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特別の終わりと日常と
最後に一つ
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▼彼女の姿が扉に消えると、城崎はふぅと息をつき、車内を見回す。助手席の足元に落ちていないか、ドリンクホルダーに忘れ物はないか──普段から整えているのに、改めて確認してしまう。
「(……変なもんが目に入ったら嫌だしな)」
そう思いながら、窓を軽く開け、背もたれに身体を預けて待った。
数分後、鞄を持ち替えた浅見が戻ってくる。階段を降りてくる姿を、無意識に目で追ってしまう。休日用の軽やかな雰囲気から一転、差し替えたビジネスバッグが「これから仕事だ」と告げているようで、少しだけ胸に寂しさが刺さった。
「お待たせしました」
助手席に腰を下ろした浅見が小さく息を整えると、城崎は短く「ん」と頷き、再び車を走らせた。
▼車内にはエアコンの低い風音だけが流れていた。
浅見は窓の外に視線を移す。人波の絶えない歩道や開き始めた店のシャッターが、休日とは違う現実へと引き戻してくる。
「(もうすぐ、着いちゃうんだ)」
そう思った途端、胸の奥が少しだけきゅっと縮んだ。
フロントガラスの向こうに、職場が近づいてくる。
浅見は座席の端でそっと指を組み合わせた。楽しかった時間の終わりを告げる風景に、言いようのない寂しさがじわりと広がる。
車は静かに角を曲がり、ビル群の狭間へと滑り込んでいく。
エンジンの振動が小さく落ち着き、やがて職場の通用口が見えてきた。城崎は減速しながらウインカーを上げ、建物脇の停車スペースにすっと車体を寄せた。
「……着いたぞ」
短い言葉に、浅見はハッと顔を上げる。楽しかった時間が終わりに近づいたのを悟り、胸の奥が少しだけきゅっと縮む。
荷物を抱え直し、シートベルトを外したところで、ふとガサガサと物音が聞こえて、そちらに目を向ける。
「ん」
同時に目の前に差し出されたのは、黒のランチバッグ。それに目にした途端、浅見は思わず声を上げた
「え、え、これ…!」
「昨日の残り。弁当にして詰めといた」
驚いている浅見を他所に、城崎は頬杖を付いたまま、何食わぬ顔でそれを彼女の胸に押し付ける。
浅見は流されるように受け取りながらも、目は丸くしたまま、彼を見つめていて…。
城崎はそんな彼女の方へ僅かに身を寄せた。
『…土曜日に返してくりゃいい』
「っ…は、はい…」
耳元で囁かれた瞬間、全身に熱が走る。顔を真っ赤にしながら、浅見は小さく返事をするのが精一杯だった。
城崎はそんな彼女を見て、口の端をわずかに上げる。
そして自然な仕草で彼女の顎に手を添え、唇に軽く触れるだけのキスを落とした。
「……じゃあな」
「っ……!」
一瞬にして身体が固まり、息が止まる。唇に残る熱に呼吸が詰まる。
「し、城崎さん……!」
声を裏返しながら慌てる浅見の顔を見て、彼はフッと笑みを零す。
浅見が鞄を抱え直すと、城崎はハンドルに手を置いたまま視線を向けてきた。
「……後で連絡する」
短く言ったその声に、いつもより少し柔らかい色が混じっている気がして、胸の奥がまた熱くなる。
▼浅見が車を降り、ドアを閉めると同時に、低いエンジン音が静かに唸った。
バックミラー越しにまだこちらを見ている気配があって、彼女は思わず足を止めそうになる。
やがて車体はゆっくりと発進し、信号の向こうへと消えていった。
残された浅見は、手元に残る紙袋と唇の残り香に頬を赤くしたまま、両手で軽く自分の頬を叩く。
「……っ、仕事! 仕事!」
そう言い聞かせるように小さく息を吸い、踵を返す。
けれど背筋を伸ばして歩きながらも、心臓の高鳴りはなかなか落ち着かず、頬の火照りも冷めてはくれなかった。
「(……変なもんが目に入ったら嫌だしな)」
そう思いながら、窓を軽く開け、背もたれに身体を預けて待った。
数分後、鞄を持ち替えた浅見が戻ってくる。階段を降りてくる姿を、無意識に目で追ってしまう。休日用の軽やかな雰囲気から一転、差し替えたビジネスバッグが「これから仕事だ」と告げているようで、少しだけ胸に寂しさが刺さった。
「お待たせしました」
助手席に腰を下ろした浅見が小さく息を整えると、城崎は短く「ん」と頷き、再び車を走らせた。
▼車内にはエアコンの低い風音だけが流れていた。
浅見は窓の外に視線を移す。人波の絶えない歩道や開き始めた店のシャッターが、休日とは違う現実へと引き戻してくる。
「(もうすぐ、着いちゃうんだ)」
そう思った途端、胸の奥が少しだけきゅっと縮んだ。
フロントガラスの向こうに、職場が近づいてくる。
浅見は座席の端でそっと指を組み合わせた。楽しかった時間の終わりを告げる風景に、言いようのない寂しさがじわりと広がる。
車は静かに角を曲がり、ビル群の狭間へと滑り込んでいく。
エンジンの振動が小さく落ち着き、やがて職場の通用口が見えてきた。城崎は減速しながらウインカーを上げ、建物脇の停車スペースにすっと車体を寄せた。
「……着いたぞ」
短い言葉に、浅見はハッと顔を上げる。楽しかった時間が終わりに近づいたのを悟り、胸の奥が少しだけきゅっと縮む。
荷物を抱え直し、シートベルトを外したところで、ふとガサガサと物音が聞こえて、そちらに目を向ける。
「ん」
同時に目の前に差し出されたのは、黒のランチバッグ。それに目にした途端、浅見は思わず声を上げた
「え、え、これ…!」
「昨日の残り。弁当にして詰めといた」
驚いている浅見を他所に、城崎は頬杖を付いたまま、何食わぬ顔でそれを彼女の胸に押し付ける。
浅見は流されるように受け取りながらも、目は丸くしたまま、彼を見つめていて…。
城崎はそんな彼女の方へ僅かに身を寄せた。
『…土曜日に返してくりゃいい』
「っ…は、はい…」
耳元で囁かれた瞬間、全身に熱が走る。顔を真っ赤にしながら、浅見は小さく返事をするのが精一杯だった。
城崎はそんな彼女を見て、口の端をわずかに上げる。
そして自然な仕草で彼女の顎に手を添え、唇に軽く触れるだけのキスを落とした。
「……じゃあな」
「っ……!」
一瞬にして身体が固まり、息が止まる。唇に残る熱に呼吸が詰まる。
「し、城崎さん……!」
声を裏返しながら慌てる浅見の顔を見て、彼はフッと笑みを零す。
浅見が鞄を抱え直すと、城崎はハンドルに手を置いたまま視線を向けてきた。
「……後で連絡する」
短く言ったその声に、いつもより少し柔らかい色が混じっている気がして、胸の奥がまた熱くなる。
▼浅見が車を降り、ドアを閉めると同時に、低いエンジン音が静かに唸った。
バックミラー越しにまだこちらを見ている気配があって、彼女は思わず足を止めそうになる。
やがて車体はゆっくりと発進し、信号の向こうへと消えていった。
残された浅見は、手元に残る紙袋と唇の残り香に頬を赤くしたまま、両手で軽く自分の頬を叩く。
「……っ、仕事! 仕事!」
そう言い聞かせるように小さく息を吸い、踵を返す。
けれど背筋を伸ばして歩きながらも、心臓の高鳴りはなかなか落ち着かず、頬の火照りも冷めてはくれなかった。
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