鮮明な月

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第十七章 鮮明な月

263.sideB

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激しい痛みを伴う右肩は完全な脱臼だったと診察されていた。盲人が歩行のために使う白木の杖の先端で一突きされたと説明したが、誰一人最初は信じてはくれなかったのは言うまでもない。何しろ正直に言えば自分がどういう状況で、あんな風に撥ね飛ばされたのか邑上誠にも見えてはいなかったのだ。
警察病院の病室に運ばれ一人隔離されて、救急室で投与された鈍い鎮痛薬の効果でボンヤリとしながら邑上誠は夜の闇の中で目を閉じて考え込む。

逃げ出すつもりはないけど………………

正直に言えば、こんな風に捕まってしまったら自分だって最後なのは分かっている。邑上誠には進藤隆平と関わっていたせいで既に幾つか前科があるし、ここ何年かは進藤の携わってきた薬剤売買に関して自分の名前が上がっていることだろう。お陰で早々に誘拐拉致関係で動く1課だけでなく薬剤関係の3課の刑事までここにやってきている。拉致監禁に関しては自発的にやってきたと押し通せなくもないが、体内にある薬や香にしていた現物を押さえられたら、あのビルの所有者である邑上には大きな痛手と言えた。

最悪だねぇ…………

思い起こせば生まれてこのかた、自分の人生はマトモでないことばかりだ。
誠は元々私生児として生まれていて、二十歳過ぎに邑上市玄という男に戸籍ごと買われた人間だった。何故そんなことになったかと言えば、簡単に言うと戸籍ごと過去を消さないと生きていけない状態に既に誠が追い込まれていたからだ。そうしないとひそかに太平洋の藻屑になるか、それとも何処かで死ぬ気で臓器でも売るかという状況だった。それを市玄に買って貰い助けて貰ったからと言って恩義なんか感じてもいないのは、その先の自分の状況を聞けば簡単に理解できるだろう。
茶道の家元というその男には、息子がもう一人いて、それが邑上佑市…………祐玄だ。祐玄は市玄の元で茶道の師範でもあったけれど、実際には市玄の子飼いの性奴隷の一人であって市玄の飼い犬でもある。その祐玄の下で手足として働く者として買われた誠が祐玄と同じになれなかったのは、祐玄の店のショーで誠は『調教師』に自分がむいていないのを証明してしまったからだった。 

本来なら……ショーをうまくこなして義父のために新たなメス犬を育てて届ける『調教師』になるはずだった。

あの舞台で男に組み敷かれ散々に泣かされて犯されながら、自分には出来なかったと砕け散った心で思う。2度目のチャンスを義父にお願いしようにも、あの舞台で周囲の雰囲気に飲まれ誠は2度と空気を掴むどころかあの場に調教師として立つ術も失っていた。調教するべき相手を制せることも出来ず、その相手に犯され、周囲にいた客にまで回された誠は『調教師』失格としか言えないのだ。そしてその代案として提示されたのが、市玄ではなく祐玄の飼い犬になるということだった。

そうでなければ、お父様に犬を使って犯されるよ?

金で買われた誠にはそこには選択肢はなくて、なるべく自分らしく生きていける祐玄の飼い犬を選ぶしかない。勿論何もかもを投げ捨てて行方をくらますという方法もあったけれど、祐玄の知り合いの久保田惣一が捜索に加わったら逃げても見つかってしまう。
それにあんな風体でも祐玄は誠には時に優しい人だった。
少なくともここで生きていける術を教えてくれたのは彼で、彼が保護してくれなかったらスナッフ画像の若者のように呆けた色呆けキチガイに成り果てていた筈だ。そして誠は心の底ではいつまでも市玄から逃げ出す方法を模索していて、それに三科の母親を利用したのだった。

三科真由美

その女を引き込んだのは実は誠なのだ。誠はその頃には既に進藤隆平と繋がっていて、マトモならあり得ない方法で諸悪の根元である市玄を抹殺しようとしていた。
だが大きな誤算になったのは、彼女を調教している内に祐玄が彼女に本気で惚れてしまったことだ。目付きの鋭い負けん気の強い何時までたっても思うようにならない彼女に、いつの間にか本気で惚れ込んだ上に密かに悠生という子供まで出来てしまった。それなのに祐玄は悲しいこと2人で逃げ出すことも出来ず、しかも彼女は結局未婚のまま子供を産んだ後誠の予定通りに働いた。ただ市玄だけでなく祐玄にも同じ病を移して、市玄を初めとした数人を巻き込み死んだのだ。
性行為や粘膜接触でうつる病。
治療法は現在は投薬治療しかないし、完治はしない。しかも放置すればやがては癌化したりもする病。そして悲しいかな飼われることで生きていた祐玄はそれまで密かに何度も過剰服薬を繰り返していたせいで、殺したかった男より遥かにその臓器の耐性がなかった。

自由になろうとして……一緒に自由になりたかった人を真っ先に殺した

残念ながら発見からほんの数ヵ月で祐玄は逝去したのに、市玄の方は年単位でしぶとく生き続け誠はあの男のために片倉雄蔵に再三貸し出され金を稼ぐ駒となった。それでも市玄が病に臥せったお陰で幾分自由になったから、誠は更に進藤と関係を深めて進藤の事業の一部に入り込んだのだ。
闇に沈みながら、自分には選べなかったものを見ると郷愁めいた胸の痛みを感じる。

祐玄のことも、自由になって傍にいてみたいと思った外崎宏太のことも…………

外崎宏太に目を奪われたのは事実で、自分が出来なかったあの場所で臆することもなく凛と背筋を伸ばした彼は本当に美しいと思った。自分がなりたかったものを容易く手にいれてしまう彼に羨望の眼差しを向けたのは事実で、そこから多くの事を嫌がらせのようにしてきたと思う。

片倉の息子のこともそうだ…………

片倉の娘が自殺したのは知っていて、片倉雄蔵が常に息子の身体を蛇のような視線で見ているのも知っていた。それを宏太に調教させるよう仕向けたのは誠で最悪の嫌がらせだった筈のそれは、宏太が腕が良すぎて本当に片倉の息子を躾てしまったのだ。

走馬灯みたいだな…………

過去にした悪事ばっかり思い出してるな。警察から根掘り葉掘りされるまでにはまだ少し時間があるだろうけれど、自分には逃げ出す程の余力はないだろう。結局自分には足掻くだけで何も変えられないし、せめてマトモに育ててやりたいと思った祐玄の息子すら守ってもやれない。

「ねぇ。」

不意に闇の中に響いた声に、誠はギョッとしたように目を見開く。いつの間に病室に入ってきていたのか、しかもその影は闇の中で黒い影になって誠の事を真上から逆さまに覗き込んでいる。そう誠が仰向けになっている頭の両側に靴を履いたままの足があって、その声の主はベットの上に立ち腰を折り誠の顔を覗き込んできているのだ。音も立てずにここまで忍びこみ、横になっている自分に気がつかれずにベットに上がり見下ろす。そんな曲芸じみた行動が簡単に出来るはずがない。それでも確かにこの男は目の前にいて、無表情に自分を見下ろしている。

「………………こんばんわ。」

冷ややかな声をしたその影は、深淵のような深い闇色の瞳で誠の事をジッと見下ろしていた。その瞳は見ている誠の背筋を凍りつかせる程澄んでいて、何もかもを見透かすように更に深く覗き込んでくる。進藤に長年の期間で関わってきていた上に、自分が販売していた薬の大本になっていたプロトタイプを服用していた相手でもあるから誠が彼の事を知らない訳がない。

「三浦…………和希…………。」

三浦に飲ませた薬の何万倍にも薄められたモノを市販品として流通させただけで、去年の夏のあの大混乱だった。だから今誠が売っているのは更にあの薬を薄めたものであって、あの原液を服用した三浦が頭のリミッターが外れて平気で人の頭を蹴り潰せるようになってしまったのは現場を見たことがあるから知っている。その男がここに来て自分を見下ろしているのだ。ヒョウ……と奇妙な音を立てて嗤うような音が室内に響く。

「あぁ、あんた、俺のこと知ってんだ…………?」

闇の中で低く響く声は喉に怪我をしたことがあるせいで掠れているが、何処か死んだ筈の進藤隆平そっくりに聞こえていた。



※※※



ピクリと頭を動かした宏太が、眠っている外崎了の手を確認するように探り握る。秘密のクリニックは他には患者もいないし夜の病室は2人きりで、廊下からも人が動く気配は聞こえてこない。それでも定期的に宇佐川義人が見回りにきて、ベットの上の了の様子と点滴の滴下を伺っていく。何度か宏太にも横になるようにと簡易ベットを義人は準備したのだが、来る度にベットサイドに腰かけて了の手を握っている姿を見て義人も声をかけるのを諦めたようだ。そうしながら宏太は、あの時了の事を組み敷いていた男の事を思い出していた。

…………正直言うと、余り記憶にはない

自分が最初にショーで調教した邑上誠のことは、余り記憶には残っていなかった。何しろこちらだって、流石に最初のことで空気に飲まれないようにと気を張っていたのだから相手の事なんかそれ程気にする余裕もない。それから何度も何度も調教させられたから流石に顔は記憶したし、片倉雄蔵と一緒でない時はほぼ祐玄の傍にいた男だということくらいは覚えてたのは当然だ。

誠はね、私の飼い犬だよ。

そう公言してもいた祐玄に、なら何故片倉雄蔵に貸し出すんだと宏太は聞きはしたが、祐玄はあれにもっといい飼い主を探してるんだなんて訳の分からない事を長閑に言っていた。少なくとも血の繋がった我が子を調教して犯すような片倉雄蔵が邑上誠のいい飼い主になれるとは、到底思えないとは宏太としては内心では考えていたが祐玄には祐玄の考えがあったのだろう。
邑上誠が実は祐玄の義理の弟だと知ったのは、祐玄が死んでかなりの時間がたってからのことだ。何しろ宏太は生前には祐玄の本名すら教えられずにいて、プライベートなことは何一つ知らなかったのだから、そこら辺は多めに見てほしい。でもそれを知った頃には当に祐玄は死んでいて、片倉右京は既に調教済みで宏太も調教師は辞めていたし《random face》を始めていた。その辺りに邑上が何処かであのSMバー擬きの店舗を開いたとか言う噂は僅かに耳にはいっていたが、久保田惣一も何気なく調べはしたようだが場所は分からなかったと言うから、店には恐らくは既に進藤隆平の手がかかっていたに違いない。

何処から何処までアイツは考えて手を回してたのか………………

進藤が何を何処まで画策していたかは、既に答えがでないのは分かっている。だが何を何処まで手回ししていたかは、どうやっても調べることが出来ない。お陰で何処まで行っても後から進藤のかけた罠が襲いかかってきて、振り回され続けている。
それに源川仁聖の方は実は邑上誠の義理の弟絡みだというが、そこに偶々自分達もタイミングがあってしまったと言われると腑に落ちない面はある。

邑上…………

祐玄の義理の弟になるという邑上悠生という青年は、仁聖の1つ年上だというから宏太が丁度調教師に転職した辺りに産まれたことになる。それを思うと何故か祐玄が自分に向かって、激怒した時の事が頭をよぎってしまうのだ。それはさておきイヤホン越しに聞いていて了が拉致された時に、外崎邸に現れたのは久保田松理と一緒だったとはいえ見ず知らずの探偵とか言う男だった。

この男のことは、私が保証する。

誰かがいることは分かっても目が見えない宏太も、どうやら男だというのは理解できたのだけれども、足音もろくにしないその男は宏太にはマトモな存在とは思えなかった。そうだろうと思っていたと松理が呼んでいたらしい鳥飼信哉と槙山忠志が、その男の事を知っていて大丈夫だと保証してくれなかったら流石に宏太は信用しなかった筈だ。それにその男は了や仁聖を探していたわけではなく松理に指示されて了の居場所迄誘導した後、名前も知らないその男は店舗の別な場所にいるという人物を探しにいったまま消えた。
後から風間祥太に確認したが、結城晴や槙山忠志、白鞘千佳の他に十数人が確保されたそうだが、信哉曰く外見は外国人というその得たいの知れない男は含まれていないし、晴が一緒にいた筈の三浦和希の方も見つからなかったのは言うまでもない。

「…………こぉた……?」

物思いに耽っていた宏太に、夢の中から目覚めた了が弱く声をかける。握り返して来る指に宏太がソッと口づけると、了は少し身体を横にずらして宏太に近寄っていく。

「…………大丈夫か?…………ん?」

ソッと頬を撫でてくる宏太の手に了は心地よさそうに目を細めて、うんと小さく頷くと『早く帰りたい』と呟く。あの薬の後遺症が何ヵ月も後から出てくるのはもう分かっているし、どんな風になるかも薄々分かってもいる。だからと言って今すぐ帰りますともならないのは、義人の態度から見てもいわれるまでもない。

「かえって…………一緒……寝たい…………。」

頬に触れる宏太の手に甘えるようにすり寄って来る了に、宏太は思わず微笑みながらそうだなと囁いていた。
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