鮮明な月

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第十七章 鮮明な月

244.

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「それ……、今迄のおねだりの中で、いっちばん……めんどくさ…………。」

それは何気ない嗤い混じりの一言。けれど、相手がそう言うだろうというのは、何となくだが前々から自分にも予期できていた気がする。自分とは違う世界に住んでいる相手の感性は、自分が当然と思うものとは全く異なるものだ。それはもう随分昔から理解していたし、理解していて頼みごとを持ちかけているのは自分。

分かっていて……それでもその力は魅力的だ…………

自分にはどうにも出来ないことを、意図も容易く叶えてしまうその力。そういうものを持っている人間はそういないのだけれど、この相手はそれを持っていて気が向けば自分を助けてもくれる。
それでも1度その口から放たれてしまった『面倒』という言葉に、思わずギクリと体の中が大きく軋んでいた。そして相手が今何を感じているのかを、その言葉から何とか察しておこうという緊張に息が詰まっている。ここでそうしないとならないのは面倒だから『しない』と答えるのならそれで構わないが、そうでない答えだった場合がありえるからだ。
今目の前にいるのは、自分と同じ同性。
だけどその相手の周りには、今も男女問わずに裸のイヌが数えきれないほどに乱れ溢れていた。酩酊して頭が壊れきったがイヌ達は理性には支配されず、ただ獣の本能で盛りあっていて、何者にも制止されずにそのままヘコヘコと激しく腰を振りあう。盛んに睦あって狂乱というのに相応しいイヌの交尾の最中で、冷や汗を滲ませた自分は相手を見下ろし息を詰めて立ち尽くす。

「煩いな…………、少し静かに。」

そんな狂った空間の中なのに、相手の低いたった『静かに』の一言でイヌ達まで凍りつく。この目の前の相手だけは何故か常に涼やかに身支度を乱すことなく、そこに何時も同じようにしてユッタリと座っている。もし、ここでこの相手が面倒くさいから『消えて』と一言でも自分に向かって言えば、足元のイヌが一斉に自分に牙を剥いて飛び掛かると知っている。何故なら実際にその光景を、自分は過去にここで見たことがあるのだ。
そして今ここで自分の頼みを『面倒くさい』といい放った相手は、自分が先に手渡していたそれを眺めて退屈そうに呟く。

「…………壊しちゃえばいいんじゃないの?」

躊躇いもなくそう冷ややかな声でいう相手に、思わず咄嗟にそれは困ると自分は大きな声をあげてしまっていた。確かにこれは自分から相手にこうしてほしいと頼んだことではあるけれど、やりすぎは困るのだと必死に訴える。
すると相手からはその剣幕が面白かったのか、不思議そうに嗤いながら『何故?』と問い返されてしまう。どうやら面倒臭いと感じたのは自分が頼んだやって欲しいことに対してだけだったらしく、自分や頼みごと自体にはそれほどの不快感は感じていない様子だ。ただ相手にとっては自分が頼んだことをそのまま実行するより、壊してしまった方が手っ取り早く簡単で楽な事なのだろう。それでもやりすぎだと確実に自分が何か関わりがあるのではないかと探られてしまう、自分は今そんな立場にいるのだと必死に訴えると目の前の相手は手元の写真を摘まんで嗤って見せた。

「なら、関係なく…………さ?」

何を言いたいのか分からない自分に向かって、相手は妖艶に嗤いながら自分が手渡したものの一つをその手で無造作にグシャリと握り潰す。

「巻き込まれて、勝手に壊れたんならいいってこと…………じゃないかな?」

ゾクリと震えるような恐ろしい微笑みでそういう声に、周囲に戯れていたイヌが吊られたように一緒になってゲラゲラと笑いだしている。不意にその嗤い声にこれが自分が頼んだことなのに、もうこれ以上自分には制止することも出来ないのに気がつく。頼んだことはもう止められないし、もう覆すこともなかったことにも出来ない。
それが分かっているから自分は思わず後退って逃げ出そうとしていたら、その後退りする脚に突然イヌが一匹纏わりついて絡み付いてくる。

「…………少し遊んでいけば?」

相手は迷うこともなく『それも遊んで欲しがっている』と言うのに、脚に絡み付くイヌを自分は思わず力一杯に蹴り飛ばしていた。蹴られて悲鳴のようなイヌの鳴き声が上がったのに相手が腹を抱えて楽しげに嗤いだして、それを合図にしたみたいにまた足元のイヌ達が逸物を立てて勢い良く盛り始めている。



※※※



穏やかに流れていた筈の夜の帳の中。
不意に湧き上がる体の苦痛が弾けたように、先に深い夢の底から目覚めることもなく外崎宏太はくぐもった悲鳴を上げて圧し掛かっている体を突き放そうと腕を突っ張らせていた。その突然の宏太の反応に身体が跳ねて、一緒に寝ていた外崎了は驚きに満ちた瞳で眼を見張り飛び起きる。身悶え痛みを伴う夢に悲鳴を上げる宏太を見下ろして、何が起きたのかと了はその手を掴んだ。それを普段と違って宏太は、バッと振り払っている。

「宏太?!宏太!!」
「ぐぅ!!…………ううっ!」
「こぉた!!?」

怒鳴り付けるように大きく自分を呼ぶ了の声に、ハッと鋭く息を吐きはしたものの宏太はまだ夢から抜け出せていない。そのせいか宏太が必死に悪夢の淵から目覚めようともがいている。普段なら四六時中大事そうに抱き締めてくる筈の腕が、必死に自分を払い除けようとしていた。
目が覚めてその状況なのに慌てたのは了の方も同じだけれど、手を伸ばしてペチッと宏太の頬を叩きながら名前を呼ぶ。そんな了が何とか普段のように身を寄せようとするのを、夢現の宏太の体が未だに全身で拒絶している。

「こぉた!!こぉた!起きろ!!」
「はっ!!ううぅ!」

痙攣するような激しいその反応に驚きもするけれど、不意にその身体が弛緩して抵抗が緩む。

「さ、とる?」

必死に夢の中を手探りでもがいているような宏太の声に、了は慌ててその頭をギュッと腕に抱き締めた。それに反応して再び大きくビクリと跳ね思うように動かない体を捩って逃れようとする宏太の体を、了が負けじと必死に抱き寄せようとする。そんな了の腕を音を立てて払いのけた瞬間、やっと何とか夢から逃れられたのか、今度こそ宏太の身体がふっと力を抜いていた。

「さとる…………了…………了、どこだ?」

そして手探りでベットの上を探す宏太の手に、一度払い除けられてベットに倒れ込んでしまった了が飛び起きて手を伸ばす。そうしてやっと指先で見つけた了を引き寄せて抱き締めてくる宏太の手が、実はブルブルと震えているのに気がついて了は戸惑う。以前から時々だが少しは魘されることはあるとはいえ、こんなにも宏太が酷く混乱するような夢に魘されたのを見たのは了も始めて見たのだ。

「どした?こぉた、落ち着け。な?」

息が詰まる程に強く抱き締めてくる宏太は、繰り返し了の頭を撫で・腕に抱き締め直しながら腕の中の了の存在を何度も何度も確かめている。

「了…………何ともないな?何処も、…………なにも。…………了。」
「だ、大丈夫だよ?……こぉた、夢、だから。夢。」

大丈夫・夢だと繰り返す了の声に、やっと宏太は自分が酷い夢に魘されていたのだと気がついたようだった。それでもまだ一向に不安が治まらないのか、宏太は抱き締めた了の身体を丹念に震える指で確認しているのに了も気がついてしまう。頭……そして頬、首、腕……と、丹念にだが宏太の震える指が、濡れていないか傷跡かないかと確かめていく。まるでそこに怪我をして血に濡れて、傷跡があったのをみたかのように、丁寧に探り確かめていくのだ。

「大丈夫だって、な?何ともないよ?夢だから、な?」

優しい声で了に抱き締められながら何度も繰り返されて、やっとホゥッと宏太の口から深い安堵の吐息が溢れ落ちていく。了に抱き締められながらあやすようにポンポンと背中を叩かれて大丈夫の言葉を繰り返されるのに、宏太は抱き締めた了の首元に顔を押し当てるように埋めていた。

「どんな夢みたんだ?」
「言いたくない…………。」
「悪い夢なら、話したらホントにならないっていうだろ?な?」

そう了が宏太に話すよう促して言うのに、『俺はそんなのは聞いたことがない』と宏太が顔を首元に押した当てたまま不貞腐れたようにも聞こえる低い掠れ声で呟く。それでも少しでも残った不安が紛れるならと自分でも思ったのか、躊躇い勝ちにではあるが了に向かって自分が寸前まて飲まれていた悪夢のことを口にする。

「お前がいなくなる夢を見た…………。何処にも……居なくて…………探して……。」

それ以上は言葉にしない宏太の様子は、まだ何時もとは違う。恐らく悪夢はそれだけではなかったのだとは流石に了も思うが、だからといってそれを無理矢理に話させることでもない。抱き締めたまま宏太のことを宥めるようにポンポンと背を叩き続ける了に、宏太は暫くそのまま動こうとしなかった。



※※※



白鞘千佳の姿が映っているという映像。

顔は了も知っているから了が確認したというし、声の聞き覚えがあるという宏太も確認したといわれた。それでも画像を見せて欲しいと結城晴は躊躇い勝ちに口にしたのだけれど、迷うことなく『駄目だ』と宏太には断られてしまった。それでも自分が探して欲しいと頼んだもので、しかも手がかりの映像媒体があるのに自分だけ見せてもらえないのは歯痒い。そう必死に2人に訴えてみても、了の方も晴には『お前はみない方がいい』と言うばかりだ。了が確認した限り白鞘は最後に2人が街中で顔をあわせた時とは、かなり面変わりしていたとはいう。
街中で竹田知奈と待ち合わせていると声をかけてきた白鞘。その後晴と2人きりで飲んで白鞘はブティックホテル・キャロルに晴を連れ込んだのだ。そして、その後あの時は酔っていて記憶がないと告げた白鞘千佳が、晴が見た最後の姿。
恐らくその日、そのまま駅の反対側の花街の居酒屋に行き、その後白鞘は行方が分からなくなってしまったのだ。それはお前の責任じゃないと宏太は言う。

あれは白鞘って奴が偶々捲き込まれただけだ。お前が責任を取るものじゃない。

そう宏太も了も口を揃えて言うけれど、何も知らないままなら兎も角、白鞘がそんな事態になっていると知ってしまった。それも自分とのことがあった直後に行方不明になって、そんなことに巻き込まれてしまったのは事実だ。あの時そのまま別れず、改めて話をしようとしていたら。そう思ってしまうのは晴にとって、確かに白鞘千佳は親友だったからだ。

何か出来ないんだろうか

自分には宏太のような能力もないし、それを了みたいに補佐することも出来ない。自分に出来るのは宏太の保護の下での『五十嵐ハル』みたいな耳の変わり程度の事なのだ。何も出来ないと分かっている。警察に繋がりもないし、久保田惣一達のような特殊な情報網も使いこなせない。そう分かっているから、不甲斐なさと悔しさに一滴だけの涙を溢した。

「晴………。」

静かな自分を気遣う狭山明良の声に、晴は思わず自ら抱えていた膝に顔を伏せて涙を隠す。

「俺が間違ってた………勝手に思い込んで…………。」

顔を伏せたままの晴が喘ぐように息をつきながら、その吐息は怒り以上に深く憂いに満ちた悲しみに色を変えていく。

「勝手に三浦と消えたんだって…………思い込んで…………。」

語気を荒げるでもないのにその言葉は静かな室内の闇の中で血を吐くように痛みを伴った言葉に変わっていく。それでもそれは誰もがそう思える状況だったからで、晴一人が責任を取るものではない。そう誰もが言うけれど結論はそうで、晴自身も分かっていても納得は出来ないのだと分かる。明良が伸ばそうとした指先から身を捩って逃れ、鋭い視線は全ての言葉を拒絶している。

「間違ってた………俺が、ちゃんとチカのこと引き留めてたら。」
「そんな……晴、それは違うよ。」

たとえそうできる可能性があったとしても、自分をレイプしかけた男を引き留めて話しなんか出きる筈がない。どんなに能天気でノホホンだとしても、自分を襲った男と別れた後にまた引き留めるなんてする筈がない。

「でも、俺…………。」

その体を抱き寄せようとした明良の腕を払った手が、グイッと涙を拭うのを見つめながら明良は晴のことをジッと見つめる。はっと息を呑んで晴の困惑した表情が急に深まった様な夜の闇の中で泣き出しそうに歪む。

「俺に出来ることってなんだろう…………明良。」

言葉の先を繋ぐ事も許されず、視線も合わせない晴の凍り付いて蒼ざめた表情。呆然とそれを見下ろしていた明良の手が、伸ばそうとして躊躇いがちに震えながら握りこまれる。明良としたらこの話を知ったとしても白鞘の自業自得と気にもかけないだろうけれど、白鞘の友達は晴だった。そして晴は基本的にとても人懐っこくて、優しい人間なのだ。






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