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第一幕
VS透明人間②
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「うわあああああああああああ!!」
「何だ!?」
田中が坂本・櫻子の部屋でトランプに興じていた最中。
ペンションに本日二度目の悲鳴が上がった。
夜も更け、そろそろおひらきにしようか……そんな微睡んだ空気が部屋に流れていた、正にその時だった。遠くの方から部屋まで届いたその悲痛な声に、まるで時間が止まったかのように全員の動きが固まる。それはまるで、遠く暗い地の底から発せられたような、驚愕と恐怖で彩られた悲鳴だった。次の瞬間、叫び声に真っ先に反応した坂本探偵が、勢いよく立ち上がり部屋を飛び出して行った。続いて櫻子が、カーペットの上にトランプを撒き散らしながら坂本の後を追う。やがて遅ればせながら事態を把握した田中が、慌てて二人の後について走り出した。
「どっち!?」
「右!」
坂本と櫻子の鋭い声が廊下に響く。田中が部屋から飛び出すと、館内は既に消灯時間を過ぎており、真っ暗だった。所々、窓から差し込む四角い月明かりだけが薄暗い廊下を煌々と照らしている。坂本と櫻子は、早くも廊下の端まで到達し、一目散に悲鳴の方向へと走っていた。先ほどとは打って変わった坂本の姿に、田中は思わず唸った。探偵の本能とでも呼ぶべきだろうか。あの男、見かけによらず油断ならない……。
「二階! 管理人室の方向だ!」
声にならない悲鳴は、見えない暗がりの向こうからまだ続いていた。坂本探偵の後ろから金髪の少女が、これまた坂本に負けず劣らずの脚力を発揮しながら指示を飛ばす。田中が悲鳴を辿り、二階に上がる頃には、坂本と櫻子は既に突き当たりの部屋の前まで辿り着いていた。悲鳴はその向こうから聞こえている。このペンションの管理人・吉村夫妻が普段寝泊まりする寝室だ。田中は息を切らしながら、ようやく二人の背中に追いついた。
「吉村さん! 吉村さん!!」
「ダメだ! 鍵がかかってる!」
「鍵!?」
田中が目を丸くした。坂本探偵が乱暴にドアを叩きながら、悔しそうに歯ぎしりした。
「くそッ……開かないッ!」
「どけッ!」
田中の後ろから、櫻子が短く叫んだ。振り向くと、まるで空手の型のように重心を低く構えた櫻子が、目にも止まらぬ速度で右の拳を突き出しー……
「ぐはぁあッ!!」
……前にいて避けきれなかった坂本ごと、重厚なドアに正拳を叩きつけた。分厚い木製のドアは鈍い音を立てて、「くの字」に変形して向こう側へと崩れ落ちていった。へし曲がった蝶番を見て、田中が口をあんぐりと開けた。一体どれほどの怪力が、このか細い少女に秘められていると言うのだろう。
「……なんでだよッ!!」
壊れたドアの上で、不意打ちをくらい翻筋斗打っていた坂本探偵が顔を歪め立ち上がった。ものすごい衝撃を受けたには違いないが、その割には元気そうだ。あまりの出来事を前に言葉を失う田中を尻目に、金髪の少女はさも当たり前のようにさらっと言ってのけた。
「だって、直接殴ったら手が痛えじゃん」
「『だって』じゃない! 僕はクッション代わりか!!」
「吉村さん!」
二人から視線を逸らし、部屋の中で震えながら蹲る人影を見つけて、田中は鋭く叫んだ。
「あ……あ……!」
そこにいたのは、恐怖に顔を引きつらせたこのペンションの経営者、吉村義雄だった。
先ほどから悲鳴をあげ続けていた彼は、今はただ一点を見つめて、喉の奥から既に枯れきった声をまだ漏らし続けていた。三人はドアの向こうを覗き込み、彼の視線の先を追った。
「!」
悲鳴の原因は、火を見るよりも明らかだった。
部屋の中は、まるでバケツで絵の具でもひっくり返したかのように、そこら中べっとりと血で染まっていた。窓一つない部屋の中には、生臭い匂いが渦のように立ち籠めている。田中は思わず鼻を塞いだ。花開いた鮮血の中心にいるのは、ベッドの上で大の字になり、天井を見つめたまま瞬きもせず動かない女……。胸の中央にナイフを突き立てられた、吉村の妻だった。
「こ……これは……!?」
「はるか……はるかぁ!!」
余りにも凄惨な状況に三人が息を飲む中、ペンションの持ち主・吉村氏が膝をついたまま慟哭していた。
だが、誰がどう見ても、彼女はもう……。
「はるかぁ!! はるかぁあああ!!」
滝のように頬を流れる涙もそのままに、男は、帰らぬ人となった伴侶に何度も何度もその名を呼びかけ続けていた。
□□□
警察がやってきたのは、それから間も無くのことだった。
その間、ペンションの大広間に坂本、櫻子、田中の三名……つまり宿泊客全員が集まった。
広間の天井付近に飾られた古時計の秒針が、静まり返った空間にやけに大きく響いた。
坂本は先ほどから口元に手をやり、小さく唸りながら暖炉の前を何度も歩き回っている。櫻子はポケットから緑色の棒突きキャンディを取り出すと、徐にそれを口に咥え、暖炉のそばの壁に寄りかかり警察の到着を待った。未だに涙を見せる吉村も、中央のソファに座り込んだままの田中も、誰も一向に喋ろうとしない。やがて永遠とも思える沈黙の時間が過ぎ、ようやく山の麓からやってきたマフィア顔の警部は、現場に到着するなり管理人の吉村を睨みつけこう言い放った。
「なるほど。車の中で、部下から粗方話は聞かせてもらったんだが」
「はい?」
「吉村義雄。お前が犯人だな」
「は!?」
警部の言葉に、吉村が仰天した。
「妻殺しの重要参考人として署まで来てもらおうか」
「な……!?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 話を聞いてくれ!!」
マフィア顔の警部は、呆然とする吉村の手を取って銀の手錠をかけようとした。余りに唐突な出来事に、坂本が驚いて櫻子と顔を見合わせた。
何より一番動転しているのは、犯人として名指しされた吉村本人だった。マフィア顔の警部は、その場にいた誰もが驚いていることに驚いた様子で眉を吊り上げた。
「何だ?」
「何だ、って……何だって、私が妻を殺さなきゃならんのですか!? おかしいでしょう!?」
「何もおかしくはない。お前がどんな理由で妻を殺したかなんて、こっちはこれっぽっちも興味ないんだ。これからたっぷり時間を取って吐かせてやるから安心しろ」
吉村は途方に暮れたような顔でその場に立ち尽くした。
「わ、私はやってない!! 本当です、警部さん!!」
「馬鹿言うな。窓もない、鍵のかかった部屋の中で被害者と二人きり。お前以外に一体誰が犯人だって言うんだ」
馬鹿言うな、ともう一度警部は低い声で呟いた。彼は吉村の話を全く取り合わず、とにもかくにも目の前の容疑者を連行するように、と指示を出した。それを合図に、部屋の中に大量の制服警官が押しかけて来た。その数は十名とも、二十名ともつかない。大勢の警官に囲まれた吉村は言葉を失い、顔面を蒼白にして膝から崩れ落ちた。いかつい顔の警部が、何とも熱のない目で狼狽する”吉村容疑者”を見下ろした。
「フン。どうせ夫婦喧嘩でもして、ついカッとなってやったんだろう。よくある話だ。よくあり過ぎて、新聞に載っても誰も驚かないくらいだ」
「そ……そんな……!! 警部さん! 私は……!」
「そう言えば……」
「ん? 誰だねアンタは?」
警部が怪訝な顔をして声の主を振り返った。不意に、同じく部屋で待機していた宿泊客の田中が、大量の警官の間に割って入った。
「田中です。吉村さんとは旧知の仲で。私三日前から、このペンションに招待されてまして」
「そうですか。で、何か?」
「た、田中くん……!」
吉村が縋るように田中を見上げた。部屋中の視線が田中に注がれる。若干緊張しているのか、彼は不安げにあたりを見渡しつつ、おずおずと口を開いた。
「そう言えば田中さん、最近奥さんの様子がおかしい、って愚痴ってましたよね。ペンションの経営にも協力的でなくなったとか。もしかして……」
「な!? ち、違うんだ!! それは……!」
「ほう。それは中々重要な証言だな。何が違うんだ? はっきり言ってみろ」
「うぅ……!」
田中の言葉に、吉村の顔がみるみる引き攣っていった。残念ながら、彼が自分の潔白を証明しようと慌てふためく姿は、片隅で見守る坂本と櫻子の目にも何処か頼りなげに映った。
鍵のかかった部屋の中で、被害者と二人きり。
この状況をどうにかしない限り、警察は吉村が何を言っても取り合ってくれないだろう。
「……面白え」
部屋の片隅で、櫻子が誰にも聞こえない声でそう呟き、上唇を舐め上げた。彼女の隣では、事の成り行きを見守っていた坂本探偵が感心したようにため息をついた。
「まさか……夫の吉村さんが犯人だったなんてねぇ。吃驚したねえ、櫻子君」
「アホか。いくら何でも呑気すぎんだろ」
「え? でも……」
困惑する坂本に、櫻子は連行されようとする吉村の方を見たまま、周りに聞かれないように小声で囁いた。
「吉村は多分、犯人じゃねえよ」
「ええ?」
坂本が目を丸くして、素っ頓狂な声を上げた。
「だって発見された時、部屋は密室だったんだよ? 櫻子君だって確認したろ。僕も、吉村さんが悪い人には見えないけどさ。どう考えても、犯人はその時中にいた吉村さん以外有り得ないんじゃないかなあ……」
「だから、密室が余計怪しいんだよ。何のための密室だ? 大体、何で私たちが泊まってる時に殺すんだよ? 私が犯人だったら、普通に考えて客がいない日に殺るわ」
「うーん……犯行現場を、お客さんに見せつけたかったとか?」
「何のために? 仮に吉村が犯人だったとして、わざわざ密室作っといて発見時自分もそん中にいたんじゃ、『自分が犯人です』って言ってるようなもんじゃねえか」
「あ……確かに」
坂本は納得したように頷いた。
「じゃ、じゃあ吉村さんは、密室を見せることで『自分が犯人です』と言いたかった……?」
「違うわ! 何じゃその犯人」
櫻子は舌打ちして、マフィア顔の警部と、崩れ落ちたペンションの管理人に目を戻した。それからその横にいる、田中にも……。その顔は知り合いが逮捕され動揺しているというよりは、どこか涼しげに見えた。櫻子は切れ長の目をさらに細めた。
おそらく吉村は、嵌められた。
何やら吉村と過去に何かありそうなもう一人の宿泊客・田中に、だ。
問題は、どうやって犯人は密閉された部屋の中へ侵入し、そして被害者を殺したのか……。
「分かったぞ!」
「!?」
突然、坂本が大声をあげた。その場に集まった全員の視線が、今度は一斉に壁際に立つひょろ長の男に向けられた。
「何だ? 次は誰だね?」
警部が訝しげな顔で浴衣姿の坂本に目をやった。ぽかんと口を開けた櫻子の横で、坂本が誰もいない空間を指差し、嬉しそうに声を張り上げた。
「犯人は……透明人間だったんだ!」
「何だ!?」
田中が坂本・櫻子の部屋でトランプに興じていた最中。
ペンションに本日二度目の悲鳴が上がった。
夜も更け、そろそろおひらきにしようか……そんな微睡んだ空気が部屋に流れていた、正にその時だった。遠くの方から部屋まで届いたその悲痛な声に、まるで時間が止まったかのように全員の動きが固まる。それはまるで、遠く暗い地の底から発せられたような、驚愕と恐怖で彩られた悲鳴だった。次の瞬間、叫び声に真っ先に反応した坂本探偵が、勢いよく立ち上がり部屋を飛び出して行った。続いて櫻子が、カーペットの上にトランプを撒き散らしながら坂本の後を追う。やがて遅ればせながら事態を把握した田中が、慌てて二人の後について走り出した。
「どっち!?」
「右!」
坂本と櫻子の鋭い声が廊下に響く。田中が部屋から飛び出すと、館内は既に消灯時間を過ぎており、真っ暗だった。所々、窓から差し込む四角い月明かりだけが薄暗い廊下を煌々と照らしている。坂本と櫻子は、早くも廊下の端まで到達し、一目散に悲鳴の方向へと走っていた。先ほどとは打って変わった坂本の姿に、田中は思わず唸った。探偵の本能とでも呼ぶべきだろうか。あの男、見かけによらず油断ならない……。
「二階! 管理人室の方向だ!」
声にならない悲鳴は、見えない暗がりの向こうからまだ続いていた。坂本探偵の後ろから金髪の少女が、これまた坂本に負けず劣らずの脚力を発揮しながら指示を飛ばす。田中が悲鳴を辿り、二階に上がる頃には、坂本と櫻子は既に突き当たりの部屋の前まで辿り着いていた。悲鳴はその向こうから聞こえている。このペンションの管理人・吉村夫妻が普段寝泊まりする寝室だ。田中は息を切らしながら、ようやく二人の背中に追いついた。
「吉村さん! 吉村さん!!」
「ダメだ! 鍵がかかってる!」
「鍵!?」
田中が目を丸くした。坂本探偵が乱暴にドアを叩きながら、悔しそうに歯ぎしりした。
「くそッ……開かないッ!」
「どけッ!」
田中の後ろから、櫻子が短く叫んだ。振り向くと、まるで空手の型のように重心を低く構えた櫻子が、目にも止まらぬ速度で右の拳を突き出しー……
「ぐはぁあッ!!」
……前にいて避けきれなかった坂本ごと、重厚なドアに正拳を叩きつけた。分厚い木製のドアは鈍い音を立てて、「くの字」に変形して向こう側へと崩れ落ちていった。へし曲がった蝶番を見て、田中が口をあんぐりと開けた。一体どれほどの怪力が、このか細い少女に秘められていると言うのだろう。
「……なんでだよッ!!」
壊れたドアの上で、不意打ちをくらい翻筋斗打っていた坂本探偵が顔を歪め立ち上がった。ものすごい衝撃を受けたには違いないが、その割には元気そうだ。あまりの出来事を前に言葉を失う田中を尻目に、金髪の少女はさも当たり前のようにさらっと言ってのけた。
「だって、直接殴ったら手が痛えじゃん」
「『だって』じゃない! 僕はクッション代わりか!!」
「吉村さん!」
二人から視線を逸らし、部屋の中で震えながら蹲る人影を見つけて、田中は鋭く叫んだ。
「あ……あ……!」
そこにいたのは、恐怖に顔を引きつらせたこのペンションの経営者、吉村義雄だった。
先ほどから悲鳴をあげ続けていた彼は、今はただ一点を見つめて、喉の奥から既に枯れきった声をまだ漏らし続けていた。三人はドアの向こうを覗き込み、彼の視線の先を追った。
「!」
悲鳴の原因は、火を見るよりも明らかだった。
部屋の中は、まるでバケツで絵の具でもひっくり返したかのように、そこら中べっとりと血で染まっていた。窓一つない部屋の中には、生臭い匂いが渦のように立ち籠めている。田中は思わず鼻を塞いだ。花開いた鮮血の中心にいるのは、ベッドの上で大の字になり、天井を見つめたまま瞬きもせず動かない女……。胸の中央にナイフを突き立てられた、吉村の妻だった。
「こ……これは……!?」
「はるか……はるかぁ!!」
余りにも凄惨な状況に三人が息を飲む中、ペンションの持ち主・吉村氏が膝をついたまま慟哭していた。
だが、誰がどう見ても、彼女はもう……。
「はるかぁ!! はるかぁあああ!!」
滝のように頬を流れる涙もそのままに、男は、帰らぬ人となった伴侶に何度も何度もその名を呼びかけ続けていた。
□□□
警察がやってきたのは、それから間も無くのことだった。
その間、ペンションの大広間に坂本、櫻子、田中の三名……つまり宿泊客全員が集まった。
広間の天井付近に飾られた古時計の秒針が、静まり返った空間にやけに大きく響いた。
坂本は先ほどから口元に手をやり、小さく唸りながら暖炉の前を何度も歩き回っている。櫻子はポケットから緑色の棒突きキャンディを取り出すと、徐にそれを口に咥え、暖炉のそばの壁に寄りかかり警察の到着を待った。未だに涙を見せる吉村も、中央のソファに座り込んだままの田中も、誰も一向に喋ろうとしない。やがて永遠とも思える沈黙の時間が過ぎ、ようやく山の麓からやってきたマフィア顔の警部は、現場に到着するなり管理人の吉村を睨みつけこう言い放った。
「なるほど。車の中で、部下から粗方話は聞かせてもらったんだが」
「はい?」
「吉村義雄。お前が犯人だな」
「は!?」
警部の言葉に、吉村が仰天した。
「妻殺しの重要参考人として署まで来てもらおうか」
「な……!?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 話を聞いてくれ!!」
マフィア顔の警部は、呆然とする吉村の手を取って銀の手錠をかけようとした。余りに唐突な出来事に、坂本が驚いて櫻子と顔を見合わせた。
何より一番動転しているのは、犯人として名指しされた吉村本人だった。マフィア顔の警部は、その場にいた誰もが驚いていることに驚いた様子で眉を吊り上げた。
「何だ?」
「何だ、って……何だって、私が妻を殺さなきゃならんのですか!? おかしいでしょう!?」
「何もおかしくはない。お前がどんな理由で妻を殺したかなんて、こっちはこれっぽっちも興味ないんだ。これからたっぷり時間を取って吐かせてやるから安心しろ」
吉村は途方に暮れたような顔でその場に立ち尽くした。
「わ、私はやってない!! 本当です、警部さん!!」
「馬鹿言うな。窓もない、鍵のかかった部屋の中で被害者と二人きり。お前以外に一体誰が犯人だって言うんだ」
馬鹿言うな、ともう一度警部は低い声で呟いた。彼は吉村の話を全く取り合わず、とにもかくにも目の前の容疑者を連行するように、と指示を出した。それを合図に、部屋の中に大量の制服警官が押しかけて来た。その数は十名とも、二十名ともつかない。大勢の警官に囲まれた吉村は言葉を失い、顔面を蒼白にして膝から崩れ落ちた。いかつい顔の警部が、何とも熱のない目で狼狽する”吉村容疑者”を見下ろした。
「フン。どうせ夫婦喧嘩でもして、ついカッとなってやったんだろう。よくある話だ。よくあり過ぎて、新聞に載っても誰も驚かないくらいだ」
「そ……そんな……!! 警部さん! 私は……!」
「そう言えば……」
「ん? 誰だねアンタは?」
警部が怪訝な顔をして声の主を振り返った。不意に、同じく部屋で待機していた宿泊客の田中が、大量の警官の間に割って入った。
「田中です。吉村さんとは旧知の仲で。私三日前から、このペンションに招待されてまして」
「そうですか。で、何か?」
「た、田中くん……!」
吉村が縋るように田中を見上げた。部屋中の視線が田中に注がれる。若干緊張しているのか、彼は不安げにあたりを見渡しつつ、おずおずと口を開いた。
「そう言えば田中さん、最近奥さんの様子がおかしい、って愚痴ってましたよね。ペンションの経営にも協力的でなくなったとか。もしかして……」
「な!? ち、違うんだ!! それは……!」
「ほう。それは中々重要な証言だな。何が違うんだ? はっきり言ってみろ」
「うぅ……!」
田中の言葉に、吉村の顔がみるみる引き攣っていった。残念ながら、彼が自分の潔白を証明しようと慌てふためく姿は、片隅で見守る坂本と櫻子の目にも何処か頼りなげに映った。
鍵のかかった部屋の中で、被害者と二人きり。
この状況をどうにかしない限り、警察は吉村が何を言っても取り合ってくれないだろう。
「……面白え」
部屋の片隅で、櫻子が誰にも聞こえない声でそう呟き、上唇を舐め上げた。彼女の隣では、事の成り行きを見守っていた坂本探偵が感心したようにため息をついた。
「まさか……夫の吉村さんが犯人だったなんてねぇ。吃驚したねえ、櫻子君」
「アホか。いくら何でも呑気すぎんだろ」
「え? でも……」
困惑する坂本に、櫻子は連行されようとする吉村の方を見たまま、周りに聞かれないように小声で囁いた。
「吉村は多分、犯人じゃねえよ」
「ええ?」
坂本が目を丸くして、素っ頓狂な声を上げた。
「だって発見された時、部屋は密室だったんだよ? 櫻子君だって確認したろ。僕も、吉村さんが悪い人には見えないけどさ。どう考えても、犯人はその時中にいた吉村さん以外有り得ないんじゃないかなあ……」
「だから、密室が余計怪しいんだよ。何のための密室だ? 大体、何で私たちが泊まってる時に殺すんだよ? 私が犯人だったら、普通に考えて客がいない日に殺るわ」
「うーん……犯行現場を、お客さんに見せつけたかったとか?」
「何のために? 仮に吉村が犯人だったとして、わざわざ密室作っといて発見時自分もそん中にいたんじゃ、『自分が犯人です』って言ってるようなもんじゃねえか」
「あ……確かに」
坂本は納得したように頷いた。
「じゃ、じゃあ吉村さんは、密室を見せることで『自分が犯人です』と言いたかった……?」
「違うわ! 何じゃその犯人」
櫻子は舌打ちして、マフィア顔の警部と、崩れ落ちたペンションの管理人に目を戻した。それからその横にいる、田中にも……。その顔は知り合いが逮捕され動揺しているというよりは、どこか涼しげに見えた。櫻子は切れ長の目をさらに細めた。
おそらく吉村は、嵌められた。
何やら吉村と過去に何かありそうなもう一人の宿泊客・田中に、だ。
問題は、どうやって犯人は密閉された部屋の中へ侵入し、そして被害者を殺したのか……。
「分かったぞ!」
「!?」
突然、坂本が大声をあげた。その場に集まった全員の視線が、今度は一斉に壁際に立つひょろ長の男に向けられた。
「何だ? 次は誰だね?」
警部が訝しげな顔で浴衣姿の坂本に目をやった。ぽかんと口を開けた櫻子の横で、坂本が誰もいない空間を指差し、嬉しそうに声を張り上げた。
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