鵺の哭く刻

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そんな穏やかな日々は何も起こる事無くユックリと過ぎて行き、それからの数ヵ月の二人の生活は順風な様にも思えていた。
お互いに仕事が忙しいことは事実であったが、お互いに働いて二人で生活していく分には何も不満もない、そうアキコは思っていた。毎日のように時間をさいて送り迎えをすることも大して苦痛ではなかったし、家事をすることも苦痛ではない。それに看護師として毎日忙しく働くことも苦痛ではなかった。仕事の忙しさで前より性行為が減ったのも、アキコとしては実は正直いうと文句はなかったのだ。
何処かの知らない女の影でシュンイチに不信感を抱くこともなく、様々なストレスが大いに減ったアキコは逆に穏やかに過ごすことができ過食嘔吐すら落ち着き始めたくらいだ。そんな穏やかな毎日がただ続く事だけがアキコの願いだった。

「………………休みももらえないなんて、しんどい……。」

そうシュンイチが言ったとき、その言葉にアキコは首を傾げていた。実はこれまでずっと看護師という仕事しかしたことがなく忙しいがある程度の業務時間が定められている仕事をしている自分と、塾の社員として働いているシュンイチの仕事のあり方の差が実は理解できなかったのだ。確かにシュンイチが殆ど休みなく仕事に行くのは分かっていたが、アキコにはどうして勤務でない日まで出勤するのを義務のようにいうのかが分からなかった。自分のやるべき事をしたら帰ってもいい、自分の規定の仕事を規定の時間に終えればいいタイプの仕事場でしか働いたことのないアキコには、勤務上休みとされている日に足しげく職場に行く必要性が理解できなかったのだ。それでもアキコも自分の仕事は仕事でちゃんと働いていたし家事もこなして主婦としても働いていた。それにシュンイチの身の回りの世話も送り迎えもして、大分負担を軽減させる為には動いていたつもりだったのだ。

「どうして休めないの?」
「休んだらなに言われるか分からない。」

その答えに彼女は更に首を捻る。自分の権利と仕事の均衡の考え方が根本的に違う二人の会話は、かみ合うはずもない。結果としてアキコはその最後の言葉に何時も首を捻るのだ。アキコの中では過度の仕事はいい結果を生むとは思えなかったが、シュンイチの中では仕事をしないことで起きる結果を恐れていたような気がする。
それがやがて大きな歪みになることも知らぬまま、最初は週に数回の送り迎えが次第に増えていく。やがてアキコは夜勤もあるのに毎日送り迎えを自分の睡眠時間を削ってまでするようになっていた。シュンイチもそれが当たり前になり、仮眠中のアキコを電話で起こして深夜二時や朝四時のお迎えが当たり前になり始めていったのだ。

『アキ!迎え!』

翌朝仕事だと当然知っている筈でもその言葉でアキコはベットから這い出して、眠気を冷ますために顔を冷水で洗い車の鍵を取る。文句は言わない。それに対してアキコは辛いとも眠いとも言わないのだから、終いには他の社員を別な駅前まで送るために車を深夜に長時間走らせることも当然になっていた。

「大丈夫、乗ってけって!運転するのアキだし。」
「で、でも、遠いから。」
「遠いから送ってやるって。」

そんな会話がアキコを他所に繰り返されるのが当然になって、アキコはこれでいいのだろうかと心の中では考えながらハンドルを握り疲れた愛想笑いを浮かべる。



※※※



そして、それは結婚して半年後を過ぎたばかりの冬の最中の出来事だった。看護師としては環境のよい職場に勤められることにアキコ自身感謝していたし、よくしてくれる上司や同僚と忘年会となれば飲みに行かない訳がない。当日は当直明けで疲労困憊にも関わらず、アキコが普段はあまり参加しない忘年会に参加したのはそんな理由からだった。
和やかな乾杯の掛け声の後、生ビールのジョッキも空いて次のグラスに移り変わっていく。ホロ酔いで気分よく次のレモンサワーを空けた当たりに、手元に置いていたバックの中で微かな振動が放たれたのに気がついた。
その微かな振動と共に送られてきたメールを読んだ瞬間、アキコは一瞬その内容がまったく理解できないでポカーンとしている。当直明けでろくに寝ていない状態で既にグラスを数杯空けた状態の知性は儚いほどに鈍磨して、その文章を意味として飲み込むことができない。

『パンパカパ~ン・仕事明日から行きません♪』

その文面が悪い冗談なのか、本気なのかまったく分からないとアキコは思う。
なのに一気に自分の頭の中では忘年会の雰囲気が遠退いて、先程まで美味しいと思っていた料理さえも紙のように味気ないものに変わるのを感じる。
アキコはは青ざめた顔で、もう一度そのメールを読み返し内容を何とか飲み込もうと努力した。それでもヤッパリ事前に何一つ相談もなく、唐突に着たこのメールをどう理解していいか判断できない。元々当直で疲労困憊した頭には理解しようという努力すら出来なかったのかもしれないし、その陽気すぎるメールの感覚が現実離れしているのだかしょうがない。その場でアキコにできるのは周りの同僚や上司に、このとんでもないメールの内容を知られないように陽気に振る舞うことだけだった。

「すみません、もう一杯レモンサワーください。」
「ヤネオさん、飲みっぷりいいわー。」
「私も同じの一つ」

それが愛想笑いであることに気づかれないよう、勢い良く杯を重ねる。アキコは普段は殆ど飲まない酒を矢継ぎ早にしたたかに飲んで、暫くしてフラフラしながらそれをそのまま全てトイレで吐き出していた。トイレの個室に籠ってしまえば一旦取り繕った愛想笑いが剥がれ落ちる。何度も吐き出し、何ももう出てくるものもない。なのに、ぐるぐるとメールの文章が頭の中を駆け巡って、もう吐く物がないのに酷い吐き気がした。

…………何が起きたの?どうなってるの?

何度も心の中で整理をつけようとしてみるが全ての言葉は混沌の中で渦を巻き、ただ吐き気を催すだけだ。やっと幸せになった筈だったのに、この先をどうしたらいいのかが分からない。やっと結婚までたどり着いて幸せになったと思ったのに、たった半年でなにが起きたのと心が軋み呻く。

この半年、彼のためにしてきた日々の行為はなんだったのだろうか。
この半年の間、彼のために費やした時間はなんだったんだろうか。

できることならこのままここで声を上げて大声で泣きたいとすら思った。この場に誰も知った人が居なかったら、この場がもし気心が知れたものの数人だけだったら迷わずそうしたことだろう。だが、ここは上司も同僚も、それ以外の客も大勢いる。それが、心のどこかで分かっているから、アキコにはそうできない。そうできるはずかない。

「ヤネオさ~ん?大丈夫?」
「当直明けなんだよねー、あー、悪酔いしちゃったかなぁ?」
「そうそう、当直明けって箍外れるもんね~、あたしもよくへべれけになるわぁ」
「ヤネオさーん、おみずもってこようかぁ?」

トイレの扉の向こうで心配げに優しい同僚達が、それぞれにやってきて声をかけてくれる。そんな状況では泣くことも声をあげることもアキコにはできない。ぐるぐると回り続ける世界の中でアキコがその時唯一できたのは、ただ周囲に心配をかけないよう虚勢を張って陽気に笑い明るく振舞い続ける事だけだった。

そうしなかったら自分でいられないような気がしたから。



※※※



シュンイチと顔を合わせて話ができたのは結局翌日の事だった。
当日アキコ自身そのメールの状況を把握できなかった事も、アキコが珍しくあの後泥酔してしまった事も理由にはある。しかし、当の本人の方も飲み会と称して帰宅が遅かったせいもある。その飲み会の理由が自分が辞めることに対する祝勝会だと言ったシュンイチの意図は、アキコには全く理解に苦しむものだったのは言うまでもない。

「どういう事なの?辞めたってどういうこと?何で相談もなしに…。」

シュンイチは初め予想と全く違う晴れやかな笑顔を浮かべていたが、アキコの詰問口調に気づいて微かに表情を曇らせた。

「もっと喜ぶかと思った。これからずっと一緒にいられるのに。」

当たり前と言いたげに平然と言い放たれた言葉にアキコは愕然とする。
心の中で、この半年の幸せが幻だったかのような、全てがガラガラと崩れ去る音が響き渡る気がした。確かに何度も休めない・辛いと話すシュンイチに、仕事が忙しく休めない事をおかしいと意見した事はある。だが休めないなら辞めろと意見したことはないし、辞めるにしても次の就職先や収入源をどうするのか、大体にして事前に相談してくれてもいいのではないだろうか。何をどう繋ぐとこの結論が導き出されるのかは全くアキコの理解の反中を越えたものだ。アキコは強い戸惑いの中でシュンイチの顔を見つめた。冷静であろうと思っても感情がそれを裏切り声が、微かな震えをおびるのが自分でも分かった。

「次の仕事とか……考えてるの?」

その問いかけにシュンイチは不意に子供のように不満を浮かべる。その表情はここ数カ月はみなかった結婚する以前のものそのままの気がした。
それを見た瞬間アキコは何が起きようとしているのかを悟った気がする。全てが以前の辛かった世界に立ち戻ろうとしているのだ。幸せだった時の全てを薙ぎ倒すかのようにして虚ろに苦しい時に戻ろうとしている。そして、前と大きく違うのは自分はその相手の妻になってしまっていると言う現実。

「仕事は暫くしたくない。」
「………それじゃ、どうしていく気なの?これから………………。」
「とにかくその話はしたくないんだよっ!暫く何も考えないでゆっくりしたっていいだろ?」

自分の言葉の先を遮る激しい勢いに、アキコは思わず凍りつく。目の前の人間は自分の言葉の不当さに気がついていない。自立した成人が仕事をしないで、どうやって生活をする気なのか。生活するためには金銭が必要で、それを得るためには何らかの活動が必要だ。でも彼はそうしない。そうしないでいられるのは何故か。
答えは単純だ、アキコが稼いで彼を養うと思っているからだ。

全てが崩れ去って、今残るモノは何だろう。
この半年間の幸せは全て嘘になるのだろうか。
この半年の幸せは全て虚構で構築されたものだったのだろうか。
誰か本当の事を教えてほしい。

崩れ落ちた世界の残骸の中で私は凍り付いたそのままの姿で立ちつくして、凍りつく感情の中でアキコは思い悩んだ。
これを境にして自分はけじめをつけるべきではないか、と。
これを機会に彼と離れるべきなのではないか、と。
だがまるでその思いがアキコの中に浮かんだのを知っていたかのように、その感情を私の瞳に中から読みとったかのようにその視線の先の男が私を睨みつけた。玩具をとられて憤り地団駄を踏む子供のような顔だと、ふとアキコが心のなかで呟く。その隙をつくように男の手が一瞬の間の感覚の中でアキコの腕を痛いほどの力で捻じるかのように掴み上げる。あの見慣れた不機嫌を示す奥歯を噛む表情がそこにあった。

「……………お前はもう結婚したんだから、ここ以外に行く場所はないんだからな。」

ギクリとその言葉にアキコの体が震える。
自分の考えすら読みとるかのようなその男の言葉の先にあるのは、アキコと同じ愛情なのか憎しみなのか判別のつかない感情の様な気がした。一歩間違えば大きく道を踏み外してしまいかねない、危うい感情。
惑う事すらもできないような纏わりつき絡めとられるかの様な感覚の中に、アキコは呆然と立ちすくみながら掴まれた腕の痛みを感じる。暖かいはずの室内の空気がひやりと肌を撫でる気がして、アキコは微かに身震いする。

これではあの時と同じ、浮気されて痛め付けられ凍りついた時と。
全ての出来事は元に帰る。
そして、同じことを繰り返す。
愛情と憎しみとどちらとも判別の付かない感情の境で結局は同じことを繰り返し続けるのだ。

彼がもうアキコの意見を聞こうともしない事は分かっていたし、それに意見を言おうとすることすらもう出来ない事も分かり切っていたのだ。アキコの短い幸せは脆くも今や崩壊の一途をたどり、アキコらしい感情も性格も過去の一時と同じく奥底に封じこめられていくのを感じる。

「この話は、もうしない。」

アキコの言葉を聞く気もないという意思表示の言葉に、自分の意思表示も逃げる場所すらも奪われ、ただ茫然とその男を見つめる。そしてその態度のせいで、有無を言わさないままに人形の如く味気ない何も幸せすら伴わない痛みだけの褥の行為に引きずり込まれていた。
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