魔法使いの国で無能だった少年は、魔物使いとして世界を救う旅に出る

ムーン

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第三十四章 美麗なる妖狐は壮大な夢を見た

八尾狐

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アルはヘルの部屋に飛び込むが、そこにヘルは居ない。当然だ、既に玉藻が攫って行った後なのだから。今頃ヘルは井戸の底で溺れかけている。

『ヘル……! 逃げた、のか?』

火が翼の先端に燃え移る。肉球は火傷で皮が何度も剥がれては再生していた。

『…………窓から出たのか?』

部屋を出た時には開いていなかった窓と燃え尽きたカーテンの灰に目が止まる。この火では匂いを追うことは出来ない、深く息を吸えば肺が焼ける。
アルは炎に追い立てられるように窓から脱出し、翼を激しく揺らして火を消し、焦げた部位を再生させた。

『ヘル! 居ないのか!』

窓から逃げたのか、部屋を出て玄関に向かったのか。後者なら取り残されている可能性もある、邸宅に戻らなければならない。

『…………アル!』

火から離れて使えるようになった鼻で地面の匂いを嗅いでいると、塀を叩く音とヘルの声が聞こえた。アルは塀を飛び越え、裸足のまま舗装されていない道路に立つヘルを見つけた。

『アル……あぁ、良かった。大丈夫?』

『…………ヘル』

火傷は見られない、服が煤けてもいない、ヘルは早々に脱出したようだった。中庭を回り込んで塀の外に出て、燃え上がるヴェーン邸を見つめていた……のか?

『……火傷や捻挫は無いか?』

『ん? うん、無いよ。アルは?』

『多少はあったが、治ったな』

するすると首や背を這い回るヘルの手はどこかなまめかしい。アルはそっとヘルの腰や脇に顔を押し付けた。

『……ヘル』

『ん?』

部屋を出る前に嗅いだ匂いだった。アルは心に芽生えた僅かな違和感を毟り取り、ヘルの愛撫に甘えた。いつもの毛並みを堪能することだけを目的としたものではなく、どこかなまめかしく感じる手つき、何故か淫らな考えが湧き出る手つきだ。

『………………ヘル、済まないが毛並みは後で楽しんでくれ。弟君と合流しよう』

『弟とはさっき会ったよ、無事だった。人呼びに行ったよ。僕はアルが心配だから待ってたんだ』

『……そうか? ふむ……堕天使、いや、グロル……だったか……アレも居たか?』

『あぁ、グロルだね。居たよ、弟と一緒に人呼びに行った』

問答の間にもヘルの愛撫は止まらない、アルは火事の熱を背後に感じながらも目を閉じ、それに酔った。

『……ねぇアル、乗っていい?』

『ああ……』

撫でながら移動するヘルを目を閉じたまま背に乗せ、尾を腰に絡める。
ヘルはアルの背の上で姿勢を整えると撫でる手を一瞬止め、閉じられた眼を覆うようにして術をかけた。

『……幻視』

そう呟き、口角を釣り上げた。

『ねぇアル、いつまでもここに居られないよね?』

『そうだな、ベルゼブブ様の所にでも行くか』

『うん、飛んでくれる?』

『分かった』

軽く助走をつけて飛び立ったアルはベルゼブブが居る元アシュ邸の方向には飛ばなかった。いや、アルは元アシュ邸に向かっているつもりだ、アルにはそう見えている。だが、実際にはアルは海を越えて別の大陸へと向かっていた。

『む……? 遠いな』

アルは見えている景色と感じる疲れに疑問を抱いたが、首に掴まりながらも頭や首をなまめかしく撫で回す手に酔って、疑問を見失った。

『…………本に耐性の低い奴よ』

ヘルは──ヘルに化けた玉藻は幻術の効きの良さに上機嫌になる。だが、いくら上機嫌になっても幻術の効き目を上げるために、アルの思考力を下げるために、愛撫に込める呪術的な動きにも手を抜かない。そんな類の油断はなかった。

『着いたぞ、ヘル』

アルは元アシュ邸に到着したつもりでマンモンが留守にしている豪邸に到着した。

『うん、ありがと、アル』

玉藻はヘルをゆっくりと処刑しながらヘルの立場を乗っ取ろうとしていた。まずは幻術や呪術への耐性が無いアルから。言動に気を付けていれば幻術が見破られることはない、幻術が不安定になるのだけは避けなければならない、だから一気に魔性を傍に置いてはいけない、少しずつ高濃度の魔力に身を慣らさなければ。

『……ベルゼブブ様に報告がしたいのだが、何処だ?』

『居ないのかな?』

『呪術陣を国の領土に描く計画があると聞いたが……実行しているのかもな』

『まぁ、しばらく待てば来るよ。ね? ほらアル、二人っきりだよ二人っきり』

ヘルは──いや、玉藻は豪奢なソファに座り、隣にアルを招く。アルはそっとその膝に顎を乗せ、目を閉じて愛撫に酔った。

『……ヘル。今日の貴方は……何だか、大人だな』

『そうかな?』

玉藻はもっと子供っぽかったかと観察していたヘルの言動を思い返すが、特に改善点は見つけられなかった。

『来たら起こすから、休んでていいよ。ほーら、ねんねねんね』

『む……』

『……いい子いい子……ふふっ、ふふふふっ』

アルが眠りに落ちるとヘルの姿は消え、アルは膝ではなくクッションに顎を置いていた。今度は鳥に化けた玉藻は窓から飛び立ち、お菓子の国に一度戻った。ヘルの様子を見て、死亡を確認して、それから帰ってくるつもりだった。
だが、その予定は狂った。ヘルは確かに殺した、心停止を確認した。その後で犬神と九十九の妖に襲われ、娯楽の国に逃げ帰った。

『く……腕が…………上手く化けられん』

右肩を噛まれ、左腕を折られ、右手の指を切り落とされた。魔獣と違い妖怪は種族にもよるが再生能力を持たない者も多い。玉藻も欠損を修復できるような再生能力を持ってはいなかった。

『…………一尾落とすか』

マンモンの豪邸の洗面所にて、玉藻は美女の姿に化け、九本の尾を揺らしていた。その左腕は妙な方向に曲がっており、曲がった先は狐のままだった。右手は人間のものではあったが、指がなく、右肩には黄金の毛がまばらに生えていた。

『八尾狐など…………ふん、まぁよい……力を付ければ良いだけよ』

肩の傷や両腕をもふもふと大きな尾で包むと、その尾がちぎれると同時にその傷は綺麗さっぱり無くなった。ちぎれた尾はパラパラと崩れていき、そのうちに消えてしまった。眉間に皺を寄せ、八本になった尾を不機嫌そうに揺らす。

『…………ふんっ』

ヘルに化けて表情を整え、洗面所を出て眠ったままのアルの隣に座る。

『……さて、どうするか。ヘルは殺したが今後は犬神につけ狙われる。騙されてくれればよいが、ふむ……』

計画通りヘルに成り代わったとしても犬神に襲われていれば仲間達には不審に思われる。犬神の本来の主人を殺して自分を主人だと騙した時のように、自分をヘルだと思わせられれば良いのだが──と玉藻は爪でソファの肘掛けを叩きながら頬に垂れた髪を弄る。

『ち……長ったらしい髪だ』

結い上げたくなる衝動を抑えつつ、アルを見下げる。眠りを誘う術は本当によく効いていて目を覚ます気配すらない。

『犬っ……! 何故よりによって犬…………やはり、ヘル……憎いな、もっと苦しめるべきだった』

犬だというそれだけで玉藻には苛立ちの対象だった。隣に居るのも耐えられない、どうせ術を解かない限りは眠っているのだから傍に居なくてもいいだろう、玉藻はそう考え、ソファの隣に置かれた食事用の机に座った。


それから数時間、アルはずっと眠っていたが、その首元から蝿が這い出した。通信用のベルゼブブの分身だ。

『──連絡、連絡、連絡、連絡──』

蝿は眼を光らせたり翅を振動させたりで着信を伝える。それでも気が付かなかった場合は動き回り声を上げる。

『んー……』

アルは耳元で騒ぐ蝿を眠りながらも鬱陶しがって頭を振る。蝿はそれを起床と認識し、受信と勘違いし、通話を繋いだ。

『──アル! アル、どこに居るの!? 無事!? 怪我はっ……アル、返事して!──』

『………………ん、む……?』

『──アル、返事……返事も出来ないの!? そんな状況なの!? どこに居るの、誰と居るの、今すぐ行くからそれだけでも教えて!──』

『ぅー……』

アルは首を上げて頭を振り、蝿を振り落とす。コロコロと床を転がった蝿は玉藻に踏み潰され、絨毯のシミとなった。

『…………ヘル?』

『……おはよ、アル』

玉藻が故意に術を解いた訳ではない。ヘルの声によって解けてしまったのだ。それが魔物使いの力なのか、耐性の無さを超えたアルの根性なのか、玉藻には分からなかった。だが、声色を整えてヘルを演じ続けることは出来た。

『…………ベルゼブブ様は?』

『まだ戻って来てないみたい。忙しいのかな?』

『そうか……』

大きな欠伸をし、アルは尾を使ってヘルに化けた玉藻をソファに座らせる。玉藻は不愉快さを表に出さず、喜んだ表情を作った。

『……上手いな』

アルは蕩けるようだった瞳を冷ややかなものに変え、胴に巻いた黒蛇をキツく締め上げた。
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