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第三十二章 初めから失敗を繰り返して
夢は泡沫に消えゆく
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広い館内、高い天井まで届く本棚。アルが逃げていった方角は分かるが、正確な場所は分からない。大声で呼べばまた注意を受けるし、照れ隠しで逃げたアルが素直に出てくるとは思えない。
地道に探そうと本棚の隙間を抜ける──腕に細い紐のような物が絡まった、電化製品のコードとかいう邪魔な物によく似ている。
『ヘル、用事終わったの?』
その紐は兄の髪、というか触手だ。兄本体は分厚い本を何冊も抱えて、その影から顔を覗かせる。
「にいさま……!」
兄が生きて僕の前に居る、それだけでもう泣きそうになる。しかし、妙な行動は慎むべきだ。ただの夢だと全員に思い込ませなければいけない。
『……さっきさ、何か変な夢見たの思い出したんだよ。自分が死ぬ夢、変だよね。あの僕は馬鹿だったねー、蘇生も何もしてないなんて僕とは思えない。詰めも甘いし知識も少ないし──』
異常とも言える知的好奇心は僕が原因だった。僕が無能でなければ兄はただの天才だった。
『でも、あの夢のヘルとっても可愛かったんだよ。僕に真っ直ぐ懐いててさ。まぁ……夢の僕はヘルに何もしてなかったから、当たり前なんだろうね』
腕に巻きついた触手に引き寄せられ、幾本もの触手に髪や顔を撫で回される。
『………………ごめんね、ヘル』
そう小さく呟き、触手を髪に偽装すると兄は本を読む為か机に向かった。本棚の群れの中に取り残され、急に寂しさを思い出した。
フードを被り直し、アル探しを再開する。背表紙の題名を読む気にもなれない数の本の中を抜けながら考える。
あの日々は──兄からの暴力は必要だったのかと。
今まではずっと必要だと思い込もうとしていた。そうしなければ自分というものが根底から揺らいでしまう気がしていたから。けれど今、いや、少し前から、兄は反省している。兄が反省しては不要という事になってしまう。どんな理由があれば兄の反省を否定してあの日々を肯定できるだろう。
僕に優しかったあの時空での兄はその純粋さゆえに死んでしまったけれど、僕への暴力は直接的な生存の理由にならない。そもそも生きていたとしてもスライムのような化け物になってしまって幸福とは言えない。
『……ぁ、ヘル……』
アルを探すという目的を忘れて俯きながら歩いてしまっていた。顔を上げると本棚の影に隠れたアルの姿があった。僕に気が付いたら逃げるだろうと思っていたが、予想に反してアルはこちらに走ってきた。
『少し離れただけで泣かなくても……いや、済まない。悪かったなヘル、もう逃げないよ』
どうやら僕が泣いていたのを自分が逃げたからだと思っていたらしい。思わぬ僥倖とはこのことだ。
『貴方の求めには必ず応える。照れ臭くなっただけなんだ、もう泣かないで』
「…………ねぇ、アル。僕と──」
涙を拭い、伝えようとした言葉は轟音に遮られる。言った僕でさえ自分の声が聞こえなかった。鐘の音だけではなかった、何か大きな物が落ちたような音だった。
「アル、今の…………アル? アル! だ、大丈夫?」
『頭がぐらぐらする……』
「耳がいいのも考えものだね。ちょっとここで待とうか」
兄も悪魔達も居る、何かが起こっていたとしても各々対処してくれる。僕が遅れても平気だろう。
僕はそう怠惰に考え、耳を垂らすアルの頭を抱き締めた。
『いや、そう気を遣わなくても……っ!?』
腰を上げようとしたアルが身を強ばらせ、その一瞬後に地震が始まる。
ガァンっ! とレンガの壁を金槌で叩いたような音が頭上で響く。何度も何度も。見上げれば結界が展開しており、本が雪崩のように落ちてきていた。
「アルっ! もっと寄って!」
アルが結界の外に出てしまわないよう引き寄せて、本の雪崩が落ち着くまで待つ。地震のせいで本棚が倒れた? いや、本だけが落ちたのか? 大図書館の本棚は天井にピッタリとくっついていて、壊れる以外で倒れることはなさそうだ。
「…………アル、無事?」
本の雪崩は収まったようだが、地震はまだだ。
『あぁ、貴方のお陰で』
「僕じゃなくてにいさまだよ。欲を言えばもうちょっと結界広かったらなぁ」
『……いいや、貴方が抱き寄せてくれたお陰で結界の中に居られたんだ』
「そ、そう? まぁ、ほら、咄嗟だったから……」
しかし、どう脱出しよう。結界ごと押し上げなければ本の中からは出られないし、貯蔵量からして立ち上がったとしても頭の天辺の癖毛の先すら外に出ない。本の壁を登る必要がある、それも上に乗る本を結界ごと押し上げながら──僕には無理だ。
『どうする? 掘るか?』
天使の力なら本の中をすり抜けられる、アルも加護を与えれば大丈夫。しかし、夢と同じだなんて言われた時の言い訳は思い付かない。
「掘れるの?」
『土とは勝手が違うだろうからな、掘ると言うより掻き分ける……崩す? 退ける?』
「うん、とりあえず地道に本の外を目指そう。僕もやるよ、やり方教えて」
手近な本に手を伸ばし、引っ張る。しかし結界の中には入れられないし、落とす隙間もない。どうしようもない。
「これだけ圧力かかってたら本も異物になるんだ……」
『地道に崩すのは無理だな、突貫するぞ、続け』
「更に崩れると思うけど……他にも埋まってる人居るだろうしさぁ」
慎重ではなく優柔不断。そうこう迷っているうちに本はひとりでに浮き上がり、割れた板の破片と共に本棚に戻っていった。
「……魔法。にいさまかな」
『助かったな。カウンターに戻ろう、集まっている筈だ』
掬い上げられ、アルの背に跨る。緊急事態だから大丈夫と言い訳を胸に本棚の間を走り抜け、皆が集まったカウンターに戻って来た。
『ヘルシャフト様、先輩、無事で何よりです』
『……アーちゃん、見えたかい?』
『ええ、ただの地震ではないようですね』
何の変わりもない悪魔達を見ると安心する。しかし、ただの地震ではないという言葉に不安を煽られる。
『しかし、作為的なものとも言えません。前兆……と呼べば正しいでしょう』
「前兆……何の?」
世界が歪んでいるなんて話をよく聞く、不作や疫病など厄災の中には地震もあった。自然神の力が弱まっているから──だったか?
『…………あの時と同じですね』
ため息をつき、カウンターに座る。大きな赤い瞳は不機嫌そうだ。
「あの時って?」
『星辰が揃った日、ですよ。その前兆じゃないですかって話です。旧支配者共の復活の気配に創造神からお目こぼしもらってる自然神が気圧されてるんです、お目こぼしもらうような弱い奴らですからね。その影響が今の地震です』
化け物が復活する、そんな認識で構わない。ベルゼブブは過去にそう言った。僕も積極的に知ろうとはしなかった。
しかし、危機が間近となれば無関心でいることは出来ない。
「復活の阻止は?」
『星々の運行を止められるなら出来ますけど?』
無理だ、ということか。
『隕石系の魔法で応用出来ない?』
いつの間にか来ていた兄が僕の肩越しに尋ねる。
『そんなのあるんですか?』
『威力の調節面倒だし細菌とかウイルスとか変なの来るかもしれないからあんまり使ったことないけど』
『星座動かせますかねぇ……』
『さぁ? それに……魔法で出来るかもってことは、だよ』
『…………あの邪神ですか』
『魔法は彼が人間に教えたもの……彼は魔法の数段上の術を使えるはずだ。それを超えるのは流石に無理かな、一応神様だしさ?』
兄が「自分には無理だ」と認めるなんて──僕以外にはその凄さが分からないだろうが、記念日を作ってもいい程のことだ。記念日の名前は何にしよう、兄が自分を知った日……この思考がバレたら殺されかねないな。
『呼んだー?』
『黙ってなさい邪神』
『君、星動かせる?』
『試したことないな』
僕の肩越しにもう一人兄が、いや、兄に化けたロキが覗き込む。
「……じゃあ、再封印は?」
『旧支配者の封印となると星座を陣として扱わなければ足りませんね。要するに星が動くまで無理ってことです。しかし、此度は封印かちょっと緩むってだけでそう長い間出てきたりはしないはずですよ。出てる間に本格的に封印を解きにかかる奴がいなければね。そもそも何が彼らを封印したのかも私知りませんし、よく分かりません』
「…………討伐は?」
『……まぁ、不可能じゃないと思いますけど、完全には無理ですね。彼らの死の定義は人間とは違います。殺しただけじゃ消えないんですよ。あ、これは悪魔や天使にも同じことが言えますよ』
ナイも何度殺しても無駄らしいが──あれと似たようなものか。いや、同一存在が創られるとかいう方か?
まぁ、上位存在の常識は人間の僕には理解出来ないだろう。
『前兆が来てからも時間はかなりありますし、じっくり行きましょう。出てきてからの対処考える前に、戦力集め考えませんと』
戦力を集めれば対処法も増える、か。
大人数を率いるにはそれだけの器が必要だが、僕の器には僕一人すら荷が重い。戦力を集めた先の戦いより、仲間内での諍いの方が怖い。
地道に探そうと本棚の隙間を抜ける──腕に細い紐のような物が絡まった、電化製品のコードとかいう邪魔な物によく似ている。
『ヘル、用事終わったの?』
その紐は兄の髪、というか触手だ。兄本体は分厚い本を何冊も抱えて、その影から顔を覗かせる。
「にいさま……!」
兄が生きて僕の前に居る、それだけでもう泣きそうになる。しかし、妙な行動は慎むべきだ。ただの夢だと全員に思い込ませなければいけない。
『……さっきさ、何か変な夢見たの思い出したんだよ。自分が死ぬ夢、変だよね。あの僕は馬鹿だったねー、蘇生も何もしてないなんて僕とは思えない。詰めも甘いし知識も少ないし──』
異常とも言える知的好奇心は僕が原因だった。僕が無能でなければ兄はただの天才だった。
『でも、あの夢のヘルとっても可愛かったんだよ。僕に真っ直ぐ懐いててさ。まぁ……夢の僕はヘルに何もしてなかったから、当たり前なんだろうね』
腕に巻きついた触手に引き寄せられ、幾本もの触手に髪や顔を撫で回される。
『………………ごめんね、ヘル』
そう小さく呟き、触手を髪に偽装すると兄は本を読む為か机に向かった。本棚の群れの中に取り残され、急に寂しさを思い出した。
フードを被り直し、アル探しを再開する。背表紙の題名を読む気にもなれない数の本の中を抜けながら考える。
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今まではずっと必要だと思い込もうとしていた。そうしなければ自分というものが根底から揺らいでしまう気がしていたから。けれど今、いや、少し前から、兄は反省している。兄が反省しては不要という事になってしまう。どんな理由があれば兄の反省を否定してあの日々を肯定できるだろう。
僕に優しかったあの時空での兄はその純粋さゆえに死んでしまったけれど、僕への暴力は直接的な生存の理由にならない。そもそも生きていたとしてもスライムのような化け物になってしまって幸福とは言えない。
『……ぁ、ヘル……』
アルを探すという目的を忘れて俯きながら歩いてしまっていた。顔を上げると本棚の影に隠れたアルの姿があった。僕に気が付いたら逃げるだろうと思っていたが、予想に反してアルはこちらに走ってきた。
『少し離れただけで泣かなくても……いや、済まない。悪かったなヘル、もう逃げないよ』
どうやら僕が泣いていたのを自分が逃げたからだと思っていたらしい。思わぬ僥倖とはこのことだ。
『貴方の求めには必ず応える。照れ臭くなっただけなんだ、もう泣かないで』
「…………ねぇ、アル。僕と──」
涙を拭い、伝えようとした言葉は轟音に遮られる。言った僕でさえ自分の声が聞こえなかった。鐘の音だけではなかった、何か大きな物が落ちたような音だった。
「アル、今の…………アル? アル! だ、大丈夫?」
『頭がぐらぐらする……』
「耳がいいのも考えものだね。ちょっとここで待とうか」
兄も悪魔達も居る、何かが起こっていたとしても各々対処してくれる。僕が遅れても平気だろう。
僕はそう怠惰に考え、耳を垂らすアルの頭を抱き締めた。
『いや、そう気を遣わなくても……っ!?』
腰を上げようとしたアルが身を強ばらせ、その一瞬後に地震が始まる。
ガァンっ! とレンガの壁を金槌で叩いたような音が頭上で響く。何度も何度も。見上げれば結界が展開しており、本が雪崩のように落ちてきていた。
「アルっ! もっと寄って!」
アルが結界の外に出てしまわないよう引き寄せて、本の雪崩が落ち着くまで待つ。地震のせいで本棚が倒れた? いや、本だけが落ちたのか? 大図書館の本棚は天井にピッタリとくっついていて、壊れる以外で倒れることはなさそうだ。
「…………アル、無事?」
本の雪崩は収まったようだが、地震はまだだ。
『あぁ、貴方のお陰で』
「僕じゃなくてにいさまだよ。欲を言えばもうちょっと結界広かったらなぁ」
『……いいや、貴方が抱き寄せてくれたお陰で結界の中に居られたんだ』
「そ、そう? まぁ、ほら、咄嗟だったから……」
しかし、どう脱出しよう。結界ごと押し上げなければ本の中からは出られないし、貯蔵量からして立ち上がったとしても頭の天辺の癖毛の先すら外に出ない。本の壁を登る必要がある、それも上に乗る本を結界ごと押し上げながら──僕には無理だ。
『どうする? 掘るか?』
天使の力なら本の中をすり抜けられる、アルも加護を与えれば大丈夫。しかし、夢と同じだなんて言われた時の言い訳は思い付かない。
「掘れるの?」
『土とは勝手が違うだろうからな、掘ると言うより掻き分ける……崩す? 退ける?』
「うん、とりあえず地道に本の外を目指そう。僕もやるよ、やり方教えて」
手近な本に手を伸ばし、引っ張る。しかし結界の中には入れられないし、落とす隙間もない。どうしようもない。
「これだけ圧力かかってたら本も異物になるんだ……」
『地道に崩すのは無理だな、突貫するぞ、続け』
「更に崩れると思うけど……他にも埋まってる人居るだろうしさぁ」
慎重ではなく優柔不断。そうこう迷っているうちに本はひとりでに浮き上がり、割れた板の破片と共に本棚に戻っていった。
「……魔法。にいさまかな」
『助かったな。カウンターに戻ろう、集まっている筈だ』
掬い上げられ、アルの背に跨る。緊急事態だから大丈夫と言い訳を胸に本棚の間を走り抜け、皆が集まったカウンターに戻って来た。
『ヘルシャフト様、先輩、無事で何よりです』
『……アーちゃん、見えたかい?』
『ええ、ただの地震ではないようですね』
何の変わりもない悪魔達を見ると安心する。しかし、ただの地震ではないという言葉に不安を煽られる。
『しかし、作為的なものとも言えません。前兆……と呼べば正しいでしょう』
「前兆……何の?」
世界が歪んでいるなんて話をよく聞く、不作や疫病など厄災の中には地震もあった。自然神の力が弱まっているから──だったか?
『…………あの時と同じですね』
ため息をつき、カウンターに座る。大きな赤い瞳は不機嫌そうだ。
「あの時って?」
『星辰が揃った日、ですよ。その前兆じゃないですかって話です。旧支配者共の復活の気配に創造神からお目こぼしもらってる自然神が気圧されてるんです、お目こぼしもらうような弱い奴らですからね。その影響が今の地震です』
化け物が復活する、そんな認識で構わない。ベルゼブブは過去にそう言った。僕も積極的に知ろうとはしなかった。
しかし、危機が間近となれば無関心でいることは出来ない。
「復活の阻止は?」
『星々の運行を止められるなら出来ますけど?』
無理だ、ということか。
『隕石系の魔法で応用出来ない?』
いつの間にか来ていた兄が僕の肩越しに尋ねる。
『そんなのあるんですか?』
『威力の調節面倒だし細菌とかウイルスとか変なの来るかもしれないからあんまり使ったことないけど』
『星座動かせますかねぇ……』
『さぁ? それに……魔法で出来るかもってことは、だよ』
『…………あの邪神ですか』
『魔法は彼が人間に教えたもの……彼は魔法の数段上の術を使えるはずだ。それを超えるのは流石に無理かな、一応神様だしさ?』
兄が「自分には無理だ」と認めるなんて──僕以外にはその凄さが分からないだろうが、記念日を作ってもいい程のことだ。記念日の名前は何にしよう、兄が自分を知った日……この思考がバレたら殺されかねないな。
『呼んだー?』
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『君、星動かせる?』
『試したことないな』
僕の肩越しにもう一人兄が、いや、兄に化けたロキが覗き込む。
「……じゃあ、再封印は?」
『旧支配者の封印となると星座を陣として扱わなければ足りませんね。要するに星が動くまで無理ってことです。しかし、此度は封印かちょっと緩むってだけでそう長い間出てきたりはしないはずですよ。出てる間に本格的に封印を解きにかかる奴がいなければね。そもそも何が彼らを封印したのかも私知りませんし、よく分かりません』
「…………討伐は?」
『……まぁ、不可能じゃないと思いますけど、完全には無理ですね。彼らの死の定義は人間とは違います。殺しただけじゃ消えないんですよ。あ、これは悪魔や天使にも同じことが言えますよ』
ナイも何度殺しても無駄らしいが──あれと似たようなものか。いや、同一存在が創られるとかいう方か?
まぁ、上位存在の常識は人間の僕には理解出来ないだろう。
『前兆が来てからも時間はかなりありますし、じっくり行きましょう。出てきてからの対処考える前に、戦力集め考えませんと』
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