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第三十九章 君臨する支配者は決定事項に咽ぶ

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光の洪水の向こうに消えていく景色に伸ばした手はヴェーン邸の壁にぶつかる。捻挫したとまではいかないながらも痛みを覚え、手首を摩る。

『……兄さん。クトゥルフの弟って知ってる?』

『え? いや……クトゥルフってこの間人魚の子の身体乗っ取ってた旧支配者だよね? 悪いけどお兄ちゃん知識偏ってるんだ、他の邪神とかに関してはよく分かんないよ』

『…………仲良く、か』

ついこの間心身共に嬲られたモノの弟と誰が仲良くなれると言うのだろう。嫌な思い出を反芻しつつライアーに先程囁かれた事実を伝えた。

『……まぁ、人間の身体使ってるみたいだし、精神感応やってこなかったし、ボクとしてはクトゥルフよりよっぽどいいよ。彼相手なら多分独立してられる』

『テレパシー受けるとナイに取り込まれるんだっけ?』

『クトゥルフのテレパシー能力を媒介としてアレに接続しちゃう。ボクがボクでなくなっちゃうんだよ。逆にウイルスとして全ての顕現に兄属性を与えることは……まぁ、無理かな。そんなヤワな防火壁じゃないよ』

ベルゼブブの『暴食』やサタンの『憤怒』あたりはまだ魔力の属性として納得出来るのだが、『兄』属性とは一体何なのだろう。

『……ん? どうしたの変な顔して』

『…………いや、とりあえず希少鉱石の国の王とか錬金術師とかとの会談、適当に交渉しておいてね。もうしばらく無理だからさ』

『仕方ないなぁ……可愛い弟の頼みだ、お兄ちゃん頑張るよ』

僕から一歩離れて床に魔法陣を描き、笑顔で手を振って消える。王城へでも空間転移したのだろう。
そろそろ朝食が出来ている頃だろうし、フェルに貰ってから部屋に戻ろうとダイニングの扉を開ける。しかし、ダイニングにもキッチンにも誰の姿もない。
首を傾げつつ部屋に戻ると、泊まり込みで仕事をしている者以外の全員が居た。

『お兄ちゃん! お兄ちゃんっ……お兄ちゃん、あの、あのね……』

フェルが震える手で僕の肩を掴む。言葉が出てこないといった様子で口をパクパクさせている。

「フェル、一回離せ」

『ま、魔物使い君……こっちに』

ヴェーンがフェルを引き剥がし、セネカが僕の手を引いてベッドの前に導く。ベッドの上に座っていたアルが勢いよく僕の胸に飛び込んできた。

『ヘルっ……ヘル、ごめんなさい……』

部屋に居る者達が発する陰鬱な雰囲気、人間として考えれば抱き着いて泣きじゃくっているのであろうアルの仕草、それらから全く察せないほど僕は鈍くない。

『…………ドッペル? ハルプ……』

籠の中でとぐろを巻いて翼を畳んで眠るドッペル達。胸にぐりぐりと押し付けられるアルの頭を左手で撫でながら、右手の人差し指を小さな小さな蛇の頭に触れさせる。

『分からないんだ、ヘル。寝ていただけなのに、何も無かったのに……起きないんだ』

ドッペルの額を撫でてもハルプの顎を撫でても身動ぎ一つない。僕の指の動きに合わせて少し揺れるだけで、翼を動かすことも舌を出すこともない。

『ごめんなさい……ヘルぅ…………私が、私がもっとちゃんと見ていたら……』

死んでいる。

『寝ている間に死んでいたなんて言ったら、ヘル、貴方は私をどう思う? 我が子の死の理由すら分からない私を……』

『…………アルのせいじゃないよ』

『違うっ……! 違う、私の責任だ。母親なのだから、変化に気付けた筈なんだ! 母親失格だ……! 烏滸がましかったんだ! 継ぎ接ぎの醜い魔獣が、魂すら無い生物の紛い物が、子を、持とうなど……貴方と添い遂げたいなど、烏滸がましかったんだ……』

スカーフに刺繍された魔法陣は仄かな光を放ってる。魔法の効果はまだ切れていない、きっと二人は何の苦痛もなく逝ったのだろう。初めから寿命が短い彼女達にとって唯一の救いだ。いや、その静かな死を誰も見届けられなかったなら、孤独に死んでいったのなら、身体の苦痛はなくとも心の苦痛は大きかっただろう。

『…………ねぇ……おとーと?』

『……何、にいさま』

『僕の魔法、ちゃんと効いてたはずだから……外傷とか、病気とかじゃないと思うんだ。蘇生魔法もあるから、肉体的に言えばこの子達はまだ生きてる。抜け出た魂だって家の結界からは出られてないはずなのに、戻って来ないんだよ……だから、その、魂がちゃんと身体に戻れたら生き返れると思うから、気を落とさないで……迷ってるだけだよ、多分。もうすぐ……動き出すはずだよ』

兄に霊体の劣化は分からないのだろうか。あれを言ったのはライアーだったか? 魂を保護し、肉体と接続する霊体……それが劣化して消えてしまったのなら今結界内を漂っているのは剥き出しの魂。強い魔力か神力の圧を受ければ簡単に消し飛んでしまう脆い状態だ。

『……本当か? 兄君……まだ、ハルプとドッペルは……』

『生き返れる、はずなんだけど……どうして来ないんだろ。肉体ってそんなに見失うものかな』

『…………にいさま、結界解いて』

『……え?』

ヴェーン邸の結界は特別強力だから魂も通れない。けれど酒色の国を覆っている結界は魂は通れるはずだ、でなければ国民が寿命などで死んだ時に困るから──とライアーが設定していた。だから解くのはヴェーン邸の結界だけでいい。

『何言ってるの魔物使い君! そんなことしたら本当に死んじゃうよ!?』

『そ、そうだよ、何言ってるの……?』

『…………死因は霊体の劣化だよ。魂を閉じ込めておいても、肉体を生かしても、霊体が壊れちゃってるからどうにもならないよ』

「……霊体の劣化ぁ? ありえねーよ王様、メシ食ってりゃ霊体の劣化なんてまず起こんねぇって」

ぐい、と僕の服の裾を引っ張るグロル……いやアザゼル。元天使だけあって霊体や魂に関して詳しいようだ。

『あ、堕天使、やっと入れ替わったの? 早いところこの子達の魂見つけて身体に案内してあげてよ』

「俺そういう天使じゃないんだけどな……ま、お前らと違って魂も見ようと思えば見えるけどよ」

 僕の服を離し、ぎゅっと目を閉じるアザゼル。再び開かれた瞳は赤々と輝いて、瞳孔は長方形に変わっていた。

「まず死んだら抜けるのは魂って言われてるけどな、魂だけでふらふらすんのは危な過ぎるから霊体に包まれてんだよ。魂は無理だけど霊体なら見れるだろ? 肉体に入ってる時と違ってかなり見つけにくいけど、感度上げればお前らでも見れるはずなんだぜ? 理論上は」

得意気な顔をしたアザゼルは部屋を見回し、ドッペル達に視線を落として目を見開く。

「……あれ? ここに居るぞ」

『え? 肉体見つけてたの? 何で入らないの? 肉体ちゃんと生きてるよね?』

アザゼルはドッペル達の身体の少し上、虚空に手を伸ばす。虚空を両手で掬い上げ、じっと見つめている。
僕も天使の力を持っているのだからアザゼルのように魂や霊体を見ることも出来るはずだ。そう考えて先程のアザゼルに倣って目を閉じる。

「…………あれ? 霊体……壊れかけてる」

『どういう意味?』

「使い古したみたいに……や、やべぇよこれ、天界まで持つかな。魂だけじゃ昇れねぇよ、このままじゃ魂ごと死ぬかも」

どうして分かったと言いたげな視線が幾つも向けられる。けれど、僕はその視線の主よりもアザゼルの手の中で丸まった小さな蛇二匹を見つめなければならなかった。
翼もなく、頭が二つでもない。一般的な蛇が二匹絡み合っている。僕の視線に気が付いたのか揃って頭を持ち上げた。

『パパー! パパぁ!』
『パパ? パパ、パパ!』

同じ方向に首を傾げる二人に手を伸ばすと二人は絡まったまま僕の手に移ってきた。もうアザゼルの疑問や兄の質問を聞いている暇はない。

『…………ドッペル、ハルプ』

霊体が壊れていっているのは分かる。錆びた鉄の表面が剥がれていくように蛇の姿が崩れていっている。
早く何か言って、結界を解いて送り出さなければならないのに、何も思い付かない。

『……ドッペル、ハルプ…………あの、ね……えっと……』

伝えなければならないことがあったはずなのに何も浮かばない。別れの言葉だけなんて寂し過ぎる。

『パパー』

『な、なぁに、ドッペル……』

『だいすきー』

『え……?』

ドッペルは僕の指の腹に頬擦りをして、気持ち良さそうに目を閉じる。ハルプも同じように別の指に擦り寄った。

『パパの、手……すきー』

『ハルプ……? そっ……か、好き……? よかった』

『ママも、おねーちゃんも、すきー』

『そ、う……』

もっと良い返事があるはずなのに、無愛想な声は震えるばかりだ。

『パパ、パパー』
『ありがとー』

『…………』

この子達はきっと自分の状況も状態も分かっている。その上で満足して、あるいは僕を気遣って、僕に愛情を伝えてくれている。
謝りたいけれど、泣き叫びたいけれど、それじゃダメだ。でも、何も思い付かないし、アルには何も伝わっていない。
やり直さなければ。
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