都市街下奇譚

文字の大きさ
上 下
29 / 111

二十三夜目『宝物』

しおりを挟む
これは、友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



母親は随分小さい頃に事故で死んだ。それから何故か遠縁の人間に育てられた人生で、その時が来るまで大切だなんて思えるものは一つもない。自分だけが寂しいのだとは考えたくはないが、世の中を見ていると正直そう考えずにはいられない。親が残した遺産のお陰で生きていくには困る事もないが、親の愛情も知らない自分に世界が無味乾燥に感じても仕方がないと思う。そんな自分が目を閉じたままでいられたら、きっと楽に違いないと考え始めたのは、生まれてからほんの十年も経っていない時の辺りだ。
興味が何にも持てない代償なのか、神様は自分に一番酷いギフトを与えたと気がついた。それを知ったのは自分がまだたった九歳になったばかりの事だった。自分がそれに気がついたのは、目の前で交通事故を目撃したことが発端だ。

赤い有名メーカーのロゴ、改造したマフラー、タイヤのホイールがツートンカラーで、ナンバーは…。

目の前で起きた事故に、丁度いたので何気無しに警察官は期待もせずに自分に問いかけてきた。だから、期待もされていないとも知らず自分は記憶されたモノを口にしただけで、別段変わったことではないと思っていた。
最初に警察官は疑いの目で話をメモして、次第に気味悪そうに自分の事を見下ろす。
スラスラと運転手の目元に黒子があって、髪型はと説明するのに警察官は一端話すのを遮ってもう一人と相談し始めた。

自分が普通の人間とは異なる特殊な記憶能力を持っているなんて、親と暮らしているわけではないから気がつきもしなかったのだ。

君のような子を瞬間記憶能力と言うようだよ。

後日顔見知りになった警察官にそう言われても、嬉しいとは一つも思えなかった。そんな能力なんて自分には神様に呪われているのかと正直思った。永遠に記憶できるとしても、記憶しておきたい出来事が自分には与えられないのだ。そんな馬鹿げた能力が、自分のなんの役に立つと言うのだろう。そうなると勉強をする気も失せて、何気なく見たことが全て残される自分に嫌気がさした。する気も失せているのに教科書を一度目を通してしまえば、ペーパーテストはカンニングよりも鮮明な記憶のおかけで苦もなく解ける。どちらかと言えば国語の感情や筆者の思いを予測する方が困難かと思えるだろうが、最近の教科書はそれについても言及しているのだから嫌になってしまう。生物のテストだって、頭の中の記憶をトレースするようなものだ。

年表なんて穴埋め問題にもなりゃしない

問題用紙の何処を間違おうか思案している受験生なんてありなのだろうかと、溜め息混じりに感じている自分は生きている価値があるのだろうかと常に考える。そうすると後はどうやって死ぬかを、人間とは鬱々と考え始めるようだ。受験生なんて何の足しにもならないと、ボンヤリ日常を過ごすのすら苦痛になる。自分が嫌いになると何もかもが嫌になって、自分をこの世から消す方法を考え始めた。本を読んで調べても知識は蓄積され、ネットを見ても知識が頭の中に蓄積される。

最悪。

自殺の方法なんて考えない方がましだった。記憶されて蓄積された失敗例が頭の中で、記憶として再生され続けるのは最悪だ。それが耐えがたくて睡眠薬を処方してもらって、生まれて初めてのブラックアウト。何も記憶されない数時間が自分の中にあるのが、こんなに素晴らしいとは思わなかった。そして、それに自分がのめり込んだ結果、薬の過剰服薬で意識を失い救急車で搬送される事になったのだ。

そのまま死ねたらよかったのに。

自分の薬の投与の情報が入ったのだろう、霞の世界の人間が若いのにと呟いているのが分かる。若かろうが年よりだろうが、こんな状態で生きている辛さなんて分からない筈だ。呼吸は自分で出来ず、呼吸器が人工的に管理して呼吸させている。真っ白い世界の中で時折体を動かしたり、痰をチューブで人工的にとられたりするのは結構きつい。

いつまでもこうして生きるのは辛いな。

そんな風に感じてもおかしくない状況だ。誰も自分の事を人間としては扱わない、ものみたいに感じる無味乾燥な時間。

「おはよう。」

初めてかけられた声に、一瞬誰なのか分からない。分かるはずもない、初めて見たはずの人間が微笑みながら顔を覗きこむ。

「今日はいい天気なのよ?一緒に散歩したいわね。」

彼女だと声で理解した。白衣の彼女は視界の中を忙しそうに動き回り、自分以外の人にも声をかけていく。

「こんばんは、今夜は夜勤だから明日の朝までね。」

ここで意識があるかどうかも分からない相手とそんな普通の会話をするのは彼女だけだった。

「あら、今日は髭を剃ったの?男前ね。」
「こんにちは、今から夜中まで仕事、よろしくね。」
「あなた高校生なの、じゃ早く学校に通わないとね。」
「おはよう、朝なのよ。そろそろ暑くなるわね。」
「こんばんは、今日は満月よ。綺麗だからお月見ね。」

ここは窓も外も昼か夜かすら分からないのに、彼女だけが全てを伝えてくれる。彼女の言葉だけが鮮やかに今を教えてくれて、聞いていると自然と涙が溢れ落ちた。とても不思議な人だと思いながら、自分はチューブに管理されながら彼女の声を心待ちにする。

「あら、お月見の話し気に入った?じゃ時間があったら、また月の話をしましょうね。」

優しい声でそう言うと彼女は自分の涙を、柔らかい布で拭ってくれる。涙という自分の反応に、彼女は気に入ったのと声をかけながら触れてくれたのだ。彼女がちゃんと自分の事を見ているのだと感じると嬉しくなった。彼女の顔は目が悪い訳でもないのに自分にはボンヤリとしか見えないのが、今は酷く残念で仕方がない。くっきり見えるようだったら、彼女の顔を永遠に記憶できるのにと自分は心の中で呟く。
そんな状況だったから自分にとって彼女が声をかけてくれるのは、唯一の楽しみだった。他愛ない挨拶や今日の出来事、それを教えてくれる彼女。

「今日は顔色いいのね、元気そう。」

会話がしてみたいが、喉に入ったチューブのせいで彼女と話すことが出来ない。敬語で話してくれているのは、彼女にとって普通なのかどうかが知りたい。彼女が笑ったらどんな声なのか、彼女がすることをもっと知りたい。自分が感じた初めての欲求に、自分自身が驚いたのはいうまでもない。誰かに興味を持って知りたいと考えて事自体が、生まれて初めてで自分自身戸惑いすら感じている。それでも、彼女の事が知りたかった。

「ああ、そっか、よくなってるんだものね。」

ある日彼女がそう呟いたのに、自分は眉を潜めて彼女の顔を少しでもハッキリ見ようと目を凝らす。彼女は丁寧に自分の顔を拭い、口元のチューブを固定するテープを取り替えてくれる。

「お大事にね、早くチューブ外れるといいね。」

彼女はそう言いながら頭を撫でて、自分から手を離し離れた。自分はもっと彼女の傍にいたかったけど、どうやら病棟を移動する事になったらしい。
その後の出来事は半分霞の世界だったけれど、二週間程したくらいには元通り自分で呼吸もできるし起き上がれもするようになった。でも、あの声の主はその後一度も姿を見せていないのは、声を聞かなくてもよく分かる。あの穏やかで優しい声が月の話をしてくれるのを、毎晩待っている自分に気がついて自分は視線を落とした。

起き上がってから看護師と話すうちに、自分が二週間前にいたのは救急に繋がっている病棟だったのだと気がついた。病院の中ににいる看護師は全部で四百人強、でも、救急病棟にいる看護師は三十人ぽっちだ。だけど、関係者もいない自分には、今救急の病棟に入る術もないし看護師を調べる術もない。そうこうしている内に若くて回復の早かった自分は、退院の日になってしまった。それでも、あの声の主の事がどうしても自分は知りたかった。今まで一度も感じたことのない、誰かを知りたいという欲求に自分は自分の能力をフルに活用することにしたのだ。看護師の通勤帯が見えるベンチで、誰かを待っているような顔をして看護師の顔を選別する。
虚ろな視界で見ていた姿形に近い人を先ず選別した。三交代制の看護師の勤務だから、少なくとも一週間朝確認すればおおよそ全員の顔を見れるはずだ。記憶した顔を選別して人数を数え、姿形が違う人を外していく。次に一人ずつ声を聞き、あの月の話をした声の人物を特定していくのだ。地道でなんの意味もないかもしれない行為だけど、自分はそれに必死になった。勿論簡単に調べる方法なんて他に幾らでもあるのだが、そうしないで自分で探し出したかったのが本音だ。

「学校もソコソコで何やってるかと思えば。」
「うるさいなぁ、いいだろ、自分の興味のあることを探せって言っただろ?」

子供の頃から親代わりをしてくれている弁護士でもある五代が呆れ顔で言うのに、アイスコーヒーをすすりながら不貞腐れた顔をする。相手は有能な上に年齢不詳で子供の時からあまり変わらないような気がするが、親の遺産を有効に使うためには自分にとっては大事な人間なのだ。

「検診受けてくださいよ?遺伝性はないですけど、絶対は無いんですからね。」
「ハイハイ、わかってます。」

定期的に検診を受けさせるのは自分の父親の家系の疾患が、遺伝性疾患ではないものの病気を発症することがあると考えられているからだ。どうやら祖父も曾祖父も同じ病気で死んだとかいうそうで、遺産を受け取る条件の一つが定期的な検診というわけだった。病院に行くのはついでに看護師の声を確認できるタイミングでもあるから、不服ではないがあれから実は二年も探している。仲良くなった看護師からは辞めた子もいると聞かされて、あと残り少ない人数の確認が重くのし掛かり始めていた。あと十人もいない看護師の中にいなかったら、ここ二年で辞めた看護師の追いかけをしないとならない。そんなことをしている内にあの声の主の記憶が薄れる筈はないのに、薄れてしまいそうで怖かった。



※※※



流石に残り五人を切った看護師確認に嫌気がさしてきていた。声を頼りに探し続けてきたが、あれが夢でないとどうして言えるのか。死にかけた自分の生への本能が、自分自身に見せた他愛のない嘘だったのかもしれない。そう考えてしまったら、全てが嘘のような気がして希望が持てなくなって来ていた。既に探し初めて二年半、自分は二十歳になってしまったと言うのに、声という宛のない宝探しをしている気分になる。ボンヤリと駅の構内を歩いていたら、急ぎ足の背の高い女性とぶつかってしまった。

「あ、ごめんなさい。」

ぶつかった女性の何気ない声に自分は思わず振り返る。通りすぎていく背の高い女性の声は、探し求めていた声に似すぎていて自分は思わず彼女を追いかけた。足早に歩く歩調と、後ろ姿の輪郭は探していた彼女のものと同じだ。咄嗟に走り寄って自分は迷いながら声をかける。

「おネエさん、一人ですか?」

一瞬の訝しげに眉を寄せる表情の後、きっと勘違いだと判断したのか爽やかに微笑みを浮かべた彼女に自分は確信した。彼女があの時の人だ。あの時自分に何度も話しかけて、季節や月の話を自分にしてくれた人だと確信したのだ。思わず自分の顔に自然と笑みが浮かび上がるのがわかる。

「あの、おネエさん、僕と結婚しませんか?」
「はあ?」

思わず呆れた声が溢れる彼女に、自分は嬉しくてニコニコ笑いながら眺める。呆れた彼女が思わず立ち止まったのに、微笑みながらやっと記憶に残すことの出来る彼女を見下ろす。

「冗談は顔だけにして。」
「冗談いってる顔に見えますか?」

やっと会話を交わすことができて、彼女の顔を記憶に残すことができた自分は有頂天だった。産まれて初めて他人に興味を持たせてくれた彼女は自分にとって、何よりも大事な宝石みたいな輝きを持っている。もっと沢山彼女の表情か見たいし、もっと沢山話がしたかった。それを全部記憶に残せるなんて、しかも、他の人と違って自分はそれを忘れないのだ。自分は産まれて初めて神様に感謝した。

彼女という宝物を僕は見つけたんだ。

そう自分は心の中で呟いていた。



※※※


記憶ですか。

自分の言葉に久保田は忘れられるからいいということもありますがねと少しだけ寂しげに呟くと、グラスを再び磨き始めた。確かに何時までも大事な記憶を覚えていられると思えば素晴らしいが、嫌な思いでも忘れられないのは辛いかもしれない。

でも、いい記憶が多いなら良いですよね。

そう呟くように言うと久保田はそうですねと穏やかに微笑んだ。
しおりを挟む

処理中です...