鵺の哭く刻

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潜伏期

36.

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『だから、…………これからは何も気にしないで会いに来ていいよ?アキ』

夜中にかかってきた電話の先で、紡がれるその言葉。その言葉がどれだけ無神経な言葉なのか、彼は分かっていないとアキコは内心で密かに思っていた。実際アキコ自身もそれを喜ぶべきなのかそうではないのかが全く分からないでいるのは、相反する二つの心が呟くのが聞こえるからだ。

あなたは二股を自分から証明していて私がそれを平気だと思っている?
でも、私に会いにこいと言っているのは素直に喜ぶべきことなの?
でも、あなたは私をどう思っているか口にしてない。
私は何?私はあなたの何なの?

恋人と別れたから気にせず会いに来ていい。そう言われたことにこんなにも戸惑うのは、アキコが素直に喜べない状態にいるからだった。自分は後から来た女で結局は体でシュンイチを掠め取ったのではないだろうか。そうだとしたら、これからもしシュンイチと恋人同士になったとしても、同じことは確実に起こるのだろうと感じてしまう。それに怯えるべきなのか、当然起こりうると腹を据えるしかないのか。いや、そんなことを考えること事態がおかしいのかもしれない。グルグルと頭の中を巡る自分の声は、嘲笑に満ちていて。
『喜ばないの?』と問いかけてきたシュンイチにアキコは、何も答えることが出来ないまま、ただ「そう」とだけ乾いた声で呟いた。

好きだからこそ憎いことがある。

その言葉が脳裏に閃き、まるでこの感情は薔薇の花のようだと考えていた。美しい大輪の真紅の花弁の下には、鋭い棘を持つ茎が隠れている。それはけしてどちらかだけでは存在しない。どちらもあるからこそ薔薇は美しいともいえるのだ。確かにアキコは彼の言葉や行動に癒され恋愛感情を持っていたが、同時に彼の女性を扱う姿勢には激しい憎しみを感じてもいる自分がいることに気がついてしまっていた。



※※※



本当はそう言いたかったわけでもなければ、そんな風にアキコが反応するとも思っていなかったと素直に言ったらアキコはどう答えていただろうか。シュンイチは心の中でそう考えてしまう。実は何よりも本当はまず最初に謝るつもりだったのだ。再び会いに来るように言ったのは自分なのに、同時に彼女もいたままで都合良く快楽を求めたのは事実なのだから、それをまず謝るつもりだった。

でも、お前は特殊な女で、俺を必要としているんだろう?

そして俺が好きかと聞いてしまうのは簡単だったが、問いかけてアキコが答える言葉が彼女の本心かは分からない。何しろチャットと電話で彼女は自分が好む言葉を答えるように、既に何ヵ月も調教として躾られているのだ。本心でない言葉で愛を答えられて、それが本心でないと分かったら自分は傷つくに違いない。そんな自分勝手な理屈の中でシュンイチが何気なく口にしたのは、もう何も気にしないで会いに来れるという場違いな言葉だったのだ。ただそれに彼女が喜んだら、それはきっと本気で俺を独占したいと考えている筈なんて勝手な理屈にすがり付いて。
だがそれに対してアキコは喜びもしなければ、怒りもしない。アキコがやっぱり二股だったのねと怒るならまた違っただろうとも思ってしまうけれど、アキコは全く怒りの感情を臭わせすらしない。

「喜ばないの?」

思わずシュンイチがそう聞いてしまったのは、どっちでもいいからアキコに反応して欲しかったからだろうと自分でも思う。どちらにせよ何か反応してくれれば、彼女がこれまでに何を感じていたか少しでも見える気がしたのだ。

怒ってくれよ…………?

でも自分のその願いが利己的な考えだったのは充分に分かっていて、そして結果としては彼女がとてつもなく頭のいい女でもあったのをシュンイチに思い出させただけなのだった。何しろアキコはまるで感情のこもらない抑揚のない声で、ただ一言『そう』としか言わなかったからだ。

やっぱり……………俺に………惚れてるわけじゃない。

闇の中で淫靡な快楽を与えてもらいたいだけの、美しくて人形のような普通にはいない女。本当に生粋の被虐嗜好でそれを与えられる加虐嗜好のパートナーを必要としている特殊な性癖の、遠くに住んでいる看護師だという女。決して自分に惚れていて被虐嗜好者を装っているわけではなくて、本気で痛め付けられることに喜びを感じる特殊な人間なだけ。

それしか求められてない…………

そして彼女はここまでやって来てでも自分に虐めて欲しいと願うだけの女なのだと、何故かそれを求めているだけの筈のシュンイチは少し胸が詰まる気持ちで考えていた。



※※※



相反する感情が胸の奥に残ったままなのに、再び遠い距離を自家用車と電車を乗り継いで出て行く自分自身の矛盾。アキコは夜勤の疲労感にウトウトと電車の中で微睡み夢の中でそれを心に感じながらも無理やり心の奥にその感情を飲み込んだ。
新幹線を降りて、都心の循環線を乗り換えていつもの街に着く。
そうすると一先ず化粧室で化粧の崩れ直して、薄くしか出来ない化粧を気にしながら少し不安げな自分の顔をアキコはまじまじと見つめた。その表情がどうして浮かんでいるのかは良く分かっていた。

彼は彼女と別れたと言ったけど、別に私を好きだと言った訳ではない。

この二人の関係性では相手の言葉は決して鵜呑みには出来ないし、その上彼女以外にアキコのようにサイトから始まって会っている女性がいないという確証すらもない。つまり未だ自分の立場という点では、アキコはシュンイチにとっては何一つ変わらない都合のいいセックスの相手にすぎないということだ。
アキコは溜め息をつきながら少し乾いた唇にグロスを乗せて、崩れた目元の化粧に軽くコットンを押し当てる。こんな風に化粧室で化粧を直すなんて今迄では考えもしない行為だったが、今ではごく当たり前のような気もするのが不思議だった。女は変わるとよく言うけれど、自分がその立場になるとは考えもしないものだ。

だけど私からは、言わないようにしなくちゃ……。

ふとアキコはそう思った。
アキコが彼に思いの全てをさらけ出すにはアキコの分がどうしても悪すぎる。やはりこれは互いの間に交わされたゲームなのだと思うしか、今のアキコに術はないのだった。シュンイチの中に自分が必要な存在になったと確証がもてなければ、結局自分はただの都合のいい資金源でありダッチワイフだ。と言いながらも最悪の結果でも全部それでもいいと納得するには、自分は彼に尽くし過ぎてもいる。毎月の電話代と交通費、それだけでなくホテル代金や飲食代、それだけで既に毎月の給料の半分にあたるのだ。それでもアキコは与えられる快楽に勝てないのだから、自分の諦めがつくまで納得できるまでやるだけしかない。

相手に完全に捨てられ不要と言われるか、相手を取り込んで自分のものに出来るか

それがこのゲームの唯一のルールで、結果と言う答えが出るまではきっとアキコは途中下車もしないだろう。諦めがつくまでやりきるしか終われないゲームに手を出したのはアキコ自身で、それにはシュンイチだけでなく、あの影も手を出し始めている。何故かあの影はシュンイチの加虐性をゲームのように、アキコを捕らえる一部として利用している気がしているのだ。

何でこんなことを考え続けているのかしら…………

そんな最中にふと携帯のメールの着信に気がついて、アキコは少し自虐的で物憂げな気持ちでそれを開いていた。そこには想定通りシュンイチからのメールが届いていて

《俺が乗る私鉄は分かる?》
《分かるよ?》

いつもの場所で、いつもの私鉄の改札口で待ち合わせ、それが何時ものパターンだと考えていたのだからその私鉄が分からない筈がない。

《じゃぁ、それに乗ってきて?普通でも快速でもどれに乗っても止まる駅だから。》

一瞬、その言葉の意味が判らずアキコの動作が凍る。

乗っていく?
駅???

アキコは暫くその言葉を頭の中で反芻すると、やっとその意味がぼんやりと形を成し始めた。
今まではここまでが現実。
この駅までが現実とネット上の境目で、その先のお互いは全く知らないで過ごしてきたのだ。アキコはこの街でのアキとネットでのリエしか見せたことがないのと同じように、ヤネオシュンイチもここまでの彼とネットの上でのフィしか存在しなかった。しかし、何でか急に彼は今その均衡を新たに崩そうとしている。今までの線を崩してアキコを自分の現実のラインに引き込もうとしているのだ。微かな驚きを伴って、凍りつくように立ちすくんだアキコの心を震わせている。

彼はゲームの次の札をきったのだ。

そんな予感にアキコは微かな戦きを感じながら、気忙しげに化粧を直し鞄を取り上げて構内を歩き出す。既にアキコの心は二つに分裂しているかのような気がした。
希望と不安。
相手が自分を現実の世界に連れていこうとしているのを、喜ぶべきなのか恐れるべきかのかが判断できない。言い換えればやはり愛と憎しみになるのかもしれないと思いながら、戸惑う指で新たな切符を買い私鉄を乗り換えて。
初めて乗る私鉄の中で何度となく携帯が震え、その度にアキコはメールを確認する。
内容は他愛ない場所の確認や状況の確認なのに、ただその頻度が今までとは違う気がしてアキコは戸惑いに目を細めていた。
急行電車で僅か十分程、目的の駅でホームに降りる人影は思ったより遥かに多い。
恐らく都心からまだ近いせいもあってベットタウンなのだろうとアキコはボンヤリと考えながら、ホームから人波が引いていくのをその場で立ちつくしたまま待った。

《この電車じゃなかった?》

途端来たメールの内容に微かにアキコは驚く。少なくとも下車した人間を見渡せる場所にシュンイチがいて、アキコを探しているのに気がつかされたのだ。

《今、ホームにまだいるの。》

オズオスと返したその返事にも、すぐシュンイチからの返事が返ってくる。

《改札で待ってるから》

それは酷く不思議な気がした。
最初の姿とはまるで違うその彼の行動は、彼自身の変化なのだろうか。それともこれもただゲームの続きなのだろうか。そんな不安をどこかに感じながらアキコは改札に向かう。そこには塾の講師の時の姿なのだろう、今まで見た事のないスラリとしたスーツ姿のシュンイチが立っていて穏やかな視線でアキコに笑いかけ、思わず改札越しにアキコもはにかむ様に微笑んだ。

「大丈夫だった?迷わなかった?」
「うん……。」

良かったと言って笑うシュンイチの横をついて歩きながら、促されるままに駅の構内を歩く。そこはアキコにとっては未知の領域。運転免許のあるアキコと違って未だシュンイチは免許を持っていないというから、ここがシュンイチからの生活圏という事になる。そこに足を踏み入れる事は更にシュンイチ自身の現実に、自分が入り込んでいくことなのだと感じてしまう。

「…………どこ……行くの?」
「俺んち……いやかな……?」

汚れてるけどね、とシュンイチが笑うのを横に見ながら、アキコは微かな動揺を感じつつ首を横に振り横に並んで歩く。自分が住む場所とは違うまだ夏の名残りの強い夜気が酷く息苦しいモノの様な気がしながら、アキコは大人しく横をついて歩き街並みを物珍しそうに眺めている。ふと相手のアパートらしい建物に促され素直についていく自分が周りにはどう映るのだろうと考えながら、アキコは暗い都会の夜空を見上げていた。
雑然と沢山の物に溢れた部屋。
異性の部屋に入った事は初めてではなかったが、こんなタイプの部屋に入ったのは実は初めてだった。音楽やパソコンやスポーツの雑誌が手荒く積まれていて、部屋の片隅にはアキコには種類の分からないギターが幾つか置いてある。居住する部屋の半分はベットが占めて、残りの部分の半分は机とパソコンとテレビが占拠していた。

沢山ものがある……。

今まで入った男性の部屋は何処も簡素だったり、きちんと整理されている事が多かった。そんな風に比較する程見てきた訳ではないが、見慣れないせいなのか自分の身の置き場が無くなんだか落ち着かない。シュンイチに勧められてベットに腰掛け、勧められるままに飲み物をオズオズと口にしながら考える。

それにしても、これはどう考えたらいいのか

自分はどんな立場としてここにいるのかと、アキコは酷く戸惑っていた。まさかこんな風にアッサリとシュンイチの自宅に迄連れてこられるとは、ここに来るまで正直にいうと微塵も考えていなかったのだ。しかも迷いもなくアパートの中にまで通されて、もし自分が同じ立場だったら同じことをするだろうかと考えると恐らくはしないだろうと結論が出てしまうのだった。
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