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4[ヴィル]
幻想の壁 §1
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――釣りに連れていかれた。
「行かない。今ほど釣りに不向きな状況もないぞ」と、前もって伝えてあったにもかかわらず、親友は早朝からたたき起こしにやって来た。
「起きろ。行くぞ」
こいつは馬鹿なのだろうか。まだ五時前である。
「クリス……どうやって鍵開けたんだ?」
「むわはははっ、俺様に不可能はない。早くしろ」
「お前は子どもをさらいに来た魔王か」
「枕を抱えたちびっ子よ、貴様を悪の一味に入れてやろう」
「……寝る」
「起きろ。貴様の今日の任務は、オルランディアウケグチノオナガノフサフサヒレナガマスを釣ることだ」
「長い名前は流行りの小説だけにしろ。なんだよウケグチのフサフサって」
「さあ起きろ」
「ようやく寝ついたばっかりだ」
「優しい魔王クリス様が荷馬車に乗せてやるから道中で寝ろ」
「寝心地悪いからヤダ」
「ほら、もう目が覚めただろう」
「くっそぉ……」
装備を整えた彼は、半ば引きずるように俺を近場の湖へ連れて行った。
渡された竿と指定された餌。言われたとおりにすると、白銀の魚が釣れた。名前はナントカのフサフサの……覚えられない。クリスが言うには結構な高級魚らしい。
彼は嬉々として美味い食べ方を話していた。一通り聞いて「へえ、そうなのか」と答えたが、内容は何一つ記憶に残っていない。
なぜ俺は、釣りをしているのだろうか……。
そんなことを考えていると、クリスの従者が遅れて到着した。
「楽しみにしています、とのことです! とても喜んでおられました!」
「会えたか?」と、クリスが目を輝かせている。
「はいっ!」
「よおし、じゃんじゃん釣るぞ。お前らもしっかり頼むぞ」
俺の従者であるキースが「来ましたあぁぁ!」と、もう当たりを報告している。
「よっしゃあ、でかした!」クリスは目を輝かせた。
——アレンが死の病に感染して一週間が経とうとしていた。
定期的に届く報告書のおかげで、リアが魔法を使えるようになりつつあることと、ほとんどアレンに付きっきりで看病をしていることはわかっていた。
俺とクリスはその報告書の緻密さに度肝を抜かれた。
彼女はエムブラ宮殿内のことを事細かに記録させており、それがそのまま複写されて俺のもとに届いていた。一日ないしは二日に一度、複写にかかる分だけ時差はあるが、中で何をしているのかが手に取るように把握できた。
初動の部分を読んだクリスは「どこでこのようなことを学ばれたのか」と唸った。
彼女の指示で取られた感染拡大防止の対策は多岐に及ぶ。
【浄化】の効かない菌を相手取り、時に人海戦術で、時に酒や熱湯を武器に、リアの宮殿は誰一人として二次感染者を出さずに戦い続けていた。
彼女の智慧は前の世界で得たものだろう。
しかし、彼女がそれを習得した背景などは誰にもわからなかった。
そもそも彼女に関してはわからないことが多い。
魔法のない世界で生きてきた彼女を理解するには、膨大な時間が必要であり、病の床に伏しているアレンこそが彼女に最も詳しい人物だった。
俺が最も驚いたのは、いつも大勢の騎士に守られておっとりとしている彼女が、最初から一貫して最前線かつ指揮系統の頂点にいたことだ。
周りに助言こそ求めるものの、最終決定はすべて彼女が下して指示を出していた。
彼女は普段から誰かに「命じる」ということをしない。だから実際は「協力のお願い」とか「みんなで分担してがんばる」とか、そういった「彼女なりの命令」なのだろう。しかし、彼女の下す判断は、一団の将のそれと同じだった。
——俺は彼女を見くびっていた。
人心掌握術に長けているとは思っていたが、部下を手足のように使うことはできないと思っていた。
それに、俺の言うことには従ってくれると高をくくっていた。
リアはたった一人でアレンの世話をしており、ほかの者が彼の部屋へ近づかないようにしていた。
神薙の予算で大量の料理人用マスクと割烹服、平民向けの安いドレス、白い綿の布などが購入されている。
汚染された部屋に入るための服、いわば鎧だろう。入室するたびに脱いで洗浄しているようだった。
食器や寝具、衣類などは、アレンの部屋の隣にある空き部屋へ運び、彼女が一度洗浄し感染の危険度を下げた状態で使用人に渡されている。
彼女はすべての危険と責任を、自分ひとりで背負うつもりだ。
かつてアレンがそうしてリアを守ったように、リアもまた己の命を懸けてアレンを守ろうとしていた。
無理やりにでも、彼女をエムブラ宮殿から引き離す方法はある。しかし、それをやれば王家と彼女との関係は破綻するだろう。あの二人の間に特別な絆があることは明白だ。
彼女は無意識なのかもしれないが、俺よりもアレンの意見を尊重している。俺に甘えることはしないが、アレンには甘えて愚痴もこぼす。二人が冗談を言い合って笑っている様子は、まるで兄妹のように微笑ましい。
アレンはもはやリアの一部だ。死の病をもってしても、二人を引き離すことはできない。
俺が女避けのメガネさえ渡していなければ、今頃、神薙の婚約者はアレンだ。死の病に侵されているのは、俺だったかもしれない。
こんなことになるのなら、あんな物を与えなければよかった。このまま彼に逝かれたら、俺はそれを生涯悔やみ続けることになるだろう。
死の病に触れてはならないのは神薙だけではなかった。我々王族も同じだ。うっかり死んで国を困難な状況にしてはならない。
敵がヘルグリン病である以上、俺はリアのそばで一緒に戦うことはできなかった。
彼女の宮殿から追い出された翌朝、断られるのを覚悟のうえでユミールに事情を話し、頭を下げた。
「わかりました」と、彼は迷いもなく即答した。
死の病が怖くないのだろうか……。彼はその日のうちにエムブラ宮殿へ行き、しばらく留まることになった。
律儀なユミールは定期的に使いを寄越して進捗を報告してくれる。
彼はリアの人柄と才能を絶賛していたが、同じくらい宮殿の徹底した管理体制にも感心していた。
空いた時間は庭を散歩し、調度品や図書室を堪能して「とても充実している」らしい。
その一方で、魔力操作を習得させるのには苦労しているようだ。
無理もない。彼が報告してきたリアの魔力量は、我々王族のそれを遥かに上回っている。抱えている魔力が大きすぎるせいで、操作の難易度が増しているのだ。
いくらアレンのためとはいえ、彼女がしていることは、あまりに無謀だった。
「行かない。今ほど釣りに不向きな状況もないぞ」と、前もって伝えてあったにもかかわらず、親友は早朝からたたき起こしにやって来た。
「起きろ。行くぞ」
こいつは馬鹿なのだろうか。まだ五時前である。
「クリス……どうやって鍵開けたんだ?」
「むわはははっ、俺様に不可能はない。早くしろ」
「お前は子どもをさらいに来た魔王か」
「枕を抱えたちびっ子よ、貴様を悪の一味に入れてやろう」
「……寝る」
「起きろ。貴様の今日の任務は、オルランディアウケグチノオナガノフサフサヒレナガマスを釣ることだ」
「長い名前は流行りの小説だけにしろ。なんだよウケグチのフサフサって」
「さあ起きろ」
「ようやく寝ついたばっかりだ」
「優しい魔王クリス様が荷馬車に乗せてやるから道中で寝ろ」
「寝心地悪いからヤダ」
「ほら、もう目が覚めただろう」
「くっそぉ……」
装備を整えた彼は、半ば引きずるように俺を近場の湖へ連れて行った。
渡された竿と指定された餌。言われたとおりにすると、白銀の魚が釣れた。名前はナントカのフサフサの……覚えられない。クリスが言うには結構な高級魚らしい。
彼は嬉々として美味い食べ方を話していた。一通り聞いて「へえ、そうなのか」と答えたが、内容は何一つ記憶に残っていない。
なぜ俺は、釣りをしているのだろうか……。
そんなことを考えていると、クリスの従者が遅れて到着した。
「楽しみにしています、とのことです! とても喜んでおられました!」
「会えたか?」と、クリスが目を輝かせている。
「はいっ!」
「よおし、じゃんじゃん釣るぞ。お前らもしっかり頼むぞ」
俺の従者であるキースが「来ましたあぁぁ!」と、もう当たりを報告している。
「よっしゃあ、でかした!」クリスは目を輝かせた。
——アレンが死の病に感染して一週間が経とうとしていた。
定期的に届く報告書のおかげで、リアが魔法を使えるようになりつつあることと、ほとんどアレンに付きっきりで看病をしていることはわかっていた。
俺とクリスはその報告書の緻密さに度肝を抜かれた。
彼女はエムブラ宮殿内のことを事細かに記録させており、それがそのまま複写されて俺のもとに届いていた。一日ないしは二日に一度、複写にかかる分だけ時差はあるが、中で何をしているのかが手に取るように把握できた。
初動の部分を読んだクリスは「どこでこのようなことを学ばれたのか」と唸った。
彼女の指示で取られた感染拡大防止の対策は多岐に及ぶ。
【浄化】の効かない菌を相手取り、時に人海戦術で、時に酒や熱湯を武器に、リアの宮殿は誰一人として二次感染者を出さずに戦い続けていた。
彼女の智慧は前の世界で得たものだろう。
しかし、彼女がそれを習得した背景などは誰にもわからなかった。
そもそも彼女に関してはわからないことが多い。
魔法のない世界で生きてきた彼女を理解するには、膨大な時間が必要であり、病の床に伏しているアレンこそが彼女に最も詳しい人物だった。
俺が最も驚いたのは、いつも大勢の騎士に守られておっとりとしている彼女が、最初から一貫して最前線かつ指揮系統の頂点にいたことだ。
周りに助言こそ求めるものの、最終決定はすべて彼女が下して指示を出していた。
彼女は普段から誰かに「命じる」ということをしない。だから実際は「協力のお願い」とか「みんなで分担してがんばる」とか、そういった「彼女なりの命令」なのだろう。しかし、彼女の下す判断は、一団の将のそれと同じだった。
——俺は彼女を見くびっていた。
人心掌握術に長けているとは思っていたが、部下を手足のように使うことはできないと思っていた。
それに、俺の言うことには従ってくれると高をくくっていた。
リアはたった一人でアレンの世話をしており、ほかの者が彼の部屋へ近づかないようにしていた。
神薙の予算で大量の料理人用マスクと割烹服、平民向けの安いドレス、白い綿の布などが購入されている。
汚染された部屋に入るための服、いわば鎧だろう。入室するたびに脱いで洗浄しているようだった。
食器や寝具、衣類などは、アレンの部屋の隣にある空き部屋へ運び、彼女が一度洗浄し感染の危険度を下げた状態で使用人に渡されている。
彼女はすべての危険と責任を、自分ひとりで背負うつもりだ。
かつてアレンがそうしてリアを守ったように、リアもまた己の命を懸けてアレンを守ろうとしていた。
無理やりにでも、彼女をエムブラ宮殿から引き離す方法はある。しかし、それをやれば王家と彼女との関係は破綻するだろう。あの二人の間に特別な絆があることは明白だ。
彼女は無意識なのかもしれないが、俺よりもアレンの意見を尊重している。俺に甘えることはしないが、アレンには甘えて愚痴もこぼす。二人が冗談を言い合って笑っている様子は、まるで兄妹のように微笑ましい。
アレンはもはやリアの一部だ。死の病をもってしても、二人を引き離すことはできない。
俺が女避けのメガネさえ渡していなければ、今頃、神薙の婚約者はアレンだ。死の病に侵されているのは、俺だったかもしれない。
こんなことになるのなら、あんな物を与えなければよかった。このまま彼に逝かれたら、俺はそれを生涯悔やみ続けることになるだろう。
死の病に触れてはならないのは神薙だけではなかった。我々王族も同じだ。うっかり死んで国を困難な状況にしてはならない。
敵がヘルグリン病である以上、俺はリアのそばで一緒に戦うことはできなかった。
彼女の宮殿から追い出された翌朝、断られるのを覚悟のうえでユミールに事情を話し、頭を下げた。
「わかりました」と、彼は迷いもなく即答した。
死の病が怖くないのだろうか……。彼はその日のうちにエムブラ宮殿へ行き、しばらく留まることになった。
律儀なユミールは定期的に使いを寄越して進捗を報告してくれる。
彼はリアの人柄と才能を絶賛していたが、同じくらい宮殿の徹底した管理体制にも感心していた。
空いた時間は庭を散歩し、調度品や図書室を堪能して「とても充実している」らしい。
その一方で、魔力操作を習得させるのには苦労しているようだ。
無理もない。彼が報告してきたリアの魔力量は、我々王族のそれを遥かに上回っている。抱えている魔力が大きすぎるせいで、操作の難易度が増しているのだ。
いくらアレンのためとはいえ、彼女がしていることは、あまりに無謀だった。
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