603 / 909
第三十四章 美麗なる妖狐は壮大な夢を見た
だまくらかして
しおりを挟む
時は少し遡り、ヘルがアルに化けた玉藻に攫われる前。アルが食事を取りにキッチンへ向かった時。ヴェーン邸が燃えた理由。
ヘルと遊べないと知ったグロルは部屋で不貞寝しており、その他フェル以外の者は皆出かけていた。嵐が去って数日の街は人手を求める声に溢れていた。
『……どうかした?』
何をするでもなくキッチンに居たフェルは尾で器用にドアノブを捻って入って来たアルに気付き、本から顔を上げることなく尋ねた。
『ヘルに食事を作ってもらいたい』
『食べれるの?』
フェルは拘束が解かれたことを知らない、言えば無用な心配がかかる。そう思ったアルは方便を考えた。
『……舌を噛み切るような精神状態ではなさそうだから轡は外した。必要かどうかは兎も角、何か食べたいと言っていてな』
『じゃあ狼さんが食べさせられるような物がいいかな? 僕が行っても大丈夫なら普通の料理でもいいんだけど……僕、お兄ちゃんそっくりだし、多分……あんまり良くないよね?』
フェルは複製という言葉を使わないようになってはいたが、思考には常に置いてあった。ヘルシャフトという人間が最も嫌うのは自分自身だと、複製を弟だと心から認識出来る精神状態でなければ近寄らない方がいいと、賢しく理解していた。
『えっと……尻尾使うのかな? じゃあ食器とかじゃなくて、紙に包んで食べるようなパンとかがいいかなぁ……でも起きたばっかりで久しぶりに食べるなら水分も……うーん』
この世で唯一自分を一個人として扱ってくれる大好きな兄が心身共に衰弱していて、とても心配なのに傍には行けない。フェルはその苦しさを誤魔化すために独り言を大きくし、冷蔵庫を必要以上に漁った。
『…………他の者は居ないのか?』
『鬼さん達と狼さんの兄弟達は仕事……っていうか片付け? お店からの要請で街の清掃だってさ、この間の嵐で泥とかゴミとかすごいみたい。淫魔さん達は出張、街がこんな状況だから店に行く暇もないくらい片付けしてる人がいるから、半分ボランティアみたいな感じで出前なんだって』
『ふむ……ベルゼブブ様は?』
『今のところこの国の管理者だからね、そりゃ忙しいよ。詳しくは聞いてないけど、雨って浄化作用があるから呪いが不安定になるみたい。それ関連で娯楽の国の……えっと』
『マンモン様か?』
『それそれ、マンモンさんも来てるみたい』
ソーセージを焼きながらトマトを切り、それが終わったら粉末スープを溶かしていく。フェルは調理をアルと会話しながら進めている。
『……良い手際だな』
『ふふ、お兄ちゃんは料理下手くそだし、狼さんも出来ないよね? なら結婚しても僕が必要だよね?』
『…………必要不必要に関わらず、兄弟ならば遠慮は要らない。ヘルに構って欲しいなら好きなようにやれ』
『……二人の邪魔はしないよ。僕は、お兄ちゃんの役に立てたら……それでいいから』
それだけでは不満だと分かりやすく声を小さくするフェルをアルは自分と重ねていた。傍に居られたら、役に立てたら、そんな自己欺瞞で自分を傷付け続けた。
恋人だろうと兄弟だろうと、愛おしい相手に構われなければ不満が溜まるに決まっている。そしてその不満は時に相手を傷付ける。
『弟君。料理を持って行った後、扉の前で少し待っていろ。ヘルの精神状態が良好なら貴様がヘルに食べさせるといい』
『…………優しいね。でも、いいよ。ありがと』
アルはヘルと同じ顔の寂しげな微笑みに胸が締め付けられるような感覚を味わった。だが、それ以上誘うことは出来ず、冷たい床に寝転がった。調理中に動き回ったり羽ばたいたりするのは良くない、アルは悩む気持ちを尻尾を振るので発散した。
『…………む?』
考え事をしていたからか、それとも傍で火を使っていたからか、アルは物が燃える匂いに気付くのを遅らせた。
『弟君、何か……焦げ臭くはないか』
『え? いや、焦がしてないよ。スープ……も、大丈夫』
『そうではなく、部屋の外……』
フェルは鍋やフライパンをかけていた火を止め、手の甲を抓るようにして黒く弾力のあるスライム状の玉を身体から分けると扉に向かって転がした。玉は扉の隙間から廊下に出て行く。
『焦げ臭いっていうか、燃えてる!? 火事! 火事だよ狼さん! かなり広がってる……』
廊下に出たフェルの一部は眼球を生やし、見た情報をフェル本体に伝達した。
『何!? 何故だ!』
『分かんない、誰も居ないはずなのに……』
『……ヘル!』
アルはヘルの元に向かおうと慌てて扉に向かう。
『待って狼さん! 扉開けちゃダメ!』
フェルの制止も虚しく扉は開け放たれ、その途端に爆風がキッチンを包んだ。
少し考えれば分かった話だ。廊下の窓は閉まっており、各部屋への扉も閉まっており、火はかなり広がっている。廊下は酸欠状態にあった。調理中のキッチンは窓が開けられており、酸素はたっぷりとあった。炎がキッチンに爆発的に広がるのは当然の現象だ。
『気を付けてよぉ……バックドラフトくらい知ってるだろ……? あーぁ、もうこの手使えないよ』
頭を庇って炭化した腕を肘から落とし、フェルは新しい腕を生成しながら愚痴のように呟く。
『……済まない。無事のようだな、私はヘルの所へ行く、一人で逃げられるな?』
『んー……一応治癒用意しとく』
腕以外の部位の再生も終えると、フェルは焦げて破れかけた服を脱いで皮膚を服に似せて変化させ切り離した。
『…………気分は全裸。やだなこれ……でも全部燃えてるだろうし……お兄ちゃんの火傷治したら買いに行かなきゃ……お財布は…………よし、無事だ』
脱ぎ捨てたズボンのポケットから財布を抜き取り、通信用の蝿も忘れず回収し、窓から脱出しようとしたフェルはあることを思い出す。
『………………あの堕天使、逃げてるよね?』
グロルがもしグロルのままなら逃げられずにいるかもしれない。アザゼルに交代出来ていれば徒労だ。
『…………あぁもう!』
フェルは財布と蝿を体内に押し込み、炎に向かう。
『……我等人類など貴殿の前では無意味、冷たき炎よ、灰色の炎よ、貴殿の燐光を此処に再現す…………』
炎に触れられる前からフェルの身体は灰色の炎に包まれ、赤い炎を寄せ付けない。
『……17度くらいかな。にいさまなら絶対零度到達するんだろうけど……ま、このくらいの方が使い勝手いいよね。ねー? お兄ちゃん?』
いつまで持つかも分からない魔法で自らの身体を保護し、居るかも分からないグロルを探し、死ぬかもしれない危ない橋を渡る。
もちろんそんな行為はしなくていい、アルに言われた通り一人で逃げていい、アルがそう言ったのだから、もしグロルに何かあってもヘルに責められることはない。
『……グロルちゃーん! グロルちゃーん?』
けれど、グロルを助ければヘルに褒められるのは間違いない。フェルは急いで部屋に飛び込むが、グロルはベッドの上にも床の上にも見当たらない。徒労だったのだと肩を落としたその時、キィと高い音を慣らしてクローゼットが開いた。
「…………おーさま?」
炎に包まれかけたクローゼットから僅かに焦げたクマのぬいぐるみを抱いたグロルが顔を出す。
『……何してるんだよバカぁ!』
フェルはグロルを抱き締め、窓を割って飛び降りた。先程と同じように爆風が起こるが、その炎はフェルの背を焼くだけに留まりグロルは無傷で塀を超えて国の端の舗装されていない道路に落ちた。
「どろどろー? だいじょーぶ?」
『……な、訳……ないだろ』
「くまさん、ちょっとくろくなっちゃった……」
『知らないよ、もぅ……』
魔法のおかげが火傷は軽い。フェルは傷を治し、薄暗い空を赤く染めるように燃え盛るヴェーン邸を眺め、その美しさとこれからの不安にため息をついた。
ヘルと遊べないと知ったグロルは部屋で不貞寝しており、その他フェル以外の者は皆出かけていた。嵐が去って数日の街は人手を求める声に溢れていた。
『……どうかした?』
何をするでもなくキッチンに居たフェルは尾で器用にドアノブを捻って入って来たアルに気付き、本から顔を上げることなく尋ねた。
『ヘルに食事を作ってもらいたい』
『食べれるの?』
フェルは拘束が解かれたことを知らない、言えば無用な心配がかかる。そう思ったアルは方便を考えた。
『……舌を噛み切るような精神状態ではなさそうだから轡は外した。必要かどうかは兎も角、何か食べたいと言っていてな』
『じゃあ狼さんが食べさせられるような物がいいかな? 僕が行っても大丈夫なら普通の料理でもいいんだけど……僕、お兄ちゃんそっくりだし、多分……あんまり良くないよね?』
フェルは複製という言葉を使わないようになってはいたが、思考には常に置いてあった。ヘルシャフトという人間が最も嫌うのは自分自身だと、複製を弟だと心から認識出来る精神状態でなければ近寄らない方がいいと、賢しく理解していた。
『えっと……尻尾使うのかな? じゃあ食器とかじゃなくて、紙に包んで食べるようなパンとかがいいかなぁ……でも起きたばっかりで久しぶりに食べるなら水分も……うーん』
この世で唯一自分を一個人として扱ってくれる大好きな兄が心身共に衰弱していて、とても心配なのに傍には行けない。フェルはその苦しさを誤魔化すために独り言を大きくし、冷蔵庫を必要以上に漁った。
『…………他の者は居ないのか?』
『鬼さん達と狼さんの兄弟達は仕事……っていうか片付け? お店からの要請で街の清掃だってさ、この間の嵐で泥とかゴミとかすごいみたい。淫魔さん達は出張、街がこんな状況だから店に行く暇もないくらい片付けしてる人がいるから、半分ボランティアみたいな感じで出前なんだって』
『ふむ……ベルゼブブ様は?』
『今のところこの国の管理者だからね、そりゃ忙しいよ。詳しくは聞いてないけど、雨って浄化作用があるから呪いが不安定になるみたい。それ関連で娯楽の国の……えっと』
『マンモン様か?』
『それそれ、マンモンさんも来てるみたい』
ソーセージを焼きながらトマトを切り、それが終わったら粉末スープを溶かしていく。フェルは調理をアルと会話しながら進めている。
『……良い手際だな』
『ふふ、お兄ちゃんは料理下手くそだし、狼さんも出来ないよね? なら結婚しても僕が必要だよね?』
『…………必要不必要に関わらず、兄弟ならば遠慮は要らない。ヘルに構って欲しいなら好きなようにやれ』
『……二人の邪魔はしないよ。僕は、お兄ちゃんの役に立てたら……それでいいから』
それだけでは不満だと分かりやすく声を小さくするフェルをアルは自分と重ねていた。傍に居られたら、役に立てたら、そんな自己欺瞞で自分を傷付け続けた。
恋人だろうと兄弟だろうと、愛おしい相手に構われなければ不満が溜まるに決まっている。そしてその不満は時に相手を傷付ける。
『弟君。料理を持って行った後、扉の前で少し待っていろ。ヘルの精神状態が良好なら貴様がヘルに食べさせるといい』
『…………優しいね。でも、いいよ。ありがと』
アルはヘルと同じ顔の寂しげな微笑みに胸が締め付けられるような感覚を味わった。だが、それ以上誘うことは出来ず、冷たい床に寝転がった。調理中に動き回ったり羽ばたいたりするのは良くない、アルは悩む気持ちを尻尾を振るので発散した。
『…………む?』
考え事をしていたからか、それとも傍で火を使っていたからか、アルは物が燃える匂いに気付くのを遅らせた。
『弟君、何か……焦げ臭くはないか』
『え? いや、焦がしてないよ。スープ……も、大丈夫』
『そうではなく、部屋の外……』
フェルは鍋やフライパンをかけていた火を止め、手の甲を抓るようにして黒く弾力のあるスライム状の玉を身体から分けると扉に向かって転がした。玉は扉の隙間から廊下に出て行く。
『焦げ臭いっていうか、燃えてる!? 火事! 火事だよ狼さん! かなり広がってる……』
廊下に出たフェルの一部は眼球を生やし、見た情報をフェル本体に伝達した。
『何!? 何故だ!』
『分かんない、誰も居ないはずなのに……』
『……ヘル!』
アルはヘルの元に向かおうと慌てて扉に向かう。
『待って狼さん! 扉開けちゃダメ!』
フェルの制止も虚しく扉は開け放たれ、その途端に爆風がキッチンを包んだ。
少し考えれば分かった話だ。廊下の窓は閉まっており、各部屋への扉も閉まっており、火はかなり広がっている。廊下は酸欠状態にあった。調理中のキッチンは窓が開けられており、酸素はたっぷりとあった。炎がキッチンに爆発的に広がるのは当然の現象だ。
『気を付けてよぉ……バックドラフトくらい知ってるだろ……? あーぁ、もうこの手使えないよ』
頭を庇って炭化した腕を肘から落とし、フェルは新しい腕を生成しながら愚痴のように呟く。
『……済まない。無事のようだな、私はヘルの所へ行く、一人で逃げられるな?』
『んー……一応治癒用意しとく』
腕以外の部位の再生も終えると、フェルは焦げて破れかけた服を脱いで皮膚を服に似せて変化させ切り離した。
『…………気分は全裸。やだなこれ……でも全部燃えてるだろうし……お兄ちゃんの火傷治したら買いに行かなきゃ……お財布は…………よし、無事だ』
脱ぎ捨てたズボンのポケットから財布を抜き取り、通信用の蝿も忘れず回収し、窓から脱出しようとしたフェルはあることを思い出す。
『………………あの堕天使、逃げてるよね?』
グロルがもしグロルのままなら逃げられずにいるかもしれない。アザゼルに交代出来ていれば徒労だ。
『…………あぁもう!』
フェルは財布と蝿を体内に押し込み、炎に向かう。
『……我等人類など貴殿の前では無意味、冷たき炎よ、灰色の炎よ、貴殿の燐光を此処に再現す…………』
炎に触れられる前からフェルの身体は灰色の炎に包まれ、赤い炎を寄せ付けない。
『……17度くらいかな。にいさまなら絶対零度到達するんだろうけど……ま、このくらいの方が使い勝手いいよね。ねー? お兄ちゃん?』
いつまで持つかも分からない魔法で自らの身体を保護し、居るかも分からないグロルを探し、死ぬかもしれない危ない橋を渡る。
もちろんそんな行為はしなくていい、アルに言われた通り一人で逃げていい、アルがそう言ったのだから、もしグロルに何かあってもヘルに責められることはない。
『……グロルちゃーん! グロルちゃーん?』
けれど、グロルを助ければヘルに褒められるのは間違いない。フェルは急いで部屋に飛び込むが、グロルはベッドの上にも床の上にも見当たらない。徒労だったのだと肩を落としたその時、キィと高い音を慣らしてクローゼットが開いた。
「…………おーさま?」
炎に包まれかけたクローゼットから僅かに焦げたクマのぬいぐるみを抱いたグロルが顔を出す。
『……何してるんだよバカぁ!』
フェルはグロルを抱き締め、窓を割って飛び降りた。先程と同じように爆風が起こるが、その炎はフェルの背を焼くだけに留まりグロルは無傷で塀を超えて国の端の舗装されていない道路に落ちた。
「どろどろー? だいじょーぶ?」
『……な、訳……ないだろ』
「くまさん、ちょっとくろくなっちゃった……」
『知らないよ、もぅ……』
魔法のおかげが火傷は軽い。フェルは傷を治し、薄暗い空を赤く染めるように燃え盛るヴェーン邸を眺め、その美しさとこれからの不安にため息をついた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
428
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる