったことは隠す気になれないし、その先にした会話も隠すつもりもなくなってしまっていた。それにここで出逢ったことを下手に取り繕っても、あの会話は結論として二人の下した隠しようもない最終判断のようなものだから話しても問題にはならない。

「…………酔ってて…………覚えてないって…………。」

微かで弱い晴の呟きに明良が真っ直ぐに瞳を覗き込むように見つめてきて、晴は思わず作り笑いめいた笑みを浮かべる。
知佳が忘れている筈がないと明良は思っているのだろうし、実際には正直に晴だって嘘なんだと思うくらい。当の知佳だってきっと嘘と分かっていての発言なのだと、晴だって思っている。嘘だとバレてないとはまるで思っていないけれど、それでも二人は分かっていて嘘をつく。そうすることに会話ではなくとも、示しあわせて決めたのだった。

「俺…………勝手に一人でへこんでて…………。」

社長である外崎宏太にまで八つ当たりしちゃったんだと晴は、少し俯き気味に視線を落として苦い後悔の味を感じながら呟く。
その会話の前とは言え、今日の晴の宏太への八つ当たりはとんでもなく的はずれだった。しかも宏太に『後悔なんてしないんだろ』なんて、途轍もない最悪としかいえない言葉を投げつけもしたわけで。この後日仕事に行ったら「ごめんなさい」とせめて頭位は下げておかないと、と晴は小さな声で呟きながら何気ないフリで視線をあげた

「はは、…………チカが覚えてないなら、こんなにヘコむ必要なかったね、俺。」

自嘲めいた笑みを敷く言葉を聞いた瞬間、明良の顔が苦痛を感じるように歪んでいた。幾ら夜とはいえ未だに人気の多い通りだと言うのに、明良は有無を言わさず両手を伸ばしてきて晴を腕の中に抱き締めていた。
最近人前とかを明良があまり気にしなくなったのは事実だけれど、こんな人気のある場所で抱き締められたのに晴の方が目を丸くしてしまう。

「明良…………。」

宝物みたいに抱き締めてくる力強くて暖かな腕。その腕の中に納められて明良の肩に顔を乗せると、何でか酷く揺らいでいる自分の胸の内に気がついてしまう。これで良いと思ったから嘘を受け入れた筈だし、この結末で納得した筈で、それを明良と笑い飛ばしてしまえば良いと思ったのに。

それに明良に………………

受け入れて貰えるのかどうか分からなくて、能天気に振る舞いたいのに。それが出来なくなっている自分は、何を感じてこんな風に『らしくない』様子を繰り返してウジウジと明良の前で迷い続けるのだろう。

後悔…………

覚えてないなら後悔も出来ないなんて、あの見ず知らずの青年には言われた。確かに覚えていなければ後悔は出来ないのだけれど、あの青年が能天気にノホホンとして見えたのは結局は後悔する必要がないということのような気もする。
後悔するだけいいなんて言うのも理解できなくはないけれど、こうして当事者になると本当は暗く苦しい。そしてどれだけ沢山のことを悔いて何かを変えたくても、今の晴にはそれにはどうしたら良いかが一つも分からないのだ。何よりも明良には前と同じく接したいのに、それが出来なくなったのだとしたら晴は絶望的だと

「…………明良…………もう、俺の事………………嫌い?」
「え…………?」

戸惑いながら問いかけた言葉に、明良が思わぬほどに驚いた声をあげて晴の顔を見つめ直す。それでもこうして抱き締めては貰えていても、以前のようにキスどころか明良にこれ以上触れて貰えない。それをどうしたら良いのか、もう晴には考えようがない状態になりつつある。

「俺…………明良に嫌われてる?」
「な…………んで、そうなるの?」

呆気にとられた明良の返答に、だってと晴は呟く。
知佳に触られた以降に明良が晴の身体に触れたのは外崎邸で風呂に入った時だけで、それから丸一週間抱き締めて寝たりはしているけど肌に明良は触れてこない。どんなに晴がベットの中で明良に肌をすり寄らせようと、明良は全く反応してくれなかった。

「…………だから…………。」

気持ちの整理がついたら、また触れて貰えるのか。それともこれは不可逆的な二人の関係性の変化なのか、だとしたらこれから晴はどうしたら良いのか。セックスだけが重要なのではないけれど、誰かに触れられた身体を厭われたままの関係は続けるには余りにも辛すぎる。そうポソポソと呟く晴に、明良は暫し無言でいたが不意に大きく深い溜め息を溢していた。

「…………晴……。」

溜め息混じりに名前を呼ばれて半分潤んだ瞳で視線を向けた晴に、突然明良のしなやかな指が中指と親指で環を作ったかと思うと『ズビシッ!!』と凄まじい音をたてて額に飛んできた。

「いだい!!!」

所謂デコピンなのだけど、地味に痛い。勿論普通の人間がやっても痛いけれど、多分本気ではないとはいえ空手有段者のデコピンが無防備なと頃にクリーンヒットしたものだから痛い。

「当たり前でしょ?馬鹿晴。」

額の激痛を両手で押さえて屈んで悶絶している晴に、容赦なく頭上から馬鹿の言葉を飛ばしてきた明良が晴と同じ目線に屈みこむ。そして溜め息混じりに膝の上で肘をつくと、不機嫌そうに晴の顔を覗き込みながら口を開く。

「俺がどれだけ我慢してると思ってんの?何のための我慢なの?馬鹿。」
「がま、ん?」

予定外の言葉に額を押さえながらもキョトンとした晴に、明良は仕方がないなぁ本当にと言いたげに笑う。多分晴にしたら自分の事より明良の反応ばかり気にしてたってことで、しかも自分で勝手に悪い方悪い方と考えを進めていたに違いない。ハァとあからさまにもう一度溜め息をついて、明良は晴の前に屈みこんだまま口を開く。

「あのさ?晴、怪我してたんだよ?分かってる?」
「怪我…………?」
「そこに俺のチンポ…………突っ込めないでしょ?傷開くでしょ?」

流石に周囲には聞こえない程の小さい声でとは言え、街中でそんなあからさまな事を言われてしまうのに晴は思わず頬を染める。それを見て穏やかに微笑みながら、明良は晴の頭をユックリと撫でる。

「お尻……治る迄大人しく我慢してたのに…………、晴の馬鹿。」

そうだった。確かに白鞘知佳の遠慮のない挿入を引き抜いたせいで、晴の大事なお尻の穴は少し切れて出血もしていたのだった。明良はそれを見てもいるし、その後手当てもしてくれたから、傷がどんな状態なのか知っている。だから我慢してたとアッサリ言われて晴はジワジワと顔を赤くしながら、明良の事を真っ直ぐに見つめていた。

「…………じゃ…………さ、触りたくない……とか、じゃ、ないの?」
「…………どう考えると、そこに辿り着けるのかなぁ……。」
「だって……怒ってるから触んないのかなって…………。」
「晴には怒ってないって言ったでしょ?俺。」
「いや、言ってたけど…………。」

そう言う、おバカなとこも可愛いけどと明良は苦笑いしながら、立ち上がって晴に手を差しのべる。晴がここ1週間鬱いで笑顔もなかったのは知佳とのことで落ち込んでいた訳ではなくて明良との関係について悩んでいたのだと知ったけれど、明良はそう言うとこが想定外過ぎて晴だよなぁと笑ってしまう。実はそれが明良にとっては嬉しいなんて晴は思いもしないのだけれど、差し伸べされた手をとると当然みたいに包み込まれて引き寄せられる。

「晴、そう言うなら、もう傷は何ともないって確認してもいい?」

グイと手を引かれて耳元でそんなことを甘い声で明良が囁くのに、晴の頬がみる間に真っ赤に染まる。都合良くこんな風に上げられて簡単に元気になってしまいそうな自分に晴がヘラと幸せそうに頬を緩めたのを認めて、明良は仕方ないなぁとさっさと歩きだしていたのだった。



※※※



だって俺何も覚えてないから、後悔なんてしようがないんだよね。

明る過ぎる金髪に人懐っこい笑顔。記憶障害。首元の酷い傷跡は外崎宏太の傷に良く似ていて、切り傷を縫い合わせたものなのだと分かる。ただ傷跡は宏太のように横一文字ではなくて、そう言い変えると刃先を突き立てたように幅が小さい。それってつまり宏太のように薙いだ訳ではなくて、刃先を突き刺したみたいな…………

記憶してるからこそ後悔したり悲しんだり、喜んだりすることが出来るんだよ

記憶障害。記憶してない。覚えてない。呑気にそんなことを口にした青年は、どこか見覚えがある。誰かに似ているのか…………仕事で関わった人間に似ているのか?あまり頻繁には会わない仕事関係?だからウッスラとしか記憶してないのか?そう言えば金髪の男って時々届け物のバイトに使ってるとか言う同じ年の青年を思い出す。晴や了には出来ないタイプのお届け物のためのバイトだと宏太が話していたが、届け物の内容は晴は説明されたことがない。槇山と言う名前の青年は目つきの悪い爽快に明るい金髪の男だけど、話すとザックバランで付き合いやすい奴でもある。

ヤンキーみたいな金髪が似てる?…………いや、あいつは地毛だし…………

そんなヤンキーに間違われる槇山は実はクォーターとか言う奴で、あのバリバリな明るい金髪は地毛なのだ。とはいえ金髪だけが同じなら、世の中には同じ程度の金髪は多々いる。それでも眠りながらもあの青年が気にかかっているせいか、何度も繰り返して記憶が再生され続けていた。記憶障害とあの青年は口にしたけれど、昨日の事はどこまで記憶していられるのだろうか。

…………ここの店、どうなったんですか?

不意に記憶の中でそう問いかけた声に、晴は『あれ?』と記憶に向かって首を傾げていた。
この声、この言葉、この口調。
どこかで聞いたことがある。
低めの掠れたハスキーな声で話しかけてきたのは、誰だっただろうか。
記憶の底を探るとそこでは自分が何処かのドアノブを握りしめて、路地の中で立ち尽くしているのが浮かぶ。
賑やかな花街から、路地を一本入って人通りのない場所。ドアは味気ない装飾もない物で、視線の高さには《t.corporation》という銀のプレートが嵌めこまれていた。

そうだ…………あそこで………………

そうだ、ここは外崎宏太がハプバーを経営していたと言う場所。振り返ると自分と同じくらいの年頃の黒髪の青年が穏やかな顔で、晴を真っ直ぐに見て立っている。背は晴と同じ百七十ちょっと、体型は自分よりはかなり華奢。短髪にカットされた黒髪は適度に流している風で、顔立ちは中性的というのが丁度いいかもしれない。眼鏡をかけているが、度入りのようではないからお洒落ということか。服自体はそれほど際立っているわけではないが、自己流に安価なものもお洒落に着こなしている。ほとんど同じ歳くらいに見えるけど、実は大学生くらいかもしれないと思うのは少し頼りなさそうに見えるからかもしれない。

「ここが前なんだったか知らないけど、今はうちの機械倉庫だよ?」

記憶の中で晴はそう答えていた。もしここで聞かれた時にはそう答えるようにと、事前から社長の宏太にきつく言われていたのだ。それでも質問が続いて答えにくかったら、社長に聞きますを通せとも言われていた。何しろこの中の機械は『耳』って便宜上は呼んでいるが、盗聴の端末の中継機器の山なのだから………………そこまで思い出せば、あの青年があの路地で出逢った青年なのは間違いがない。

そうだ、あの時はまだ黒髪だった…………だから余計分かんなかった……

あの後あそこであった青年の話しを、宏太達としただろうかとボンヤリと考えながら晴は気怠い身体を身動ぎして明良の腕の中に潜り込む。何でこんなに気になってしかたがないのか分からないが、あの青年には確かに会っていて会話もしているけど、名前を知らないのは正解だった。

…………俺に何にも感じないんだから、大丈夫。

何故か青年が呑気に見える笑顔で言った筈の言葉が、夢の中では鳥肌ものの悪寒に塗り変わって襲ってきて晴は暖かな明良の腕の中で微かに身を震わせていた。悪事を記憶していないと笑っていた青年が話したのは嘘だと言った筈なのに、何故か今は嘘だと言う言葉の方が嘘なのだとしか思えないでいる自分がいた。
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