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第八章 堕した明星

感情を持つが故に

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それは一瞬だった。
止まっていたはずのルシフェルの時が再び動き出し、天使達を薙いだ。
その光景が目に届くよりも先に僕は落下により浮遊感を味わった。

背中から地面に叩きつけられ、肺の空気は追い出される。
落下の痛みも呼吸できない苦しみも和らがないままに、ルシフェルが僕を掴みあげる。

『雑魚共が……本っ当に鬱陶しいよ!』

そして、平らになった岩山の跡に叩きつけられる。
無慈悲な暴力を前に、抵抗も出来ずただ嬲られる。
何度も何度も蹴られて踏まれ、痛みに叫ぶことも喘ぐことも出来なくなる。
自分の血の匂いのする息を吸い、穴の空いた肺に取り込む。
朦朧とする意識の中、目の前に差し出された赤い石だけが鮮明に映る。

『これなーんだ』

髪を掴み、僕を無理矢理起き上がらせる。

『正解はー、賢者の石!  なんで私が持ってるのかな?』

再び落とされた衝撃で折れた骨が周囲の肉に刺さる。
鈍くなった痛覚でもそれは耐え難い激痛だ。

『正解はー、あの狼から抉りだしたから!  合成魔獣に賢者の石が使わるようになったとは知らなかったよ、確かに殺したはずなのにって驚いたね。だから今度こそちゃんと殺すよ、君の大事なペットをさぁ!』

目の前で揺らされる赤い石。
見覚えがある、アルを失った時にずっと見ていた。
それをルシフェルは強く強く握りしめる。

「やめろ、やめろ!」

『ふふっ、イイ声出せるじゃないか。そうやって血反吐にまみれて私に許しを請うといい。
そうすれば……君も後でちゃあんと殺してあげるから』

パキ、と軽い音。
僕の前に散らされる赤い欠片、赤い粉。

『流石にここまでやればもう無理だよね?』

僕の中の全ての希望が潰えた、嘲笑うルシフェルの顔ももう見えていない。
何も考えられないのは、痛みのせいでも出血のせいでもない。
唯一僕を愛していた者を失った、この深い絶望のせいだ。

『さて、それじゃあ人界滅亡といこうか。君は三界を滅ぼした後に殺してあげるからね。気長に待つといいよ』

ルシフェルに抱き上げられると、出血が止まり傷は癒えた。
だが痛みだけはそのまま、増している気さえする。

『殺す前に死なれたら困るから、怪我は治してあげる。私は癒しは専門じゃないから上手く出来ないかもしれないね、そう……痛みだけが残ってしまうかも』

わざとらしい心配そうな声とは真逆に、口の両端は醜く釣り上がっていた。
そんなルシフェルの腕に、巨大な黒狼が喰いついた。

『まだいたの?  本当に鬱陶しいね』

僕を片腕に抱いたまま黒狼を簡単にあしらう。
黒狼の鷹の翼はボロボロで、尾はちぎれ足は折れている。
立ってもいられないような酷い傷を負いながらも黒狼はルシフェルに牙を向く。

「もう……いいよ、マルコシアス様。もういいから逃げて。僕、もう、生きていたくない」

『君を助けようとするような奴、逃がすわけないよね。君の大事なものは全部残さず壊すって決めたんだよ』

黒狼を蹴り飛ばし、僕を抱えたまま空へ飛び上がる。
十二枚の翼を優雅に揺らし、意地の悪い笑みを浮かべた。

『こーこまーでおーいでー!  あっははは!』

翼の動きと比例しない速さで空を舞う、地上に光の矢を振らせながら。
黒狼の姿が見えなくなり、赤茶けた大地が終わりを迎え、懐かしい緑が目に入った。

『さてさて、あの国から行こうかな?  君の知り合いが居るといいけど』

見覚えのない街へと降り立つ、突然の禍々しい来訪者に人々は恐怖の声を上げる。
ルシフェルは恍惚としてその叫びを楽しみ、光で街を消し去った。

『どんどん行こう……ん?  生き残りが居るね』

血の跡すら残らない光を耐え切り、少女は長い黒髪を整え直す。
その足下には白と黒のウサギが寄り添っている。

「ウサちゃんズ、地面掘削ラビットクレーター!」

聞き覚えのある声とともに、二羽のウサギが素早くルシフェルの元へ走る。その小さな拳はルシフェルではなく、地面へと向けられた。
先程の光で剥がれたタイルの下から土埃が巻き上がる。
一瞬。そう、ほんの一瞬だけルシフェルの視界は奪われた。

「今です天使様!」

『ああ、よくやった十六夜!』

僕の視界が元に戻る頃、ルシフェルの首と手足には枷がはめられていた。
初めて膝をついたルシフェルは、力の抜けた腕から僕を落とした。
あの傷のない痛みも消え、僕は十六夜に助け起こされた。

「大丈夫ですか?  ヘルさん」

「僕は……なんとか。あいつは?」

「大丈夫ですよ、天使封印の呪詛を描いた月永石の枷は解けません。後は神様が完璧に封印してくれるまで待つだけです!」

『早くしてくれないかな……何してるんだよ』

金色の長い巻き髪を揺らし、オファニエルは落ち着きなく歩き回る。
ルシフェルは何も言わず、少しも動かず、ただ手枷を見つめていた。

「天使様、今日は機嫌悪いですね」

『え?  そう見える?  ちょっと失敗があってね。まぁそのおかげでルシフェルを捕えられたんだけどさ』

「凄いですよ!  丁度こんな枷を持ってるなんて!  流石は天使様です!」

『……ルシフェルに使うつもりじゃなかったんだけどね』

瓦礫の上に腰を下ろすと、ウサギ達が膝に飛び乗った。
その柔らかい毛を撫でているとアルを思い出す。
泣きそうになってルシフェルを睨むと、ルシフェルはゆっくりと翼を広げていた。

『ルシフェル……動くんじゃない!』

『ねぇ……これ、さぁ。天使を封印する為の物だよねぇ。何に使うつもりだったの?』

『そ、そんな事はどうでもいいだろう!』

『うん、どうでもいいよ。でもね、天使だけに絞ったのは失敗だよ?  だから聞きたかったんだ。堕ちてもいない天使をどうして捕らえようとしたのかなぁってて』

オファニエルはバツが悪そうな顔でルシフェルの視線から逃れようとする。十六夜は説明を求めて不思議そうに僕を見つめたが、僕には彼女が納得のいく説明は出来ない。

『これ、魔力は封印出来ないよね。神から…天界からの供給を断ち切るだけだ。
ねぇオファニエル、考えてご覧よ。堕天使にその供給があるのかどうか』

その問いの答えを即座に察したオファニエルはルシフェルから距離を取ろうとする。だがオファニエルが飛び退くよりも先に、ルシフェルは手枷をはめたままオファニエルの頭を殴打した。

『月永石は確かに破壊不可能な石だ。月の力を何千年何万年と蓄えているからね。流石の私でもこれは外せないよ』

枷で動かない足に代わって、翼を動かしてルシフェルはそっと浮き上がる。

『さてオファニエル、取引をしようか。この枷を外すのなら私は君とその子達を見逃そう。外さないのならこのまま殴り殺す。どうする?』

オファニエルは僕達とルシフェルを交互に見る。
焦燥と困惑が瞳に満ちていく。

「……ごめんなさい、ヘルさん」

「え?」

その謝罪の意味を聞く間もなく、十六夜はルシフェルの前に歩み出る。

「天使様、そんな取引に乗ってはいけませんよ。私のことなんて気にしないでください、この枷は絶対に外してはなりません。神様が封印の準備を終わらせるまで、もう少しだけ時間を稼げばいいんですから」

『へぇ?  随分と気丈な子だね、自己犠牲に躊躇いがないとは……いい子を見つけたねぇ、オファニエル。こんな子を殺させていいのかな?  枷は私になんの損害も与えられないよ?』

障害を与えないのなら外させる必要もないだろう。
邪魔だから?  いや、違う。
手枷は確かにルシフェルの力を削いでいるのだ。
それなら尚更外す訳にはいかない。

何も言えないでいるオファニエルにため息をつき、ルシフェルは十六夜を殴った。
破壊不可能な手枷での殴打の威力は想像に易い、とても人間に耐えられるものではない。
だが十六夜は天使の加護を受けた者だ、並の人間よりもずっと丈夫で、治癒力も高い。
そのせいで苦しみは長引く。

『ほらほら!  早くしないと本当に死んじゃうよ?  いいの?  君の可愛い可愛い愛弟子だろ!』

『や、やめろ……やめてくれ!』

『あっははは!  聞こえないなぁ!  言葉なんて意味が無いんだよ、行動で示さなきゃ……ねぇ?』

『外す!  すぐに外すから……もう、やめてくれ』

ルシフェルの足に縋り、足枷を外す。
十六夜への暴力は止み、手枷と首枷も外された。
気を失った十六夜を抱き締めて、オファニエルは必死に治癒の術をかけた。
ルシフェルはその様を嘲笑い、心底楽しそうに翼を揺らしていた。
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