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同棲許可、いただきました
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颯の自宅マンションのエントランス。
照明に照らされた白いタイルが静かに輝き、ガラス扉越しの夜が少しだけ湿気を帯びていた。
俺たちは向かい合ったまま、別れがたそうに車の前で立っていた。
手を繋ぐわけでも、キスを交わすわけでもない。けれどその距離感と、互いの目に浮かぶ名残惜しさが、すべてを語っている。
「あんまり長く時間は取れないんですが、またすぐ会いたいです…」
「うん…どこでも迎えに行くよ」
いつも通りの軽いやりとり。けれどそこには、言葉以上に満ち足りた気配が満ちていた。
そんなときだった。
「やだ、あんた帰ってんの?」
背後から響いた女性の声に、俺はびくりと身体を強張らせた。
振り返れば、そこにはすらりとした長身の女性。
颯と同じ、切れ長の目に整った鼻立ち。しっかりとメイクされた顔と、洗練されたカジュアルな服装。どこからどう見ても「颯の遺伝子ここだな」と言いたくなるような……
「うわ」
明らかに動揺を隠しきれない颯を見て、俺は察した。
「うわってなによ。なにしてんのよこんな外で、あんた連絡返してこないから夜ご飯ないからね?ご飯も炊いてないしなんにもないんだから、まあでもカレーならあるけど、あと鍋焼きうどんもあるけど、なんもないんだからね」
「分かってるって、いいって、もうっ」
そして俺と颯は目を合わせた。
口パクで「母さん」と言われてしまった。
なら、もう、この機会、チャンスとするしかないだろ。
「あ……あのっ……こんばんは。颯くんと仲良くさせていただいています、糸川侑成と申します。突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」
深く頭を下げて、後ろから颯の動揺が伝わってきた。ちょっと深すぎたか、颯のお母様まで慌てて頭を下げるから、なんだかちょっと全員がぎこちなくて。でも、お母様はあっけらかんと言った。
「"仲良く"って……付き合ってるんじゃないの?」
「へ……?」
緊張で声が少し上ずる。けれど、言うべきことはすらすらと喉から出てきた。
「そうです。お付き合いさせていただいています。……これまで、ご挨拶もないまま、颯くんを何度も外泊させてしまっていたことを深くお詫びします。本当に申し訳ありませんでした」
そうして俺は深く頭を下げた。けれど、颯のお母さんはその様子に目を細めて、笑うように息を吐いた。
「やだちょっと、そんなのはいいのよ、これだってもう大学生だしね。夜ご飯いるいらないの連絡と、お風呂入る入らないの連絡だけは返して欲しいだけだから!」
「……ごめんて」
「で?何か他に伝えたい事あるんじゃないの?」
颯がなにか言いかけて、結局なにも言わず、黙って頷く。その背中を軽く押すように、俺は意を決してもう一歩踏み込む。だってここまでお母様がアシストしてくれたんだ。言うなら今しかない…
「はい……もし…許していただけるなら、颯くんとの同棲を許可していただきたいと思っています」
もう一度、きっちり頭を下げた。隣で颯も慌てて、頭を下げている様子がなんだか面白かったけれど。
「良いわよ?」
返事はあっさりと。あまりにも早くて、俺が顔を上げるタイミングを逃す。
「あ……ありがとうございます」
「そんな事だろうと思ったわよ。でもうちの子、見ての通りでマイペースだからね。きちんと手綱握ってくれる人なら私は大歓迎。あと、父親は私の言うこと全部聞くから、そっちは心配いらないわよ」
「……は、はい…」
「でも、学校だけはちゃんと行くように監視しておいてね」
「……はい。もちろんです!」
「ふふ、頼もしいわね。いっそ嫁にもらってくれてもいいわよ」
冗談ぽくそう言われて、俺は照れ笑いを浮かべながら、小さく頭を下げる。隣で颯が「母さんマジでやめて」と苦笑していた。
その日の夜、眠る前の電話中だった。颯は、とても穏やかな声で俺の名前を呼んでから続けた。
「……今日、侑成さんが母さんと話してくれた時さ」
「うん?」
「めっちゃかっこよかったです」
不意打ちだった。照れないわけなくて声が震える。
「え、なに急に」
「急じゃないです。侑成さんがかっこいいなんて前から思ってました。でも改めて、ああいう場面でちゃんと話ができるところ、本当に大人だなって思ったし……本当にかっこよくて」
「でも俺、緊張で目泳いだし手汗すごかったし」
「そんなの顔に出てなかったです。母さんが『頼もしい』って言ってくれたの、僕めちゃくちゃ嬉しかったんですよ」
その声には、軽い尊敬と、揺るがない愛情が確かにあって、今日くらいは自惚れてもいいのかなって思ってしまう。
「ほんと、好きって思いました。侑成さんみたいな人が恋人で、僕、凄く幸せです」
真っ直ぐな好きというその言葉。何度も聞いてるはずなのに、どうしても胸が詰まる。
「照れてます?」
「……ちょっとな」
「かわいい」
「颯のが可愛いだろ」
そう言いながら、天井に手を伸ばしてしまう。今目の前にいたらきっと颯の頭をくしゃっと撫でたんだろうな。
「明日からはずっと一緒にいられるんだもんなぁ、変な感じだけど楽しみだわ」
「はい。やっと“おかえり”と“ただいま”ができます」
「“いってらっしゃい”と“おやすみ”もな」
「あと、いつでも侑成さんに触れられます」
「……まぁ確かに?」
「それだけで全然違います、メンタルが安定します」
無邪気な笑い声に「好きだ」と胸の奥で何度目かの確信が灯る。胸の奥ではずっと静かな炎が燃えていた。
颯を大切にしていこう。
何があっても、自分の隣にいてもらうために、守り抜こう。
颯の母親は、冗談めかしながらも本当に大事なことを見抜いていた。颯が選んだ相手が誰であろうと、颯が選んだのならそれでいい、と。
でもその裏には、芸能界という浮き沈みの激しい世界に足を踏み入れた息子への、深い不安が滲んでいた。
その不安を少しでも軽くするのは、きっと颯の隣に立つ自分の役目だ。
自分にはなにができるんだろう。
颯はすでに華やかな場所に立っている。
自分はそこに釣り合う存在だろうか。
……そんな不安は、ずっとある。
でも、たとえそうでも、諦めない。
今までの俺だったら、一歩引いてしまっていたかもしれない。颯のほうが眩しすぎると、どこかで線を引いてしまっていたかもしれない。だけど今日、颯の家に行って、颯の母親と会って、「よろしくね」と言ってくれた瞬間に、何かが決定的に変わった。
覚悟が決まった。
颯の未来に、自分は並んで立っていたい。
守るとか、支えるとか、そういう言葉よりももっと素直に、
ただ、一緒にいたい。颯の手を、離したくない。
なんて良いことを考えていたというのに、颯の声がほんの少しだけ小さくなった。
「あ、そうだ。次の休みは侑成さんのことめっちゃくちゃに抱き潰しますんで」
「あ?」
「だって今日のじゃ侑成さん、絶対満足してないでしょ」
「別にそんな事はない…けど」
「でも僕…一日中えっちしたいです、侑成さんと」
「……いつか、な」
「予定リスケしようかなぁ……」
颯の小さな声がもにょもにょと消えていく。相当寂しいんだろうなぁ、俺も寂しいのは同じなんだけどね。なるべく颯が罪悪感を感じない言葉で颯を慰める。
「確かに最近、颯めちゃくちゃ頑張ってるもんなぁ」
「そうですかね……」
それっきり、颯は黙った。
普段なら、「褒めてよ」とか「えっちしたいって言って」なんて冗談まじりにせがんでくるくせに。
「どうした?」
問いかけると、小さな声で返ってくる。
「……侑成さんって、さ」
「うん?」
「最近、僕で満足してます?」
つい「はぁ?」なんて声が出る。
理由もなく、そんなこと言うようなやつじゃないんだけど。まして、颯がこういう言い方をするときはだいたい、自分の感情を持て余してる時なんだけど。
「なんだよ、それ。急に」
「だって、俺ばっかえっちしたいって言ってる気がするし……僕ばっか我慢できなくなってるし……侑成さんは、別にしなくても平気そうだし……」
少しずつ早くなる口調と、言葉の端に滲む我慢。拗ねてるんだろう、子供みたいに。甘えたくて、わがままを言いたくて、でも上手く言えないんだって分かる。
ほんと、こういうとこ可愛いんだよなぁ…
「颯」
声を落とすと、向こうの呼吸がぴたりと止まるのが分かった。
「せっかく同棲の許可貰えたのになんでそんな事言ってんの。俺がどれだけお前のこと好きで、我慢してるかなんて、そんなの言わなくても分かると思ってたんだけど?」
「そうなんですけど……今は全然時間ないし……したいって言ったら困った顔するし、このモヤモヤそのままにして同棲するの嫌だなって」
一瞬、息が詰まりそうになった。冗談じゃない。こっちはいつだってお前に触れたくてたまらないのに。
「僕だけがいつも我慢できてないみたいで、なんか……恥ずかしいっていうか……」
「……我慢してんのは、俺のほうだよ」
「嘘ですよ…」
「嘘じゃない」
「でも僕がいつもお伺い立ててる気がします」
ちょっと怒ったような声が返ってくる。いつもの颯の、感情のままに動く熱さだ。ここで濁してもなぁ、颯の機嫌を損ねるだけか…
「颯はさ、引かないの?10も離れた男が、自分をオカズにしていまだに1人で気持ち良くなってるって聞いて」
「でも侑成さん、最近ひとりでもしてないの知ってますよ。だってカメラ見ても大体寝てるかスマホしてますもん」
「馬鹿かよ」
「え?」
「見られてると思うと落ち着かないから会社でやってんの…」
「え…」
「ほら引くじゃん…」
「引くっていうより、呆れてるって言ったほうが正しいですね」
さっきより少しだけ声のトーンが低い。でも、静かなその感じが逆に怖い。でもこの感じの颯…嫌いじゃないんだよな…
「それで? なんでそんな恥ずかしいことしてたんですか」
「だから、家だとお前が見てんじゃん!そこら中にカメラ仕込んでんだろ!」
「そういう勝手な事させないために仕込んでるのに」
うう…颯の地雷踏んだっぽい…
次に会うのが急に怖くなるけど、下半身は期待をしている。
「会社で、ですよね?僕がいないときに、こっそりそういうことしてたって、そういうことですよね」
「……っ、いや、それは……」
「ひどいなー会社には塩野さんもいるのに、そんな油断した姿晒してるなんて、危機感なさすぎですよ」
「だって、…」
「勝手に気持ちいいことして、職場のトイレでイキまくってたんでしょ?」
「ま、待って、それは語弊が……」
「語弊ないですよ。してたんですよね?僕じゃなく、自分で」
ぐぬぬ……という感情が顔に出る。反論しようとして口を開いたものの、何も出てこない。言い訳の余地が、ひとつもない。
「僕、知らなかったなぁ。侑成さんってそんなに性欲強かったんですね。人がいる会社の中でまでしちゃうくらい。なんだか急に安心してきました」
「いやだからっ、それは我慢できなかったというか……!」
「そんなに我慢できないくらい、僕のこと考えてくれてたんですか?」
「……そ、それは……はい……」
「じゃあもっと呼び出してくれれば良かったのに」
突然の声帯の緩み。でもまた殺伐とする。
「……でも、次からはちゃんと相談してください」
「……そ、相談って……な、何を?」
「『我慢できないんですけど』って。言ってくれたら、なんとかしてあげますから。これからは毎日一緒ですしね」
完全に主導権を握られている。そのはずなのに、耳まで熱くなっている自分が情けない。
「……じゃあ、明日、侑成さんにいっぱい気持ち良いことしないとですね」
唐突に、電話の向こうで低く囁かれる。一拍遅れて、意味がわかる。
「っていうと……?」
「あれも、これも、したいこと結構溜まってるんですよ。」
「な、なにその“したいこと”って……」
「そんなの言ったらつまんないでしょ」
あっさりと言われてしまったなら、それだけで思考が真っ白になる。
「っ……う……」
目を閉じると、颯の言葉がいちいち映像化されて、頭ん中が、ぐるぐる、ぐるぐる、エロいことで埋まっていく。
「……侑成さん、顔赤いですね?」
「見えてないだろっ……!」
「想像したんですよね?さっきの、僕の言ったこと」
「…………した…けど」
反論できない。向こうがほくそ笑んでるのが、声に出してなくても伝わる。
「じゃあ、また明日。ちゃんと、覚悟しといてくださいね」
「っ、マジで言っ」
「大好きです、おやすみなさい」
ぷつっ、と。
無情に通話が切れた。
しんと静まった室内に残されたのは、火照った体と、どうしようもない想像の続きだった。
「……俺、明日死ぬ……?」
眠れるわけもない。
だって今日はいろんなことがありすぎた。
だけど心は満たされていて、俺の人生で与えられるはずの幸せが、まるで今日全部一気に与えられたみたいな、本当にそんな気分だった。
照明に照らされた白いタイルが静かに輝き、ガラス扉越しの夜が少しだけ湿気を帯びていた。
俺たちは向かい合ったまま、別れがたそうに車の前で立っていた。
手を繋ぐわけでも、キスを交わすわけでもない。けれどその距離感と、互いの目に浮かぶ名残惜しさが、すべてを語っている。
「あんまり長く時間は取れないんですが、またすぐ会いたいです…」
「うん…どこでも迎えに行くよ」
いつも通りの軽いやりとり。けれどそこには、言葉以上に満ち足りた気配が満ちていた。
そんなときだった。
「やだ、あんた帰ってんの?」
背後から響いた女性の声に、俺はびくりと身体を強張らせた。
振り返れば、そこにはすらりとした長身の女性。
颯と同じ、切れ長の目に整った鼻立ち。しっかりとメイクされた顔と、洗練されたカジュアルな服装。どこからどう見ても「颯の遺伝子ここだな」と言いたくなるような……
「うわ」
明らかに動揺を隠しきれない颯を見て、俺は察した。
「うわってなによ。なにしてんのよこんな外で、あんた連絡返してこないから夜ご飯ないからね?ご飯も炊いてないしなんにもないんだから、まあでもカレーならあるけど、あと鍋焼きうどんもあるけど、なんもないんだからね」
「分かってるって、いいって、もうっ」
そして俺と颯は目を合わせた。
口パクで「母さん」と言われてしまった。
なら、もう、この機会、チャンスとするしかないだろ。
「あ……あのっ……こんばんは。颯くんと仲良くさせていただいています、糸川侑成と申します。突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」
深く頭を下げて、後ろから颯の動揺が伝わってきた。ちょっと深すぎたか、颯のお母様まで慌てて頭を下げるから、なんだかちょっと全員がぎこちなくて。でも、お母様はあっけらかんと言った。
「"仲良く"って……付き合ってるんじゃないの?」
「へ……?」
緊張で声が少し上ずる。けれど、言うべきことはすらすらと喉から出てきた。
「そうです。お付き合いさせていただいています。……これまで、ご挨拶もないまま、颯くんを何度も外泊させてしまっていたことを深くお詫びします。本当に申し訳ありませんでした」
そうして俺は深く頭を下げた。けれど、颯のお母さんはその様子に目を細めて、笑うように息を吐いた。
「やだちょっと、そんなのはいいのよ、これだってもう大学生だしね。夜ご飯いるいらないの連絡と、お風呂入る入らないの連絡だけは返して欲しいだけだから!」
「……ごめんて」
「で?何か他に伝えたい事あるんじゃないの?」
颯がなにか言いかけて、結局なにも言わず、黙って頷く。その背中を軽く押すように、俺は意を決してもう一歩踏み込む。だってここまでお母様がアシストしてくれたんだ。言うなら今しかない…
「はい……もし…許していただけるなら、颯くんとの同棲を許可していただきたいと思っています」
もう一度、きっちり頭を下げた。隣で颯も慌てて、頭を下げている様子がなんだか面白かったけれど。
「良いわよ?」
返事はあっさりと。あまりにも早くて、俺が顔を上げるタイミングを逃す。
「あ……ありがとうございます」
「そんな事だろうと思ったわよ。でもうちの子、見ての通りでマイペースだからね。きちんと手綱握ってくれる人なら私は大歓迎。あと、父親は私の言うこと全部聞くから、そっちは心配いらないわよ」
「……は、はい…」
「でも、学校だけはちゃんと行くように監視しておいてね」
「……はい。もちろんです!」
「ふふ、頼もしいわね。いっそ嫁にもらってくれてもいいわよ」
冗談ぽくそう言われて、俺は照れ笑いを浮かべながら、小さく頭を下げる。隣で颯が「母さんマジでやめて」と苦笑していた。
その日の夜、眠る前の電話中だった。颯は、とても穏やかな声で俺の名前を呼んでから続けた。
「……今日、侑成さんが母さんと話してくれた時さ」
「うん?」
「めっちゃかっこよかったです」
不意打ちだった。照れないわけなくて声が震える。
「え、なに急に」
「急じゃないです。侑成さんがかっこいいなんて前から思ってました。でも改めて、ああいう場面でちゃんと話ができるところ、本当に大人だなって思ったし……本当にかっこよくて」
「でも俺、緊張で目泳いだし手汗すごかったし」
「そんなの顔に出てなかったです。母さんが『頼もしい』って言ってくれたの、僕めちゃくちゃ嬉しかったんですよ」
その声には、軽い尊敬と、揺るがない愛情が確かにあって、今日くらいは自惚れてもいいのかなって思ってしまう。
「ほんと、好きって思いました。侑成さんみたいな人が恋人で、僕、凄く幸せです」
真っ直ぐな好きというその言葉。何度も聞いてるはずなのに、どうしても胸が詰まる。
「照れてます?」
「……ちょっとな」
「かわいい」
「颯のが可愛いだろ」
そう言いながら、天井に手を伸ばしてしまう。今目の前にいたらきっと颯の頭をくしゃっと撫でたんだろうな。
「明日からはずっと一緒にいられるんだもんなぁ、変な感じだけど楽しみだわ」
「はい。やっと“おかえり”と“ただいま”ができます」
「“いってらっしゃい”と“おやすみ”もな」
「あと、いつでも侑成さんに触れられます」
「……まぁ確かに?」
「それだけで全然違います、メンタルが安定します」
無邪気な笑い声に「好きだ」と胸の奥で何度目かの確信が灯る。胸の奥ではずっと静かな炎が燃えていた。
颯を大切にしていこう。
何があっても、自分の隣にいてもらうために、守り抜こう。
颯の母親は、冗談めかしながらも本当に大事なことを見抜いていた。颯が選んだ相手が誰であろうと、颯が選んだのならそれでいい、と。
でもその裏には、芸能界という浮き沈みの激しい世界に足を踏み入れた息子への、深い不安が滲んでいた。
その不安を少しでも軽くするのは、きっと颯の隣に立つ自分の役目だ。
自分にはなにができるんだろう。
颯はすでに華やかな場所に立っている。
自分はそこに釣り合う存在だろうか。
……そんな不安は、ずっとある。
でも、たとえそうでも、諦めない。
今までの俺だったら、一歩引いてしまっていたかもしれない。颯のほうが眩しすぎると、どこかで線を引いてしまっていたかもしれない。だけど今日、颯の家に行って、颯の母親と会って、「よろしくね」と言ってくれた瞬間に、何かが決定的に変わった。
覚悟が決まった。
颯の未来に、自分は並んで立っていたい。
守るとか、支えるとか、そういう言葉よりももっと素直に、
ただ、一緒にいたい。颯の手を、離したくない。
なんて良いことを考えていたというのに、颯の声がほんの少しだけ小さくなった。
「あ、そうだ。次の休みは侑成さんのことめっちゃくちゃに抱き潰しますんで」
「あ?」
「だって今日のじゃ侑成さん、絶対満足してないでしょ」
「別にそんな事はない…けど」
「でも僕…一日中えっちしたいです、侑成さんと」
「……いつか、な」
「予定リスケしようかなぁ……」
颯の小さな声がもにょもにょと消えていく。相当寂しいんだろうなぁ、俺も寂しいのは同じなんだけどね。なるべく颯が罪悪感を感じない言葉で颯を慰める。
「確かに最近、颯めちゃくちゃ頑張ってるもんなぁ」
「そうですかね……」
それっきり、颯は黙った。
普段なら、「褒めてよ」とか「えっちしたいって言って」なんて冗談まじりにせがんでくるくせに。
「どうした?」
問いかけると、小さな声で返ってくる。
「……侑成さんって、さ」
「うん?」
「最近、僕で満足してます?」
つい「はぁ?」なんて声が出る。
理由もなく、そんなこと言うようなやつじゃないんだけど。まして、颯がこういう言い方をするときはだいたい、自分の感情を持て余してる時なんだけど。
「なんだよ、それ。急に」
「だって、俺ばっかえっちしたいって言ってる気がするし……僕ばっか我慢できなくなってるし……侑成さんは、別にしなくても平気そうだし……」
少しずつ早くなる口調と、言葉の端に滲む我慢。拗ねてるんだろう、子供みたいに。甘えたくて、わがままを言いたくて、でも上手く言えないんだって分かる。
ほんと、こういうとこ可愛いんだよなぁ…
「颯」
声を落とすと、向こうの呼吸がぴたりと止まるのが分かった。
「せっかく同棲の許可貰えたのになんでそんな事言ってんの。俺がどれだけお前のこと好きで、我慢してるかなんて、そんなの言わなくても分かると思ってたんだけど?」
「そうなんですけど……今は全然時間ないし……したいって言ったら困った顔するし、このモヤモヤそのままにして同棲するの嫌だなって」
一瞬、息が詰まりそうになった。冗談じゃない。こっちはいつだってお前に触れたくてたまらないのに。
「僕だけがいつも我慢できてないみたいで、なんか……恥ずかしいっていうか……」
「……我慢してんのは、俺のほうだよ」
「嘘ですよ…」
「嘘じゃない」
「でも僕がいつもお伺い立ててる気がします」
ちょっと怒ったような声が返ってくる。いつもの颯の、感情のままに動く熱さだ。ここで濁してもなぁ、颯の機嫌を損ねるだけか…
「颯はさ、引かないの?10も離れた男が、自分をオカズにしていまだに1人で気持ち良くなってるって聞いて」
「でも侑成さん、最近ひとりでもしてないの知ってますよ。だってカメラ見ても大体寝てるかスマホしてますもん」
「馬鹿かよ」
「え?」
「見られてると思うと落ち着かないから会社でやってんの…」
「え…」
「ほら引くじゃん…」
「引くっていうより、呆れてるって言ったほうが正しいですね」
さっきより少しだけ声のトーンが低い。でも、静かなその感じが逆に怖い。でもこの感じの颯…嫌いじゃないんだよな…
「それで? なんでそんな恥ずかしいことしてたんですか」
「だから、家だとお前が見てんじゃん!そこら中にカメラ仕込んでんだろ!」
「そういう勝手な事させないために仕込んでるのに」
うう…颯の地雷踏んだっぽい…
次に会うのが急に怖くなるけど、下半身は期待をしている。
「会社で、ですよね?僕がいないときに、こっそりそういうことしてたって、そういうことですよね」
「……っ、いや、それは……」
「ひどいなー会社には塩野さんもいるのに、そんな油断した姿晒してるなんて、危機感なさすぎですよ」
「だって、…」
「勝手に気持ちいいことして、職場のトイレでイキまくってたんでしょ?」
「ま、待って、それは語弊が……」
「語弊ないですよ。してたんですよね?僕じゃなく、自分で」
ぐぬぬ……という感情が顔に出る。反論しようとして口を開いたものの、何も出てこない。言い訳の余地が、ひとつもない。
「僕、知らなかったなぁ。侑成さんってそんなに性欲強かったんですね。人がいる会社の中でまでしちゃうくらい。なんだか急に安心してきました」
「いやだからっ、それは我慢できなかったというか……!」
「そんなに我慢できないくらい、僕のこと考えてくれてたんですか?」
「……そ、それは……はい……」
「じゃあもっと呼び出してくれれば良かったのに」
突然の声帯の緩み。でもまた殺伐とする。
「……でも、次からはちゃんと相談してください」
「……そ、相談って……な、何を?」
「『我慢できないんですけど』って。言ってくれたら、なんとかしてあげますから。これからは毎日一緒ですしね」
完全に主導権を握られている。そのはずなのに、耳まで熱くなっている自分が情けない。
「……じゃあ、明日、侑成さんにいっぱい気持ち良いことしないとですね」
唐突に、電話の向こうで低く囁かれる。一拍遅れて、意味がわかる。
「っていうと……?」
「あれも、これも、したいこと結構溜まってるんですよ。」
「な、なにその“したいこと”って……」
「そんなの言ったらつまんないでしょ」
あっさりと言われてしまったなら、それだけで思考が真っ白になる。
「っ……う……」
目を閉じると、颯の言葉がいちいち映像化されて、頭ん中が、ぐるぐる、ぐるぐる、エロいことで埋まっていく。
「……侑成さん、顔赤いですね?」
「見えてないだろっ……!」
「想像したんですよね?さっきの、僕の言ったこと」
「…………した…けど」
反論できない。向こうがほくそ笑んでるのが、声に出してなくても伝わる。
「じゃあ、また明日。ちゃんと、覚悟しといてくださいね」
「っ、マジで言っ」
「大好きです、おやすみなさい」
ぷつっ、と。
無情に通話が切れた。
しんと静まった室内に残されたのは、火照った体と、どうしようもない想像の続きだった。
「……俺、明日死ぬ……?」
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