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第一幕
VS透明人間③
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「と……透明人間……?」
大広間がシン……と静まり返った。その場にいた誰もが、突然放たれた坂本の発言の意味を理解できずにいた。大量の警察官たちが訝しげな表情で顔を見合わせ、ひそひそと小声で囁いた。
「誰だ?」
「さあ……?」
「透明人間??」
「透明人間って……」
「どういうことだ?」
マフィア顔の警部が、その厳つい表情を崩し困惑に満ちた声で部下に尋ねた。だが、大勢の部下の誰一人、警部の問いかけに答えることはできなかった。そんな中、坂本虎馬だけが『やっと真実に辿り着いた』とでも言わんばかりに嬉しそうに声を張り上げた。
「だから、透明人間ですよ! 知らないんですか!? SFとか、フィクションによく出てくるやつ! 犯人は鍵のかかった寝室に、透明になった体で押し入ったんですよ!」
「…………」
「…………」
ですよ! と高らかに宣言され、警官たちはますます押し黙った。少年のように目を輝かせる探偵の横で、櫻子が口の中に放り込んだ棒突きキャンディを噛み砕き、深い深いため息をついた。
「あの……坂本さん」
「はい?」
誰一人探偵にかける言葉が見つからない中、田中が勇気を振り絞って、何故か誇らしげに笑みを浮かべている坂本に話しかけた。
「その、透明人間ってやつが本当に……いるんですか?」
「もちろん! 彼らは僕らのすぐ近くにいます」
「……なら、何で透明人間は鍵のかかった部屋に侵入できるんですか?」
「え?」
田中の至極真っ当な質問に、坂本はキョトンと首をかしげた。
「だって、そいつは体が透明なだけで……実体はあるわけでしょう? 人間なんだから。なら、透明になって見えなくなったとしても、鍵のかかった密室には入れないんじゃ?」
「え? そうなの?」
「知らん!」
目を泳がせる坂本を、櫻子は腕を組んだまま苛立たしげに突っぱねた。
田中が笑っていいのかどうか分からない、といった表情を浮かべた。その苦笑が、ここにいる坂本探偵以外全員の気持ちを代弁していた。先ほどから黙って横で聞いていたマフィア顔の警部が、わざとらしく咳払いをしてみせた。
「あー……探偵さん? 吉村が犯人でないと思う根拠は何だね?」
「それはもちろん、彼が被害者の夫だからです」
「は?」
そんなことは自明の理だ、とでも言いたげに坂本が肩をすくめた。
「だって、お互い支え合ってきた夫婦なんですよ! 愛する者を、殺そうなんてするわけがないじゃないですか!!」
「一体こいつはさっきから何を言ってるんだ」
とうとう警部は頭を抱えた。やがて坂本以外の全員が集まって、円陣が組まれた。顔を突き合わせた若い警察官の一人が、声を潜めて向かいの上司に尋ねた。
「警部。彼は一体何者なんでしょうか?」
「分からん。捜査を混乱させるのが目的としか……場合によっては、公務執行妨害でしょっぴいた方がいいのかもしれん。殺人事件のついでに、とんだ拾い物だったな」
「待ってください警部さん。彼は確か、東京で有名な名探偵だとか……ねえ?」
坂本を逮捕しようとする警官たちに、田中が見かねて助け舟を出した。田中に振られた櫻子は目を逸らし、「はい」とも「いいえ」ともつかない曖昧な音を喉から絞り出した。
「ァー……」
「探偵だって!?」
「だって、彼『透明人間』とか言い出してるぞ!」
「探偵が『透明人間』なんて結論出すか?」
田中の言葉に、今度は警官たちが色めき立った。彼らの当然の疑問に、櫻子はため息交じりに答えた。
「気にしないで下さい、坂本はいつもアアなんで」
「何だって!? いつもあんな、突拍子もないことを!?」
「ええ。でも、フォローするわけじゃないスけど……確かにこの事件には、まだおかしな点があります。もし吉村さんが犯人なら、何故わざわざ自分が疑われるような密室を作って、奥さんを殺したのか?」
「うーむ。そこのところ実際どうなんですか? 吉村さん」
警部が考え込むように顎髭を撫で上げ、ぶっちゃけて吉村に尋ねた。吉村は大きく首を横に振った。
「だから、私はやってないって! 気がついたら、はるかが血まみれになっていて……!」
「寝室に戻った時はどうですか? 奥さんは中にいました?」
「ああ、いたよ。布団が膨れ上がっていたからね。顔は確認してないが……」
吉村はその場にいた全員に昨晩の様子を話して聞かせた。
電気が消された真っ暗な寝室の中で、確かに離れたところで膨らんでいた布団を見たこと。それから、すぐに後ろ手で鍵を閉めて自分も布団に入ったこと……。
「なるほどねぇ……実際に寝ている姿を確認したわけじゃない、と。じゃあ、布団の中が空で、被害者がいなかった可能性もあるわけだな」
話を聞き終わり、強面の警部が鋭く目を光らせた。吉村が慌てて反論した。
「待ってください。それはない。私は寝室に戻った後、すぐに鍵をかけたんだ。それからは一歩も外に出ていないし、誰もきてない。鍵は部屋の内側からしかかけれないようになっているから、外から開けられるはずもない……妻は部屋の中にいたはずだ」
「フーム。それだとますます犯人は、貴方以外ありえないんじゃないですか?」
「そ、それは……でも、そんな……!」
「待ってください警部……これほど分かりやすい事件なのに、東京からきた有名な探偵がわざわざ公衆の面前で『犯人は透明人間だ』なんて馬鹿げた宣言をするでしょうか?」
「まさか。子供じゃあるまいし、そんなやついたら頭を疑うよ」
若い警官の素朴な質問に、マフィア顔の警部は鼻で笑って答えた。全員が肩を寄せ合って、さらに声を潜めて囁き合った。
「でしょう? もしかしたら、彼の発言にも何か深い意味があるのかもしれませんよ」
「無ぇわ」
「うーむ……」
「つまり、彼には真相が分かっていて……真犯人を罠にかけるために、わざとあんな突拍子もないことを言っているのでは……」
「無ぇわ」
「確かに……『犯人が透明人間だった』なんて、本気で口にしていたら究極の馬鹿でしかないからな」
「じゃあ、『透明人間』というのは、真犯人を指す彼なりの隠語……?」
「その可能性はあるな」
「ぜってー無ぇわ」
「んああ……ゴホン、ゴホン」
櫻子の合いの手は無視され、やがて警部はわざとらしい咳払いをして、円陣から顔を上げた。坂本はその間一人離れたところに立っていて、悩みなんて何もなさそうな面持ちで彼らの密談を眺めていた。
「よかろう、えーと、探偵君。君、名前は……」
「坂本です。坂本虎馬」
「虎馬君。確かにこの事件には、えー……まだまだ不可解なことがありそうだ。そこで、だ」
警部は蓄えた口ひげをゆっくりと撫で上げ、品定めをするように坂本をじっと眺めた。それから後ろで控えている制服警官たちに目配せする。
この男は、きっと何かを掴んでいるに違いない。少しの間だけ、泳がせて見よう。警部の合図に、櫻子以外の全員が黙って頷いた。
「明日の朝、十時まで待とう。君のいう、その『透明人間』とやらを、我々に見せてはくれないか?」
「いいでしょう」
坂本は何故か自信満々に頷いた。そして腰に手を当て、誰もいない空中を確と指差した。
「必ずや、私が皆さんの前に『透明人間』を連れてきて上げますよ!!」
□□□
……上手くいった。
宿泊客の一人・田中は廊下の窓から、既に明るくなり始めた外の景色を眺め邪悪な笑みを浮かべた。
警察から解放された時には、すでに時計の針は朝四時を回っていた。流石に今日だけは、興奮で眠れそうにない。腕を掲げ、じっと自分の掌を見つめる。右手には、初めて人の体にナイフを突き立てた感触が、まだありありと残っていた。
あいつが悪いんだ。
あいつが、いきなり「もうやめたい」だなんて言い出すから。
田中の表情が、苦々しげに歪んでいった。あいつの……吉村家に嫁いで行った、妹のハルカのせいだ。二人で協力して、今まで散々甘い汁を吸ってきたはずなのに。今更善人ぶって盗みから手を引こうだなんて、そうは行かない。
大丈夫、絶対にバレるはずがない。この特殊能力がある限り……。
田中はもう一度窓に目をやり……ガラスに映っていない、透明な自分の体と空中に浮かんだように見える洋服をじっと眺めた。それから腹の底から込み上げる笑いを堪えきれず、薄暗い廊下に低く声を響かせた。
「フフ……フフフフ……!!」
そう、透明人間はいる。
この私がそうだ。
田中は、自分の体を透かすことができた。
彼が能力に気がついたのは、中学二年生の時だ。彼は元々意思も存在感も薄い少年だった。同級生の不良に虐められ、エスカレートしていった彼らに火炎瓶やナイフを投げつけられたこともあった。本気で死を覚悟したその時、彼はこの透明になれる能力に目覚めた。
自分の意思次第で、自分の姿が誰の目にも、カメラにも鏡にも映らないと知った時……彼の人生は変わった。この特殊能力で、田中少年は今まで彼を虐めていた不良たちを皆殺しにした。警察にも、一切自分がやったとバレることもなく。それだけに止まらず、田中は散々悪いことを繰り返した。透明になれるのを良いことに、金目のものを盗んでは売り捌いて巨額の富を得た。もちろん、体から発せられるものは汗であろうが匂いだろうが何もかも消せるので、一度も捕まったことなどなかった。
今回も、同じだ。
絶対にバレない自信がある。もちろん先ほど坂本探偵にも話して聞かせた通り、透明人間にも実体はある。これまでの経験から、田中は透明になれるこの特殊な能力のことをほぼ全て掌握していた。例えば自分自身を消すことはできても、触るものを透けさせたり、固く閉ざされた扉を通り抜けるなんてことは不可能だった。
この世界で田中の体の秘密を知っているのは、彼の他には、妹のハルカだけだった。
だが、彼女は最近窃盗に加わることをためらい、ついには先日「やめたい」とまで言い始めた。ハルカが怖気付いて警察に垂れ込む前に、何としても口封じしておかなくてはならなかった。
「あの探偵……」
田中はそこまで回想して、ふと釣り上げていた唇を下ろした。
東京からきたという探偵……坂本虎馬。
彼は、何と透明人間の存在に言及して見せた。あの場で一番真実に近づいていたのは、誰よりも馬鹿にされていたあの男だった。田中は眉をひそめた。
我々異形の存在を、彼は一体どこで知ったのだろう?
あるいは彼自身が、何らかの特殊能力を持っているのか……何れにせよこんなことは、田中の人生の中で初めての経験だった。大抵の探偵や捜査関係者は、そんなファンタジー紛いの検討なんてハナっからしないものだ。もちろん、坂本が自分の秘密を知っているはずがない。偶然か、当てずっぽうな推理には違いないが……。
やはりあの男、油断ならない……。
気がつくと、空に広がった薄暗い雲から、小さな雨粒が落ちてきてガラス窓を打ち始めた。やがて本降りになった雨音に耳を傾けながら、田中は再び今回の事件のことを思い出して笑みを浮かべた。
アリバイだ。
あいにく死体が見つかった時、私はあの二人と一緒にトランプをしていたのだ。れっきとしたアリバイがある。探偵のことなど、気にかける必要もないだろう。万が一、この私が透明人間だということに辿り着けたとしても、密室トリックの真相まではわからないはずだ……。
「田中さん?」
「!」
不意に後ろから声をかけられ、田中は慌てて自分の体を透明から実体へと元に戻した。振り向くと、暗がりの廊下の先に高校生くらいの金髪の少女が立っていた。確か、坂本探偵の元で助手をやっている櫻子という少女だったはずだ。
見られたか……? 田中の脳裏に緊張が走った。
突然後ろに現れた少女に、田中は慎重に声をかけた。
「や、やあ……こんなところで、どうしたんだい? 」
「いえなんとなく……眠れなくて」
少女はそう言って長い睫毛を伏せ、不安げな表情を見せた。いつの間にか浴衣から、赤いジャージ姿へと着替えている。自分のことを、特段怪しむ様子もない。どうやら透明な姿を見つかってはいないようだ。田中は胸を撫でおろした。
「櫻子ちゃん……だっけ?」
「はい」
「……君も、犯人は吉村さんだと思うかい?」
「え?」
突然あることに閃いて、田中は勤めて真剣な表情で彼女に語りかけた。少女が驚いたように顔を上げた。
「残念ながら、僕にはそうは思えない。あの吉村さんが、人を殺すだなんて、信じられないよ。 ……かといって、透明人間がいるなんて話も信じられないけどね」
「フフ……」
田中のジョークに、赤いジャージ姿の女子高生はようやく笑みを浮かべた。
そうだ。この少女は、あの厄介な探偵についてきた連れだ。
ちょうどいい。
何とか推理を誘導し、この少女に「犯人は吉村以外ありえない」ということを分からせて、あの探偵を外堀から埋めてしまおう。金髪少女に気づかれないように、田中は心の中で邪悪な笑みを浮かべた。遠くの方で稲光が鳴り響き、廊下に立つ二人のシルエットを妖しげに照らし出した。
大広間がシン……と静まり返った。その場にいた誰もが、突然放たれた坂本の発言の意味を理解できずにいた。大量の警察官たちが訝しげな表情で顔を見合わせ、ひそひそと小声で囁いた。
「誰だ?」
「さあ……?」
「透明人間??」
「透明人間って……」
「どういうことだ?」
マフィア顔の警部が、その厳つい表情を崩し困惑に満ちた声で部下に尋ねた。だが、大勢の部下の誰一人、警部の問いかけに答えることはできなかった。そんな中、坂本虎馬だけが『やっと真実に辿り着いた』とでも言わんばかりに嬉しそうに声を張り上げた。
「だから、透明人間ですよ! 知らないんですか!? SFとか、フィクションによく出てくるやつ! 犯人は鍵のかかった寝室に、透明になった体で押し入ったんですよ!」
「…………」
「…………」
ですよ! と高らかに宣言され、警官たちはますます押し黙った。少年のように目を輝かせる探偵の横で、櫻子が口の中に放り込んだ棒突きキャンディを噛み砕き、深い深いため息をついた。
「あの……坂本さん」
「はい?」
誰一人探偵にかける言葉が見つからない中、田中が勇気を振り絞って、何故か誇らしげに笑みを浮かべている坂本に話しかけた。
「その、透明人間ってやつが本当に……いるんですか?」
「もちろん! 彼らは僕らのすぐ近くにいます」
「……なら、何で透明人間は鍵のかかった部屋に侵入できるんですか?」
「え?」
田中の至極真っ当な質問に、坂本はキョトンと首をかしげた。
「だって、そいつは体が透明なだけで……実体はあるわけでしょう? 人間なんだから。なら、透明になって見えなくなったとしても、鍵のかかった密室には入れないんじゃ?」
「え? そうなの?」
「知らん!」
目を泳がせる坂本を、櫻子は腕を組んだまま苛立たしげに突っぱねた。
田中が笑っていいのかどうか分からない、といった表情を浮かべた。その苦笑が、ここにいる坂本探偵以外全員の気持ちを代弁していた。先ほどから黙って横で聞いていたマフィア顔の警部が、わざとらしく咳払いをしてみせた。
「あー……探偵さん? 吉村が犯人でないと思う根拠は何だね?」
「それはもちろん、彼が被害者の夫だからです」
「は?」
そんなことは自明の理だ、とでも言いたげに坂本が肩をすくめた。
「だって、お互い支え合ってきた夫婦なんですよ! 愛する者を、殺そうなんてするわけがないじゃないですか!!」
「一体こいつはさっきから何を言ってるんだ」
とうとう警部は頭を抱えた。やがて坂本以外の全員が集まって、円陣が組まれた。顔を突き合わせた若い警察官の一人が、声を潜めて向かいの上司に尋ねた。
「警部。彼は一体何者なんでしょうか?」
「分からん。捜査を混乱させるのが目的としか……場合によっては、公務執行妨害でしょっぴいた方がいいのかもしれん。殺人事件のついでに、とんだ拾い物だったな」
「待ってください警部さん。彼は確か、東京で有名な名探偵だとか……ねえ?」
坂本を逮捕しようとする警官たちに、田中が見かねて助け舟を出した。田中に振られた櫻子は目を逸らし、「はい」とも「いいえ」ともつかない曖昧な音を喉から絞り出した。
「ァー……」
「探偵だって!?」
「だって、彼『透明人間』とか言い出してるぞ!」
「探偵が『透明人間』なんて結論出すか?」
田中の言葉に、今度は警官たちが色めき立った。彼らの当然の疑問に、櫻子はため息交じりに答えた。
「気にしないで下さい、坂本はいつもアアなんで」
「何だって!? いつもあんな、突拍子もないことを!?」
「ええ。でも、フォローするわけじゃないスけど……確かにこの事件には、まだおかしな点があります。もし吉村さんが犯人なら、何故わざわざ自分が疑われるような密室を作って、奥さんを殺したのか?」
「うーむ。そこのところ実際どうなんですか? 吉村さん」
警部が考え込むように顎髭を撫で上げ、ぶっちゃけて吉村に尋ねた。吉村は大きく首を横に振った。
「だから、私はやってないって! 気がついたら、はるかが血まみれになっていて……!」
「寝室に戻った時はどうですか? 奥さんは中にいました?」
「ああ、いたよ。布団が膨れ上がっていたからね。顔は確認してないが……」
吉村はその場にいた全員に昨晩の様子を話して聞かせた。
電気が消された真っ暗な寝室の中で、確かに離れたところで膨らんでいた布団を見たこと。それから、すぐに後ろ手で鍵を閉めて自分も布団に入ったこと……。
「なるほどねぇ……実際に寝ている姿を確認したわけじゃない、と。じゃあ、布団の中が空で、被害者がいなかった可能性もあるわけだな」
話を聞き終わり、強面の警部が鋭く目を光らせた。吉村が慌てて反論した。
「待ってください。それはない。私は寝室に戻った後、すぐに鍵をかけたんだ。それからは一歩も外に出ていないし、誰もきてない。鍵は部屋の内側からしかかけれないようになっているから、外から開けられるはずもない……妻は部屋の中にいたはずだ」
「フーム。それだとますます犯人は、貴方以外ありえないんじゃないですか?」
「そ、それは……でも、そんな……!」
「待ってください警部……これほど分かりやすい事件なのに、東京からきた有名な探偵がわざわざ公衆の面前で『犯人は透明人間だ』なんて馬鹿げた宣言をするでしょうか?」
「まさか。子供じゃあるまいし、そんなやついたら頭を疑うよ」
若い警官の素朴な質問に、マフィア顔の警部は鼻で笑って答えた。全員が肩を寄せ合って、さらに声を潜めて囁き合った。
「でしょう? もしかしたら、彼の発言にも何か深い意味があるのかもしれませんよ」
「無ぇわ」
「うーむ……」
「つまり、彼には真相が分かっていて……真犯人を罠にかけるために、わざとあんな突拍子もないことを言っているのでは……」
「無ぇわ」
「確かに……『犯人が透明人間だった』なんて、本気で口にしていたら究極の馬鹿でしかないからな」
「じゃあ、『透明人間』というのは、真犯人を指す彼なりの隠語……?」
「その可能性はあるな」
「ぜってー無ぇわ」
「んああ……ゴホン、ゴホン」
櫻子の合いの手は無視され、やがて警部はわざとらしい咳払いをして、円陣から顔を上げた。坂本はその間一人離れたところに立っていて、悩みなんて何もなさそうな面持ちで彼らの密談を眺めていた。
「よかろう、えーと、探偵君。君、名前は……」
「坂本です。坂本虎馬」
「虎馬君。確かにこの事件には、えー……まだまだ不可解なことがありそうだ。そこで、だ」
警部は蓄えた口ひげをゆっくりと撫で上げ、品定めをするように坂本をじっと眺めた。それから後ろで控えている制服警官たちに目配せする。
この男は、きっと何かを掴んでいるに違いない。少しの間だけ、泳がせて見よう。警部の合図に、櫻子以外の全員が黙って頷いた。
「明日の朝、十時まで待とう。君のいう、その『透明人間』とやらを、我々に見せてはくれないか?」
「いいでしょう」
坂本は何故か自信満々に頷いた。そして腰に手を当て、誰もいない空中を確と指差した。
「必ずや、私が皆さんの前に『透明人間』を連れてきて上げますよ!!」
□□□
……上手くいった。
宿泊客の一人・田中は廊下の窓から、既に明るくなり始めた外の景色を眺め邪悪な笑みを浮かべた。
警察から解放された時には、すでに時計の針は朝四時を回っていた。流石に今日だけは、興奮で眠れそうにない。腕を掲げ、じっと自分の掌を見つめる。右手には、初めて人の体にナイフを突き立てた感触が、まだありありと残っていた。
あいつが悪いんだ。
あいつが、いきなり「もうやめたい」だなんて言い出すから。
田中の表情が、苦々しげに歪んでいった。あいつの……吉村家に嫁いで行った、妹のハルカのせいだ。二人で協力して、今まで散々甘い汁を吸ってきたはずなのに。今更善人ぶって盗みから手を引こうだなんて、そうは行かない。
大丈夫、絶対にバレるはずがない。この特殊能力がある限り……。
田中はもう一度窓に目をやり……ガラスに映っていない、透明な自分の体と空中に浮かんだように見える洋服をじっと眺めた。それから腹の底から込み上げる笑いを堪えきれず、薄暗い廊下に低く声を響かせた。
「フフ……フフフフ……!!」
そう、透明人間はいる。
この私がそうだ。
田中は、自分の体を透かすことができた。
彼が能力に気がついたのは、中学二年生の時だ。彼は元々意思も存在感も薄い少年だった。同級生の不良に虐められ、エスカレートしていった彼らに火炎瓶やナイフを投げつけられたこともあった。本気で死を覚悟したその時、彼はこの透明になれる能力に目覚めた。
自分の意思次第で、自分の姿が誰の目にも、カメラにも鏡にも映らないと知った時……彼の人生は変わった。この特殊能力で、田中少年は今まで彼を虐めていた不良たちを皆殺しにした。警察にも、一切自分がやったとバレることもなく。それだけに止まらず、田中は散々悪いことを繰り返した。透明になれるのを良いことに、金目のものを盗んでは売り捌いて巨額の富を得た。もちろん、体から発せられるものは汗であろうが匂いだろうが何もかも消せるので、一度も捕まったことなどなかった。
今回も、同じだ。
絶対にバレない自信がある。もちろん先ほど坂本探偵にも話して聞かせた通り、透明人間にも実体はある。これまでの経験から、田中は透明になれるこの特殊な能力のことをほぼ全て掌握していた。例えば自分自身を消すことはできても、触るものを透けさせたり、固く閉ざされた扉を通り抜けるなんてことは不可能だった。
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だが、彼女は最近窃盗に加わることをためらい、ついには先日「やめたい」とまで言い始めた。ハルカが怖気付いて警察に垂れ込む前に、何としても口封じしておかなくてはならなかった。
「あの探偵……」
田中はそこまで回想して、ふと釣り上げていた唇を下ろした。
東京からきたという探偵……坂本虎馬。
彼は、何と透明人間の存在に言及して見せた。あの場で一番真実に近づいていたのは、誰よりも馬鹿にされていたあの男だった。田中は眉をひそめた。
我々異形の存在を、彼は一体どこで知ったのだろう?
あるいは彼自身が、何らかの特殊能力を持っているのか……何れにせよこんなことは、田中の人生の中で初めての経験だった。大抵の探偵や捜査関係者は、そんなファンタジー紛いの検討なんてハナっからしないものだ。もちろん、坂本が自分の秘密を知っているはずがない。偶然か、当てずっぽうな推理には違いないが……。
やはりあの男、油断ならない……。
気がつくと、空に広がった薄暗い雲から、小さな雨粒が落ちてきてガラス窓を打ち始めた。やがて本降りになった雨音に耳を傾けながら、田中は再び今回の事件のことを思い出して笑みを浮かべた。
アリバイだ。
あいにく死体が見つかった時、私はあの二人と一緒にトランプをしていたのだ。れっきとしたアリバイがある。探偵のことなど、気にかける必要もないだろう。万が一、この私が透明人間だということに辿り着けたとしても、密室トリックの真相まではわからないはずだ……。
「田中さん?」
「!」
不意に後ろから声をかけられ、田中は慌てて自分の体を透明から実体へと元に戻した。振り向くと、暗がりの廊下の先に高校生くらいの金髪の少女が立っていた。確か、坂本探偵の元で助手をやっている櫻子という少女だったはずだ。
見られたか……? 田中の脳裏に緊張が走った。
突然後ろに現れた少女に、田中は慎重に声をかけた。
「や、やあ……こんなところで、どうしたんだい? 」
「いえなんとなく……眠れなくて」
少女はそう言って長い睫毛を伏せ、不安げな表情を見せた。いつの間にか浴衣から、赤いジャージ姿へと着替えている。自分のことを、特段怪しむ様子もない。どうやら透明な姿を見つかってはいないようだ。田中は胸を撫でおろした。
「櫻子ちゃん……だっけ?」
「はい」
「……君も、犯人は吉村さんだと思うかい?」
「え?」
突然あることに閃いて、田中は勤めて真剣な表情で彼女に語りかけた。少女が驚いたように顔を上げた。
「残念ながら、僕にはそうは思えない。あの吉村さんが、人を殺すだなんて、信じられないよ。 ……かといって、透明人間がいるなんて話も信じられないけどね」
「フフ……」
田中のジョークに、赤いジャージ姿の女子高生はようやく笑みを浮かべた。
そうだ。この少女は、あの厄介な探偵についてきた連れだ。
ちょうどいい。
何とか推理を誘導し、この少女に「犯人は吉村以外ありえない」ということを分からせて、あの探偵を外堀から埋めてしまおう。金髪少女に気づかれないように、田中は心の中で邪悪な笑みを浮かべた。遠くの方で稲光が鳴り響き、廊下に立つ二人のシルエットを妖しげに照らし出した。
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