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1巻
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しおりを挟む序章
永禄三年(1560年)五月十九日の払暁、織田上総介信長は、熱田神宮の拝殿から歩み出て、まだ仄暗い南の空を見上げた。
神宮の境内には、そこかしこに篝火が焚かれ、焦げた松脂のかぐわしい香りが、それに灼かれた熱気と、屯する足軽や下人どもの饐えた汗のにおいと混じり合い、ただならぬ雰囲気を煽り立てている。
彼らは胴丸を着けていたり半裸だったり、その格好はひどく不統一であった。身分に不釣り合いな前立付きの兜を持参して尻に敷いていたりするような者もいれば、藍染めの布きれを頭に巻いているだけの者もいる。ただ彼らは一様に目をぎらぎらと輝かせ、給された握り飯を頬張りながら、じっと上総介の下知を待っていた。
上総介の脇を潜るように拝殿からまろび出てきた小柄な軍配者が、事前の打ち合わせ通りの儀式を用意し、兵どもの前で実演してみせた。二枚を貼り合わせ、どちらも表側にした数枚の明銭を宙に投げ、ガラガラと耳障りな音を立てて拝殿前の廊下に転がったそれらを一枚一枚拾い上げ、両手で持ち右左の兵どもにかざした。
そして、こう叫んだ。
「卦はことごとく吉と出た! 神意は我らにあり!」
見え透いた茶番に笑みをこぼし、上総介が殿上から境内を見下ろすと、数名の侍大将が目配せし合いながら、
「御味方大勝間違いなしじゃ、者ども喜べ! 熱田の神様は我らに随いておる!」
などと、口々に喚きはじめた。それにつられて足軽どもの上げる、オウという掛け声が夜の闇を震わせ、篝にはぜた炎の粉が、虚空に噴き上がった。
しかし茶番はあくまで茶番である。それが出陣を控えた一軍の、士気を盛り上げるための御定まりの儀式に過ぎないことは、軍配者自身も、侍大将たちも、兵の一人ひとりに至るまできちんと弁えていた。それが証拠に、拝殿の前まで自発的に集まってきた兵らはごくわずか。残りは相変わらず境内のあちこちに散らばり、思い思いの格好で不安に耐えている。
これから生起する戦の帰趨がどうなるか、まだ本当は熱田の神にもわからない。敵の軍勢は、駿河と遠江、そして三河の三国から集められたという。彼らは道々、総勢四万と呼号した。話半分としても二万を超える大軍で、源平合戦の昔ならばいざ知らず、少なくともここ数百年のあいだに、東海道に出現したどの軍勢よりも規模が大きい。そこへ、敵方へ寝返った鳴海、大高、沓掛三城の守備隊や、決意の揺らぎはじめた地侍や戦場付近の土百姓どもなど、潜在的な敵軍勢力が加わる。
こちら側の兵力は総ざらえして四千。ただし既存の砦や後方警備に割かねばならぬ兵数があり、ここに連れてきているのは一千をわずかに超える程度である。そのなかから半数を割き、これから進む道々の村や集落に声をかけ、本隊の進軍に恩賞目当ての新たな足軽や雑兵どもが順次加われるように手配りされている。
最終的には、この本隊を追って駆けつけてくる加勢なども含め、二千程度にはなるであろう。しかし十倍の敵軍に較べれば、まさに蟷螂の斧と言うべきである。死兵と化して戦わなければ、決して勝利などあり得ないことは、身分や立場にかかわらず、その場に参集したほぼすべての男たち共通の了解事項となっていた。
ようやく騒がしくなった境内からその切れ長の目を離すと、上総介は、ふと見上げた鉛色の視界のはじにわずかな変化が起こったのをみとめた。
境内の外、たち込める朝靄の向こうに、うっすらとした灰色と茶色の翳が伸びていた。音はせず、においもしない。ただ、はじめはかすかに、やがてゆらゆらと揺れながらその色は濃くなり、翳はさらに広くなった。
「丸根、ですかな、あれは。それとも鷲津でござろうか」
同じものを見ていたかたわらの誰かが上総介に声をかけた。別の誰かが答えた。
「鷲津です。陥ちましたな」
上総介は少しだけ眉をくもらせ、目を瞑った。しかしすぐにまぶたを開け、鋭い眼光とともに高い声で下知した。
「皆、用意にかかれ」
その下知はそれぞれの隊に復唱され、木霊のように境内を響き渡っていった。
散っていた兵どもがのっそりと立ち上がり、立てかけていた槍を取り、箙の弓をしごいて肩に掛け、兜や陣笠の緒を締め、がちゃがちゃと音を立てながら拝殿前に集ってきた。
これから修羅場に向かわんとする死兵たちの熱気が殿上にまで伝わり、上総介の膚を激しく打つ。
上総介はもう一度南に目を戻した。先ほどの煙は、さらに高く濃くなり、その先端は目に見えない空の扉を叩いて横に広がりはじめていた。
やがて、すでに上がった煙の横に、ゆらゆらともう一条の煙がたなびきはじめた。それはやや遠く、色もかすかであったが、先の煙よりずっと速く上昇し、広がった。勢は鷲津のそれよりも激しいようだ。
もはや、それが丸根からの煙であることをわざわざ口に出して指摘する者はいなかった。鷲津・丸根の両砦は、合わせて幾千もの敵に包囲され、攻めたてられ、そして業火に炙られて殲滅されたのだ。
あの煙の上がり具合では、ほぼ誰も生き残ってはおるまい。
内殿前の渡り廊下にて、参集してきた織田軍幹部たちが粛然とした雰囲気に包まれるなか、上総介信長は言った。
「魚は、餌を食ったぞ」
その真意をはかりかね、数名の家臣が上総介の表情を窺った。上総介は笑っていた。
すべては、彼の読み通りに運んでいたのである。
第一章 陰にて
泥のなかで生まれて、泥のなかで育ち、今も泥のなかでなめくじのように這いずりまわっている。それがこのときの弥七について語れるすべてだ。
拳母の野より周辺の惣村を潤しつつ伸びてくる小川が、三河国を貫く大河・矢作川の中流域にぶつかり、その滔々たる流れめがけてこぼれ落ちるあたり。そのせせらぎを挟んだ名もなき谷間で弥七は生まれ、育った。
弥七というのが、自分の本当の名前であるのかわからない。それはいつの間にか、気づけばただそうと皆に呼ばれていたというだけのことで、生まれ落ちたとき自分につけられた名なのかどうか、彼にはわからない。
名づけたはずの両親のことも、弥七の記憶にはない。まわりの大人たちは、もしかしたら父母のことを覚えているのかもしれないが、弥七のほうからそれを聞いたことはない。
とにかく両親はもう、この谷間にはいない。死んだのか、子を置いたままどこかに去ったのか。まあ、そのどちらであっても、大した変わりはない。
今、弥七は独りだ。独りで泥だらけの谷間を這いずるようにして、ただ黙々と日々を生きている。
谷間は、「陰」と呼ばれていた。
幼い弥七には、女陰を指すその言葉の、本来の意味がわからなかった。
そのじめついた谷間にへばりつく矮小な共同体が、他の社会階層とは明確に区分される被差別民たちの集まりで、また他所では生きていけなくなったあぶれ者や流れ者などが、最後の最後に身を落とす吹き溜まりであることも知らなかった。
そしてそこが、ただお互い肩を寄せ合うようにひっそりと生きる彼らを、都合のいい安価な労働力として好きなように使い捨てにする、強欲な権門勢家の「慈悲」により存在を黙認されていたという事情も知らなかった。
周囲の小高い、日の当たる田圃から土手で区分けされ、急に大河の流れに向けて下り落ちる、その斜面の途中に陰はあった。もう少し降りると、地面がじめじめと湿り、寝起きすることなどできない。わずかに乾いた、しかし歪んだ斜面のところどころに、斜めに穴を穿ち、板切れなどをさし渡し、葦を葺いて人間が棲んでいた。
住めば都、これはあとになってから弥七が聞いた言葉だ。どのように考えても都などではなかったが、日がな一日そこにいればとりあえず安心で、腹がすくことさえ我慢できれば、なんとか命はつないでいける。
ただ、そこはあくまでも湿地の脇の斜面に過ぎぬ。ひとたび雨が降れば、谷はまるごとずぶ濡れになった。乾いていた斜面は泥だらけのすべすべになり、浅く穿たれた横穴には容赦なく風雨が吹き込み、被せただけの葦のあいだをしずくが垂れ、棲んでいる人々は目の粗い薦を被ってただガタガタと震えた。そして、そんな天候が数日続けば、必ずそのまま動けずに地面に張りつき、死んでしまう者が出るのだった。
人々は、それでも協力し合いながら生きていた。死人が出たら、まず手分けして骸を板に載せ、森の向こうの共同墓地に葬った。錆びついた鉄の鍬で土を掘り、皆が黙って死人にうなだれる。そこへ、誰かがどこぞで聞きかじった念仏を唱えはじめると、皆も倣って唱和する。意味まではわからぬ。ただ形式として、音に合わせて唱和するだけである。そのあと骸に土をかけ、花の一輪でも手向けて、葬儀は終わった。もしかしたら弥七の両親も、ここでそのようにしてひっそりと生を焉えたのかもしれなかった。
豊富とはいえないが、それを探す技術さえ持ち合わせていれば、なんとか生き延びていくだけの食料はあった。葦に覆われた湿地や川に降りると、暖かい季節であれば、手掴みで鮒や鯰が獲れた。たまに獲れる野鼠や蟇、蛇などはご馳走であった。もとから陰に住んでいた住民のほとんどは、獣の皮を剥ぎ、なめす作業に熟達しているので、こういう獲物を捌くことなどお手の物であった。野草は煮て食う。腹を下すいくつかの危険なものさえ避ければ、あとは火にくべた熱湯に放り込み、焚き付けが続くまでグツグツと煮ると、大抵のものは口に入れることができた。
たまに運がよければ、稗や粟飯などが配られることもあった。それらは、土手の向こう、日の当たる田圃の奥に立つ「お寺さん」から喜捨された。喜捨といっても、ただ飯ではない。代わりに陰の住民は、比較的壮健な男どもを一定期間、労役に供出しなければならなかった。河原に棲みつく人間以下の存在を前に、寺僧たちは、仏のやわらかな慈悲を示すというよりは、むしろ日頃の厳しい修行の鬱憤を晴らすために彼らを追い使った。
やや大きくなってから弥七もその一隊に加わった。そこでは、頭を丸め、袴姿で手に棒切れを持った寺僧たちが、日がな一日、寺領の田圃の畔なおしや田植えを監督し、仕事のはかばかしくない河原者を容赦なく打擲していった。
「ありゃあ、まるで僧兵と一緒じゃ。とはいえ、あやつら戦じゃ役には立たん。弱けぇ者にだけ威張り散らすんじゃ」
少し年上の、他所から流れてきた「わけしり」と呼ばれた男が吐き捨てた。彼は足を引きずって歩く。もとは身分のある侍で、都での合戦で槍傷を受け、以降、落ちぶれてここに流れてきたのだそうだ。
深田に足を取られながら、腰まで水に浸かって人様の作物を作る。田から上がっても、足も下半身も、まだ真黒く泥にまみれていた。それをすぐに清水で洗うことすら許されず、作業を終えたら、泥だらけの姿のまま、とぼとぼと土手のこちら側へと戻った。かんかん照りの日など、ろくな飯も水も給されず、寺僧の振るう棒切れの打撃に怯えながら労役につくと、陽に炙られて必ず倒れる者が出た。運よく畔に引き出され、ごく一部の親切な寺僧に介抱され回復する者もいたが、どちらかといえば、そのまま動かなくなってしまう者のほうが多かった。
いくつか年月が流れ、弥七は身の丈五尺(約150センチ)ほどの大きさに育った。給養はいいとはいえず、なりもボロボロだったが、その身軽さは群を抜いていた。走っても速いし、木に登るのも速い。水練の技にも長け、ひとたび川に潜れば陰の誰よりも多くの魚を捕った。
また、弥七は石投げを得意としていた。弥七が水面に石を投げると、石は水を切り、数回跳ねてからまっすぐ目標物に当たる。少し傾けて投げれば、石は跳ねるうちに、まるで生き物のように右か左にかしいでいき、誰もが予測しないところにある意外な目標を捉える。
それらは、弥七がかすかな思い出とともに身につけたものだ。石を投げるとき、弥七の脳裏にわずかに蘇る景色があった。
昔、同じように河原に立ち、弥七は石を投げようとしている。今よりもずっと幼く、背も低い。そして小さい弥七を、さらに低いところからじっと見上げる目がある。どうやら、妹のようだった。
丸い額に、黒くて丸い目。顔はよくわからない。
その妹は、今はどこにもいない。いつ別れたのかも覚えていない。
泥のなかを這いずり、この歳まで生き残ってきた自らの痩せた肉体があるばかりだ。
妹の名前も思い出せない。もしかすると、そんなものはいなかったのかもしれない。弥七には、よくわからなかった。
陰には、たくさんの新参者が流れてきて棲みつき、やがて死ぬか、ふらりと立ち去りいなくなる。ちょっとした昔すら、覚えている者はいない。ゆえに、誰も弥七の脳裏にのみかすかに息づく妹のことなど、彼に語ってくれる者もいなかった。
ただ、石を投げる前、弥七は必ず、黒くて丸い、その目を思い出すのだ。胸が締めつけられ、涙が滲んでくる。なぜかはわからないが、いつも必ずそうなる。
水面を見て石を投げなければ、その気持ちにはなれない。
だから、弥七は川に降りてくる。
そしてじっと水面を見つめ、あてどもない追憶にしばし浸り、そのあと石を投げた。
石は、必ず当たった。
陰は、弥七にとって世界のすべてであった。
そのなかにいる限り、弥七は安全であった。食うに困ることはあっても、まったく食えぬことはなかった。そこから出ぬ限り、昨日までと同じ今日と、そしてたぶん今日と変わらぬ明日があった。
たまに土手を越えて向こうに行くことはあるが、いいことは何もない。寺僧からは棒を振るわれ、その他の田畑を所有する村人からは嘲笑され、時には物理的な迫害を加えられた。
不思議なことに、たまに見かける身分の高い綺麗な身なりの人々の視線は、彼に同情的だった。それは憐み、あるいはある種の蔑みの目だったかもしれぬ。しかし当時の弥七にその区別はつかない。いずれにせよ、彼らは弥七の肉体を直接脅かしてはこない。彼にとっては、それだけで充分だった。
一方、弥七たちと同じように泥だらけで田に入る農民たちは、彼を執拗に敵視し、面罵し、愚弄した。畔道を通りかかっただけでも、誰かが目ざとく弥七を見つけ、しばしば集団で竹竿を突き出して転ばしたり、泥を固めて投げつけてきたり、いろいろな攻撃を仕掛けてきた。そこは彼らの場所であり、弥七たち河原の民のいるべき場所ではなかったのだ。
ある日、畔を通りかかった弥七ら三名の河原者に対し、村の悪童どもがいつものようにちょっかいを出してきた。河原者特有の蓬髪や、ぼろぼろのなりをからかい、自分たちの鼻をつまんで身体のにおいを馬鹿にした。
たしかに弥七の髪は、あの農家の子弟たちのきちんと結った髻と違い、ただ伸びっ放しのぼさぼさである。日頃から一日に一度は必ず川に飛び込み、大いに水浴びをするので汚れやにおいは少ないのだが、身にまとっている襤褸のような古着と併せ、弥七が彼らに較べ見劣りするのは確かだった。
土塊が飛び、囃し立てる声が聞こえた。彼らの挑発である。彼らは、明確にこの界隈の階層構造における最下層に位置づけられた河原者たちが、自分らに決して反撃してこないことを知っている。
ただのいびりであり、鬱憤晴らしだった。
いつものとおり、何を言われてもひたすら黙々とうつむいたまま弥七たちは畔を進んだが、今日は少しばかり勝手が違った。
畔の端に大きな身体の男が立ちはだかり、三人の河原者の行く手を塞いでいた。悪童どもは脇の畔から奇声を上げ、進むに進めず、立ち止まってしまった弥七らを、さらに嘲笑った。
一人が指をさし何事かを叫ぶと、脇にいたもう一人が、雀を脅すために竹で作った粗末な弓を鳴らした。放たれた矢は風を切って宙を飛び、弥七たち一行から胴ふたつほど離れた畔道に突き立った。仕方なしに今来た道を戻ろうとすると、今度はその先に矢が飛び、畔を外れて泥田のなかに沈んでいった。
一人が、狙いを外した悪童から弓を奪い、矢をつがえて今度はまっこうから一行を狙った。彼に、当てる意図まであったかどうかはわからない。しかし彼の放った矢は、今度は弥七の仲間の一人、「たにし」と呼ばれていた中年の男の肩に命中した。もんどり打って倒れた「たにし」は、泥田の脇に流れる用水溝に脇腹から突っ込み、足をばたばたとさせて動かなくなった。
瞬間、静まった悪童どもだったが、一線を越えたことで異様な興奮が彼らを包んだ。
「やれ!」
と叫びながら土塊と石と矢が同時に飛び、畔道に残っていた弥七と、十歳くらい年長の、仲間うちで「ねずみ」と呼ばれていたもう一人の河原者を襲った。
「たにし」と較べれば若い「ねずみ」と弥七は、ほぼ同時に来た飛来物をかわすと、溝に頭から突っ込んだ「たにし」を担ぎ、今来た畔道を小走りで逃れようとした。しかし悪童どもは「ねずみ」と弥七が「たにし」を助け起こす間を利用し、先回りして道を塞いだ。反対側の端には先ほどから大柄な男がのっそりと腕組みをしてこちらを睨んでおり、前後に逃げ場はなかった。
焦った「ねずみ」は、「たにし」の肩を担いだまま泥田のなかに逃げ込もうとしたが、「たにし」の反対側の肩を持っていた弥七はそれに抗った。泥田にはまると、もはや身動きすることもできず、悪童どもに狙い撃ちにされてしまう。彼らは殺気立ち、行きすぎた迫害の口塞ぎのため、すでにこちらの息の根を止めに来ていることが、弥七には本能的にわかっていた。
弥七の頭のなかで、何かが、はじけた。
彼は「たにし」から腕を離すと、そのままゆっくりと畔の先に立つ大男に向かって数歩近づいた。大男は少し驚いた風で、組んでいた腕を離し、腰を少し落として身構えた。
やにわに弥七は懐に手を入れ、一枚の平たい河原石を取り出した。彼が日頃、川面で石投げの練習に使っていたとっておきの一枚だった。手のひらほどの大きさで、四つ角を鋭く削り落とし、目標物を捉えるとそのまま刺突するように細工してある。
弥七はそれを抛り、大男の顎に命中させた。右肩の上に構える、あるいは左の腰の脇に抱え込む、そういった石を投げるときの予備動作は一切なく、石は何かの意思を持った生き物のように飛翔して大男を襲った。避ける暇もなく顎を砕かれた男は、ぎゃっと叫ぶと昏倒し、そのまま頭ごと泥田へ突っ込んだ。
弥七は駆け寄り、男を斃した河原石を拾い上げ、「ねずみ」に早くこちらに来るよう叫んだ。「ねずみ」は一瞬だけ逡巡したが、やがて意を決して「たにし」の肩から手を離し、自分の身ひとつで畔を走り抜けて弥七のもとにやってきた。
泥田に倒れた大男は、顔じゅうを泥と血とでぐちゃぐちゃに染め上げ、口からぶくぶくと泡を噴いていた。それだけ視認すると、弥七と「ねずみ」は土手を駆け上がり、そのまま向こう側に消えた。
あとに残された村の悪童どもは、凍りついたように畔から動かずしばし凝然としていたが、やがて弥七に斃された大男を助け起こし、彼がすでにこと切れていることに気づいた。
彼らの理不尽な怒りは、そのまま見捨てられた「たにし」へと向かった。倒れた「たにし」の腹部を蹴りつけ、背中を骨の音が鳴るまで肘打ちし、胸ぐらを掴んで顔面を拳で打ち据えた。「たにし」にはまだ意識があった。恐怖に震えた目で悪童どもを見やり、懇願するような言葉を何事か呟いたが、成り行きとはいえ心の箍が外れた悪童どもには、この哀れで罪なき初老の河原者に対し慈悲をかけてやる考えなどなかった。
言うならば、村人の罠にかかった鼬や白鼻芯と同じだ。害獣だ。
すでに陽は落ちつつあり、その光を背後に受け、大きな土手の影が泥田を覆い尽くそうとしている。
このまま夜の闇に紛れ、どのように残忍で喜悦に満ちた処刑を行なうか、今や殺人者と化した彼らが話し合っているとき、彼ら自身の運命も極まっていることにまだ誰も気づいていなかった。
黄昏どきの、黄金色の光線のあいだを縫うように飛来したなにものかが、悪童のうちの一名の後頭部を襲った。ごつっ、という鈍い音がして彼が倒れ込むのに気づいた別の一人が振り返ると、今度は彼の視界いっぱいに黒い影が広がり、そのまま顔面を撃たれ泥田のなかに突っ込んだ。
思いもよらぬ襲撃に慌てた彼らは、掴んでいた「たにし」を放り出し、そのまま畔道を村の方角に逃走しようと試みた。
夕照は、残酷なまでに影の位置にいた彼らから視界を奪っていた。いっぱいに広がる光で、彼らの目には襲撃者の姿がまったく見えない。そして、あたりを覆い尽くす巨大な土手の影が、かすかな畔道の輪郭を消し、逃げる彼らは次々と泥田に足を取られた。
動きの極端に遅くなった彼らを、土手の上の高みから、弥七は悠々と狙い撃ちにしていった。夕陽を背に黄金色に広がる世界のなかで、彼らの背に顔面に頭に、弥七は礫を次々と命中させていった。効果が薄かったと思われる打撃には、次弾を見舞うことで必ず埋め合わせをした。
脇には「ねずみ」が胸にいっぱいの河原石を抱え、次々と弥七に手渡していた。二人は土手の向こうに逃れ出たあと、河原で戦闘に適した石礫を拾い集め、ふたたびやって来たのだ。
ほどなく、とっぷりと陽は暮れ、弥七は攻撃を止めた。何人倒したかよくは覚えていなかった。あちこちの泥田のなかから、すすり泣く声や助けを求める声が弱々しく響いていたが、弥七と「ねずみ」はそれらを無視して土手を滑り畔に向かい、「たにし」だけを助け上げた。肩を抱き合った三名の河原者の影は、やがて土手を越えて見えなくなった。
翌朝、陰はものものしい雰囲気に包まれた。
手に鍬や鋤、手槍などを持った村人たちの一団が、付近の奉行所の代官を先頭に立て、土埃を蹴立てながらやって来た。代官は、陰の世話役らしき年寄りに、村を襲い田を踏み荒らし若衆を殺めた不埒者たちの居場所を尋ねた。年寄りは耳が遠く、代官の言葉をよく理解していなかったようだが、崖下にぽっかりと口をあけた横穴を指さし、そこに一名の怪我人が寝ていると言った。
代官とその手下、そして数名の村の代表が崖を滑るようにして降りてみると、横穴の奥にやや乾いて清潔な一角があり、そこには、廃材と竹で組んだ粗末な寝台に寝かされた「たにし」の姿があった。彼は小康を保っているが、肩に受けた矢傷がもとで発熱し、大量の汗をかいてブルブルと震えていた。代官がやって来たことにも怯えているようであった。
あたりに漂う臭気に眉をひそめた代官は、形式ばかりに昨日の夕方に村の田の畔で何があったのかを尋問したが、怯えた「たにし」は答えることができない。弱々しく、村の代表の数名のほうを指さし、
「やられた、やられた」
とだけ言った。
興奮した村人たちは烈火のごとく怒って「たにし」を捕縛しようとしたが、代官は彼らを押さえ、他の二人を出すように求めた。
「いなくなり申した」
年寄りは、はっきりとした声で言った。
「この者をここに連れ帰り、しばらく水など飲んで休んでいたものの、夜更けに二人ともいなくなり申した。どこへ参るとは誰も何も聞いてはおらぬ」
村の代表たちは激昂し、すぐにでも崖を駆け上がって弥七たちを追おうとしたが、代官がそれを止めた。
「夜更けに奔ったとしたなら、今さら追うたところで捕まるまい。早馬でもあれば別だが、そちらの村には牛しかおらぬであろう。わしのもとにも老馬が一疋いるだけで、これは走らせようとしても、ものの役に立たぬ。罪人どもが逃げゆく先にはいくつか心当たりがあるゆえ、そちらはいったん村に帰り、二名の名や年格好、人相などを書きとり村長を通じて正式に役所へ訴え出るがよい。あとは御上が然るべく御処置くださるであろう」
「こやつは、どうなさいます?」
村人の一人が、「たにし」を指さして尋ねた。
「わしらの村の働き手を殺めて、残りの六人も傷ものにしよる。縛り首にでもしねえと、皆おさまらねえ」
「どうもこうもあるまい。この役立たずの老体がここから逃げ出すとも思えぬ。そもそも、このような腰の曲がった年寄りがおぬしらの村の若衆を礫で襲おうとしたのか? わしには合点がいかぬ。こやつは放っておく。いずれ、御上から沙汰あればそのとき改めて吟味いたす。それまでは手出しすること一切まかりならぬ」
そして、代官は一行を促し、汗をかきかき苦労しながら崖を登って、去っていった。
一方的な村人の訴えの内容に胡散臭さを感じていたこともある。しかし、本当のところは、陰に籠もった湿気と臭気に嫌気がさし、何か病魔でもうつされることを案じて、一刻も早くそこを離れたかったのである。
村人たちは荒れ、特に痛めつけられた若衆たちの家族たちは何度となく陰の襲撃や懲罰を目論んだが、そもそもの犯人がもうすでにそこにいないのでは、如何せん、彼らの舌鋒も鈍った。
村と村との勝手な争闘は、たとえ河原者の集落を相手にしたものであったとしても、御上からの咎の対象になり得る。このあたり一帯を所有する寺院にとっては、村人たちからの年貢米も、対価のほとんどかからない河原者たちの労働力も、等しく有用なものであった。寺僧たちは、ひたすら村人たちを宥めることに努めた。
逐電した二名の河原者の罪は引き続き問われるものとされたが、陰にそれ以上の不幸が襲うことはなかった。
「たにし」はその後、十数日は生き続けたが、傷口が化膿して高熱を発し、うんうん唸りながら力尽き、河原の崖下の横穴のなかで死んだ。近親者はいなかった。いつもの、簡易な葬儀が執り行なわれ、「たにし」は土に還った。
陰には、また当たり前の日常が戻った。
第二章 逃亡
三河国の西の端、隣国の尾張にほど近い平野をうねりながら走る矢作川の流れの脇を、ねずみと弥七は、水辺に張りついた潅木の林や叢や葦原のなかをかき分け、少しずつ、少しずつ進んでいく。
ねずみはまっすぐ背を伸ばし、まるでそれまで負っていた重荷をすべて下ろしたかのように、身軽にひょいひょいと歩いていた。粗末な麻衣を着て、帯はないためほつれた縄で腰をなんとか留め、その上に粗末な打飼袋を巻き、肩の下まで伸びたぼさぼさ髪を粗い蔓で結っていた。でこぼこの河畔を一歩一歩進むたび、その髪が左右にブラブラと揺れた。
弥七はそのあとを必死についていきつつ、なんだか、ねずみの背中がとても大きく見えるのを感じた。
二人はこれまで、さして仲のいい間柄ではなかった。いや、そもそも会話を交わしたことすらほとんどなかった。この地で生まれた弥七と、もとは他所から流れてきたねずみとでは、言葉の発音も少し違っていたし、歳もうんと離れていた。お互いに、交わりを持つような共通項が、あまりなかったのだ。
ねずみが日頃の住処としていたのは、小川の向こう岸の崖に張りついた、粗末な竹の小屋だった。いっぽう、弥七が住んでいたのはこちら岸で、しかも主として河原あたりをぶらぶらしながら一日を過ごすことが多かった。
ねずみは、陰から出て、どこかにしばらく姿を消すことがあった。黄昏どき、あの独特の束ね髪をした黒い影が、土手の上を小走りに移動するのを、弥七は見たことがある。彼はときどき、何か弥七にはわからない仕事をしているようだった。
そんな、同じ河原者でもどこか得体のしれない大人だったねずみが、行きがかりとはいえ、弥七の協力者に、そして共犯者になった。二人はともに逃げざるを得ず、やむを得ぬ事情で同志となった。
共通の目的はただひとつ。生き残ること。
そのために、今は追手を逃れ、誰にも見つからぬうちにいち早く陰から遠ざかる必要があった。陰の外の世界をまだまるで知らぬ弥七にとって、迷いのない足取りで先を進むねずみの背中は、あたかも、自分の進む道を照らす唯一の光に思えた。
しかし、死の影にずっと追われてはいたが、彼らに悲愴感はなかった。二人の足取りはむしろ、浮き立つように軽やかだった。
あのとき、悪童どもの襲撃を受けて土手の向こうに逃げ出したあと、弥七は陰まで逃げ戻るのではなく、自然に足を止め、そこの河原の石を集めはじめた。やや遅れて逃げ出してきたねずみも、追っ手が来ないことに気づくと、何も言わずに弥七を手伝った。
ほどなく手頃な大きさ、硬さの石が集まったため、二人で抱えて土手上に駆け戻り、そこからたにしにとどめを刺そうとしていた悪童どもに制裁を加えた。弥七が投げ、ねずみが渡す。役割分担も無言のうちにできていた。陰での礫投げにおいて、弥七は他の誰よりも巧みな投げ手であることを、ねずみはよく知っていたのである。
長らく虐げられてきたことへの怒りが彼ら二人のなかで同時に沸点に達し、この無言の反撃に及んだのだ。だが、これまで、抗いようのない分厚い蓋のごとく彼らを圧しつけていたものが、いざ立ち向かってみると、意外にも脆く打ち破られたことに弥七は驚いた。
弥七の手のなかには、あのときの河原石の硬い感触、手応えがまだ残っている。それは、彼が生まれて初めて味わう勝利の味だった。名もなき河原者に過ぎない弥七が、自らの秘めた力と可能性に気づいた瞬間だった。
もちろん、身分秩序でいえば遥かに上の存在を弑逆してしまったことで、次に彼の身に迫ってくる脅威は、農村の悪たれによる嫌がらせ程度の生やさしいものではない。しかしまだ手に残る礫のぬくもりは、自らが、その持てる力をすべて発揮すれば打ち破れぬものなど何もないという、これまで知らなかった真実を示すものだった。
弥七は、生まれて初めての幸せを噛みしめた。胸がふるえて、息が苦しくなった。そして身体のあちこちに力が漲っていることに気づいた。前夜から睡眠をとっていなかったが、まったく眠くはなく、腹も当然に空いていたが、特にまだ何を食べなくてもずんずん先へと進むことができた。
自分の行く手を遮ることができるものなど、この世界には何もないように思えた。
土手の向こう側には街道が延びており、多少は人の行き来があり見通しもよかったため、追われる身となった二人は、昼間は常にそこから身を隠さねばならない。土手内の河原のなかであれば、生い茂る緑が街道の人目を避けるための格好の目隠しになった。ただしその緑の木々や叢は手強い障害物ともなり、彼らの進行を著しく遅滞させてしまっていた。
陰と、そのわずか一町歩(約1ヘクタール)くらいの範囲を出たことのない弥七にとっては、草をかき分け、足を前に踏み出すその一歩一歩が、まったく未知の世界に進み入ることでもある。
しかし他所から陰へ流れてきたねずみは、すでにこの道を知っている。なぜなら以前まさにこの道筋を逆の方向へ、人目を避けつつ逃げてきたのだ。人か獣かわからぬものがつけた、かすかな踏み跡程度しかないこの場所を、慣れたねずみは音も立てずに進んでいく。
ときどき人の営みがある場所に突き当たることもあった。人里ではなく、湿った水辺であることには変わりはないが、陰に較べると遥かに日当たりがよく、少しは乾いて清潔な原っぱや、整地された小さな菜園などが点在していた。それにぶつかると、ねずみは弥七を残して物見に出て人の気がないことを確認してからまた戻り、弥七に前に進むよう合図した。
こうした小耕地や小屋の主は川漁師であり、昼のうちは、水中に打った杭へもやっていた小舟を駆って、遠い流れに出ていることのほうが多かった。
無人の小屋や葦を被せた風除けの囲いに残されている食物を、弥七は何度か手に取ろうとしたが、ねずみは小さく叱って、もとに戻させた。盗人が出たと漁師が騒ぎ、追捕の手がかかると、捕縛される危険が非常に増す。船を操り、川の流れや地形を知悉する彼らのほうが、遥かに素早くこの流域を移動できるのだ。
追われたら、まず逃げられない。土手の向こうにまろび出でて、街道上で捕縛されてしまうのが関の山だ。当座の空腹をしのぐことなどより、誰にも気づかれず、追われない工夫をすることが、生き残りたければ第一だと、ねずみは弥七に教えた。
「このまま歩いて、どこに行くんね?」
弥七はねずみに尋ねた。どこに行こうが、陰の外の世界を知らぬ弥七にとっては、大した違いはない。しかしねずみの足取りは確かで自信に満ちている。行く当てがある者の力強い歩みだ。
「ブエイ様のもとに行く」
まっすぐ前を向いたまま答えた。
「ここは、だめじゃ。わしはオワリから来た。オワリはブエイ様のくにじゃ。いっつも市が立ってての、湊もあって、いろいろなものが行き交う。だから飯がある。銭もある。女子もいる。そこに行く」
オワリとは、弥七は初めて聞く言葉であった。何かが終わるという意味なのかと思ったが、どうも違っているようだった。銭については、自分でそれを持ったことはないが、それがたいへんに価値のあるものであることくらいは知っている。
しかし何よりオワリに着けば、たらふく飯が食えるという。ブエイ様が誰のことなのかはわからない。その響きから、弥七はなんとなく地面の穴のなかでもぞもぞする黒い虫を脳裏に思い浮かべ、さらにそれを足で踏んでぐしゃりと潰す爽快な場面を想像した。だがすぐに、素晴らしい贈りものをねずみと自分にくれる、何かとても偉い神様なのだと思い直した。
やがてとっぷりと日が暮れ、川辺は闇に閉ざされた。
もはや、この暗闇をかき分けて水辺を歩くことはできない。だが逆にねずみは目を輝かせ、弥七に手招きをしながら土手を這い上がり、しばし様子を窺うと、そのまま斜面を滑り落ちて街道に降り立った。弥七もあとに続き、足裏にわずかに砂利がまじった平らな土を感じてぎゅっと踏みしめた。そして、二人は街道を堂々と歩みはじめた。
これまでが嘘のように歩速が上がり、あたりの風景が次々と変わっていく。
前方の障害物に注意を払う必要がなくなったことから、弥七は顔を上げ、満天の星を飽きずに眺めることができた。ぐるりと丸い天球に、いっぱいの星くずが撒かれ、ところどころ刷毛で塗ったような真っ白い帯が見える。白銀色に輝く星のひとつひとつが、今の弥七には、自分の門出を見送る仲間たちの快哉に思えて仕方がなかった。
「あれは、陰の長。なんか、まわりにみんなが集まっちょる」
そう言いながら弥七は星のひとつに指をさした。そしてまた別の星をさして、自らに言い聞かせるようにこうつけ加えた。
「あれは、たにしじゃ。射られて怪我さしとるけど、じきに治る」
最初はこの無邪気な遊びに黙っていたねずみも、弥七の次の一言を聞いて、思わず笑い出した。
「おっ、あれが『わけしり』じゃな。なんかまわりの星に、いつでもむつかしいことば言いよるような素振りじゃ」
「そうじゃ、そうじゃ、で、まわりの誰も聞いとりゃせん」
ねずみはそう受けて、弥七に聞いた。
「わしはどれよ」
弥七は立ち止まり、くちびるに指を当てて、星を探しはじめた。
「ううむ、そうじゃな。あれは、どうじゃ?」
東のほうに指をやったが、もちろん彼がどの星をさしているのか、星の数が多すぎてよくわからない。ねずみはこだわらず、調子を合わせてこう聞いた。
「あれの、どこが、わしじゃ?」
ねずみが聞くと、弥七は、いたずらっぽく微笑みながら、こう言った。
「なんかのう、すばしっこそうじゃ。ずっこくて、はしっこそうじゃ」
「わしは、ずっこいのけ?」
「うむ。そうじゃ。いろンなことば知っちょる。ブエイ様のことも知っちょる」
「ブエイ様な。とにかく、辿り着こう。でもその前に、何か食わねばならんな」
弥七の星あそびは、その後しばらく続いた。
「あれは、ととさん。あれが、かかさん」
ねずみは、弥七の両親のことなど何も知らない。弥七が両親の記憶をまったく持っていないことも知らない。
「そして、あれが……」
そう言ったきり、弥七は黙ってしまった。脳裏に、石投げをしているときに自分をじっと見つめていた、あの黒い目が浮かんできたのだ。
妹だった、たぶん。
そう思ったが、またしても、妹の顔を思い出すことはできなかった。
いつしか二人は街道を外れ、川の流れからも離れた小路を辿っていた。こぼれ落ちる星々の光を受け、右手にはため池らしき水面のさざ波が白く反射した。左手には等間隔に整然と植えられた見慣れない木々が連なっている。遠くを透かして見ると、なにやら四角い木枠のようなものがあちこちに転がしてあった。そして、行く手に大きな小屋の影が現れた。
弥七は、あたりに色濃く漂う人の営みの形跡に、思わず身を硬くした。陰からつながる川の流れから踏み出した未知の領域の闇のなか、どのような魑魅魍魎が待ち受けているのか、まるで経験がないため、危険の度合いがはかりしれないのである。彼は、ねずみの後ろ姿を見やった。ねずみは落ち着いた所作で歩みを続けていたが、後ろからではその表情までは見えない。
不安に耐えかね、脇に並んで声をかけようとしたそのとき、やにわにねずみが振り返り、小声でこう言った。
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