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【Last】Summoner’s Tast
“はじめの人”
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(1)
軽い羽ばたきで、屋上の聖火台傍まで連れてこられた。レイムラースが着地する前に、ミラノはパールフェリカとぐったりと動かないネフィリムを見つけた。
屋上に着くと、レイムラ-スはすぐにミラノの拘束を解いた。ミラノは支えを失い、そのまま膝を折り、尻も床にぺたりと付いて座り込んでしまった。
もう、力が入らない。下を向いて、深く息を吐き出した。
「ミラノ! 腕が!? 血が!!」
叫んで立ち上がろうとするパールフェリカだが、膝をネフィリムの下に滑り込ませているせいで抜けられず、ばたばたと両手を上下させた。その両手も、血に汚れている──。
もぞもぞとよく動くパールフェリカに、目立った怪我は無いらしい。周囲に広がる血だまりは、ネフィリムのものだ。しゃがみ込んでいるパールフェリカの白かったハーレムパンツも、ぐっしょりと赤に濡れている。
──あの量は無い……。
生きていられる量ではない。
ミラノは、自分の姿を見下ろした。深い紺色だった衣服は、血が沁みて黒衣に見える。これで血だとはわかりにくいが、散りばめられた銀の装飾具に、べっとりと赤い色が絡み付いている。
半眼で、ミラノはパールフェリカを見た。
「──私のじゃないわ」
低い声に、パールフェリカがびくりと震えた。
2人は目を合わせた。
パールフェリカの瞳が問うている。だれの? と。
ミラノは目線をネフィリムへ移してから、下へ落とした。それで、パールフェリカは察した。口角は後ろへぐーっと引っ張られ、歯がむき出しになる。その間から呻き声が漏れた。肺から途切れ途切れに空気の塊を押し出して、咳き込むように泣いた。
そうしてまた、ミラノに手を伸ばす。
「ミラノ……! ミラノ……!!」
パールフェリカの目からは涙が溢れて止まらない。息も絶え絶えに口をぱくぱくと動かして、必死に耐えている。
ミラノは、内腿に精一杯力を寄せて立ち上がり、パールフェリカに近寄る。
「パール……あなたは無事なのね……よかった」
その声に力は無い。淡々とした声には、いつも以上に感情が無い。まるで、天使らやアルティノルドのように。
その横に、アルティノルドがやって来る。
『どうされました? 元気が無いように見えます。何かありましたか?』
この場だけでも、ネフィリムとアルフォリスの血の臭いが充満している。ミラノの先入観だが、ひたすらおめでたい、真っ白の燕尾服で近寄って来られるのは、ひどく不愉快だった。
今はこんなのと話もしたくない。
「…………大切な友人達を失って、元気で居られる人間では在りたくないので、これで良いんです」
素っ気無く返事をするミラノの揺れた視点が、ふと、見つけてしまう。
レイムラースの傍、黒い扉のような得体の知れない板のようなもの。映像が写し出されている。中央には、見慣れた姿──ミラノは、絶句した。
毎日くぐった目隠し用のカーテンがある。その下に倒れているのは、着慣れたスーツのままの、自分だ。
呆然と、闇の扉に映し出された光景を見るミラノの耳に、レイムラースのしわがれた声が、死亡宣告を突きつける。
『人は7日以上、飲まず食わずでは生きられない。あなたはいずれ亡くなり、真に、“霊界”から召喚される存在になる』
「ミ、ミラノ……!」
足元にしゃがみこむパールフェリカが両手を伸ばしてくる。
「す、すぐあっちに、か、還すから! ごめんなさい!」
声は、叫びすぎたか泣きすぎたか、掠れている。
パールフェリカは、ようやっと、理解したのだ。今朝見た夢、潜在意識下で思った事に、今なら吐き気すら催す。
ミラノの事は好きだ。だが“死んでしまう事”は、こんなにも何もかもを奪い取る。震える片手でパールフェリカは引き寄せていたネフィリムの腕を掴んだ。もう、動かない。まだ温かいのに。優しい目が、声が、傍に在った。自分の事を考えていてくれた存在が、急に消えてしまう。彼はもう、呼びかけてはくれないのだ。ほんの数百秒前には、息をしていたのに。今はもう、無い。この恐怖はあまりに耐え難い。
夢だと、こんなもの現実なんかじゃないと叫んで、狂ってしまいたかった。正気を手放したかった。
一緒に居て欲しいが為に、ミラノに対してパールフェリカは思っていた。ちゃんとした召喚獣となる為、“生霊”ではなく、きっちり“死”んで、こちらへ来てくれたらいいのに──と。
なんて恐ろしい事を願っていたのだろう。どれだけ、自分の事しか考えられていなかったのだろう。
エステリオとアルフォリス、そしてネフィリムを目の前で失って、ようやっと思い知った。身近に感じた。ぽっかりと抜け落ちて、埋めるものは何もない。“死”の意味を。
だが、ミラノから返ってきた声は、いつも以上に静かなものだった。
「いいえ、どのみちかえったとしても、生きていたとしても、助けを呼べるだけの力なんて……きっと無いわ。今日が7日目よ……」
「わ……私が……ミラノ……ころし……た……?」
「………………」
「ごめ、ごめんなさい、ミラノ…………」
「パール、あなたのせいではないわ」
「ごめんなさい!!」
そう言ってわっと泣いて声をあげ、パールフェリカは体を捻って、ミラノの足にしがみ付いた。
それを見下ろすミラノには、振りほどく力も無い。
総身のどこにも、力を入れるべき拠り所を感じられなかったのだ。何に芯を据えて立てばいい。何の為に、ほんの少し残された時間を生きればいい。
召喚されたこの姿でも両腕を失い、本体の方も死が間近だという。この世界で出会った友人達は死に、初めて訪れた時にはその美しさに息を飲んだ王都も、今は目も当てられない。
──もう、何もかも、どうでもいい。
ミラノは目を伏せた。
『あなたがつらいのを、わたしは見ていたくありません。どうすれば、あなたは元気になってくれるのです?』
アルティノルドが半歩の距離まで近寄って来た。
わずらわしい、そう思いながらもミラノはゆっくりと顔を持ち上げた。
──今だけ、だから……今だけ……。
「死んでしまった人が、生き返るなら……」
心の内で言い訳をしながら、ミラノはか細い声で言いかけて、ぐっと口を閉ざした。それは、ミラノのモットーである『今を否定しない事』に反する。人の命は失われた、それは現実として受け入れるしかないのだ。
受け入れるしか。
目の前に倒れているネフィリム、回廊に置いてきたシュナヴィッツの思い出が──思い出と呼ぶにはあまりに新しい出来事で、それが一斉に頭の中を巡る。心を抉るほど、記憶は鮮明だ。
ミラノは咳き込むようにして下を向いた。
まだ、泣いてはいけない。護ってもらった身で、ここで思い出の中へ潜ってしまっては、いけない。こんな時だからこそ、現実に、戻らなくてはならない。
ミラノは両方の目を細め、眉間に強く皺を寄せた。
アルティノルドは首を傾げて、ミラノにそっと耳打ちをした。
次第に目を見開くミラノ。最後には顔を上げ、アルティノルドを見つめ返す。
そうしてミラノは、苦い表情をした後、ぎこちなく、微笑った。
(2)
ミラノは息を吸い込み、両腕を回してこちらの足に抱きついているパールフェリカを見下ろした。
「パール」
ぐすぐすと、彼女は上を向く。ミラノは片膝を折ってしゃがむと、目線をあわせた。そうして、はっきりとした口調で言う。
「こんなにも、犠牲が出ているの。私が、この世界へ来た事で、少しずつ動いていたレイムラースは、一気に行動を起こしたそうよ……」
「…………」
ぼんやりと、パールフェリカはミラノの瞳の奥を覗き込んでいる。
ミラノは、ちらりとレイムラースを見た。促されるようにパールフェリカもそちらを見たが、体をびくりと揺らし、再びすがるようにミラノを見上げる。ミラノは、震える蒼い瞳と目を合わせた。
「レイムラースは、人間の殲滅と大地すべてを獣のものにしたかった、そうよ。そうする事で“神”も戻ってくるはずだとアルティノルドに詰め寄っていた。結局、アルティノルドは力を貸してしまった……」
『わたしは力を貸すつもりは無かったのです、本当ですよ? ただ、あなたの召喚術で、気が動転してしまった──舞い上がってしまったというか……』
アルティノルドは指先を揃えた手でパールフェリカを指す。その手に気付き、パールフェリカは視線を持ち上げ、アルティノルドの顔を見た。
『まさか本当に、“人間”が“はじめの人”を召還してしまうなんて、考えもしなかったから』
「………………どういう……意味?」
この白い服の男がアルティノルドなのだろうかと、パールフェリカはまずそこから把握していない。“アルティノルド”とは“神”で、先ほど飛来した大クリスタルこそそれにあたるのではないか、と。混乱したままの頭では、うまくピースとピースが繋がらない。
「……“はじめの人”?」
アルティノルド叙事詩の冒頭に、唯一出てくる存在だ。彼の手が示す先の者が、“人間”を指すならば、“はじめの人”を召還したのは、パールフェリカ本人だという事になってくる。ならば、“はじめの人”は、ミラノだという事になりはしないか。
考えながら、パールフェリカの涙は止まらなかった。彼らの言う事が、まだ、どうでも良い事に感じられたせいだ。
ミラノも、この白い服を着た男も、パールフェリカには何を言っているのか理解しきれない。また、それほど理解したいとも願っていない。
パールフェリカはもう一度ミラノを見た。
「私は“山下未来希”であって、“はじめの人”とかいう存在でない事は確かだけど、それを勘違いの一言で片付けてしまうには、事が大きくなりすぎたの」
そしてミラノは、先ほど言った言葉をなぞるようにもう一度「こんなにも犠牲が出ているの」と言った。
「──召喚された私を、アルティノルドは“はじめの人”だと思ったみたいなのだけど、これを勘違いだと、もう言えないの。だから、私は“はじめの人”というものでなければ、ならなくなった……」
「……わからない」
その理屈はわからない。パールフェリカは首を横に振った。無表情にも見える顔をしたミラノの気持ちを、パールフェリカはちゃんとわかる。彼女は酷く、悲嘆にくれているのだ。そんなにも苦しそうに、何を言うのだろうか。
「アルティノルドさえ力を貸さなければ、“神の召喚獣”さえ介入していなければ、こんなにも大事にはならなかったと思うわ。レイムラースも結局影でこそこそと暗躍するだけだったんじゃないかしら」
人間の冒険者組織“飛槍”を支配し取り込み、あくまでモンスターらの力で人間の大陸“アーティア”へ襲撃しようとしていた。そもそもモンスターは人よりも強い、それは確かだ。“神”の介入は必要無かった。だが、ミラノがこの世界に召喚されてきた。それを“はじめの人”と思い、アルティノルドは動揺し、探し出す為の手先として“神の召喚獣”リヴァイアサンを放ってしまった。
「私が何であれ、ここに来た事で沢山の犠牲が出てしまったのは、事実なの。こうなってくると、私が何をしたというわけではないけれど、存在そのものが……“罪悪《つみ》”のように感じる……。私の存在が招いた結果ならば、私はその責任を取る必要がある」
ミラノはさらに「こんなにも、犠牲が出ているのよ」と言った。4度目のこの言葉は、涙の代わり──語尾が潤み歪んでいた。
犠牲……“神”の為に捧げられた“生け贄”はあまりに多く、ミラノの思考を停滞させている。
こぎざみに震える息を長く吐き出して、だが次に発する声はもう、背筋の伸びたものに変わっている。
「私は、この先、楽をしてはいけないわ。楽しんでは、いけないの」
ミラノは一体、さっきから何を言っているのだろう。
「そんな事ないわ! 生き残ったら、生き残ったのなら、生きられなかった人達の分まで、その人達が得るはずだった分まで、幸せを見つけなきゃ、生きなきゃいけないわよ!」
パールフェリカは正面にしゃがんでいるミラノの上着を掴んだ。
ミラノはその手を見下ろしてから、パールフェリカの蒼い瞳を覗き込む。そこに映る自分へ、告げる。
「無理だわ」
──歯止めがかかるもの。
パールフェリカの瞳の中に居る己へ語りかける。暗示のように。
「こんな私は、自分から楽しんではいけないの。また、罪を重ねる……」
──たまたまパールフェリカによって召喚されてきたにすぎないが、アルティノルドには“はじめの人”を扱いされている。“神の召喚獣”がミラノを求め暴れ、レイムラースもまた“はじめの人”をあぶりだすのにガミカを襲った。このような現実ならば、“はじめの人”とやらを盛大に恨んでもいいのだろうけれど……いや、あまりに運が悪かったのか。
そこまで考えて、ミラノは目を伏せた。
自分の問題を、他の誰かや何かのせいにしようとしている。
ミラノはひっそりと誰からも目を逸らした。それらは、許さない。
誰のせいにもしない、この結末は自分の選び続けた過去の、その延長線上にある。自分の選んだ、結末だ。
「何が!? どこが!? 居るだけで罪って何!? 仕方なかったんでしょう!? ミラノ! おかしいわよ! それはミラノじゃないでしょ?? ミラノ、自分の事じゃないでしょう!?」
ミラノの上着を、パールフェリカはぐいぐいと引っ張る。言葉が通じない事に、苛立ちを覚えているのだ。
「事実、私が居る事で招いた結果、もう過去なの。既に動かし難い、起こってしまった出来事なの。それが示すのよ。私が幸せを得ようだなんて、思ったらいけないの」
目を伏せて言うミラノを、パールフェリカはまじまじと見た。愕然とするしかない。
ミラノは今、“自分”を見失っている。目を逸らしている。手放すことを、決めている。
あれだけ“今の自分”というものをパールフェリカに説いたミラノが、“自分”というものを否定する事を選んでいる。それがわかる。確かに、今のミラノはミラノと言えない。
正直なところ、頭を整理しきれていないパールフェリカには、ミラノの言っている事の多くがわからない。
ミラノは“はじめの人”というものに、なろうとしている。
これだけ酷い事を引き起こした彼らに、“はじめの人”たる事を望まれて、受け入れている。ガミカに来て沢山の命を奪い、物を壊したのは彼らなのに、それを自分のせいだと言っている。
ミラノが来た事で起こってしまったのだと思い込んで、罪の意識を感じている。ミラノではなく“はじめの人”だと勘違いされての事なのに、自分自身の事じゃないとわかっていながら、犠牲の大きさを前に、自分を見失っている。
被害を引き起こした元凶として、その罪を、自分のものにしようとしている。
一番初めは──そうじゃない。
ミラノをこの世界に召喚したのは、パールフェリカだ。だが、ミラノはパールフェリカのせいにしない。誰のせいにもしない。その代わり、自分を責める。
「ミラノ、私のせい──」
「ちがうわ。たとえあなたがきっかけでも、それは私にとっては“仕方のない”事なの。私は私の意志で生き、私は自分で取り戻す必要があった。この場合は、アルティノルドやレイムラースに“召喚された事”に気付かれる前に、さっさとかえるべきだった。それが出来なかったのだから、私に力が足りなかっただけ。やっぱりこの“今”を招いてしまったのは、私なのよ」
知りようなんて無い事だった、これだけの事が起こったから、レイムラースだとかアルティノルドだとかが動いているとわかったようなもの。召喚されてきたばかりの時に、ミラノはもちろん、召喚をしたパールフェリカにも、誰にも何もどうしようもなかった事だ。
ミラノのせいでも、誰のせいでもない。
「でもミラ──」
「でもパール」
パールフェリカの声にかぶせるミラノの語調は強い。押されて顎を引いたが、それでもパールフェリカはミラノを見つめる。
「……」
「自分の招いた結果で誰かがつらい、大変な目にあうのを、ましてや死んでしまうだなんて、私は見過ごす事が出来ない」
ミラノの黒い瞳を見つめたまま、パールフェリカの両の眼にまた、涙が溢れた。なぜ、涙がこぼれるのか、わかる。
ミラノの決断が悲しいのだ。彼女の強さを、心から「可哀想だ」と思う。
あまりにも強すぎて、自分を護る事が出来ないのだ。決めた事に、目指すものに手を伸ばす為に、自分の価値を作り上げる為に、自分を犠牲にする事にも耐えられる程の強さが、ミラノにはある。パールフェリカにはそれが可哀想でならない。犠牲にしている“自分”から、あえて目を背けている。今、ミラノは遥か高みにある価値を目指して、“今の自分”を捨てているのだ。
──逃げたらいいのに。逃げてもいいのに。逃げてくれたらいいのに。もっと、自分の事だけを考えて、卑怯になってくれたらいいのに!
伝えなくてはならないのに、今のミラノにはどんな言葉も通じない気がした。ミラノはそれほど頑なに、自分であろうとする。自分である為に、自分を捨てる覚悟をしている。パールフェリカにはそれを否定するだけの言葉が、積み重ねたものが無くて、言い表す事が出来ない。
だからただ、涙をこぼして何度もその名を呼ぶ。
「ミラ……ノ……ミラノ……」
ふっと、ミラノが微笑んだ。
「私は、だから、取り戻すの。こんな状況になってもまだ、間に合うと言うから。パール、あなたにももう、負担をかけずに済むと言うから。アルティノルドは出来ると、言うから」
ミラノは一瞬目を細め、真面目な顔つきに戻った。
「私が、“はじめの人”という、“神”になれば──」
パールフェリカは瞬きをした。
ミラノがもう、“神”という高みを覚悟していた事は、わかっていた。パールフェリカが気付いたのはそれではない。考えて答えが出たというより、ぴんと来た。
ミラノは、パールフェリカとの間の、召喚士と召喚獣としての“絆”をも、絶つつもりだ。負担をかけないとは、そういう意味だ。
パールフェリカが召喚をした、返還できるのもパールフェリカだけなのだ。それを中途半端に断とうとしている。そんな事をすれば、ミラノはかえる道を完全に失ってしまう。もっと言えば、ミラノが、本当に死んでしまうという事だ。かえらなければ、体に戻れず、待っているのは死のみ。
自分であろうとし、自分の価値を高めようとしているのに、高みに届く瞬間に、全部捨てるという事だ。自分らしくある事を望みながら、己からミラノでなくなるという意味だ。
「ミラノ、それは……! だめよ!!」
上着にしがみ付くパールフェリカからミラノは顔を逸らし、ぐいと肩を動かして払いのけ、立ち上がった。
「ミラノ!!」
「……アルティノルド」
名を呼ばれ、アルティノルドは静かに膝をつき、ミラノの正面に手を差し伸べた。そこへ、女性の手が、指先を揃えて置かれた。それは半透明で、あちらが透けて見える。いわゆる“霊”のもの。
無くなったはずのミラノの肩の付け根から、それは生まれていた。
アルティノルドの手とミラノの手が触れ、そこから立体構造を輪切りにするように光が走った。軌跡の後のミラノの体は、半透明へと薄く変わった。パールフェリカが用意したこの国の衣装から、再びグレーのスーツ姿で、結い上げた髪留めも元に戻った。
半透明の姿となったミラノの足元に、血塗れた衣服と装飾具が音をたてて落ちた。
──パールフェリカは、がくりと肩を落とし、息を吐き出した。
パールフェリカの召喚術によってミラノに与えられていた実体は、消え去ったらしい。パールフェリカがミラノを召喚していた術は今、“神”アルティノルドの手によって強制的に解かれたようだ。何しろ、パールフェリカにしても、過去を照らしても、いずれの召喚士も経験した事のない、断絶だ。
パールフェリカの身には、言葉にし難い喪失感が頭の天辺からつま先まで駆け抜けた。体の表面を縦割りにストンと包丁で2分割されたような、あまりにあっさりとした感覚で切り離され、剥き出しになったところへ薄ら寒い冷気が吹きつけてきているようで、吐き気さえした。
『これで“絆”もきれました』
アルティノルドの言葉に、出会った時と同じスーツ姿のミラノがしっかりと頷いた。異なるのは、半透明になってしまったという点。
呆然と口を半開きにしているパールフェリカをミラノは見下ろした。
『さよなら』
それらを、パールフェリカはとても遠い出来事のように見ていた。時間にして10秒以上、頭の中が完全に空っぽになって、身動き一つ取れなくなっていた。
そうして、頭の端っこの方から、少しずつ力が戻り始める。
「……なんで? なんで!? なんで!? 召喚士と召喚獣の“絆”…………なんで消えるの!?」
そんな理屈は知らない。聞いた事がない。誰も教えてくれていない。
顔を上げたが、そこにもうミラノは居なかった。
「やだ……ミラノ……ミラノ……!」
ネフィリムの体から膝を引き抜き、飛び去ったミラノ、アルティノルド、レイムラースを、屋上の柵まで追いかけた。足に、ついさっきまでミラノが身につけていた白銀のアクセサリーが絡まった。つま先を振って蹴飛ばした。外れてくれないのが、あまりにも悔しい。こんなもの──。
ミラノと“神”と“堕天使”は、空の向こうに飛び去ってしまっていた。彼らが見えなくなると、柵に両手を付き、そこに額を当てた。視界には、ネフィリムの血に濡れたズボンと、つま先から取り払いきれていない、シュナヴィッツの血が絡みついたアクセサリーがある。腹の底から込み上げてくるものがあって、うっと呻いた。
「私の……せい……私のせいだ……なのに、私だけが、私だけが、一人生き残って…………」
脳裏に、まるで耳元で囁かれているかのように、声が蘇る。
──自分に価値を与えたいなら、そこでどういう態度を取る人に自分が価値を感じるか、考えなさい。
パールフェリカは全ての動きを止めた。
奥歯をぐっと噛み締めた時、涙は根っこから止まった。
「……“今”……私が……!」
小さな声で呟いて、勢いよく振り返った。
屋上中央に残っている闇色の扉を、そこに写る、もう動かなくなったミラノの本体を、見た。
(3)
空から王都を見下ろす。
『最初から最後まで、わけがわからないままだわ』
ミラノは風の中、呟いた。
結局、体が半透明になったという以外、どこが変わったと自覚するものは無かった。途切れていたパールフェリカとの“絆”とやらも、戻らないまま。それも、既に断ち切れたという。
死んだなんていう自覚もない。
確実な変化としての“半透明の姿”が意味するものは、今、ミラノの存在が“霊”であるという事。本当の体は、死んだという事。
事実、“霊”らしく、空を飛べた。驚きはしたが、体が透けている時点でもう理解の範疇を越えている。むしろ、飛べて当たり前だとすら思った。
下着が透けていない事に『ほう』と唸る自分に気付いた時には、動転してるのか冷静でいられているのか戸惑った。自分の心理状態も読めない状態らしいと、悟った。
結局、半透明になったからといって物質に触るという必要を迫られていない現状、どうでもよかった。あれやこれや気を揉まず、困った時に困れば良いのだと結論付けた。
城下町は7割が火炎に飲まれている。その上空で、ミラノはアルティノルドに手を預け、風の中に立っている。多くの命を奪ったレイムラースも、6枚の翼を羽ばたかせ、隣にいる。
いつの間にか“七大天使”も集結していて、背後にずらりと揃っている。
召喚された存在としての“七大天使”は、ミラノの死によって強制解除されており、彼らは本来の在り方と意思で、ここへ来ている。それは、ミラノの知るところではない。
王都の中心に来るまでの間、ミラノは力いっぱいアルティノルドから顔を逸らしていた。
半透明のミラノの手を、実体を持っているように見えるアルティノルドは、掴んだまま離さない。感触があるのは不思議だったが、もう理屈を考える気はなかった。シュナヴィッツが“神”だと教えてくれたアルティノルドは、口を開けば耳を塞ぎたくような『あなたのまっすぐな心が好きです』だの『何億年と無かった安らぎを感じています』だの、とにかく『ずっとお会いしたかった』と、しつこい程『好きです』と繰り返して言う。言いたいだけ言って、こちらのリアクションは全て無視するのだ。止めようもない。
──相手にしてられないわ……。
自分も大概無表情を通すが、これほど扱い難い存在だったのかと、ミラノは珍しく反省をしている。
何を考えているのかわからないので、とりあえずその口が止まるのを待って、ミラノは問う。
『──本当に、出来るの?』
『あなた次第です、何もかも。この世界に満ちるわたしの力をどれだけ引き出す事が出来るか、“霊界“にどれだけ干渉できるか、要は召喚士としての能力次第です』
アルティノルドはきっぱりと言い、手を離すとミラノの正面へまわった。
『つまるところ、あなたがわたしを置いていかず、だれのものにもならず、わたしの想いを受けて入れてくれるならば……。わたしと、永遠をともにあるならば、この世界で不可能な事はありません』
何を言っているのか相変わらず理解しがたい。
ミラノは、皮肉気に口角を上げ、小さな声で呟く。
『その……健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか──』
アルティノルドが顔を覗き込んでくる。
『何ですか? それは』
『……暗示の言葉……。でも、私の覚悟はまだ、足りていないみたい。返事が、出来ないもの。──いいわ、始めましょう』
ミラノは肩をすくめ、さらりと言った。
『……返事もその内、出来るようになるわ』
ここまで珍妙な“片想い”をされたのは初めてだったが、付き合うしかない。
それで、失われたものが戻ってくるのならば。“価値”を得られるのならば。
死を受け入れ、“山下未来希”である事も捨て、彼らの言う名無しの“はじめの人”になるだけで、王都が、彼らが戻ってくるというのだから。
──奇跡の代償が私の存在ひとつで済むのなら、随分と安いわ。
王都を半眼で見下ろしていたミラノの視界を、黒い翼が遮った。
化け物の姿をした元“天使”、レイムラースだ。
顔を上げると、目があった。
『その前に、確認したい事がある。今はまだ人間のままだろう? 早く“はじめの人”として、降臨して頂きたい。“はじめの人”……いや──』
レイムラースの丸く大きな目が、ぎょろりとミラノの黒い瞳を見下ろした。
『──アルティノルドの召喚主……はじまりの召喚士たる“神”として』
ミラノは表情を変えず、レイムラースを見る。
目的を達成するまで、レイムラースに邪魔をされるわけにはいかない。適度に相手をし、適切にあしらっておかなければ。
『そうだったわね。あなたは、世界の不公平な現状を“神”は修正すべきだ──と、主張していたものね。私がその“神”だと言うけれど、相変わらず“山下未来希”。それでは、あなたの望みは叶わない、そういう事ね」
『その通り。早く“はじめの人”として自覚をして頂かなくては。その“罪”を、思い出して頂かなくては』
人違いだと訂正をしたってこいつらは聞かないだろうが、トライ位はしておいた方が良かったのかもしれないと、ミラノは後悔をする。
『……罪といわれても……』
思い当たる罪は、彼らの言うものではないだろう。
『アルティノルドも責め問うたらどうだ』
ミラノはアリティノルドを見る。
アルティノルドには相変わらず表情が無い。レイムラースの面も化け物なので、ミラノが一番情感豊かに見えてしまう。眉をほんの少しひそめたミラノを見て、アルティノルドは『そんな悲しそうな顔はしないでください』と言った。悲しいのではなく、目的以外の事が面倒臭いだけだ。
『──随分と昔の話です』
アルティノルドはそう前置きした。
『水晶の形が一番楽なので、それでどこともない空間を浮遊して、暇を持て余していました。その頃のわたしには、わたしたる根拠も何も無い、ただの岩であったかもしれません。そこへ、あなたが、降りてきました』
『私……? いえ、“はじめの人”?』
『ええ。覚えてらっしゃらないのですか?……長すぎる時を挟みましたから、仕方が無いのでしょうか。“あなた”は、両手を上げて言いました──さぁ、私と一緒に楽しい事をしよう!……と』
それは、創世神話アルティノルド叙事詩の冒頭の部分になる。
『“あなた”は、わたしに世界を創る能力があるとわかると、あれこれどうこう、これこれこんな世界を創ってみないかとわたしに持ちかけ、わたしも暇でしたから、言われるまま、創り上げました。“あなた”は遊び心の塊のような人で、次々と案をだし、わたしが何を創っても目をキラキラと輝かせ、両手を叩いて喜んでくれました。そうして出来たのが、この世界です』
偉大な創世神話のはずだが、親バカと幼児の光景しか脳裏に浮かんでこない。ミラノは水を差すようなマネはせず、黙って頷いた。
『ところが……出会って7日経った頃、“あなた”は忽然と姿を消してしまいました。わたしと、2人で生み出した世界を、遺して──』
ミラノは目を逸らす。
7日。その“はじめの人”……人間もまたどこからか迷い込み、本体が死にでもしたか、あるいは察して慌てて元の世界へかえったのかもしれない。
『今も、はっきりと覚えています。最後に、この世界の理を、遺されました。戻ってくる為のものだと、おっしゃっいました。──この世界の理……召喚の理を』
『召喚の理?』
アルティノルドは語った。
ある日“はじめの人”が──今ではクーニッドの大岩と呼ばれるアルティノルドの化身──大水晶の上に降り立ち、共に世界を創造した日々を。
『──名前が無いなんて不便、そうね……アルティノルド! あなたは今からアルティノルドよ!』
アルティノルドという名も、その時発生したのだ。
だが、世界のあらかたが出来、生物も大小様々な獣を次々と生み出した後。6日目──“はじめの人”は言った。
『そろそろかえらなくてはならないと思う』
自我と言える自我も無く、ただ空っぽだった水晶には既に心が宿っていた。そこは、“はじめの人”で埋め尽くされていた。突然の別れに、アルティノルドは抗した。
『わかってるわよぅ。私もまだまだ楽しみたい事があるの。でも、もうかえらなくては。だから、また、私がここへ来る為の“理”を創っておきましょう? アルティノルド』
そうして、最後の種、“はじめの人”を模した人間が創られた。
“はじめの人”は、召喚の儀式を幾度も練習しているうちに、アルティノルドの元へ飛んでしまったのだという。“逆召喚”をしてしまったのだと告げた。
魔法陣からどこかの何かを喚び出すのではなく、自分が飛んでしまったと。
はじまりは、偶然だった。だが、次なる必然を“はじめの人”は望んだ。“はじめの人”は、自力でこの世界へ渡る事が出来なくても、召喚してもらえる理があれば良いと考えたのだ。 そして生まれたのが、“召喚の理”。
世界を埋め尽くすアルティノルドの力によって成り立つ、召喚術。全ての人間──召喚士に使うことを許された力。
たった一度、偶然成功した“はじめの人”の逆召喚の能力を、反転させて確かな召喚術とし、アルティノルドは人間に植え込んだ。
アルティノルドらに勘違いをされた理由になる。この世界の召喚士達の召喚術と、ミラノの使う召喚術には違いがあった。その際たるものが逆召喚の能力。これが“はじめの人”と同質のものだった。
『わたしは“はじめの人”のかえりを待っていました。毎日ここへ来る為の“逆召喚”を試すと、“あなた”はおっしゃいましたし。わたしには、創造と再生の力しかありませんから、この世界に生まれる人間の召喚士に、召喚させるしかなかった。重要なのは、目標を“はじめの人”と定めて召喚する事が出来る召喚士。すなわち、“あなた”ともこの“わたし”とも同調出来る召喚士の出現が、必要不可欠でした』
『……それが、パールだったと? だけど、私はやっぱり“はじめの人”ではないわ』
何億年も前の話をされて、ピンとくるわけがない。さっさと人違いを認定してもらわなければと、ミラノは言ったが、アルティノルドの方は珍しく変化を見せた。厳しい顔をしたのだ。
『…………いえ……あなたはわたしの“はじめの人”です。この世界を創造したわたし、アルティノルドが全てを許すのは“はじめの人”以外、無いのだから。わたしが、“あなた”を、間違える事は無いのだから』
アルティノルドは、顔の部位を別々に動かし、不器用な微笑みを浮かべた。
『この世界の“召喚の理”を自在に、かつ“新たな理を生みながら”操れるのは、“はじめの人”たる“あなた”だけなのです』
『………………』
ミラノは俯いた。
『……うーん、人間の姿にはどうにも、表情というむつかしいものがありますね、まだ慣れません』
アルティノルドは、ぐにぐにと目や眉、口を左右非対称に動かし、不気味な表情をしている。とぼけた様子に見えるが、今、重要な事を言われた気がする。
今まで“やれば出来た”事は全て、誰もがあり得ないと口を揃えた。誰も見たことのない前代未聞の召喚術と言われたのも、“はじめの人”と同格であったせいだ。
だがミラノには、“山下未来希”と“はじめの人”をイコールで結ぶ事がどうしても出来ない。
27年生きた記憶と経験しか身の内に無いから、当たり前と言えば当たり前である。
だのに、レイムラースは“はじめの人”の“罪”を思い出せと言う。その上で世界を“修正”しろと言う。
──……それは、ずっと後でもいいわ。
ミラノはひっそりと考え巡らす。
“はじめの人”とやらにしか出来ないのならば、なるしかない。アルティノルドを受け入れろというなら、黙従するしかない。“山下未来希”として成し遂げたい事を、達成する為に。
アルティノルドは、“なる”だとか“ならない”の問題ではなく、既にそうだと言うかもしれない。
ミラノは改めて、心を決める。
失われてしまった人達の、ネフィリムの、シュナヴィッツの姿が脳裏に蘇る。
黒い煙に包まれる眼下の王都が、現実を突きつけてくる。
それは、足が止まってしまいそうな程、体が凍り付いてしまいそうな程の絶望。あまりに悲しい出来事だ。己の存在──名前に与えられた意味、未来の希望などとよくぞ言うたものと、脱力と共にすべてを否定する誘惑に負けそうになる。だが、ミラノは受け入れた。残酷な現実を見つめ、絶望を飲み込んだ故に、アルティノルドの囁きはあまりにも眩しい光を放って見えた。
胸の奥底で渦巻く諦めと期待はないまぜになって、ミラノの信念さえへし折った。
自分自身であるというミラノのアイデンティティは歪み、自分を捨てるという覚悟を、考える隙なく強いた。
軽い羽ばたきで、屋上の聖火台傍まで連れてこられた。レイムラースが着地する前に、ミラノはパールフェリカとぐったりと動かないネフィリムを見つけた。
屋上に着くと、レイムラ-スはすぐにミラノの拘束を解いた。ミラノは支えを失い、そのまま膝を折り、尻も床にぺたりと付いて座り込んでしまった。
もう、力が入らない。下を向いて、深く息を吐き出した。
「ミラノ! 腕が!? 血が!!」
叫んで立ち上がろうとするパールフェリカだが、膝をネフィリムの下に滑り込ませているせいで抜けられず、ばたばたと両手を上下させた。その両手も、血に汚れている──。
もぞもぞとよく動くパールフェリカに、目立った怪我は無いらしい。周囲に広がる血だまりは、ネフィリムのものだ。しゃがみ込んでいるパールフェリカの白かったハーレムパンツも、ぐっしょりと赤に濡れている。
──あの量は無い……。
生きていられる量ではない。
ミラノは、自分の姿を見下ろした。深い紺色だった衣服は、血が沁みて黒衣に見える。これで血だとはわかりにくいが、散りばめられた銀の装飾具に、べっとりと赤い色が絡み付いている。
半眼で、ミラノはパールフェリカを見た。
「──私のじゃないわ」
低い声に、パールフェリカがびくりと震えた。
2人は目を合わせた。
パールフェリカの瞳が問うている。だれの? と。
ミラノは目線をネフィリムへ移してから、下へ落とした。それで、パールフェリカは察した。口角は後ろへぐーっと引っ張られ、歯がむき出しになる。その間から呻き声が漏れた。肺から途切れ途切れに空気の塊を押し出して、咳き込むように泣いた。
そうしてまた、ミラノに手を伸ばす。
「ミラノ……! ミラノ……!!」
パールフェリカの目からは涙が溢れて止まらない。息も絶え絶えに口をぱくぱくと動かして、必死に耐えている。
ミラノは、内腿に精一杯力を寄せて立ち上がり、パールフェリカに近寄る。
「パール……あなたは無事なのね……よかった」
その声に力は無い。淡々とした声には、いつも以上に感情が無い。まるで、天使らやアルティノルドのように。
その横に、アルティノルドがやって来る。
『どうされました? 元気が無いように見えます。何かありましたか?』
この場だけでも、ネフィリムとアルフォリスの血の臭いが充満している。ミラノの先入観だが、ひたすらおめでたい、真っ白の燕尾服で近寄って来られるのは、ひどく不愉快だった。
今はこんなのと話もしたくない。
「…………大切な友人達を失って、元気で居られる人間では在りたくないので、これで良いんです」
素っ気無く返事をするミラノの揺れた視点が、ふと、見つけてしまう。
レイムラースの傍、黒い扉のような得体の知れない板のようなもの。映像が写し出されている。中央には、見慣れた姿──ミラノは、絶句した。
毎日くぐった目隠し用のカーテンがある。その下に倒れているのは、着慣れたスーツのままの、自分だ。
呆然と、闇の扉に映し出された光景を見るミラノの耳に、レイムラースのしわがれた声が、死亡宣告を突きつける。
『人は7日以上、飲まず食わずでは生きられない。あなたはいずれ亡くなり、真に、“霊界”から召喚される存在になる』
「ミ、ミラノ……!」
足元にしゃがみこむパールフェリカが両手を伸ばしてくる。
「す、すぐあっちに、か、還すから! ごめんなさい!」
声は、叫びすぎたか泣きすぎたか、掠れている。
パールフェリカは、ようやっと、理解したのだ。今朝見た夢、潜在意識下で思った事に、今なら吐き気すら催す。
ミラノの事は好きだ。だが“死んでしまう事”は、こんなにも何もかもを奪い取る。震える片手でパールフェリカは引き寄せていたネフィリムの腕を掴んだ。もう、動かない。まだ温かいのに。優しい目が、声が、傍に在った。自分の事を考えていてくれた存在が、急に消えてしまう。彼はもう、呼びかけてはくれないのだ。ほんの数百秒前には、息をしていたのに。今はもう、無い。この恐怖はあまりに耐え難い。
夢だと、こんなもの現実なんかじゃないと叫んで、狂ってしまいたかった。正気を手放したかった。
一緒に居て欲しいが為に、ミラノに対してパールフェリカは思っていた。ちゃんとした召喚獣となる為、“生霊”ではなく、きっちり“死”んで、こちらへ来てくれたらいいのに──と。
なんて恐ろしい事を願っていたのだろう。どれだけ、自分の事しか考えられていなかったのだろう。
エステリオとアルフォリス、そしてネフィリムを目の前で失って、ようやっと思い知った。身近に感じた。ぽっかりと抜け落ちて、埋めるものは何もない。“死”の意味を。
だが、ミラノから返ってきた声は、いつも以上に静かなものだった。
「いいえ、どのみちかえったとしても、生きていたとしても、助けを呼べるだけの力なんて……きっと無いわ。今日が7日目よ……」
「わ……私が……ミラノ……ころし……た……?」
「………………」
「ごめ、ごめんなさい、ミラノ…………」
「パール、あなたのせいではないわ」
「ごめんなさい!!」
そう言ってわっと泣いて声をあげ、パールフェリカは体を捻って、ミラノの足にしがみ付いた。
それを見下ろすミラノには、振りほどく力も無い。
総身のどこにも、力を入れるべき拠り所を感じられなかったのだ。何に芯を据えて立てばいい。何の為に、ほんの少し残された時間を生きればいい。
召喚されたこの姿でも両腕を失い、本体の方も死が間近だという。この世界で出会った友人達は死に、初めて訪れた時にはその美しさに息を飲んだ王都も、今は目も当てられない。
──もう、何もかも、どうでもいい。
ミラノは目を伏せた。
『あなたがつらいのを、わたしは見ていたくありません。どうすれば、あなたは元気になってくれるのです?』
アルティノルドが半歩の距離まで近寄って来た。
わずらわしい、そう思いながらもミラノはゆっくりと顔を持ち上げた。
──今だけ、だから……今だけ……。
「死んでしまった人が、生き返るなら……」
心の内で言い訳をしながら、ミラノはか細い声で言いかけて、ぐっと口を閉ざした。それは、ミラノのモットーである『今を否定しない事』に反する。人の命は失われた、それは現実として受け入れるしかないのだ。
受け入れるしか。
目の前に倒れているネフィリム、回廊に置いてきたシュナヴィッツの思い出が──思い出と呼ぶにはあまりに新しい出来事で、それが一斉に頭の中を巡る。心を抉るほど、記憶は鮮明だ。
ミラノは咳き込むようにして下を向いた。
まだ、泣いてはいけない。護ってもらった身で、ここで思い出の中へ潜ってしまっては、いけない。こんな時だからこそ、現実に、戻らなくてはならない。
ミラノは両方の目を細め、眉間に強く皺を寄せた。
アルティノルドは首を傾げて、ミラノにそっと耳打ちをした。
次第に目を見開くミラノ。最後には顔を上げ、アルティノルドを見つめ返す。
そうしてミラノは、苦い表情をした後、ぎこちなく、微笑った。
(2)
ミラノは息を吸い込み、両腕を回してこちらの足に抱きついているパールフェリカを見下ろした。
「パール」
ぐすぐすと、彼女は上を向く。ミラノは片膝を折ってしゃがむと、目線をあわせた。そうして、はっきりとした口調で言う。
「こんなにも、犠牲が出ているの。私が、この世界へ来た事で、少しずつ動いていたレイムラースは、一気に行動を起こしたそうよ……」
「…………」
ぼんやりと、パールフェリカはミラノの瞳の奥を覗き込んでいる。
ミラノは、ちらりとレイムラースを見た。促されるようにパールフェリカもそちらを見たが、体をびくりと揺らし、再びすがるようにミラノを見上げる。ミラノは、震える蒼い瞳と目を合わせた。
「レイムラースは、人間の殲滅と大地すべてを獣のものにしたかった、そうよ。そうする事で“神”も戻ってくるはずだとアルティノルドに詰め寄っていた。結局、アルティノルドは力を貸してしまった……」
『わたしは力を貸すつもりは無かったのです、本当ですよ? ただ、あなたの召喚術で、気が動転してしまった──舞い上がってしまったというか……』
アルティノルドは指先を揃えた手でパールフェリカを指す。その手に気付き、パールフェリカは視線を持ち上げ、アルティノルドの顔を見た。
『まさか本当に、“人間”が“はじめの人”を召還してしまうなんて、考えもしなかったから』
「………………どういう……意味?」
この白い服の男がアルティノルドなのだろうかと、パールフェリカはまずそこから把握していない。“アルティノルド”とは“神”で、先ほど飛来した大クリスタルこそそれにあたるのではないか、と。混乱したままの頭では、うまくピースとピースが繋がらない。
「……“はじめの人”?」
アルティノルド叙事詩の冒頭に、唯一出てくる存在だ。彼の手が示す先の者が、“人間”を指すならば、“はじめの人”を召還したのは、パールフェリカ本人だという事になってくる。ならば、“はじめの人”は、ミラノだという事になりはしないか。
考えながら、パールフェリカの涙は止まらなかった。彼らの言う事が、まだ、どうでも良い事に感じられたせいだ。
ミラノも、この白い服を着た男も、パールフェリカには何を言っているのか理解しきれない。また、それほど理解したいとも願っていない。
パールフェリカはもう一度ミラノを見た。
「私は“山下未来希”であって、“はじめの人”とかいう存在でない事は確かだけど、それを勘違いの一言で片付けてしまうには、事が大きくなりすぎたの」
そしてミラノは、先ほど言った言葉をなぞるようにもう一度「こんなにも犠牲が出ているの」と言った。
「──召喚された私を、アルティノルドは“はじめの人”だと思ったみたいなのだけど、これを勘違いだと、もう言えないの。だから、私は“はじめの人”というものでなければ、ならなくなった……」
「……わからない」
その理屈はわからない。パールフェリカは首を横に振った。無表情にも見える顔をしたミラノの気持ちを、パールフェリカはちゃんとわかる。彼女は酷く、悲嘆にくれているのだ。そんなにも苦しそうに、何を言うのだろうか。
「アルティノルドさえ力を貸さなければ、“神の召喚獣”さえ介入していなければ、こんなにも大事にはならなかったと思うわ。レイムラースも結局影でこそこそと暗躍するだけだったんじゃないかしら」
人間の冒険者組織“飛槍”を支配し取り込み、あくまでモンスターらの力で人間の大陸“アーティア”へ襲撃しようとしていた。そもそもモンスターは人よりも強い、それは確かだ。“神”の介入は必要無かった。だが、ミラノがこの世界に召喚されてきた。それを“はじめの人”と思い、アルティノルドは動揺し、探し出す為の手先として“神の召喚獣”リヴァイアサンを放ってしまった。
「私が何であれ、ここに来た事で沢山の犠牲が出てしまったのは、事実なの。こうなってくると、私が何をしたというわけではないけれど、存在そのものが……“罪悪《つみ》”のように感じる……。私の存在が招いた結果ならば、私はその責任を取る必要がある」
ミラノはさらに「こんなにも、犠牲が出ているのよ」と言った。4度目のこの言葉は、涙の代わり──語尾が潤み歪んでいた。
犠牲……“神”の為に捧げられた“生け贄”はあまりに多く、ミラノの思考を停滞させている。
こぎざみに震える息を長く吐き出して、だが次に発する声はもう、背筋の伸びたものに変わっている。
「私は、この先、楽をしてはいけないわ。楽しんでは、いけないの」
ミラノは一体、さっきから何を言っているのだろう。
「そんな事ないわ! 生き残ったら、生き残ったのなら、生きられなかった人達の分まで、その人達が得るはずだった分まで、幸せを見つけなきゃ、生きなきゃいけないわよ!」
パールフェリカは正面にしゃがんでいるミラノの上着を掴んだ。
ミラノはその手を見下ろしてから、パールフェリカの蒼い瞳を覗き込む。そこに映る自分へ、告げる。
「無理だわ」
──歯止めがかかるもの。
パールフェリカの瞳の中に居る己へ語りかける。暗示のように。
「こんな私は、自分から楽しんではいけないの。また、罪を重ねる……」
──たまたまパールフェリカによって召喚されてきたにすぎないが、アルティノルドには“はじめの人”を扱いされている。“神の召喚獣”がミラノを求め暴れ、レイムラースもまた“はじめの人”をあぶりだすのにガミカを襲った。このような現実ならば、“はじめの人”とやらを盛大に恨んでもいいのだろうけれど……いや、あまりに運が悪かったのか。
そこまで考えて、ミラノは目を伏せた。
自分の問題を、他の誰かや何かのせいにしようとしている。
ミラノはひっそりと誰からも目を逸らした。それらは、許さない。
誰のせいにもしない、この結末は自分の選び続けた過去の、その延長線上にある。自分の選んだ、結末だ。
「何が!? どこが!? 居るだけで罪って何!? 仕方なかったんでしょう!? ミラノ! おかしいわよ! それはミラノじゃないでしょ?? ミラノ、自分の事じゃないでしょう!?」
ミラノの上着を、パールフェリカはぐいぐいと引っ張る。言葉が通じない事に、苛立ちを覚えているのだ。
「事実、私が居る事で招いた結果、もう過去なの。既に動かし難い、起こってしまった出来事なの。それが示すのよ。私が幸せを得ようだなんて、思ったらいけないの」
目を伏せて言うミラノを、パールフェリカはまじまじと見た。愕然とするしかない。
ミラノは今、“自分”を見失っている。目を逸らしている。手放すことを、決めている。
あれだけ“今の自分”というものをパールフェリカに説いたミラノが、“自分”というものを否定する事を選んでいる。それがわかる。確かに、今のミラノはミラノと言えない。
正直なところ、頭を整理しきれていないパールフェリカには、ミラノの言っている事の多くがわからない。
ミラノは“はじめの人”というものに、なろうとしている。
これだけ酷い事を引き起こした彼らに、“はじめの人”たる事を望まれて、受け入れている。ガミカに来て沢山の命を奪い、物を壊したのは彼らなのに、それを自分のせいだと言っている。
ミラノが来た事で起こってしまったのだと思い込んで、罪の意識を感じている。ミラノではなく“はじめの人”だと勘違いされての事なのに、自分自身の事じゃないとわかっていながら、犠牲の大きさを前に、自分を見失っている。
被害を引き起こした元凶として、その罪を、自分のものにしようとしている。
一番初めは──そうじゃない。
ミラノをこの世界に召喚したのは、パールフェリカだ。だが、ミラノはパールフェリカのせいにしない。誰のせいにもしない。その代わり、自分を責める。
「ミラノ、私のせい──」
「ちがうわ。たとえあなたがきっかけでも、それは私にとっては“仕方のない”事なの。私は私の意志で生き、私は自分で取り戻す必要があった。この場合は、アルティノルドやレイムラースに“召喚された事”に気付かれる前に、さっさとかえるべきだった。それが出来なかったのだから、私に力が足りなかっただけ。やっぱりこの“今”を招いてしまったのは、私なのよ」
知りようなんて無い事だった、これだけの事が起こったから、レイムラースだとかアルティノルドだとかが動いているとわかったようなもの。召喚されてきたばかりの時に、ミラノはもちろん、召喚をしたパールフェリカにも、誰にも何もどうしようもなかった事だ。
ミラノのせいでも、誰のせいでもない。
「でもミラ──」
「でもパール」
パールフェリカの声にかぶせるミラノの語調は強い。押されて顎を引いたが、それでもパールフェリカはミラノを見つめる。
「……」
「自分の招いた結果で誰かがつらい、大変な目にあうのを、ましてや死んでしまうだなんて、私は見過ごす事が出来ない」
ミラノの黒い瞳を見つめたまま、パールフェリカの両の眼にまた、涙が溢れた。なぜ、涙がこぼれるのか、わかる。
ミラノの決断が悲しいのだ。彼女の強さを、心から「可哀想だ」と思う。
あまりにも強すぎて、自分を護る事が出来ないのだ。決めた事に、目指すものに手を伸ばす為に、自分の価値を作り上げる為に、自分を犠牲にする事にも耐えられる程の強さが、ミラノにはある。パールフェリカにはそれが可哀想でならない。犠牲にしている“自分”から、あえて目を背けている。今、ミラノは遥か高みにある価値を目指して、“今の自分”を捨てているのだ。
──逃げたらいいのに。逃げてもいいのに。逃げてくれたらいいのに。もっと、自分の事だけを考えて、卑怯になってくれたらいいのに!
伝えなくてはならないのに、今のミラノにはどんな言葉も通じない気がした。ミラノはそれほど頑なに、自分であろうとする。自分である為に、自分を捨てる覚悟をしている。パールフェリカにはそれを否定するだけの言葉が、積み重ねたものが無くて、言い表す事が出来ない。
だからただ、涙をこぼして何度もその名を呼ぶ。
「ミラ……ノ……ミラノ……」
ふっと、ミラノが微笑んだ。
「私は、だから、取り戻すの。こんな状況になってもまだ、間に合うと言うから。パール、あなたにももう、負担をかけずに済むと言うから。アルティノルドは出来ると、言うから」
ミラノは一瞬目を細め、真面目な顔つきに戻った。
「私が、“はじめの人”という、“神”になれば──」
パールフェリカは瞬きをした。
ミラノがもう、“神”という高みを覚悟していた事は、わかっていた。パールフェリカが気付いたのはそれではない。考えて答えが出たというより、ぴんと来た。
ミラノは、パールフェリカとの間の、召喚士と召喚獣としての“絆”をも、絶つつもりだ。負担をかけないとは、そういう意味だ。
パールフェリカが召喚をした、返還できるのもパールフェリカだけなのだ。それを中途半端に断とうとしている。そんな事をすれば、ミラノはかえる道を完全に失ってしまう。もっと言えば、ミラノが、本当に死んでしまうという事だ。かえらなければ、体に戻れず、待っているのは死のみ。
自分であろうとし、自分の価値を高めようとしているのに、高みに届く瞬間に、全部捨てるという事だ。自分らしくある事を望みながら、己からミラノでなくなるという意味だ。
「ミラノ、それは……! だめよ!!」
上着にしがみ付くパールフェリカからミラノは顔を逸らし、ぐいと肩を動かして払いのけ、立ち上がった。
「ミラノ!!」
「……アルティノルド」
名を呼ばれ、アルティノルドは静かに膝をつき、ミラノの正面に手を差し伸べた。そこへ、女性の手が、指先を揃えて置かれた。それは半透明で、あちらが透けて見える。いわゆる“霊”のもの。
無くなったはずのミラノの肩の付け根から、それは生まれていた。
アルティノルドの手とミラノの手が触れ、そこから立体構造を輪切りにするように光が走った。軌跡の後のミラノの体は、半透明へと薄く変わった。パールフェリカが用意したこの国の衣装から、再びグレーのスーツ姿で、結い上げた髪留めも元に戻った。
半透明の姿となったミラノの足元に、血塗れた衣服と装飾具が音をたてて落ちた。
──パールフェリカは、がくりと肩を落とし、息を吐き出した。
パールフェリカの召喚術によってミラノに与えられていた実体は、消え去ったらしい。パールフェリカがミラノを召喚していた術は今、“神”アルティノルドの手によって強制的に解かれたようだ。何しろ、パールフェリカにしても、過去を照らしても、いずれの召喚士も経験した事のない、断絶だ。
パールフェリカの身には、言葉にし難い喪失感が頭の天辺からつま先まで駆け抜けた。体の表面を縦割りにストンと包丁で2分割されたような、あまりにあっさりとした感覚で切り離され、剥き出しになったところへ薄ら寒い冷気が吹きつけてきているようで、吐き気さえした。
『これで“絆”もきれました』
アルティノルドの言葉に、出会った時と同じスーツ姿のミラノがしっかりと頷いた。異なるのは、半透明になってしまったという点。
呆然と口を半開きにしているパールフェリカをミラノは見下ろした。
『さよなら』
それらを、パールフェリカはとても遠い出来事のように見ていた。時間にして10秒以上、頭の中が完全に空っぽになって、身動き一つ取れなくなっていた。
そうして、頭の端っこの方から、少しずつ力が戻り始める。
「……なんで? なんで!? なんで!? 召喚士と召喚獣の“絆”…………なんで消えるの!?」
そんな理屈は知らない。聞いた事がない。誰も教えてくれていない。
顔を上げたが、そこにもうミラノは居なかった。
「やだ……ミラノ……ミラノ……!」
ネフィリムの体から膝を引き抜き、飛び去ったミラノ、アルティノルド、レイムラースを、屋上の柵まで追いかけた。足に、ついさっきまでミラノが身につけていた白銀のアクセサリーが絡まった。つま先を振って蹴飛ばした。外れてくれないのが、あまりにも悔しい。こんなもの──。
ミラノと“神”と“堕天使”は、空の向こうに飛び去ってしまっていた。彼らが見えなくなると、柵に両手を付き、そこに額を当てた。視界には、ネフィリムの血に濡れたズボンと、つま先から取り払いきれていない、シュナヴィッツの血が絡みついたアクセサリーがある。腹の底から込み上げてくるものがあって、うっと呻いた。
「私の……せい……私のせいだ……なのに、私だけが、私だけが、一人生き残って…………」
脳裏に、まるで耳元で囁かれているかのように、声が蘇る。
──自分に価値を与えたいなら、そこでどういう態度を取る人に自分が価値を感じるか、考えなさい。
パールフェリカは全ての動きを止めた。
奥歯をぐっと噛み締めた時、涙は根っこから止まった。
「……“今”……私が……!」
小さな声で呟いて、勢いよく振り返った。
屋上中央に残っている闇色の扉を、そこに写る、もう動かなくなったミラノの本体を、見た。
(3)
空から王都を見下ろす。
『最初から最後まで、わけがわからないままだわ』
ミラノは風の中、呟いた。
結局、体が半透明になったという以外、どこが変わったと自覚するものは無かった。途切れていたパールフェリカとの“絆”とやらも、戻らないまま。それも、既に断ち切れたという。
死んだなんていう自覚もない。
確実な変化としての“半透明の姿”が意味するものは、今、ミラノの存在が“霊”であるという事。本当の体は、死んだという事。
事実、“霊”らしく、空を飛べた。驚きはしたが、体が透けている時点でもう理解の範疇を越えている。むしろ、飛べて当たり前だとすら思った。
下着が透けていない事に『ほう』と唸る自分に気付いた時には、動転してるのか冷静でいられているのか戸惑った。自分の心理状態も読めない状態らしいと、悟った。
結局、半透明になったからといって物質に触るという必要を迫られていない現状、どうでもよかった。あれやこれや気を揉まず、困った時に困れば良いのだと結論付けた。
城下町は7割が火炎に飲まれている。その上空で、ミラノはアルティノルドに手を預け、風の中に立っている。多くの命を奪ったレイムラースも、6枚の翼を羽ばたかせ、隣にいる。
いつの間にか“七大天使”も集結していて、背後にずらりと揃っている。
召喚された存在としての“七大天使”は、ミラノの死によって強制解除されており、彼らは本来の在り方と意思で、ここへ来ている。それは、ミラノの知るところではない。
王都の中心に来るまでの間、ミラノは力いっぱいアルティノルドから顔を逸らしていた。
半透明のミラノの手を、実体を持っているように見えるアルティノルドは、掴んだまま離さない。感触があるのは不思議だったが、もう理屈を考える気はなかった。シュナヴィッツが“神”だと教えてくれたアルティノルドは、口を開けば耳を塞ぎたくような『あなたのまっすぐな心が好きです』だの『何億年と無かった安らぎを感じています』だの、とにかく『ずっとお会いしたかった』と、しつこい程『好きです』と繰り返して言う。言いたいだけ言って、こちらのリアクションは全て無視するのだ。止めようもない。
──相手にしてられないわ……。
自分も大概無表情を通すが、これほど扱い難い存在だったのかと、ミラノは珍しく反省をしている。
何を考えているのかわからないので、とりあえずその口が止まるのを待って、ミラノは問う。
『──本当に、出来るの?』
『あなた次第です、何もかも。この世界に満ちるわたしの力をどれだけ引き出す事が出来るか、“霊界“にどれだけ干渉できるか、要は召喚士としての能力次第です』
アルティノルドはきっぱりと言い、手を離すとミラノの正面へまわった。
『つまるところ、あなたがわたしを置いていかず、だれのものにもならず、わたしの想いを受けて入れてくれるならば……。わたしと、永遠をともにあるならば、この世界で不可能な事はありません』
何を言っているのか相変わらず理解しがたい。
ミラノは、皮肉気に口角を上げ、小さな声で呟く。
『その……健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか──』
アルティノルドが顔を覗き込んでくる。
『何ですか? それは』
『……暗示の言葉……。でも、私の覚悟はまだ、足りていないみたい。返事が、出来ないもの。──いいわ、始めましょう』
ミラノは肩をすくめ、さらりと言った。
『……返事もその内、出来るようになるわ』
ここまで珍妙な“片想い”をされたのは初めてだったが、付き合うしかない。
それで、失われたものが戻ってくるのならば。“価値”を得られるのならば。
死を受け入れ、“山下未来希”である事も捨て、彼らの言う名無しの“はじめの人”になるだけで、王都が、彼らが戻ってくるというのだから。
──奇跡の代償が私の存在ひとつで済むのなら、随分と安いわ。
王都を半眼で見下ろしていたミラノの視界を、黒い翼が遮った。
化け物の姿をした元“天使”、レイムラースだ。
顔を上げると、目があった。
『その前に、確認したい事がある。今はまだ人間のままだろう? 早く“はじめの人”として、降臨して頂きたい。“はじめの人”……いや──』
レイムラースの丸く大きな目が、ぎょろりとミラノの黒い瞳を見下ろした。
『──アルティノルドの召喚主……はじまりの召喚士たる“神”として』
ミラノは表情を変えず、レイムラースを見る。
目的を達成するまで、レイムラースに邪魔をされるわけにはいかない。適度に相手をし、適切にあしらっておかなければ。
『そうだったわね。あなたは、世界の不公平な現状を“神”は修正すべきだ──と、主張していたものね。私がその“神”だと言うけれど、相変わらず“山下未来希”。それでは、あなたの望みは叶わない、そういう事ね」
『その通り。早く“はじめの人”として自覚をして頂かなくては。その“罪”を、思い出して頂かなくては』
人違いだと訂正をしたってこいつらは聞かないだろうが、トライ位はしておいた方が良かったのかもしれないと、ミラノは後悔をする。
『……罪といわれても……』
思い当たる罪は、彼らの言うものではないだろう。
『アルティノルドも責め問うたらどうだ』
ミラノはアリティノルドを見る。
アルティノルドには相変わらず表情が無い。レイムラースの面も化け物なので、ミラノが一番情感豊かに見えてしまう。眉をほんの少しひそめたミラノを見て、アルティノルドは『そんな悲しそうな顔はしないでください』と言った。悲しいのではなく、目的以外の事が面倒臭いだけだ。
『──随分と昔の話です』
アルティノルドはそう前置きした。
『水晶の形が一番楽なので、それでどこともない空間を浮遊して、暇を持て余していました。その頃のわたしには、わたしたる根拠も何も無い、ただの岩であったかもしれません。そこへ、あなたが、降りてきました』
『私……? いえ、“はじめの人”?』
『ええ。覚えてらっしゃらないのですか?……長すぎる時を挟みましたから、仕方が無いのでしょうか。“あなた”は、両手を上げて言いました──さぁ、私と一緒に楽しい事をしよう!……と』
それは、創世神話アルティノルド叙事詩の冒頭の部分になる。
『“あなた”は、わたしに世界を創る能力があるとわかると、あれこれどうこう、これこれこんな世界を創ってみないかとわたしに持ちかけ、わたしも暇でしたから、言われるまま、創り上げました。“あなた”は遊び心の塊のような人で、次々と案をだし、わたしが何を創っても目をキラキラと輝かせ、両手を叩いて喜んでくれました。そうして出来たのが、この世界です』
偉大な創世神話のはずだが、親バカと幼児の光景しか脳裏に浮かんでこない。ミラノは水を差すようなマネはせず、黙って頷いた。
『ところが……出会って7日経った頃、“あなた”は忽然と姿を消してしまいました。わたしと、2人で生み出した世界を、遺して──』
ミラノは目を逸らす。
7日。その“はじめの人”……人間もまたどこからか迷い込み、本体が死にでもしたか、あるいは察して慌てて元の世界へかえったのかもしれない。
『今も、はっきりと覚えています。最後に、この世界の理を、遺されました。戻ってくる為のものだと、おっしゃっいました。──この世界の理……召喚の理を』
『召喚の理?』
アルティノルドは語った。
ある日“はじめの人”が──今ではクーニッドの大岩と呼ばれるアルティノルドの化身──大水晶の上に降り立ち、共に世界を創造した日々を。
『──名前が無いなんて不便、そうね……アルティノルド! あなたは今からアルティノルドよ!』
アルティノルドという名も、その時発生したのだ。
だが、世界のあらかたが出来、生物も大小様々な獣を次々と生み出した後。6日目──“はじめの人”は言った。
『そろそろかえらなくてはならないと思う』
自我と言える自我も無く、ただ空っぽだった水晶には既に心が宿っていた。そこは、“はじめの人”で埋め尽くされていた。突然の別れに、アルティノルドは抗した。
『わかってるわよぅ。私もまだまだ楽しみたい事があるの。でも、もうかえらなくては。だから、また、私がここへ来る為の“理”を創っておきましょう? アルティノルド』
そうして、最後の種、“はじめの人”を模した人間が創られた。
“はじめの人”は、召喚の儀式を幾度も練習しているうちに、アルティノルドの元へ飛んでしまったのだという。“逆召喚”をしてしまったのだと告げた。
魔法陣からどこかの何かを喚び出すのではなく、自分が飛んでしまったと。
はじまりは、偶然だった。だが、次なる必然を“はじめの人”は望んだ。“はじめの人”は、自力でこの世界へ渡る事が出来なくても、召喚してもらえる理があれば良いと考えたのだ。 そして生まれたのが、“召喚の理”。
世界を埋め尽くすアルティノルドの力によって成り立つ、召喚術。全ての人間──召喚士に使うことを許された力。
たった一度、偶然成功した“はじめの人”の逆召喚の能力を、反転させて確かな召喚術とし、アルティノルドは人間に植え込んだ。
アルティノルドらに勘違いをされた理由になる。この世界の召喚士達の召喚術と、ミラノの使う召喚術には違いがあった。その際たるものが逆召喚の能力。これが“はじめの人”と同質のものだった。
『わたしは“はじめの人”のかえりを待っていました。毎日ここへ来る為の“逆召喚”を試すと、“あなた”はおっしゃいましたし。わたしには、創造と再生の力しかありませんから、この世界に生まれる人間の召喚士に、召喚させるしかなかった。重要なのは、目標を“はじめの人”と定めて召喚する事が出来る召喚士。すなわち、“あなた”ともこの“わたし”とも同調出来る召喚士の出現が、必要不可欠でした』
『……それが、パールだったと? だけど、私はやっぱり“はじめの人”ではないわ』
何億年も前の話をされて、ピンとくるわけがない。さっさと人違いを認定してもらわなければと、ミラノは言ったが、アルティノルドの方は珍しく変化を見せた。厳しい顔をしたのだ。
『…………いえ……あなたはわたしの“はじめの人”です。この世界を創造したわたし、アルティノルドが全てを許すのは“はじめの人”以外、無いのだから。わたしが、“あなた”を、間違える事は無いのだから』
アルティノルドは、顔の部位を別々に動かし、不器用な微笑みを浮かべた。
『この世界の“召喚の理”を自在に、かつ“新たな理を生みながら”操れるのは、“はじめの人”たる“あなた”だけなのです』
『………………』
ミラノは俯いた。
『……うーん、人間の姿にはどうにも、表情というむつかしいものがありますね、まだ慣れません』
アルティノルドは、ぐにぐにと目や眉、口を左右非対称に動かし、不気味な表情をしている。とぼけた様子に見えるが、今、重要な事を言われた気がする。
今まで“やれば出来た”事は全て、誰もがあり得ないと口を揃えた。誰も見たことのない前代未聞の召喚術と言われたのも、“はじめの人”と同格であったせいだ。
だがミラノには、“山下未来希”と“はじめの人”をイコールで結ぶ事がどうしても出来ない。
27年生きた記憶と経験しか身の内に無いから、当たり前と言えば当たり前である。
だのに、レイムラースは“はじめの人”の“罪”を思い出せと言う。その上で世界を“修正”しろと言う。
──……それは、ずっと後でもいいわ。
ミラノはひっそりと考え巡らす。
“はじめの人”とやらにしか出来ないのならば、なるしかない。アルティノルドを受け入れろというなら、黙従するしかない。“山下未来希”として成し遂げたい事を、達成する為に。
アルティノルドは、“なる”だとか“ならない”の問題ではなく、既にそうだと言うかもしれない。
ミラノは改めて、心を決める。
失われてしまった人達の、ネフィリムの、シュナヴィッツの姿が脳裏に蘇る。
黒い煙に包まれる眼下の王都が、現実を突きつけてくる。
それは、足が止まってしまいそうな程、体が凍り付いてしまいそうな程の絶望。あまりに悲しい出来事だ。己の存在──名前に与えられた意味、未来の希望などとよくぞ言うたものと、脱力と共にすべてを否定する誘惑に負けそうになる。だが、ミラノは受け入れた。残酷な現実を見つめ、絶望を飲み込んだ故に、アルティノルドの囁きはあまりにも眩しい光を放って見えた。
胸の奥底で渦巻く諦めと期待はないまぜになって、ミラノの信念さえへし折った。
自分自身であるというミラノのアイデンティティは歪み、自分を捨てるという覚悟を、考える隙なく強いた。
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