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第十九章 植物の国と奴隷商

刻印を再び

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僕の希望で僕とアルは二人だけで一部屋を使うことになった。
アルメーの少女達は大部屋で雑魚寝をするのが習慣らしく、寝具も大部屋にしかない。僕達は冬の間にしか使わないという倉庫の一つに寝具を運んでもらった。
迷惑をかけたと思う、だがそれが決められた時の僕には周囲を気遣う余裕などなかった。ここに来た理由を思い返すと、僕は何をやっているんだろうと自分を責めたくなる。

夕食を終えて、石鹸と汲み置きの水と布の切れ端で身体を清め、布団を整える。狭く静かな部屋、窓もなく家具もなく、僕とアルだけが布団の上に横たわる部屋。

「……ねぇ、アル、お願いがあるんだけど」

『何だ?』

手拭いを頭から被ったまま、アルはこちらを向く。
洞穴の中の家にベランダやバルコニーはなく、また植物の国には髪を乾かすための道具もない。水分を拭き取ることだけが翼と毛を乾燥させる唯一の方法だった。

「名前、彫らせてくれない?  前みたいに。ほら、初めて会った時のさ、名の盟約ってやつ」

『……そういえば新しい体になってからはあの刻印も無くなっていたな、勿論いいぞ。刃物はあるか?』

「うん、手術室でメス拾っておいた。血で汚れてたけどさっきシャワーで洗ってきたから、ちゃんと切れると思う」

『用意がいいな』

アルは床に敷いた手拭いに尾を擦りつけ、僕の手のひらに乗せる。美しく光を反射する黒い鱗。この美しい蛇を今から切り裂くのだと思うと、歓喜で体が震えた。

「いくよ……あ、痛くなーいってやった方がいい?」

『いや、痛みが無ければ契約にはならん』

「そうなの?  じゃあ、そのまま」

自分の名を最後に書いたのはいつだったか、前の契約の時だろうか。いや、手続きで何度か書いた気もする。だが彫るのは前の契約の時ぶりだ、今度は上手く出来ればいいのだが。

Herrschaft

文字が怪しく光り、流れた血が止まる。焼け焦げたようなその痕はやはり醜い。そう思いながらも、愉悦の笑みが零れた。

『……ヘル?  どうした』

「ううん、何でもない」

『何だ、そんなに嬉しいのか?  ほら、私はもう貴方のものだぞ。名の盟約の元にそれが証明された』

「うん……すっごく嬉しい」

アルが僕のものだと証明されたことが嬉しくて笑ったのではない。もちろんそれも嬉しいのだが、僕の口角を歪ませたのは別の悦びだ。美しいモノを穢した、その奇妙な達成感と背徳的な快感。

「僕のアル……僕の、僕だけの……」

前の契約の時のような罪悪感がないとは言いきれない。だが、確実に薄くはなっていた。

『そんなに喜んでもらえるとは思わなかったぞ』

「アル、だーいすき」

『……ああ、私もだ』

「ずーっと一緒だよ。ずーっと、ね。約束だからね」

何度も破られた約束をもう一度。今度こそ、を繰り返していては壊れてしまう。壊れる前に、どうか永遠になれますように。そんな願いも込めて、アルを抱き締めて額に唇を落とした。



良い傾向、とは言い難いだろう。
大きな布団の中で体を丸めて眠るヘルを眺めながら考える。このままずっと従っていて大丈夫なのだろうか、と。

人より少し寂しがりで、厭世的なところがある。私のヘルの性格分析はその程度だった。初めのうちはそれで正解だったのかもしれない。
だが、今は違う。
今のヘルは孤独を死よりも恐れている。
他人を──私を求めるくせに突き放そうとする。
自己評価が低過ぎるから、愛されるような人間ではないから、そんな考えは彼の優しさでもあるのだろう。そしてその優しさと膨れ上がった独占欲が彼を蝕んでいる。

ヘルの望み通りに傍に居ても、居なくても、ヘルはきっと壊れてしまう。いや、私が壊してしまう。
自傷行為に走るかも……いや、死のうとするかもしれない。魔物使いとして彼が感じている使命が彼をいつまで引き止められるかは分からない。
私が与えられる影響は良くも悪くも強過ぎる。この認識が自惚れならどんなにいいか。

少し頭を冷やそうと布団を抜け出す──と、小さな手が私の後足を掴んだ。

「……どこ行くの」

布団の隙間からヘルの右眼が覗く。暗闇だというのに、反射する光源などないというのに、その瞳は虹よりも多色の輝きを見せている。
魔眼の証だ。魔物使いだけが持つ支配の魔眼。魔力を操る特性を持つ魔力。あらゆる性質の魔力を従えるから、この美しい輝きがある。所謂機能美。

『眠れなくてな、散歩だ』

「ダメだよ、離れないで。どうしてもって言うなら僕も行く」

『貴方は眠った方がいい』

ヘルの瞳を見ていると被支配欲と食欲を煽られる。前者は魔物使いの力によるもの、後者は単純に高濃度の魔力が美味そうだから。

「ならここにいてよ、どこにも行かないで」

ヘルの声には常に魔物使いの力が混じる、ヘルの意志に関係なく、魔物は自然と彼の願いを叶えようと思うようになる。
私もその一人──いや、一頭だ。粘っこく甘ったるい、胸焼けしそうな可愛らしい声は、どこまでも私を狂わせる。

『…………分かった。だが、布団からは出ていても構わないか?  ご覧の通り私には毛皮がある、少し暑いのだ』

「別にいいよ、その代わりに手、繋いで」

布団の横、冷たい床に伏せをすると可愛らしい手のひらが開き、閉じ、また開いた。

『私に手は無い、顎でいいな?』

「なんでもいいよ」

欠伸をしながら、眠そうにヘルはそう言った。言われた通りに顎を乗せ、数分すると寝息が聞こてきた。

『……私も、貴方から離れたくはない』

傍に居ても良い影響はほとんど与えられないだろう。だが、今離れればヘルは確実に壊れる。そもそも、良い影響の定義も壊れるという意味も分からないのだ。ならばヘルの望み通りに、私の望み通りに行動しよう。

『おやすみ、ヘル。どうか良い夢を──』

私の意識もそのうち闇に落ちた。私の意識が覚醒したのはそれから数時間後、朝、ヘルの声によるものだった。
「起きて」なんて可愛らしい声だったらどんなに良かっただろう。眠る前の私の小さな願いも叶わず、ヘルはうなされていた。

「…………や、ゃだ……いや」

『ヘル、ヘル?  どうした』

「……ないで、来るな!  嫌……やだぁっ!」

落ち着くかと顔を舐めるも、逆効果だったようでヘルは腕を振るった。

『ヘル!  起きろ!』

こうなれば強硬な手段に出るしかない、私はヘルの腹に飛び乗った。

「……っ、ぅあ…………アル?  重いよ……何?」

『起きたか、ヘル』

「ん……まだ寝る、眠い」

ヘルは布団を頭の上まで引っ張り上げる。私はそれを引き剥がす。よくある攻防だが、平和な朝を迎えられる喜びは私の中から「飽き」という言葉を消してしまった。

『駄目だ、起きろ』

「何で……まだ…………今何時?」

『時刻は分からんが、朝だ。外から物音と話し声が聞こえ始めた』

洞穴の中にあるこの部屋では朝日は見られない。ランプを灯せば何時だろうと明るくなるし、消せば何時だろうと暗くなる。

「ふぅん……朝ならいいや、お昼ご飯できたら起こして」

『駄目だ』

乱れた生活習慣は正さねばならない。私は布団を引き剥がし、ヘルを冷たい床に転がした。

「寒い……」

『早く起きて着替えろ』

「分かったよ。もう、乱暴なんだから」

寝巻きを脱ぎ捨て、隅に置かれた着替えをつまみ上げる。
病的なほどに白く細長い四肢にも、あらわになった薄い胸板にも、子供らしくなく凹んだ腹にも、傷は見受けられない。
何度も何度も傷つけられ、嬲られ、死んだ方がマシだと思えるような目に遭わされて来たというのに体にはその証拠がない。
傷痕がないことは喜ぶべきことだろう、だが、私はどうも人に見られたくないから隠しているというふうにしか受け取れない。
普段ならからかうであろうヘルの「恥ずかしいからあまり見ないで」という言葉も今の私には平静を装っているようで憂鬱に思えてならなかった。
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