怨みつらみの愉快日録

夏風邪

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第一章

第37話 発端

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 ◇ ◇ ◇


 全ての襖を閉め切り、極力外からの光も省いた状態の静かな空間。
 地面に描かれているのは上下逆さの三角形を二つ重ねた六芒星。

 それを囲むように座るのは和服姿の六人。


 彼らの視線の先、六芒星の中心にあるのはちょうど両手で持てるくらいの大きさの球体だ。
 一見水晶玉のようにも見えるが、大部分に渡り透明部を侵食するのは禍々しい色味の黒。

 透明な水に絵の具を落としたようなそれは一瞬足りとも同じ模様になることはなく、まるで生き物のように透明の中で黒が蠢く。

 球体の表面部には星型を模した五芒星が浮かぶ。
 呪術の知識をかじっている者ならばこの記号が意味するところと球体の意義、ひいてはこの儀式の狙いも容易に想像がつくだろう。


 六芒星の頂点に位置する六人が同時に地面に手をつく。

 すると六芒星は淡い光を放ち、中心の球体はカタカタと小刻みに揺れ始めた。


 ───ピシッ。


 硬い音が響く。
 球体の表面にヒビが入ったのだ。

 その亀裂部からは黒霧が少しずつ放出され、渦巻いた嫌な霊気が室内を包み込む。

「なんだこの瘴気は……」

「ただの悪霊じゃないのかっ!」

 想像をはるかに超える量の淀んだ霊気に彼らは動揺し、すぐさま六芒星から手を離す。

 しかし、時すでに遅し。
 
 ピキ、ピキッ、と球体に入った罅の侵食は止まらず、ついには表面の五芒星諸共音を立てて砕け散った。


 内から溢れるのは先ほどとは比べ物にならない禍々しい気配。
 空中を漂っていた黒霧は六芒星の中心に引き寄せられひとつに纏まる。

 やがて人型を模した個体が出来上がった。


 一目で異質の存在だと分かるソレはぐるりと一度周囲にいる人間を一瞥した。

 存在するだけで無条件に威圧してくるその生命体を彼らは必死に警戒する。
 たらりと顳顬こめかみを伝う冷や汗は緊張か、それとも恐怖の表れか。

「……貴様の封印を解いてやったのは私たちだ。さあ、身命を賭して従え」

 生命体の正面に位置する一人が恐怖を押し殺した声音で傲慢に言ってのける。
 それに同調した他の五人も次々と欲望に満ちた命令を下す。


 ───その行為が如何にその存在の忌諱に触れる愚行であるか知りもせずに。

 
 感情の荒ぶりがそのまま表出したかのように、黒霧が風を伴って吹き荒れた。

 襖なんてものは簡単に吹き飛ばされ、床も壁も天井も一瞬にして見るに耐えない酷い有様へと変えられる。


《……──愚かな人間の分際で図に乗るでないわ。身の程を知れ》


 無感情に落とされたその声音から、彼らは何が読み取れただろうか。

 たとえ声主の真意を量り兼ねたとしても、身の奥底から湧き上がってくる果てしないまでの畏れだけは本能的に感じ取ったことだろう。

 そこにあるのは強者と弱者の交わることのない圧倒的な差。
 どちらが捕食者であるかの揺るぎない事実。
 
 
 彼らは後悔し、死を悟る。
 そこでやっと気づいた。

 人間界に持ち込んではいけない禁忌に、自分たちは触れてしまったのだと。



 遠くから慌ただしい足音が聴こえてくる。

 しかし戦意を失い絶望している彼らには届かない。
 そもそもこれ以上この生命体を此処に留めておくことなど不可能だった。


 愉悦に満ちた笑い声がこだまする。
 人型を模していた黒霧は次第にその形を崩していく。


《……──封を解いた礼だ。今回は見逃してやるとしよう。せいぜい感謝するがいい、愚かな下等生物どもよ》

 
 すでに原型を留めない黒霧はそのまま意思ある塊となり、止める間もなく外へと飛び出して行った。

 僅かに残った黒霧さえも一切の痕跡を消すかのように宙に霧散し、跡形もなく消え去った。


 遅れて複数の足音が部屋の前で止まる。
 しかし一歩遅かったことは一目瞭然だ。

 無惨にも荒れた室内、身を震わせ顔を青褪めさせる当事者たち。

 そして、割れた球体。

 明らかに封が解かれているというのに肝心の中身がどこにも見当たらない。
 ある程度の事態は想像できるが、一応事情を訊こうにも事切れた抜け殻のような当事者では役に立ちそうもない。

 焦りと危機感を募らせていく彼らは、一旦指示を仰ぐべく一斉に廊下の奥に目を遣った。


 コツ、コツ、と歩調に合わせて無機質な杖の音が響く。
 廊下の奥から現れた老人は、一度部屋の惨状を目に収める。

 呼吸とも嘆息ともつかない短い息を吐き出し、重々しく口を開く。

「動ける中級は態勢を整え次第中身を追え。手が空いとる上級も向かわせえ」

 この場に集まっていた者たちは老人の下命で一斉に動き出す。

 一歩後ろに付き従っていた男は老人の指示を受け、脳内で人員の配置図を作成する。

「中級までですとそれなりの人数を動かせそうです。下級の者も行かせますか?」

「奴らはよい。行っても歯が立たぬだろう」

「ですと上級の者を交えて戦力を整えることになりますが、彼らは当主の方々を除いてそのほとんどが仕事へと出てしまっております」

「構わん。身動きが取れるのならば呼び戻せ。放っておけば甚大な被害になるやも知れん。一般人に事が広がる前に事態を収束させえ」

「承知しました」

 屋敷内が一気に慌ただしくなる。
 その元凶とも言える彼ら──六人の術師たちを男は一瞥する。

 放心状態からはいささか復活したようだが、相変わらず青褪めた顔と震えは治らない様子。

 おそらく今度は目の前の老人に恐れをなしているのだろう。

「彼らは如何いたしましょう」

「まったく愚かな奴らよ。洗いざらい聞き出し次第現場に遣っておけ。人員配置は好きにして構わん」

「お任せを」

 杖を鳴らしてそのまま奥へと消えていく老人を見送りながら、男は思う。

 いつもの老人からしたら随分と容赦された裁きだ、と。

 しかしながら、それを素直に”優しい”と表現できないのは、それが決して情けからくる容赦ではないとわかっているから。


 おそらく老人はこの一件を通じて何らかの目論見がある。
 けれども男にはその真意を推し量ることはできず、そもそも邪推しようとも思わない。

 下手に詮索して老人の不興を買う方が男にとってはよほど恐ろしいことなのだから。

(……本当に、此処は怖い人たちばかりだな…)

 さっさと頭を切り替えた男は当事者の事情聴取を部下に任せ、厄介すぎる目先の問題に取り掛かった。


 こうして本人とはまったく無関係のところから始まった騒動に、千景は理不尽にも巻き込まれ。
 幸か不幸か、その後の生活を大きく変える二日間へとなかば強制的に突入するのだった───。
 

 ◇ ◇ ◇

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