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一章 幽世へ

八話 再び龍穴神社へ

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 デパートと龍穴神社は、真莉愛が撮影をしていたスタジオから近い場所にある。美桜は、昨日と同じルートで最寄り駅まで行くと、地下鉄の構内から地上へと上がった。
 まずは先に龍穴神社へ向かうことにする。

「ええと、神社はどっちだったっけ?」

 黒いもやから必死に逃げていたので、方角がよく分からない。記憶を思い返しながら、いくつか道の角を曲がると、

「あっ、あった!」

 こんもりとした森の茂みが見えた。小走りに駆け寄り、鳥居をくぐる。
 ぐるりと視線を巡らしたら全景が目に入るほどの、あまり広くはない境内には、誰もいない。

「翡翠様、今日はいらっしゃらないのかな……」

 がっかりしながら、本殿へ向かう。
 作法通り参拝をした後、美桜は玉垣に近づき、中をのぞき込んだ。龍穴神社というぐらいだから、玉垣の中に空いている穴は、龍穴と呼ばれているのだろう。深淵を見つめながら、美桜は無意識にネックレスの鱗を撫でていた。

「翡翠様……出ていらっしゃらないかな……」

 ぽつりとつぶやく。

 しばらく待ってみたが、龍神が出現する気配はなかったので、美桜は軽く溜め息をつくと、拝所に戻った。

「どうしよう、ドーナツ、置く場所がないなぁ……」

 拝所の前にあるのは賽銭箱だけで、台になるようなものはない。地面に置くのもためらわれて迷っていると、不意に、龍穴から、ざあっと風が吹き上がった。驚いて目を向けた美桜の視線の先にいたのは、青銀色の龍だ。龍は空中で人の姿に変わり、玉垣を超えて、すとんと地面へ降り立った。

「翡翠様!」

「美桜。今日も来たのか。どうした? また黒いもやに襲われたのか? 鱗は効果がなかったか?」

 淡々とした声で問われ、美桜は翡翠に駆け寄ると、

「いいえ、あれから襲われていません。大丈夫です。今日は翡翠様にお礼をしたいと思って来たんです」

 と答えた。

「お礼? ……律儀だな」

 翡翠はやや驚いた様子で、美桜を見下ろした。

「これ……よ、良かったら、食べて下さい」

 美桜は緊張しながら、持っていたプラスチックケースを差し出した。翡翠が不思議そうな顔をして手を伸ばす。蓋を開けて、

「なんだこれは?」

 と首を傾げた。

「ドーナツです。私が作りました」

「どーなつ?」

 龍神なのでドーナツを食べたことがないのだろうか。美桜が、

「油で揚げたお菓子です。小麦粉と卵と砂糖が入っていて……甘いです」

 と、簡単に説明すると、

「……よく分からんが、これは菓子なのだな」

 翡翠は怪訝なものを見る表情のまま、丸いドーナツをつまみ、口に運んだ。一口囓り、

「んっ? 意外とうまい……」

 と、つぶやく。無表情だった翡翠の瞳が輝いたような気がして、美桜は、ほっと胸をなで下ろした。

「食べたことのない食感と味だ。それなのに、どこか懐かしさを感じさせる。素朴、というのだろうか。このようなめずらしい菓子を作れるとは、お前はすごいな」

 翡翠に褒められ、くすぐったい気持ちになる。

「材料を混ぜて揚げただけの簡単なものですよ……」

「謙遜をするな。このような菓子は、幽世かくりよにはない」

「幽世?」

 聞いたことのない言葉に首を傾げると、

「俺たちのような神やあやかしの住む世界のことだ。この龍穴は」

 翡翠は玉垣の中の穴を指差し、

「幽世に繋がっている。美桜が分かりやすい言葉を使うなら、異世界だな」

 と説明をした。

「異世界!」

 神聖な穴だろうと考えていたが、まさか異世界に繋がっているとは思わず、美桜は目を丸くした。

「そうなんですね……。なんだか信じられないです」

 玉垣のそばに近づき、美桜が龍穴をのぞき込んでいると、

「こちらの世界――現世うつしよの人間には知られていないことだから、信じられないのも無理はないかもしれないな」

 翡翠が美桜の隣に立ち、同じように穴を見つめた。
 穴から美桜へ視線を移した翡翠は、手を伸ばし、

「美桜、俺はこの菓子が気に入った。また食べたい。その鱗に触れて、龍穴のそばで名を呼んでくれれば、姿を現そう」

 と言って、美桜の髪を一筋梳いた。男性に免疫のない美桜の頬が赤くなる。

「で、では、また作ってきます。し、失礼します……!」

 美桜は赤面したことを隠すように頭を下げると、翡翠に背を向け、小走りに龍穴神社を後にした。
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