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インキュバスの姿に逆戻り

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頭羽、腰羽、エルフ耳、尻尾、全て戻ってきた。

「ふーっ……疲れた」

客は何度も俺にナイフを突き立ててネメスィに詰めてもらった細胞を抉り、俺のインキュバスらしい部分を全て再生させた。

「おい、見ろよ。これで目ぇ覚めたか? こいつはインキュバスだ」

ベッドは俺の血と肉片で酷く汚れている。再生が終わってもうどこも痛くないはずなのに、たった今まで与えられていた激痛のせいで動く気になれず、ベッドの上で蠢く。

「さ、く……」

ナイフを突き立てられる俺を助けようとした先輩は何度も殴られ、ベッドから落とされていた。血まみれなだけで今は無傷の俺よりもボコボコにされた先輩の方が痛々しく見える。

「サクっ……ごめん、俺じゃ……助けられない」

「…………はぁーっ、チャンスをやったつもりなんだが、ダメだったか。お前は魔物に魅入られた危険因子だ、軍人として見過ごせないな」

客は先輩の髪を掴んで痛々しい彼に俺を見せていた。先輩の髪を掴んだまま俺の血肉に汚れたナイフをもう片方の手で振り上げる。

「…………本当にごめんな、サク」

「あっ……や、やめろっ!」

俺の手は間に合わず、鋭い刃渡りのナイフは先輩の首を切り裂き、噴き出す血は拍動に合わせてどくどくと溢れ、部屋を赤く染めた。

「ふぅーっ、やっぱ魔物のがいいなぁ、魔力さえやっときゃいくらでも再生するから切りたい放題だもんな」

俺はベッドから転げ落ちてセンパイの元へ向かう。傷口を手で押さえても出血が遮られる気配すらない。

「先輩っ、先輩っ! 聞こえますか、先輩!」

先輩は魔物じゃなく、人間だ。傷はすぐには再生しないし、魔力を与えても死んでしまう。

「さ、く……」

「先輩……せんぱいっ、ごめんなさい、ごめんなさいっ、俺のせいで! こんなっ……どうしよう、血止まらない、どうしようっ……」

うっすらと開いた瞳は優しげで、先輩は弱々しく俺の手を掴んだ。止血なんてしなくていいと、それより手を繋いで欲しいと──そう言っているのがなんとなく分かった。

「さ、く……ここ、やめて……い、しょ、に……」

「せんぱい……」

繋いだ手に力は入っていない。命の灯火が消えていくのを実感する。

「け、こん……する、んだ…………さく」

「…………はい、しましょう、先輩……俺、先輩のものになります。先輩……いえ、旦那様、ずっと一緒にいましょうね」

「……ぁ、えて……よか、た…………さく、あい……して、る」

先輩は嬉しそうに微笑んで、笑顔のまま動かなくなった。もう何も話さない、手を握っても握り返してくれない。閉じた目も開かないし、まだ温かい体はこれからどんどん冷えていく。

「さて、お前には大量に精液注いでやったんだから、まだまだ再生するよな? 切られたくなきゃ媚びな、痛覚も鋭いインキュバスさんよ」

男は先輩にしたように俺の髪を掴んで持ち上げ、首にナイフを当てた。

「…………眠れ、眠れっ! 眠れ眠れ眠れ眠れぇっ!」

「ははっ、無駄無駄! お前がインキュバスだってのは分かってんだ、対策済みに決まってんだろ?」

男は上着をめくって魔法陣のようなものを見せたが、俺にはそれが何か分からない。文脈から言ってインキュバスの術に対抗するものなのだろう、そんなものがあるなら皆で立てた作戦は破綻する。シャルが兵士を眠らせられなければ査定士の救出なんて不可能、俺もきっと捕まるか殺されるかするだろうから、皆はきっと勝てる見込みがなくても戦いを挑むだろうし……あれ、詰んだ?

「女神、様……助けて。先輩生き返らせて、おっさん助けて……みんなと一緒に、暮らさせて……お願い、女神様……」

もう女神に助けを乞うことしか出来ない。はらはらと涙を流す俺の背後から奇妙な声が聞こえてきた。

「め、がみ……さま」

この声には聞き覚えがある。シャルの夢の中に潜った時に聞いた──俺の声だ。

「なっ……!? な、なんだお前!」

「なんだ、おまえ。なんだおまえ、なんだお前!」

客は俺の髪を離してナイフを構え直す。振り返るとベッドの上で黒いスライムが蠢いていた。俺の肉体に埋め込まれていたネメスィの細胞が元の形に戻ったのか……そう思った瞬間、正解だとでも言うように目玉が生えた。

「ス、スライムに目玉!? 気持ち悪ぃっ……死ねっ!」

「しね! しね! しぷぎゅっ…………しね!」

客は自分の声で喚くスライム──いや、ショゴスの目玉にナイフを突き立てた。しかし粘液状のそれに物理攻撃は効かない、目玉を潰しただけでそれはダメージにはならず、ショゴスは触手を生やして客の腕を取り込み、食った。

「い、今のうち……か?」

ピンヒールを履いたままでは走れない。ブーツを脱いで腕を食われている男の傍を抜け、扉に走る。

「先輩……」

俺が初めに逃げようとした時、今のようにブーツを脱いでいたら、俺があの時転ばなかったら、先輩はきっと死なずに済んだ。
ブーツを脱がなかった迂闊さが、ヒールに慣れようとしなかった怠惰が、先輩の死因。先輩を殺したのは俺だ。なら裁かれるべきでは──いや、先輩は逃げようと思えば一人で逃げられたはずだ、俺を助けようとしなければ逃げられた、やはり死因は俺──そうじゃなくて、先輩が命をかけて助けようとしてくれた俺を俺が殺そうとしてどうする。

「……俺は、あなたの分まで生きますっ!」

扉を開けて飛び出すとゴミ箱を運んでいる従業員とぶつかった。黒い服にを包んだ彼は俺を受け止め、俺の羽と尻尾を見て目を見開いた。

「サ、サク!? 魔物っ……え? サク、本物のサクなのか? 化けてるのか……?」

飯ヅルにしていた従業員だ。どうしよう、腕を掴まれてしまった。ひ弱なインキュバスの俺には彼の手を振りほどくことは出来ない。

「お、お願い……見逃して」

「…………サクなのか?」

「先輩、先輩が殺されたっ……お願い、逃がして、お願いっ……」

従業員は俺の腕を掴んでいた手を片方離し、ゴミ箱の蓋を開けた。

「……入れ」

交換中だったようでゴミ箱の中はカラだった。礼を言いながらゴミ箱の中にうずくまると蓋が閉められ、直後、乱暴に扉が開けられた。

「クソっ……腕、が…………どこ行きやがったあのクソインキュバス! おいてめぇ! この部屋からインキュバスが出てきただろ、どこ行きやがった!」

「お客様!? その怪我はどうされたんですか!」

「インキュバスはどこだって聞いてんだよてめぇも殺されてぇか!」

「え、えっと……インキュバスって、羽が生えた魔物ですよね? 階段、降りていきましたけど」

心臓がバクバクと脈打っている。ダメだ、震えるな、バレる。鼓動が聞こえてしまう。大人しく客が去るのを待つんだ。

「そうか…………じゃあなんで血痕がここで途切れてるんだ? なんでこのゴミ箱に血がついてんだろうなぁ!」

突然ゴミ箱が吹っ飛ばされ、蓋が外れて俺も放り出された。どうやら客がゴミ箱を蹴り飛ばしたらしい。

「あのガキもてめぇもどうしてそう魔物を庇うかね……まぁいい、あんまり人間殺しちゃ報告が面倒くせぇ……どっか行ってろ、邪魔だ」

客の右腕は肘から下が食いちぎられており、ぼとぼとと血が落ちていた。しかし彼はそれを気に止める様子もなく左手にナイフを持って俺に近寄ってくる。

「下に逃げても無駄だぞ、クソインキュバス。店の前に部下を待機させてる……俺に殺されるか、俺の部下に殺されるか、どっちかだ。選んでみろよ」

嗜虐的な笑みを浮かべる客の後ろで従業員はモップを振りかぶる。軽い金属製のそれで客の頭を殴打するといい音は鳴ったが、ほとんどダメージがない。

「…………てめぇも死にたいらしいなぁっ!」

客が恐怖を煽るようにゆっくりと振り返る最中、従業員はモップの持ち手で窓ガラスを割った。はめ殺しの窓を割った理由は客も俺も察せず、共に困惑する。

「サク! インキュバスなら飛べんだろ、とっとと逃げろ!」

従業員はそう言いながら困惑していた男の左腕に組み付いた。

「え……? な、何してるんだよ! あなたまで殺される……」

「片腕のジジイに俺が殺されると思うかよっ! 早く行け!」

「で、でもっ……」

「行け!」

俺は裸足で割れたガラスを踏んで窓だった穴から飛び降りた。必死に羽を広げ、はためかせ──重力に任せて地面に落ちた。
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