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第四十二章 悪趣味に遅れた顕在計画

邪悪なる神はまだ二柱

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薄暗く酷く寒い、ぴちゃん……と水滴が落ちる音が反響していて、壁や天井はゴツゴツとしていて──ここは洞穴のようだ。壁に鎖が打ち込まれていたり、床に判読不能な文字と記号の羅列が書いてあることから考えるに、ここは独房だろう。

『……扉は開いてる』

閉じ込められた訳ではない。ナイにされたのはおそらく空間転移だ、邪魔な僕を遠くに飛ばしたのだろう。ナイがただ遠ざけるためだけの行動をするとは思えないから、この先にはきっと僕を追い詰める仕掛けがあるのだろう。

『誰かー……居ません、よね』

居てもらっても困る、戦闘になる可能性が高い。
独房を出てしばらく通路を歩くと外に出られた、何の仕掛けもない。ナイらしくもない。

『……ぁ、ビヤーキー』

フェンリルも心配だがビヤーキーも心配だ。見つからないようにしろとは言ったけれど、僕の姿が見えなくなったら探し回って誰かに見つかる危険性が高まる。早く元の場所に帰らなければ。

『でも、ここどこ……ぁ、そうだ、カヤ!』

山や川しか特徴らしい特徴のない景色は右も左も変わらない。困っているとふとカヤの存在を思い出し、寒気を伴って現れた半透明の茶色い犬の頭を撫でた。カヤの背に跨って首に腕を回すとカヤは一瞬で僕をフェンリルのところまで送り届けてくれた。

『ぉ、早かったな』

視界がロキの顔で埋まる。驚きながらもその腹を蹴り飛ばし、バランスを崩した僕はカヤから落ちた。蹴られても笑顔のままで僕の背後に回り込んだロキの──いや、ナイの顔に後ろ頭で頭突きを仕掛け、振り返りながら裏拳で顎を砕く。ナイは仰け反りながらもパーカーのポケットから投げナイフを取り出したが、見えない何かが突進してきてそのまま尻もちを着いた。

『やっと戻ってきたかボーイ、預かりもん返すぜ』

ナイに体当たりを仕掛けたビヤーキーは頭から被っていた僕のローブを脱ぎ、僕に返した。

『早かったなって言ったよな、取り消すぜ。遅かったな』

尻もちを着いたナイが指差した先で悲鳴が上がる。獣のものだ、大地を震わすような大きさだ。

『フェンリル! 今行くからもう少し──!』

振り返りながら「耐えて」の言葉を出す意味はなくなった。悲鳴は止まった。太陽を覆い隠す巨大な狼の影、大きく口を開いた影は、その口から真っ二つに裂けていた。

『ぁ……あっ、フェン……リル? 嘘……』

『ザン、ネン……落ち込むなよ、お姫様。こういう決まりなんだから』

血の雨が降る。フェンリルを殺した神はこちらには来ず、どちらに向かったかどころかどんな見た目だったかも分からない。見えなかった。
僕は背にピッタリとくっついて嫌がらせをするナイを無視して再びカヤに乗り、フェンリルの上顎の方へと向かった。

『フェンリル! フェンリル……ごめんね、間に合わなくて……ごめん』

ローブを脱いで鼻先に被せ、顔の上によじ登って自分の姿を大きな瞳に映す。見開かれたままの瞳にはまだ光があり、ギョロッと動いて僕を捉えた。

『……ローブの治癒……効いてない、よね。ローブ小さいし、君は神様だし……ダメなんだろうね』

目の縁を撫でても上顎だけでは鳴かないし、大き過ぎる彼の表情は分からない。すすり泣きながら目の縁を撫でていると、カヤが前足をその手に乗せた。

『ご、主人……様、此猲……痛ミ、マシト言ェと、言ッ夛』

『フェンリル……? 痛いのマシになったの? ローブの? そう……そっか、そう、かぁ……』

少しでも苦しさを紛らわせたなら良かった。間に合っていたらという後悔は決して小さくはならないけれど、彼にとっては小さな幸運だ。

『死ヌ、迄……此処ニ、ト言ェ、言ツ照』

『うん、うん……大丈夫だよ、ちゃんと看取るよ』

瞳孔が微かに膨らむ。大きな瞳の小さな変化に僕の心は大きく揺さぶられ、涙がポロポロと溢れ出した。引き裂かれた身体も、死を覚悟して静かに震える瞳も、体温が消えていく毛皮も、何もかもがルシフェルに殺された時のアルと重なる。

『父、許サ無ィ……ト』

『ち、違うんだよ? フェンリル……アレは君のお父さんじゃなくて』

『ご主人様、ゴ主人、様……モウ…………』

たった今まで僕の方を向いていた目玉がぐりんとあらぬ方向を向いている。瞼を掴んでカヤにベルトを引っ張ってもらい、フェンリルの目を閉じさせた。鼻先に引っ掛けたローブを拾い、袖を通したら影に手を突っ込む。

『大丈夫だよ、フェンリル……次こそはちゃんと助けてあげるからね』

影の中、銀の鍵らしき物を掴んだ手を引き上げる。影から指先が抜けたその瞬間、肘から下の腕が切り落とされた。

『オマエにこれ持たれてたら攻略キッツいので、没収ぅーっ! いつもならこんなことしないんだけどな、今回ばかりは遊びじゃねーんだ』

『……カヤっ!』

切り落とした僕の腕を拾い上げたナイは手の中の鍵を奪い、僕に腕を投げつけた。眼前にカヤの牙が迫ると姿を消し、僕の背後に姿を現した。

『本来ならアカシックレコードに到達した時点でこういうことは無理なんだが……よーちゃんにもしっかり言っとくから、何したって無駄だぜ。元々よーちゃんに辿り着いたこと自体オレ的イレギュラーだったんだしさ。ポリシーやルールに則ってたらオレ達消えちまう、特別措置だぜヘルシャフト君、権限抹消だ』

ナイの手の中からも銀の鍵が消える。僕は再生したばかりの手で彼に掴みかかった。

『かっ……返せ! アレがないとフェンリルが……』

『抹消だっつの』

『ふざけるな! アレは僕が自力で手に入れたんだ、僕のものだ! 返せよ! 返さないと……』

良い脅し文句が思い付かずに黙っているとカヤがナイの腕を先程の僕と同じになるように食いちぎった。しかしナイは顔色ひとつ変えず、ゆっくりと姿を透かして消えた。僕の手はナイと同程度の背丈の岩に添えられていた。

『この術、ロキの……! 同化かなり進んでる……カヤ、ビヤーキー、行くよ。なんとかしてロキから剥がして、鍵も取り返さないと』

『具体的にはどうすんだ?』

『……カヤ、ナイの居場所に行けたりする?』

カヤは僕が正確に分かっていない場所でも連れていってくれるし、どこに居るのか分からない者も連れてきてくれる。

『分、殼……ナ、ィ』

だが、以前アルが玉藻に攫われた時のように、対象の隠れる能力がカヤの探知能力を上回れば見つけられない。カヤは犬神という名ではあるが妖怪に近い呪いの産物だ、本物の神に適う訳がない。

『ビヤーキー、君にはそういう能力ないの?』

『ねぇんだなこれが』

『そう……僕も無理だし、にいさまと合流するのが先かな。鍵さえ取り返せば時間かかったって平気だし、手堅く行こうか』

磐石の構えには兄かライアーは必要不可欠。それだけ魔法は有用ということだ、魔法を人間に教えたナイの力もそれだけ強いということ、そして兄とライアーの魔法はナイには及ばない──勝ち筋が見えない? いや、兄の力がナイに及ばなくともアスガルドにはベルゼブブとハスターも来ている。後はトールだ、彼さえ引き入れられれば怖いものはない。

『カヤ、にいさまの場所は分かる?』

ワン! と元気な返事が聞こえたかと思えば景色は変わっていた。カヤから降り、カヤに咥えて運ばれたビヤーキーの愚痴を無視し、僕に背を向けてまだ僕に気付いていない様子の兄の身体を透過して腹に抱き着いた。

『わっ……お、弟? びっくりした……そのすり抜けるの心臓に悪いよ』

心臓らしい心臓もないくせに。

『にいさま、大丈夫だった? ローブは? ビヤーキー一緒じゃないの?』

『僕は何ともない、ビヤーキーは二匹居たけど両方喰われた、その喰った奴と戦ってるトールにローブ貸してる』

『トールさんに会ったの? 良かった、トールさんが居れば多分ナイにも勝てるよ』

空間転移を頼むと地面に魔法陣が描かれる。いつの間にか姿を消していたカヤを探すビヤーキーが後ろ足を魔法陣から出していたので慌てて引っ張り、準備完了を兄に伝える。直後、光の洪水に浮遊感を与えられ、再び景色が変わる。

『え……まさか、ヨルムンガンド……!?』

目の前に巨大な鱗、後ずさって確認してみれば巨大な蛇の胴だと分かる。翼を広げて空から確認してみれば、ヨルムンガンドの頭は潰れていた。

『そんな、君まで……だ、大丈夫だよ、時間を戻して、必ず助けるからね。本物のお父さんに会わせてあげるから』

僕にも蛇の娘が居た。ヨルムンガンドは息子だったかな、どちらにせよロキにとって可愛い子供だっただろうに……こんな姿に。もし自分の子供が頭を潰されて殺されていたらと思うと総毛立つ。同情なのか同調なのか、僕はナイに対しての更なる憎しみと鍵を取り返すことへの決意を強めた。
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