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85.風間祥太
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上原杏奈が死んで、あれから一ヶ月。
俺の菩提寺に預けられた杏奈の遺骨は、何度見ても人間一人分が入っているとはちっとも思えない。火葬にしたのは自分なのだから勿論この骨壺に骨を砕いていれたのは俺自身なのに、それでも俺はまだこれが杏奈だとは思えないでいる。ちゃんと杏奈の死は理解しているはずなのに、それでも同じ言葉を繰り返す。
なんで、真名かおると名乗った?
何度もこうして遺骨に向かって繰り返すが、杏奈が答えてくれる訳がない。女々しいだろうか?こうやって何度も遺骨に会いに来る自分は?それでも上原杏奈が何故あの時真名かおるを名乗ったか、それが分かれば少しは気持ちが晴れるんじゃないかと思うのだ。
遠坂喜一に縣幸喜の件は、まだ聞けていない。
遠坂自身がつい先日三浦和希に遭遇して重傷を追って監禁されていたせいもあるし、退院した遠坂の活躍で二課が探し回っていた成田哲の妾・如月栞を証言させることが出来たからだ。何処からか如月と連絡をとる術を手にいれた遠坂に誰もが唖然としたが、一課の不動は遠坂なら当然だろと平然と話していた。
如月の証言で二課だけでなく一課まで巻き込んでいる状況なのは、如月が成田哲に性的な暴行を受け妾にされたと証言したため。元秘書の娘を妾にするために性的暴行とは時代錯誤も甚だしい行為だが、既に時効のものもある。それでも事が事だけに、一課も大騒ぎだ。しかも彼女は殆ど初期から暴行による怪我をした写真も、成田が何時何をして何を搾取してきたのか記録まで残していると言うのだ。その中には当然自分への暴行以外の、成田の口から語られた様々な不正に関したものもあるという。
そういう時がくると思って、ずっと準備してきたんです。
彼女は俺達の前で、晴れやかな颯爽とした笑顔でそう言った。
如月栞が妾にされたのは十七年前。彼女には既に成田哲との間に十五の子供がいるが、他にも子供を流産させられたという。如月は母親というものはいざとなると強かなんですと警察が必要な情報を提供すると、次にマスコミに成田哲の悪行を洗いざらいを暴露した。しかもそれに乗っかるように、成田哲の妻の不貞までマスコミにリークした人間もいる。
次期党内の中心と目されていた筈の政治家は、記者会見で謝るにも遅すぎるし、今や出来ることと言えば人目から逃げ回る日々だ。それにしても高校生で妾にされた如月栞は哀れだが、自分がされたことを克明に証拠として提示できるものを密かに貯め続けたというのには驚いてしまう。
「こうなるのを待ってたみたいですよね。」
思わずそう呟いた俺に、遠坂は待ってたんだろと当然のように呟く。高校生で夢も何もかも奪われた彼女は、最初から絶対に男を許さないと腹を据えて長い年月をかけて準備したんだと思うという。そういう遠坂の横顔に、俺にはその執念は少し薄ら寒く感じてしまうのだ。
………杏奈も同じように、長い年月をかけて計画を練っていた筈。
母親の感情を全て理解するのは、男の俺にはどうやっても出来ない。腹を痛めて子供を産んだ母親は、どんな思いで子供を見ているのだろう。そういう意味では夫の子供ではない子供を、知らぬ間に植え付けられ出産した三浦厚志の妻の心はどんなものだったろうか。杏奈はどんな思いで数年を過ごしてきたんだろうか?そんなことを今更考えてもどうしようもないことは分かっているが、遺骨を目に俺は深く溜め息をつき、立ち上がる。
春の若葉に包まれた周囲は明るく瑞々しい生命力に溢れているのに、それが酷くくすんで見えるのは自分の心のせいだろう。そんなことを感じながらユックリ歩き出す俺の脳裏には、上原杏奈が一人で俯き立ち尽くしている。上原杏奈が必死に集めていた金銭の行方は未だに分からない。娘の手術はドナーが現れる前に寄付金などで貯まっていたという話だから、もしかしたらその寄付金が上原の集めた金なのかもしれないと思ったが、調べたら匿名の高額の寄付で誰か迄は流石に調べられなかった。大体にして杏奈が寄付したとするにも、名前を正直に名乗る筈がないし名前を名乗れないから一度に銀行を介しての高額の寄付は難しい。
真名かおる。
何度も繰り返すその名前。
得体の知れない、三浦を狂わせた女。
それを名乗った上原杏奈は、何を考えていたんだろうと思う。遠坂を呼び出し、何を知りたくて、何をしたかったのか。
大体にして縣のメールを杏奈は何処から調べたのか。
可能性としては外崎の情報という線も無くはないが、だったら外崎自身は遠坂にそれを問いただしはしたのだろうか?それとも外崎だから、遠坂には聞きもしないか?もし本当に縣のメールが遠坂なら、遠坂は何故俺に杏奈から呼び出された事を言わないのか、言えない理由が存在しているのか?それは何なのか?
こんな風に相棒である筈の人間に不信感を持ってしまった自分が、どうにも身動きもとれなくなっているのはよく分かっていた。俺は遠坂のことを信頼しているとも考えているのに、同時に全く信じられなくなっている。聞けばいいだけのことなのだと理解しているのに、もし聞いて本当に遠坂が罪を犯しているとしたら?
俺はどうする?
遠坂のことだ、もし罪を犯していてもそう簡単には証拠は掴ませないだろう。それを分かっていて遠坂があえて口を開かないとしたら、遠坂は警察官として間違っている。だけど、俺のこの想定自体全てが間違っている、そんな可能性だってあるのだ。それが踏み込めない理由。問いかけるには確信が必要で、そのためには何とか情報が欲しい。だが情報源としてもう外崎には協力を求めるには、遠坂と外崎はあまりにも関係が近すぎる。
「風間?」
唐突に予期せずかけられた声に俺が視線をあげると、そこにいたのは予想外の男の姿だった。ほんの少し前に遠坂と一緒に監禁された女子高生・宮井麻希子の病室を見舞いに行った時、何故かその男が付き添いにいて唖然としたばかり。しかも彼女は宮井が高校時代に何度か学校までついてきてしまった、宮井の溺愛する従妹の少女だというのだ。それにしても俺にしてみるとここ数ヵ月何度も竜胆ファイルを読み返しては、宮井はこの事を知っているのだろうかと繰り返し思案していた事もあって正直驚きは大きかった。
「宮井。」
「今は宇野。風間は……墓参り……じゃないよな?」
そうだった、先日の見舞いで知ったのだが、宮井智雪は宇野と名字が変わっていた。その宇野智雪は両親の墓参りにきていたのだろう。寺から借りた水桶を手にしているが、俺の方は完全な手ぶらでしかも本殿の方から出てきたのだ。ちょっとなと口にした俺に宇野は水桶を棚に返しながら、何故か変わんないなと口にして笑う。俺が戸惑うと宇野は笑いながら、視線を返す。
「相変わらず一人で考え込んでるな、風間は。」
「相変わらず?」
「お前、相談下手だもんな、上原と同じで。」
小学生になる前から高校迄同じ進路だったから、宇野も俺や杏奈の事をよく知っている。三人組の他の二人と違って宇野は高校の時生徒会でも一緒だったから、実際には接する機会も多かったし話もよくしていた。だけど俺にしてみれば頭はとんでもなく切れるが口がかなり悪くて短気な印象が強かったのに、今の目の前にいる宇野は別人のように穏やかにすら感じる。そんな宇野に相談下手なんて思われていたとは正直心外だが、実際には余り人に相談するという行動はなかったようにも感じてしまう。
「お前、随分丸くなったな。」
「そんなことない、今はちょっと気力がないだけだ。」
「なんだ、気力があれば変わらないのか?」
そう、なんて平然と言う宇野は確かに以前と変わりない気がして、俺は思わず微かに苦笑いを浮かべた。気力がないだなんて従妹の看病疲れか?と問いかけると、宇野は違うよと答えて俺の顔を見透かすように見つめる。そうだ、こいつは時々こんな風に心を見透かすような目で人を見る奴だったと、頭の中で自分が囁くのが聞こえた。こいつは頭の中で何かを考えながら話す時に、何時もこんな風に相手の反応を確認しながら話す。
「なぁ風間、三十年近く前の事件って調書はとっくにないよな?」
その言葉に俺は宇野が今何を考えてるのかを、直ぐに理解してしまっていた。宇野は自分の実父・香坂智春の事件について、密かに調べようとしているのだ。あの事件は既に調書が廃棄されるほど昔のものだから、調べるのにも何か取っ掛かりが欲しいに違いない。もしかしたら様々調べたが上手くいかないから、気力が落ちているというわけなのだろうか。
「お前、それ調べてどうする?」
俺の問いかけに宇野は不意に冷淡に見える凍りつくような瞳で、真っ直ぐに俺の顔を見つめ返す。宇野の頭の中は一体、今何を考えているのだろうか?もしかしたら復讐なんて事を考えたりするのだろうかと、俺もその瞳を覗くように見つめる。色素の薄い宇野智雪の瞳は、やがてふと温度を取り戻したように緩む。
「ちゃんと知ってからじゃないと、俺もどうするか分からない。」
「お前でも………そんなこと言うんだな。」
既に全てを決心していて調べているのかと思ったのに、宇野は真実を知らないと決められないという。それは俺も同じだ、俺も遠坂が何をしたのか知らないと、遠坂をどうするか決められないでいる。
「何を調べたいか、聞いてもいいか?というか、知りたいのは………親父さんの事件のことか?」
溜め息混じりの俺の言葉に、宇野が驚きに目を丸くする。こんな顔をした宇野を見たのは長い付き合いでも初めてのことだなと、心のどこかで考えていた。
覚えるほど読み込んだ竜胆ファイルの中の香坂智春と倉橋俊二の関係を、俺は宇野に包み隠さず話してやる。既に宇野は幼い頃から自分が宮井浩一の息子でないのは知っていて、香坂智春の息子だというのは知っていて香坂が警官で殉職したのも知っていた。俺が知っていることにも驚いた風ではあるが、それ以上に竜胆貴理子が調べ込んでいたことに驚いたようだ。だが宇野には犯人の倉橋俊二に関しての情報は全くなかった様子で、倉橋俊二のことを知りたがっている。
「倉橋俊二は、もう死んだのか……。」
「大分前にな。」
香坂智春が死んで既に二十九年、その母親が死んだのは更にそこから十七年の話。倉橋俊二という人間が交通事故を起こしたのは十八歳の事だったから、香坂智春の事件を起こした時は三十五歳になる。自殺未遂で行き長らえ、そこから二十九年・六十四歳で故人になった。
死ぬ一年前に女性と結婚した、倉橋俊二。
自殺未遂以前の倉橋俊二の印象は、悉く悪い。我が儘で自分勝手な金持ちのドラ息子、そんな印象を受けても仕方がない事しかしていない男。最後には寝たきりで在宅看護を受けていたが、自発的な意思表示は出来なかったらしい。そう聞くと改めて何故この状態で結婚させたのかは疑問だが、兎も角一年の内に倉橋健吾を始め妻も息子も亡くなって、莫大な遺産はその女性が殆ど相続した上に全ては寄付された。この話を宇野が今どう感じて聞いているのかは、見ているだけでは俺には計り知れない。
宇野は進藤隆平についても知っているんだろうか……
そんなことがふと脳裏に浮かぶが、俺にはそれを口にすることは流石に出来ない。本当にただ父親の事件について………
「どうして…今知りたくなったんだ?宇野。」
「何を?」
「事件のこと。」
俺の問いかけに宇野は暫く俯くと黙りこみ、母親譲りの茶色の睫毛か思案に揺れるのを何とはなしに眺める。それこそ今になってだ、三十年にもなる今になって実の父親の事件を知っても犯人は既に死んでいるし、宇野には何も得られない。
「………与えられた最高の厚意が、一番最悪の悪意だったらどうする?風間。」
厚意が、一番最悪の悪意?意図の分からない言葉だが、与えられた時には素晴らしい厚意だったと感じていたのに、よく考えたら一番最悪な悪意だったってことか?誰かから、宇野はそれをされたということか?それとも宇野の知っている他の人間の話か?
「………少なくとも、気分は良くないな。」
「もし、それが巡り巡って…………例えばお前や、お前の身の回りの人間に降りかかりそうならどうする?」
そこ迄くると俺には抽象的過ぎて分からないなと呟くと、宇野は気がついたように掠れた笑いを溢してからそうだよなと自重気味に呟く。最悪の悪意が自分だけでなく身の回りに及ぼす何かがあるのだとしたらと、俺に答えられる限りのことを想定して躊躇いがちに口を開く。
「少なくとも自分以外の人間に降りかかる前に、何とかして自分で方をつけるかな、俺は。」
そうかと小さく呟くと、ふと宇野は思い出したように俺の顔を見つめて口を開く。
「大事な相手なら尚更、近寄らせないか?」
恐らくその大事な相手というのに、宇野は俺にとっては上原杏奈を思い浮かべているに違いない。宇野の記憶の中の一番最後の俺と杏奈は、高校生の二人でしかない筈だからだ。
「出来る限りは。」
出来る限り。俺自身とてつもない綺麗事の言葉なのに、宇野は俺の顔を見たままフッと微笑む。
「少しスッキリした、ありがとう。風間。」
それは何故か憑き物の取れた後のような、そんな風に俺には見えて胸が痛む。出来る限りのことを俺はしたのだろうか。宇野が去って行く後ろ姿を見送りながら、皮肉めいた思いでそう呟く。出来る限りをしていないから、俺は杏奈を助けられなかったんじゃないだろうか。
自虐的にも思える思考を繰り返している自分の視線が何気なく、宇野の背中を見つめていて不意に何かがひっかかった。
なんだ……?
何が気にかかったのかハッキリしないが、後ろ姿と頭の中で繰り返す。そう繰り返した瞬間、唐突に何かが頭の中でパチリとはまりこむ音をたてた。
ずっと不思議だったのは何で俺を拉致する必要があるんだ?
それに俺は何故廃墟ビルの地下なんかに、見張りもなしに放置されたのだろうか。デカイ男一人運び込むにはエレベーターを使えばたいしたことはないが、あそこである必要はなんだろう。三浦があの横の衣装部屋に必ず来ると分かっていて、わざと俺を放置か?三浦が無差別にサラリーマンを殴り殺していることを考えれば、見張りも男じゃそうなるからつけられない?それにしたって何で放置だ?逃げ出す可能性だって、十分あった筈だ。
逃げても構わなかった?
一度三浦だとおぼしき人間に話しかけられて何もなかったが、二度目は恐らくないからとか?いや、ちょっと待て、あれが三浦だったかどうかは正直分からない。背後から気配だけで異様だと感じただけで口元すら覆って話していた風だったから、俺には男か女かも分からなかった。
ちょっと待て、あれが三浦だとしたら………小さすぎないか?
宇野の後ろ姿をみていて、何が引っ掛かりだったのか唐突に理解できた。宇野と俺は殆ど身長が変わらない。だが、あの時の声はどう聞いても自分の肩より少し下から聞こえていた。三浦和希は流石に身長は百八十はないが、百七十は越している。
なら、あの時、俺に店や真名かおるを知っているかと聞いたのは誰だ?
既にあの時爆破事件は起きていたが、もし竜胆貴理子が生きていたとしても信哉の話では彼女は女性としては背が高い。上原杏奈は顔が俺の肩くらいくる。俺の肩より顔が下となると、どう考えても小柄な百五十程だろうか?それくらいの身長で条件に当てはまる上に、その質問をする立場の人間。
倉橋亜希子しかあてはまらない。
だからか、俺を拉致したのは。杏奈と話した時の彼女は怒りに任せた甲高い声しか出さなかった。オークション画像なんか似たような場所なんて、世の中に幾らでもあるから証拠になんかなりやしない。声だ。声を聞いているから、拉致したんだ。ならどうして杏奈を傷つけた?………いや、杏奈の方がイレギュラーでやって来たんだとしたら、俺を助けに来る筈の人間で真っ先に来るのは遠坂な筈だ。実際に遠坂はあの時、別な倉庫に俺を救出に行っていたと聞いた。その倉庫の火災で直ぐには、俺のいるビルに迎えなかったと。進藤隆平が狙ったのは、俺じゃなく遠坂喜一?
もしかして俺が逃げても死んでも、遠坂にはメッセージになったのか?
そう考えると背筋が一瞬で凍りつく。どちらでもよかったのではと気がついた瞬間、本当に自分が紙一重の状況にいて、本来ならあの血痕は自分のものだった可能性が高いのに気がついていたのだ。
俺の菩提寺に預けられた杏奈の遺骨は、何度見ても人間一人分が入っているとはちっとも思えない。火葬にしたのは自分なのだから勿論この骨壺に骨を砕いていれたのは俺自身なのに、それでも俺はまだこれが杏奈だとは思えないでいる。ちゃんと杏奈の死は理解しているはずなのに、それでも同じ言葉を繰り返す。
なんで、真名かおると名乗った?
何度もこうして遺骨に向かって繰り返すが、杏奈が答えてくれる訳がない。女々しいだろうか?こうやって何度も遺骨に会いに来る自分は?それでも上原杏奈が何故あの時真名かおるを名乗ったか、それが分かれば少しは気持ちが晴れるんじゃないかと思うのだ。
遠坂喜一に縣幸喜の件は、まだ聞けていない。
遠坂自身がつい先日三浦和希に遭遇して重傷を追って監禁されていたせいもあるし、退院した遠坂の活躍で二課が探し回っていた成田哲の妾・如月栞を証言させることが出来たからだ。何処からか如月と連絡をとる術を手にいれた遠坂に誰もが唖然としたが、一課の不動は遠坂なら当然だろと平然と話していた。
如月の証言で二課だけでなく一課まで巻き込んでいる状況なのは、如月が成田哲に性的な暴行を受け妾にされたと証言したため。元秘書の娘を妾にするために性的暴行とは時代錯誤も甚だしい行為だが、既に時効のものもある。それでも事が事だけに、一課も大騒ぎだ。しかも彼女は殆ど初期から暴行による怪我をした写真も、成田が何時何をして何を搾取してきたのか記録まで残していると言うのだ。その中には当然自分への暴行以外の、成田の口から語られた様々な不正に関したものもあるという。
そういう時がくると思って、ずっと準備してきたんです。
彼女は俺達の前で、晴れやかな颯爽とした笑顔でそう言った。
如月栞が妾にされたのは十七年前。彼女には既に成田哲との間に十五の子供がいるが、他にも子供を流産させられたという。如月は母親というものはいざとなると強かなんですと警察が必要な情報を提供すると、次にマスコミに成田哲の悪行を洗いざらいを暴露した。しかもそれに乗っかるように、成田哲の妻の不貞までマスコミにリークした人間もいる。
次期党内の中心と目されていた筈の政治家は、記者会見で謝るにも遅すぎるし、今や出来ることと言えば人目から逃げ回る日々だ。それにしても高校生で妾にされた如月栞は哀れだが、自分がされたことを克明に証拠として提示できるものを密かに貯め続けたというのには驚いてしまう。
「こうなるのを待ってたみたいですよね。」
思わずそう呟いた俺に、遠坂は待ってたんだろと当然のように呟く。高校生で夢も何もかも奪われた彼女は、最初から絶対に男を許さないと腹を据えて長い年月をかけて準備したんだと思うという。そういう遠坂の横顔に、俺にはその執念は少し薄ら寒く感じてしまうのだ。
………杏奈も同じように、長い年月をかけて計画を練っていた筈。
母親の感情を全て理解するのは、男の俺にはどうやっても出来ない。腹を痛めて子供を産んだ母親は、どんな思いで子供を見ているのだろう。そういう意味では夫の子供ではない子供を、知らぬ間に植え付けられ出産した三浦厚志の妻の心はどんなものだったろうか。杏奈はどんな思いで数年を過ごしてきたんだろうか?そんなことを今更考えてもどうしようもないことは分かっているが、遺骨を目に俺は深く溜め息をつき、立ち上がる。
春の若葉に包まれた周囲は明るく瑞々しい生命力に溢れているのに、それが酷くくすんで見えるのは自分の心のせいだろう。そんなことを感じながらユックリ歩き出す俺の脳裏には、上原杏奈が一人で俯き立ち尽くしている。上原杏奈が必死に集めていた金銭の行方は未だに分からない。娘の手術はドナーが現れる前に寄付金などで貯まっていたという話だから、もしかしたらその寄付金が上原の集めた金なのかもしれないと思ったが、調べたら匿名の高額の寄付で誰か迄は流石に調べられなかった。大体にして杏奈が寄付したとするにも、名前を正直に名乗る筈がないし名前を名乗れないから一度に銀行を介しての高額の寄付は難しい。
真名かおる。
何度も繰り返すその名前。
得体の知れない、三浦を狂わせた女。
それを名乗った上原杏奈は、何を考えていたんだろうと思う。遠坂を呼び出し、何を知りたくて、何をしたかったのか。
大体にして縣のメールを杏奈は何処から調べたのか。
可能性としては外崎の情報という線も無くはないが、だったら外崎自身は遠坂にそれを問いただしはしたのだろうか?それとも外崎だから、遠坂には聞きもしないか?もし本当に縣のメールが遠坂なら、遠坂は何故俺に杏奈から呼び出された事を言わないのか、言えない理由が存在しているのか?それは何なのか?
こんな風に相棒である筈の人間に不信感を持ってしまった自分が、どうにも身動きもとれなくなっているのはよく分かっていた。俺は遠坂のことを信頼しているとも考えているのに、同時に全く信じられなくなっている。聞けばいいだけのことなのだと理解しているのに、もし聞いて本当に遠坂が罪を犯しているとしたら?
俺はどうする?
遠坂のことだ、もし罪を犯していてもそう簡単には証拠は掴ませないだろう。それを分かっていて遠坂があえて口を開かないとしたら、遠坂は警察官として間違っている。だけど、俺のこの想定自体全てが間違っている、そんな可能性だってあるのだ。それが踏み込めない理由。問いかけるには確信が必要で、そのためには何とか情報が欲しい。だが情報源としてもう外崎には協力を求めるには、遠坂と外崎はあまりにも関係が近すぎる。
「風間?」
唐突に予期せずかけられた声に俺が視線をあげると、そこにいたのは予想外の男の姿だった。ほんの少し前に遠坂と一緒に監禁された女子高生・宮井麻希子の病室を見舞いに行った時、何故かその男が付き添いにいて唖然としたばかり。しかも彼女は宮井が高校時代に何度か学校までついてきてしまった、宮井の溺愛する従妹の少女だというのだ。それにしても俺にしてみるとここ数ヵ月何度も竜胆ファイルを読み返しては、宮井はこの事を知っているのだろうかと繰り返し思案していた事もあって正直驚きは大きかった。
「宮井。」
「今は宇野。風間は……墓参り……じゃないよな?」
そうだった、先日の見舞いで知ったのだが、宮井智雪は宇野と名字が変わっていた。その宇野智雪は両親の墓参りにきていたのだろう。寺から借りた水桶を手にしているが、俺の方は完全な手ぶらでしかも本殿の方から出てきたのだ。ちょっとなと口にした俺に宇野は水桶を棚に返しながら、何故か変わんないなと口にして笑う。俺が戸惑うと宇野は笑いながら、視線を返す。
「相変わらず一人で考え込んでるな、風間は。」
「相変わらず?」
「お前、相談下手だもんな、上原と同じで。」
小学生になる前から高校迄同じ進路だったから、宇野も俺や杏奈の事をよく知っている。三人組の他の二人と違って宇野は高校の時生徒会でも一緒だったから、実際には接する機会も多かったし話もよくしていた。だけど俺にしてみれば頭はとんでもなく切れるが口がかなり悪くて短気な印象が強かったのに、今の目の前にいる宇野は別人のように穏やかにすら感じる。そんな宇野に相談下手なんて思われていたとは正直心外だが、実際には余り人に相談するという行動はなかったようにも感じてしまう。
「お前、随分丸くなったな。」
「そんなことない、今はちょっと気力がないだけだ。」
「なんだ、気力があれば変わらないのか?」
そう、なんて平然と言う宇野は確かに以前と変わりない気がして、俺は思わず微かに苦笑いを浮かべた。気力がないだなんて従妹の看病疲れか?と問いかけると、宇野は違うよと答えて俺の顔を見透かすように見つめる。そうだ、こいつは時々こんな風に心を見透かすような目で人を見る奴だったと、頭の中で自分が囁くのが聞こえた。こいつは頭の中で何かを考えながら話す時に、何時もこんな風に相手の反応を確認しながら話す。
「なぁ風間、三十年近く前の事件って調書はとっくにないよな?」
その言葉に俺は宇野が今何を考えてるのかを、直ぐに理解してしまっていた。宇野は自分の実父・香坂智春の事件について、密かに調べようとしているのだ。あの事件は既に調書が廃棄されるほど昔のものだから、調べるのにも何か取っ掛かりが欲しいに違いない。もしかしたら様々調べたが上手くいかないから、気力が落ちているというわけなのだろうか。
「お前、それ調べてどうする?」
俺の問いかけに宇野は不意に冷淡に見える凍りつくような瞳で、真っ直ぐに俺の顔を見つめ返す。宇野の頭の中は一体、今何を考えているのだろうか?もしかしたら復讐なんて事を考えたりするのだろうかと、俺もその瞳を覗くように見つめる。色素の薄い宇野智雪の瞳は、やがてふと温度を取り戻したように緩む。
「ちゃんと知ってからじゃないと、俺もどうするか分からない。」
「お前でも………そんなこと言うんだな。」
既に全てを決心していて調べているのかと思ったのに、宇野は真実を知らないと決められないという。それは俺も同じだ、俺も遠坂が何をしたのか知らないと、遠坂をどうするか決められないでいる。
「何を調べたいか、聞いてもいいか?というか、知りたいのは………親父さんの事件のことか?」
溜め息混じりの俺の言葉に、宇野が驚きに目を丸くする。こんな顔をした宇野を見たのは長い付き合いでも初めてのことだなと、心のどこかで考えていた。
覚えるほど読み込んだ竜胆ファイルの中の香坂智春と倉橋俊二の関係を、俺は宇野に包み隠さず話してやる。既に宇野は幼い頃から自分が宮井浩一の息子でないのは知っていて、香坂智春の息子だというのは知っていて香坂が警官で殉職したのも知っていた。俺が知っていることにも驚いた風ではあるが、それ以上に竜胆貴理子が調べ込んでいたことに驚いたようだ。だが宇野には犯人の倉橋俊二に関しての情報は全くなかった様子で、倉橋俊二のことを知りたがっている。
「倉橋俊二は、もう死んだのか……。」
「大分前にな。」
香坂智春が死んで既に二十九年、その母親が死んだのは更にそこから十七年の話。倉橋俊二という人間が交通事故を起こしたのは十八歳の事だったから、香坂智春の事件を起こした時は三十五歳になる。自殺未遂で行き長らえ、そこから二十九年・六十四歳で故人になった。
死ぬ一年前に女性と結婚した、倉橋俊二。
自殺未遂以前の倉橋俊二の印象は、悉く悪い。我が儘で自分勝手な金持ちのドラ息子、そんな印象を受けても仕方がない事しかしていない男。最後には寝たきりで在宅看護を受けていたが、自発的な意思表示は出来なかったらしい。そう聞くと改めて何故この状態で結婚させたのかは疑問だが、兎も角一年の内に倉橋健吾を始め妻も息子も亡くなって、莫大な遺産はその女性が殆ど相続した上に全ては寄付された。この話を宇野が今どう感じて聞いているのかは、見ているだけでは俺には計り知れない。
宇野は進藤隆平についても知っているんだろうか……
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「何を?」
「事件のこと。」
俺の問いかけに宇野は暫く俯くと黙りこみ、母親譲りの茶色の睫毛か思案に揺れるのを何とはなしに眺める。それこそ今になってだ、三十年にもなる今になって実の父親の事件を知っても犯人は既に死んでいるし、宇野には何も得られない。
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「………少なくとも、気分は良くないな。」
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「少なくとも自分以外の人間に降りかかる前に、何とかして自分で方をつけるかな、俺は。」
そうかと小さく呟くと、ふと宇野は思い出したように俺の顔を見つめて口を開く。
「大事な相手なら尚更、近寄らせないか?」
恐らくその大事な相手というのに、宇野は俺にとっては上原杏奈を思い浮かべているに違いない。宇野の記憶の中の一番最後の俺と杏奈は、高校生の二人でしかない筈だからだ。
「出来る限りは。」
出来る限り。俺自身とてつもない綺麗事の言葉なのに、宇野は俺の顔を見たままフッと微笑む。
「少しスッキリした、ありがとう。風間。」
それは何故か憑き物の取れた後のような、そんな風に俺には見えて胸が痛む。出来る限りのことを俺はしたのだろうか。宇野が去って行く後ろ姿を見送りながら、皮肉めいた思いでそう呟く。出来る限りをしていないから、俺は杏奈を助けられなかったんじゃないだろうか。
自虐的にも思える思考を繰り返している自分の視線が何気なく、宇野の背中を見つめていて不意に何かがひっかかった。
なんだ……?
何が気にかかったのかハッキリしないが、後ろ姿と頭の中で繰り返す。そう繰り返した瞬間、唐突に何かが頭の中でパチリとはまりこむ音をたてた。
ずっと不思議だったのは何で俺を拉致する必要があるんだ?
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逃げても構わなかった?
一度三浦だとおぼしき人間に話しかけられて何もなかったが、二度目は恐らくないからとか?いや、ちょっと待て、あれが三浦だったかどうかは正直分からない。背後から気配だけで異様だと感じただけで口元すら覆って話していた風だったから、俺には男か女かも分からなかった。
ちょっと待て、あれが三浦だとしたら………小さすぎないか?
宇野の後ろ姿をみていて、何が引っ掛かりだったのか唐突に理解できた。宇野と俺は殆ど身長が変わらない。だが、あの時の声はどう聞いても自分の肩より少し下から聞こえていた。三浦和希は流石に身長は百八十はないが、百七十は越している。
なら、あの時、俺に店や真名かおるを知っているかと聞いたのは誰だ?
既にあの時爆破事件は起きていたが、もし竜胆貴理子が生きていたとしても信哉の話では彼女は女性としては背が高い。上原杏奈は顔が俺の肩くらいくる。俺の肩より顔が下となると、どう考えても小柄な百五十程だろうか?それくらいの身長で条件に当てはまる上に、その質問をする立場の人間。
倉橋亜希子しかあてはまらない。
だからか、俺を拉致したのは。杏奈と話した時の彼女は怒りに任せた甲高い声しか出さなかった。オークション画像なんか似たような場所なんて、世の中に幾らでもあるから証拠になんかなりやしない。声だ。声を聞いているから、拉致したんだ。ならどうして杏奈を傷つけた?………いや、杏奈の方がイレギュラーでやって来たんだとしたら、俺を助けに来る筈の人間で真っ先に来るのは遠坂な筈だ。実際に遠坂はあの時、別な倉庫に俺を救出に行っていたと聞いた。その倉庫の火災で直ぐには、俺のいるビルに迎えなかったと。進藤隆平が狙ったのは、俺じゃなく遠坂喜一?
もしかして俺が逃げても死んでも、遠坂にはメッセージになったのか?
そう考えると背筋が一瞬で凍りつく。どちらでもよかったのではと気がついた瞬間、本当に自分が紙一重の状況にいて、本来ならあの血痕は自分のものだった可能性が高いのに気がついていたのだ。
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