敵は家康

早川隆

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1巻

1-2

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「こりゃ、ええのう」
「何がじゃ?」

 泣きそうだった弥七が尋ねる。

「ここらあたりは、おカイコ様の家じゃ」
「おカイコ様ってなんじゃ? ブエイ様ではないのか?」
「まるで違うわ。絹の衣の糸を取るんじゃ」

 もはや、なんのことだか弥七にはまるでわからない。しかしながら脇を行く相方が、怯えるどころかむしろ喜びの表情を浮かべていることに、ひとまずは安堵した。

「ええか、しっかとわしについて来いよ。声は立てるな。番人がいるかもしれん」

 弥七は、声を立てずにうなずいた。
 ねずみは、その名のとおりの敏捷びんしょうな動きで大きな小屋の影に近づいていく。仕方なしに弥七も従った。身軽さにかけては、弥七もねずみに劣らない。二人の侵入者は、足音を立てず、苦もなく小屋の脇に取りついた。
 ねずみは軽く指をかけて扉を引くと、それはかすかな音を立てて滑り出した。弥七の緊張は極限に達し、叫び声を上げてどこかに逃げ出したい衝動に駆られたが、小屋のなかからはなんの反応もなかった。人ひとり入れるだけ扉を開けると、ねずみの姿はそのなかに没した。少し待ったが出てくる気配はない。弥七も渋々あとに続き、黒くぽっかりとあいた空間に身を差し入れた。
 闇のなかでもぞもぞと動いていたねずみは、

「ふう、ここにゃ、ありゃせん」

 と呟き、少し場所を移動して別のところを探った。弥七は、ただきょとんとして見ている他はない。外から誰かに発見されるのが怖くなり、扉を内から閉めようとしたら、ねずみの鋭い声が飛んできた。

「こら、なんにも見えのうならあ! 探しとるんじゃ、今少し扉さ広く開けろ」

 弥七が言われたとおりにすると、ねずみはまだガサガサと何かを探していたが、突然闇のなかに差し入れた手の動きが止まり、弥七のほうを見ながら歯をいてニヤリと笑った。

「ほうら、出るろ。出るろ」

 引っ張り出したものを、両手に捧げて外からの光にかざした。
 薄い葉っぱで包んだ、握り飯だった。
 丸一日何も食ってない弥七が、なかば動物的な反応で腕を伸ばしたそのとき、額に打撃を感じ視界に火花が飛んだ。

「なにする、これは、わしのだ!」

 そう言うや、ねずみはその大きくて形の悪い握り飯をうまそうに頬張りはじめた。
 むしゃむしゃ、くちゃくちゃと咀嚼そしゃくし、人ごこちつくと、初めて弥七のほうを見やり、笑いながら言った。

「叩いて悪かった。ごっつぅ腹が減ってたでな。安心せぇ、まだどこかに他の奴のがあるはずじゃ。そこらをあさって、てめぇで探せ」

 弥七が頷いてあちこち探しはじめると、その背中に向けてねずみは説明した。

「ここはな、おカイコ様の小屋じゃ。貴人の召しものの糸を取るために、ここにはごっつぅおカイコ様がおる。そこではな、大勢の下人が使われとる。おカイコ様の世話をするんじゃが、いつもおらねばならんわけじゃない。日頃は田や畑に出とる。寝るところも別々じゃ」

 気もそぞろに聞いていたが、弥七の手の先にも手応えがあった。引っ張り出してみると、それは口を紐で縛ってある小さなわら袋だった。指で少しむと、中身は何か細かい粒のようであった。

「おぅ、出たな、出たな。口を開いてみろ」

 言われたとおりにして、手のひらの上でひっくり返してみると、さらさらとした小さな粒々が落ちてきた。少しばかりこぼれ、音を立てて床に落ちた。
 拾って何粒かかじってみれば、その硬さに歯が折れそうだったが、ぼりぼりと噛んでいるうちに、甘みを感じるようになってきた。しばらくすると、そのままするりと呑み込めた。

干飯ほしいいじゃな。乾かした米じゃ。そのままでも食えんことはない。腹に力がつくぞ。落とした分まで拾って、しっかり食え」

 ねずみは言うと、ぼりぼりとやる弥七に対し、先ほどまでの説明を続けた。

「ここはおカイコ様を領主様にお納めしとる。家主様は大身代だいしんだいじゃ。村のものや、身内だけでは畑もおカイコ様の面倒も、同時に見るわけには参らん。そこで、おカイコ様の面倒だけ見る下人を召し使うのじゃ」

 少しずつ、腹が満ちてきた弥七が、

「なんでそんなこと知っちょる?」

 と聞くと、ねずみは笑った。

「わしも、そうやって働いていたことがあるんじゃ。ここの家じゃねえ、だがここらにはこういったでっけぇ家が、あちこちにあるのじゃ。さっき道に植わってた桑の木でわかった。で、な。下人どもは、ずるっこいし、はしっこい。家主様はあちこち見張ってなんぞいられないから、目を盗んで食いもんちょろまかすんじゃ。家の台所や蔵から、ちょっとずつな。それを、ここに隠す」
「ほんじゃ、こりゃ、盗みで隠してたものだか」

 弥七は自分の手のひらを眺めながら尋ねた。

「そんじゃ。じゃが家主様は痛くもかゆくもねえ。ちょっとぐらいは、いいんじゃ。みんなやっとる」
「盗んだ奴が、ここに戻ってこんじゃろか?」
「心配いらねえ。朝までは戻らん。腹が膨れたら少し寝るべ。夜が明ける前には出にゃならん」

 ねずみはそう言って背を向け、ごろりと横になった。そして言った。

「扉は、閉めとけよ」


 弥七は、あまりにも腹が減っていたので、その袋に入っていた米だけでなく、周辺を漁ってさらにふたつの獲物を口に入れた。ひとつは小さな芋、もうひとつは何かの豆の粒が入った袋だった。
 ひとしきり、それらをぼりぼりとやっていたが、やがて腹が満ち、頭がぼうっとなってきた。考えてみれば今日は、夜が明ける前から歩きづめだった。もう足は棒のようで、裸足の足の裏は岩のように固くなっている。寄せてくる睡魔が、弥七を襲った。
 はっとして、弥七は約束通りまず扉を閉めた。あたりは闇になった。土の床に散らばっていたわらくずを手探りで集めてこんもりと盛り上げ、そこに頭を載せて目を瞑った。弥七は眠りに落ちた。
 どのくらい経っただろうか、弥七は闇のなかに独りだった。独りであることが、そのときの弥七にはわかっていた。先ほどから誰かが、遠くのほうから自分を呼んでいる。声はひとつではなく、違った声もまじる。男だったり、女だったり。いずれもかすかな声で、なんと呼んでいるのかはわからない。だがそれは明らかに自分を呼ぶ声のような気がした。
 唐突に、弥七の脳裏にある楽しい思い出が蘇ってきた。それは愉快で、快適で、腹の底から笑える何かの思い出だった。だが何についての思い出だったのか、弥七にはわからなかった。誰かと一緒に大笑いしているのだが、それが誰なのかも見当がつかなかった。
 ひとしきり、そのようなあてどもない追憶にふけると、意識はまたもとに戻り、闇のなかで誰かがかすかに呼びかける声が聞こえてきた。なんと呼んでいるのか。自分は弥七のはずだが、その声は弥七と呼んではいない気がした。なんだ、なんだ、おまえは誰だ? 弥七はその声の正体を知ろうともがいたが、身体は何かに縛りつけられたようで、まるで動かない。かすかだった声は、少し大きくなったり、また遠ざかったりした。身体は動かないが、誰であるか見ようと、弥七は声のするほうに目をやった。
 彼方に、小さな影があった。
 誰かに手を引かれている小さな影で、女児のようだった。
 くすんだ紅の着物を着て、遠くから弥七を見ている。見ているのはわかるが、顔まではわからない。女児は、何事か呼びかけていた。

「さわ、さわ、さわ……」

 よく聞くと、呼びかけているのは女児だけではなかった。

「さわ、さわ、さわ……」

 いくつかの音が重なっている。しかし、いずれもかすかだ。
 弥七は、ゆっくりと目を開いた。
 そこには、さっきまでいた小屋のなかの闇が広がっていた。隙間から月の光が幾条かれ、小屋のなかの様子を断片的に照らし出していた。頭をひねると、向こうのほうに背を向けて寝ているねずみの身体の輪郭りんかくが見える。
 やがて、目が慣れて頭がすっきりしてくると、またあのかすかな声が聞こえてきた。

「さわ、さわ、さわ……」

 しかし、小屋のどこにも、あの女児の影は見えなかった。手を引く何か大きな影もいなかった。ただ、

「さわ、さわ、さわ……」

 と声だけがする。
 理由のわからないまま、弥七が闇のなかで慄然りつぜんとしていたら、突然、男の低い声が響いた。

「うるさいぞ、よ眠れ」

 隣のねずみが、背中を向けたまま弥七を叱ったのだ。
 びくっとした弥七は、やっと声が出るようになり、ねずみに訴えた。

「変な声が聞こえるんじゃ。なんと言ってるかわからぬ、なんか、うらを呼んでいるんじゃ」

 ねずみはようやく頭を上げ、上半身を起こし、弥七のほうを向いて目をまたたいた。

「さわ、さわ、さわ……」

 音は、まだ続いている。怯えた顔で弥七が震えているのを見、しばらく耳をすませた。そして、笑い出した。

「ははは、こりゃぁのう、おカイコ様じゃ」
「おカイコ様?」
「そうじゃ。この小屋じゅうに、木でできた枠が差し渡してあるじゃろう?」

 弥七も頭を上げ、周囲を見渡した。たしかに、黒く四角く、段々に組まれた構造物の影が、小屋のなかを占めている。

「あのなかに、おカイコ様がおる」
「おカイコ様が? おカイコ様ってなんじゃ、偉い人じゃないんか?」

 口元を歪めてねずみは笑い、

「虫じゃ、芋虫じゃ」

 と言い、さらに続ける。

「桑の葉を食べて、糸を吐くんじゃ。その糸が強くて、きらきらしていて、見ばもよい。じゃから、京の都のお公家さんや、ブエイ様らがそれを紡がせて着物にするんじゃ」

 弥七は、呆然としていた。

「うりゃあ、てっきり、ブエイ様と同じ偉いおひとなのかと……」

 ねずみは、苦笑した。

「糸とは違って、おカイコ様は見ばの悪い、気持ちの悪いただの虫じゃ。暗闇のなかで、ちょっとずつ桑の葉を食うんじゃ。その音じゃ。気にしないで、寝ろ」
「そうか……うらはてっきり……」

 弥七に、今度こそ本当の睡魔が襲ってきた。自分を呼ぶ声も、誰かに手を引かれた女児の姿も、すべて頭から吹き飛び、そのまま引きずり込まれるように眠りに落ちた。そのさまを見やり、ため息をついてねずみも目を閉じた。

「さわ、さわ、さわ……」

 桑の葉をかいこたちが立てる無数のかすかな営みの音が、疲れ切って寝につく二人の男を、まゆのように柔らかく包み込んだ。



 第三章 小屋


 幾本かに分かれた光の束が小屋の側壁に突き当たり、そこに小さく輪を描いている。闇は薄れ灰色になり、まだかすかな音を立てている蚕棚の形が、目の端にはっきりと見える。そして、視界のすみっこでは、まん丸い顔をした女が、きょとんとした表情で見下ろしている。
 弥七は土間からはね起きた。そのはずみで女は尻餅しりもちをつき、後ろの蚕棚に頭をぶっつけた。

「い、痛たぁ~!」

 女はうめいて後頭部に手をやり、そのままキッと弥七を睨んだ。

「なにする! おみゃあは誰じゃ!」

 弥七は、咄嗟とっさのことに答えられない。ただ、

「あぁ、う、うらぁ……」

 と、言葉にならない声を発するばかりだ。

「おカイコ様のところで、なに寝てるか! どっから来た?」

 高くて澄んだ声色だった。語調ほどには、弥七に敵意を持っているようではなかった。やや落ち着きを取り戻した弥七は、夜明け前にここをつという昨夜のねずみの計画が狂ったことを知った。
 そのねずみの姿は、どこにもない。
 女は弥七よりは随分と年上だが、つややかな肌の丸顔にくりりとした大きな目、髪を束ねて後ろに垂らしてこちらを睨んでいるさまは、陰やその周囲の里では見たこともないような鮮やかさだった。

「あん? ものが言えんのか、うりゃ」

 詰問調だが、どこかに弥七を気遣う優しさが混じっている。やっと言葉が出るようになって、弥七は言った。

「すまねえこって。道に迷って、ここで寝ておりやした」
「なんで、こんなわかりいいところで道に迷うだ。おみゃあ一人か?」

 なんと答えてよいか判断しかねたが、反射的に、へい、と口をついて出た。

「どこの村のもんよ? どこに行くつもりね?」

 女の矢継ぎ早の質問に、その場しのぎの答えが追いつかなくなってきた。しかし弥七が答えるよりも先に、女のほうが自分で答えを探し当てたようだった。

「はーん、おみゃあ、他所の村から逃げてきただね? そうじゃろ? ぼろぼろのなりじゃけ、よほど遠くから来なさったんね……ととさんかかさんはおるんね?」
「おとさんおかさん、いねえ。死んでしもうた」
「そうね……そう、気の毒にね。どこでも戦ばかり。お侍さんの身勝手にも呆れけえるわあ」

 何かいいほうに誤解されたらしいことは、弥七にも感じられた。相手に警戒心や害意がないことは明らかだったので、弥七はおそるおそる言ってみた。

「ねえさん、転ばしてすまんです。うら、慌ててしもうて。怪我ねえだか?」

 女は、少し嬉しそうに言った。

「はっ、心配いらねえ、うらは大丈夫だ。それより、おみゃあの格好はなんよ。母屋の脇に井戸があるし、水は綺麗だ。そこで身体を洗え」

 襤褸ぼろをまとって蚕小屋に寝ていた、まだ子供といっていい他所者よそものに、女はすっかり警戒心を解いたようであった。弥七の素性を誰何すいかするよりも、何か世話を焼いてやろうという親切心が先に立ったらしい。
 井戸、と言われても場所のわからぬ弥七がまごまごしていると、

「はっ、うらが連れていってやる。朝の見回りで忙しいのに、このおんぼろ坊主ときたら!」

 と笑いながら言い、弥七の手を取って小屋から出ようとした。


 そのとき、扉の脇の暗がりから黒い影が飛び出した。影は女を羽交はがい締めにし、口を塞いだ。驚きと恐怖に歪んだ女の目が後ろをのぞこうとすると、先に影のほうが言った。

「騒ぐな、騒ぐと首さ絞める」

 ねずみだった。
 女は、しばらく何か唸っていたが、ねずみの手が口を塞いでいるため声が出せない。ねずみは、女の背中から冷たく言葉を継いだ。

「わしらは、旅の行きずりのもんじゃ。腹が減ったんで、ここにあった飯をいただいた。もうつ。じゃが、騒いだり家の者を呼んだりしたら、絞める」

 ゆっくりと、落ち着いた声音は、腹の底から圧するほどの勢いがある。まるで、声自体が禍々まがまがしい鋭利な刃物のようで、それだけで人が殺せてしまえそうであった。昨日の、親切で頼りになるねずみとは別人だった。弥七でさえも恐怖におののいた。
 女は、首に入ったねずみの腕の力の強さに身を硬くしたが、少しすると、わかった、というように頷きながら、手のひらでねずみの腕を叩いた。
 ねずみは腕の力を弱めた。しかしまだ、いつでも首を絞められるよう警戒は解いていない。もし女が助けを呼ぶ声を発そうとすれば、おそらく声になる前にねずみの腕が女の喉を砕くであろう。
 女は、しばらくぜえぜえとあえいでいたが、やがて切れぎれに言った。

「なんぞ、おのれらは! 盗賊か?」
「違うわ」

 言下にねずみは否定した。

「なら、なにね? こんな手荒な真似して、これが盗賊でなくてなにね」

 叫ばず、静かな口調で、精一杯の抗議の意思を込めて言った。
 ねずみはやや語調をゆるめる。

「訳あって、人に知られず旅をしちょる。ここの主人どもに知られたくないのじゃ」

 女は、ねずみを睨んだ。だが騒ぐ気配は見せなかった。

「こったら子供さ、寝かせておいて。うらが油断したすきに襲いかかってきおって。やることが卑怯じゃ。言うなと言うなら、最初からそう頼め。そうなら黙っておってやったに!」

 意外な答えにねずみも戸惑ったようだった。女は一気呵成いっきかせいに言葉を継いだ。

「こんな朝っぱらに、おカイコ様の脇でこんな襤褸着て寝とる子が、訳ありじゃないわけがなかろ。そンなことくらい、見た途端にわからあ。このあたりじゃ、あっちでもこっちでもちょいちょい戦が起こる。なんかあるたび、落ち武者とか逃げた雑兵とか、いろいろな訳ありがここらを通るんじゃ。おみゃあらも、そじゃろ?」
「そうじゃとしたら、なんじゃ?」
「言わんでおいちゃる、それだけじゃ! おみゃあらが何者だろうと、うらにはかかわりねえ。どこへなりとも、勝手に行け!」
「行ったあとで、追手を差し向けるじゃろ?」
「知るかよ! うら、別にここの家のもんじゃねえ! おカイコ様に悪ささえしなきゃ、芋でも飯でも、そこらにあるもん勝手に持っていけ!」

 ねずみはやっと、女から手を離した。
 しばらく、女は荒い息を吐いていたが――

「言うたろ、勝手に出ていけ! うら、他の小屋の見回りせにゃならん。向こうを回っていく。母屋とは逆のほうじゃ。おみゃあらからも見える。ひと回りするのに、昼過ぎまでかかる。番人は東と西の門にしかいねえ。お日さま見ながら南側に行けば、小さな川があるけ、それさ渡れば安祥あんじょうさままで行く道に出る。岡崎に行きたきゃ逆さの方角だ。さ、どこへなりとも行け、二人とも、とっとと消えてしまえ!」

 そう吐き捨てると、傍に置いてあった、桑の葉をいっぱいに詰めた背負籠しょいかごを担ぎ、小屋を出ていってしまった。


 あとに残されたねずみと弥七は、しばらくぼうっとしていた。やがてねずみは弥七に、言い訳がましく言った。

「すっかり寝過ごしてもうた。わしも疲れていたんじゃ。で、あの女子おなごがいきなり入ってきおって。飛び起きて物陰に隠れたが、おのれが見つかって万事休すじゃ。あないに手荒なことしたくはなかったが、小屋の外に出したら、必ず追手を呼ぶ。だから、仕方なかった」
「いい人じゃったよ、そいなことしないよ」
「かもしれぬな。じゃが女子を信じたらあかん。痛い目みることになる」
「そいなことないよ」

 語彙ごいの少ない弥七の、精一杯の抗議だった。目に涙を浮かべながらの、必死の訴えに、ねずみも少し心を動かされたようだった。

「わかった、わかった。でもわしら、捕まったら死ぬんじゃ。あのくらい手荒なことでもしなきゃ、くびを斬られることになる。痛いぞ、頸は」

 ねずみは、自分の首に手を当てた。

「これから、どうするのじゃ? 出ていくのか?」
「いや……安祥に行くのは明日じゃ。今日はだめだ。もう明るすぎるからな。出るのは明日の暗いうちだ。駆けに駆ければ、まだ人目につかぬうちに城下に入れるじゃろ。そうすれば、しめたものじゃ」
「アンジョーってなんじゃ? ブエイ様のおるところか?」
「何も知らぬな、おのれは。まあ、陰で生まれたんでは仕方なかろ。安祥とは、大きなお城のあるところじゃ。ほぼ尾張じゃ。ブエイ様のくにじゃ」
「ブエイ様がおわすのか?」
「ブエイ様はおらぬ。もっと遠いところじゃ。今はお城に誰がおるのか知らぬ。わしも安祥を出てもう幾年にもなるからな。このあたりじゃ、いっつも戦じゃ。大抵はどちらかがご城下に攻め寄せて、矢合わせ、槍合わせだけバチバチやって終わりだが、時にはお城が焼けて、まるごと落ちてしまう」

 弥七には、その説明の意味はよくわからない。「尾張」と「終わり」がごっちゃになるし、お城が落ちる、というのがどんなことをさすのかも理解できない。安祥という、これまでまったく聞いたこともない新しい名前まで出てきて、もう自分がどこにいて、これからどこになんのために行くのかすらわからなくなってきた。
 混乱した弥七の表情を読み取って、ねずみは少し優しく言った。

「まあ、安心せえ。とにかく今日は動かぬ。あの女子に頼み込んで、もうひと夜だけ、ここにおる。あの様子では飯も分けてくれようし、ゆっくりできるぞ」


 女は言葉どおり、昼過ぎに戻ってきた。二人がまだ小屋に残っていることに気づくと、少しだけ顔をしかめたが、表情は変えずに淡々と言った。

「まだおるのね……はぁ」
「日が高くなったからな。もう一晩、ここに置いてもらいたい」

 ねずみが、先ほどとは打って変わった丁寧な口調で頼んだ。
 弥七がそっとねずみの袖を引いた。ねずみはやや眉をひそめると、さらに丁寧な口調で言葉を継いだ。

「先ほどは、申し訳なかった。慌ててしもうて、つい手荒なことを」

 弥七と揃って、二人とも両手をついて平伏した。女は目をまん丸くした。
 ねずみはほどなく面を上げたが、弥七はまだ平伏したままだった。
「お寺さん」で、高僧が座敷に現れたとき、陰の住民は、両手をついて平伏せねばならなかった。足の付け根くらいまである深さにはまっている者だけは、腰から上を折ることで見逃してもらえたが、たとえ泥田のなかにいても、手をつける程度の深さであれば平伏しなければならない。そしてそのまま、高僧がそこを去るまで顔を上げてはならない。人間以下の彼らは、高貴な人の視野のなかに存在するべきではないのである。この掟を破る者には、あとで容赦なく若い仏僧からの棒切れによる打擲が飛んできた。
 弥七にはそれが染みついている。だから、いつまでもいつまでも顔を上げようとしなかった。
 困ったのは、ねずみである。いったん顔を上げたが、間がもたず仕方なしにまた平伏した。
 女は、弾けるように笑い出した。

「うら、にっくいよ、あんたたちが」

 女は言ったが、その声に、すでに怒りは感じられなかった。

「その子の入れ知恵だね。まあ、いいさ。おカイコ様にだけは手ぇ出すな。水はそこの裏の手桶に少しある。乾いたら、人に見られぬようにそっと飲め。あとで少し飯を持ってきてやる。ええか、おとなしくしとけよ」


 ところが、翌日は夜更け過ぎから雨が降ってきた。
 勢いのある雨で、この宏大な荘園の敷地を抜けるだけでもつらそうだ。ましてや、ぬかるんだ道を安祥まで走るのはとても無理である。女も事情を理解し、二名の潜伏を了承した。
 女の名は、おこと、といった。
 三十年配の、小柄でややずんぐりとした、見た目は田舎の農婦そのものだが、立居振舞いにどことなく柔らかな気品があり、言葉のはしばしに人を気遣う優しさが滲み出ていた。特徴的な丸顔を覆う豊富な黒髪を、色あせた萌黄色もえぎいろの布で桂巻きにし、はっきりとした意思を宿す大きな丸い鳶色とびいろの瞳を持っている。
 そして、その瞳をまっすぐ相手に向け、目をそらさずに話をする。
 朝、おことが盆に載せ持ってきた飯は、弥七が見たこともない海の魚をやわらかく煮たものと、木椀にいっぱい盛った米の飯、真っ白い真菰まこもと汁であった。
 くりやの残り物ということであったが、弥七にとってはこれまで口にしたこともない、えも言われぬ美味な食事であった。あまりにも美味なものを食べると、なぜか目のはじに涙が湧いてくることを、弥七は生まれて初めて知った。
 はしが使えず、手掴みで一心に食らう弥七の姿を、おことはまるで母親のように笑顔で眺めた。ねずみは、しかめつらをしながら、横目でそれを見て、黙って真菰を齧った。
 やがて、おことは言った。

「うら、旦那がいたんよ」

 弥七は食うのに夢中であり、ねずみだけがわずかに反応したが、そのまま黙っていた。おことは続けた。

「戦に出たまま、消えてしもうた」
「討ち死にしたのか?」
「いや、生きとる。生きとるはずじゃ。じゃが、戻ってこれぬ」
「なぜじゃ?」
松平まつだいらが旦那をとりこにして、身代みのしろを言うてきおった。うらに払えるわけがなか。村長に頼み込んでみたが、そのとき同じ村で六人も虜にされた。村のついえで払えたのは、そのうち四人までじゃ。ひどい負け戦で、お屋形様も何もしてくれんと」
「ひどいな」
「村の掟で、順番が決まっちょる。いや、いつの間にか掟が決まっちょった。うらが知らんかったのがいけんと、そう言われた。村では新参者だったでな」
「それで、そのまま村を出たか」
「子はおらんで、苦ではなか。そのままここに働きに出た。おカイコ様の世話さしっかりやって、いい糸をたんと出してくれれば、銭をくれる」
「松平に掛け合うのか?」

 おことは少し目を落とし、気を取り直したようにきっぱりと言った。

「いや、だめじゃろ」
「なぜだめとわかる?」
「もう、九年も前の話じゃ……そのあと二年くらいは、まだ生きちょうというような音信もたまに届いたが、ここ数年は、何も音沙汰がない」
「まっすぐ歩けば、数日のところだがな」
「松平の奴ら、憎いよ。旦那がどこにいるのか、ぜんぜんわからん」
「それは辛いな」
「たぶん、売られたんじゃ。安祥の邑で聞いたが、他所の国に売られるだけではのうて、最近じゃ唐天竺からてんじくにまで」
「西国の湊には、異国の船が来ちょるという話は聞くな。天狗みたいなかおした異国の商人が説法しに来るとか」
「その帰り道に、大きな船で人を連れていくんじゃ。生きてはいるだろが、たぶんもう会えんじゃろ。うら、あん人の子を産んで、親子三人で飯を食うのが願いだったんじゃ。御仏になんべん手を合わせてお願いしても、だめじゃ。あん人はもう、帰ってこん」

 しばしの沈黙があいだに入った。
 このようなときに、気の利いた一言を挟むような芸当は、ねずみにはできない。

「気の毒だな」

 と、言おうと思ったが、言えばかえっておことの悲しみを助長してしまうような気がして、言うべきかどうか迷った。
 むしゃむしゃと、飯をかき込むことに忙しかった弥七が、そのとき言った。

「今、三人じゃ。親子ではないが、みんなで飯を食うちょる。飯はうまい」

 おことは目をみはり、そして嗚咽おえつした。泣きながら笑った。
 ねずみも笑った。
 弥七はさらに言葉を継いだ。

「飯は、おっかあが持ってきてくれる。ととさんは隠れるばかりで、まるで役に立たんわ」
「ととさんって、わしか?」

 目を丸くして、ねずみが尋ねた。おことは弾けるように大笑いした。つられて、ねずみも笑った。弥七だけが澄ました顔でもぐもぐとやっていた。
 小屋の屋根を打つ雨だれが、ちょろちょろと壁面を流れ落ち、そのまま地面に吸い込まれていく。なかでは蚕たちの「さわ、さわ、さわ」が続く。あたりがいろいろな音で囃し立てるなかで、この奇妙な一家の団欒だんらんは、そのあともしばらく続いた。



 第四章 潜伏


 その後数日、冷たい小糠雨こぬかあめが降り続き、弥七とねずみの出発は、遅れに遅れた。
 おことは、ぶつぶつ言いながらも二人の食い物をどこからか調達してきて、夜には蚕小屋で一緒に過ごした。
 夫の行方をあちこち捜し求め続けてきた彼女の持つ情報は正確で幅広く、今後の逃走計画を練る上でも非常に参考になるものであった。
 ねずみも知らなかったことだが、安祥城のあるじは、すでに十年近く前に変わってしまっていた。まだ彼が陰へと流れていく前、この城は、尾張武衛家ぶえいけ斯波氏しばし)の実質的な家宰かさい・織田信秀のぶひでが攻め取り自らの勢力圏としていた。
 が、尾張との国境、境川さかいがわから張り出した交通の要衝で、三河への強力な軍事侵入拠点となり得るこの城は、以降、今川氏いまがわしによる再三の攻撃に晒され、最後は軍師の太原雪斎たいげんせっさいが指揮する今川・松平の連合軍により奪回されてしまったのである。
 そのとき降伏し、慈悲を乞うた敗兵たちの一人に、おことの夫が含まれていた。
 攻守は入れ替わり、そのあと数年して信秀が死んだ。求心力を失った織田氏は揺れ、崩れ、ばらばらになった。さらにさまざまな思惑が尾張武衛家全体を覆い、この十年ほど、尾張は血で血を洗う内戦状態に陥っていた。
 直接的な軍事力の行使よりも、自らの血を流さず、効率よく目的を達することを是とする戦略家・今川義元よしもとと、その師・太原雪斎は、この弱りはじめた隣国にさらなる高次の揺さぶりをかけた。
 最前線の安祥から数十里の後方、伊勢湾いせわんを背にし良好な港湾をやくする鳴海城一帯の国人領主どもへ調略をかけ、その城将・山口教継やまぐちのりつぐを寝返らせることに成功したのである。
 経験豊かな老将・教継は、すぐさま討伐軍を指揮する信秀の後継者・織田上総介信長を撃退することに成功し、この地域は今川の勢力圏の「飛び地」として確保された。
 義元と雪斎は、無理にすぐ「飛び地」を自領に接続しようとはせず、熟柿じゅくしが落ちるのを、ただじっと待った。
 数年かけ、動揺は、じわじわと毒素のように周囲の国人どもへ波及していった。いっこうに収拾の気配が見えぬ尾張の内訌ないこうに嫌気がさし、鳴海に隣接する大高城が、今川方に奔った。これで義元は、労せずして伊勢湾の東側の港湾と水運利権の過半を手にしたことになる。
 そのさなか知恵袋の太原雪斎が死去したが、独りとなった義元は、類稀たぐいまれなその政治的天稟てんぴん遺憾いかんなく発揮し、粘り強く隣国への揺さぶりを継続した。今や今川の尖兵となった山口教継はよく働き、さらに内陸の沓掛城にも今川の威が及んだ。点と点が合わさり線になり、さらに面となって、尾張の東方国境地帯の防壁は、ぼろぼろと剥げ落ちてきつつある。


「ブエイ様のもとへ行くのは、だめか?」

 弥七がねずみにただした。

「行っても、追われるのじゃろ?」
「わからん」

 ねずみは言った。

「これからどうなるのか、まるでわからん。ともかく安祥には行く。じゃが、その先さらに西へ逃げねばなるまい」
「おまえさんら、ずっとここにいてはどうかね?」

 おことは言った。

「ここはお寺さんの持つ荘園だが、もとは京のえらいお公家さんの持ちものだと聞いたことがある。このなかにいりゃあ、ここらのお侍さんでも手が出せん。おまえさんらの素性はうらしか知らぬ。おカイコ様の世話には人手が要るで、うらが口を利きゃあ、ご主人さまだって雇ってくれるだよ」
「では、これからも皆で飯が食えるな」

 弥七が弾む声で言った。だがねずみは、暗い顔でかぶりを振った。

「だめだ、それはだめだ。雨が上がり、ぬかるんだ道が乾きゃあ、絶対に追っ手がやってくる。わしらは、あの村の働き手をなん人も殺めた。お代官が来なくても、執念深い奴らじゃけ、絶対に村ごと追いかけてくる。見つかったら、ここのご主人様もわしらを引き渡さないといけなくなる。で、わしらは、それでしまいじゃ」

 おことは黙った。二人には言わなかったが、すでに蚕小屋に潜む他所者の存在は、荘園の下人や使用人たちには気づかれはじめていた。
 おことに対する好意と気遣いで、まだ誰も主筋に訴え出てはいないが、早晩彼ら二人と自分との関わりについて、おことは主人に対し、なんらかの申し開きをしないといけない事態になるであろう。

「では、どうする? 路銀もねえのに。安祥様の前には関所があるぞ。通るにゃ、いくらか金子きんすも要る」

 おことの問いに、ねずみは笑った。

「わしは十年前に、逆さの方角へ逃げた。夜、忍んでいけば、ぼんくら侍が居眠りしちょう関所なぞ、なにほどのことはなか。なんの苦労もなく通れるよ」
「こんな小童こわっぱ連れてか」

 おことは食い下がる。

「その小童が、礫さぶんぶん投げて、奴らをいわしたんじゃ。こいつは、大したわっぱだよ。関所だって通れるさ」

 頼り甲斐がいのある大人であるねずみにはっきりと認められたことで、弥七は、なんだか自分の鼻がずーっと前に伸びていくような高揚感を味わった。自分のこれまでの生涯で、他人からわずかに肯定される経験は、陰の河原で石投げをしているときだけだったのだから。
 だが同時に、そうしたねずみの言葉を聞くおことの表情に、ふと寂しそうな影が宿るのを、弥七は見逃さなかった。
 それを知ってか知らずか、ねずみは淡々と、今後の自らの逃走計画の成否に関わることだけを語る。おことの表情がどんどん曇っていくのに、ねずみはまったく気づいていない様子だった。
 弥七は、どうしてよいかわからなかった。蚕小屋のなかで三人で過ごす時間は、まだ短い彼の人生で、もっとも幸せを感じるひとときであった。もうすぐ雨が上がり、大地が乾き、弥七は生き残るため、ここを去らねばならない。そのことはわかっていた。
 だが、そうなるまで、せめてここを去る日まで、この幸せな三人の心のつながりに隙間風が入ってくるのは、弥七には耐えがたいことだったのだ。
 ついに、おことは言った。

「わかったよ。関所は通れるのだな、捕まりはしねえのだな。それなら心配いらねえ。雨も、二、三日のうちには上がるじゃろう。そうなりゃ出てけ。でもな、おまえはともかく、この小童の頸がねられるようなことになったら、うら、おまえを許さないぞ。うらも死んで、あの世まで追いかけてたたってやるからな」

 そのまま、小屋を飛び出し、雨に濡れながら母屋のほうに走っていってしまった。
 あとに残された弥七とねずみは、呆然としてただ目を見合わせた。互いに、何も言う言葉もなかった。


 二、三日のうちどころか、翌日、雨は止んだ。
 陽光が降り注ぎ、桑の葉に残る雨粒がそれを反射して、荘園のあちこちがきらめいていた。その日、籠を背負ったおことは蚕小屋の前まで来て、入り口から笹の葉に包んだ握り飯を放り込んだが、なかには入らず、無言で立ち去ってしまった。
 まだ道がぬかるんでいるため、発つのは明日以降である。ねずみは難しい顔をしてずっと何事か考え込んでいる。弥七は今にも追っ手がこの小屋に踏み込んでくるような気がして、いてもたってもいられない気分だったが、同時に、今日は言葉もかけずに立ち去ってしまったおことの心中をはかりかね、なんだかそちらのほうが気がかりだった。
 日がな一日やることもなく、話すこともなく、「さわ、さわ」と音のする蚕小屋のなかで、弥七とねずみはただじっとしていたが、壁の隙間からときどき、おことが籠を背負って別の小屋に歩いて行くのが見えた。
 一度だけこちらを振り返ろうとしているように見えたが、横顔から少し視線がこちらに向かってきただけで、すぐにまた別の方向を向いてしまった。
 そのまま日が落ちた。夜になっても、おことは小屋にやって来なかった。
 久しぶりに語らいのない夜を過ごし、冷え切ったうつろな気分のまま、弥七とねずみは翌日の朝を迎えた。天気は曇りだが、おそらく道は乾いてきているであろう。
 昼前に、おことが入り口に顔を出した。

「行かんのか?」

 弥七の顔を見て言った。
 おことに無視されたねずみが答えた。

「明日じゃ。明日に発つ」

 何か、もっと何か言えばいいのに。
 弥七は思ったが、ねずみの言葉はただそれだけだった。

「そうか」

 おことは答えて、握り飯と大豆、少しの漬物を笹の葉で包んだものを弥七に渡した。そして出ていった。
 それから日が落ちるまで、時の経つのがひどく長く感じられた。
 ねずみは何も言わない。ただ、おことが数日前に与えてくれた古草鞋ぞうりを、何度も念入りに手入れしているだけである。
 同じものを、弥七も貰った。履くのは初めてであり、もらったときには少しだけ得意な気分になった。ぶかぶかに大きな草鞋で、弥七の小さな足には合わず、小屋のなかで少しだけ歩いてみたが何度も前につんのめり、おこととねずみに大笑いされた。しかし弥七にはそれが宝物のように思えた。それを足に履いている限り、いつまでも、誰からも逃げおおせるような気がした。
 まだほんのふた晩ほど前のことだ。それが、今はすっかり色あせて見える。もう、逃げるのをやめよう。このままとっ捕まってしまえばいい。頸を斬られればいい。弥七は思った。死んでしまえばいい。だけれども、おことが悲しそうな顔をするのを見ることだけはたまらない。
 ごちゃごちゃになった想念を抱えたまま、弥七は眠った。
 闇のなかで、お蚕様の「さわ、さわ、さわ」を聞きながら、弥七はまた夢を見た。
 あの薄紅色の着物を着た女児の夢だった。ここ数日、まったく見ることのなかった夢だった。
 今度は呼びかけてこなかった。ただ、これまでよりずっと近寄ることができた。陰の河原で、石投げをする自分を、ジッと見上げていたあの黒い、くりっとした目。女児の髪の下から、その目が自分を見つめてくるだろう、そう思った。
 髪をかき上げたはずだが、そこには何もなかった。
 ただ、虚ろな闇が広がっていた。


 悪い夢を見たはずなのに、うなされて起きることもなかった。そのまま無事に朝がやって来て、小屋のなかは明るくなった。
 ねずみはすでに起きていた。またも草鞋をいじりながら、弥七と目が合うと、

「今夜じゃ、今夜発つ」

 と言った。
 おことについて、弥七は何か言おうと思ったが、なんと言っていいのかわからず黙っていた。
 昼を過ぎても、おことは小屋に姿を見せなかった。遠くの別の小屋のあたりを、桑の葉を担いだ後ろ姿が歩いていくのは、ときどき見える。
 追手が迫る恐怖などは、弥七の頭のなかから、どこかに消えてしまっていた。
 だが夜になって、おことは小屋にやって来た。

「今日は、遅うなってね。おカイコ様の機嫌が悪うて、思うように糸を吐きよらん」

 そう言って、笹の葉の包みをまた弥七に渡した。

「あのな」

 そのとき奥から、声がした。

「おことには、礼の言いようもないら」

 ねずみだった。

「わしは、元は盗人じゃ。尾張の津島つしまのあたりに出てって、湊に着きよる舟を漁ったり、ときには商人の屋敷に忍び込んで物さ盗ったりした」

 弥七と、おことはびっくりして聞き入った。

「何人も、仲間がいたよ。錦の猪蔵いぞうっちゅう、界隈を仕切っちょう親玉がおってな。こいつ、裏で代官と手を組みおる。たっぷり金子さ渡して、女子おなごさ抱かせて。で、何を盗ってもお目こぼしさ。要は、やりすぎなければええんじゃ。盗りすぎたら、いかん。人を殺めたりしちゃ、いかん。危ねえ湊だっちゅうことで、他国からの船足が遠のく。湊は、舟がようけ入ってなんぼじゃ。入りゃ入っただけ、荷が動く。荷が動けば税が取れる。だから、ほどほどにして、それでわしらの食いっ扶持ぷちだけ取るだ。わしはすばしっこいので、ねずみと呼ばれた。親玉にも可愛がられたよ。ええ暮らししとった。捕まる心配のねえ盗人だ。そりゃあ、毎日楽しかったよ」

 ねずみは、平素とは違い、多弁になっている。言葉が止まらない。日頃、胸につかえているものを一気に吐き出しているようであった。


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