声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第二章

閑話 保科慶士は珈琲が飲みたい 前編

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※このお話は「二十七~二十九話 夢の中の人」の保科慶士視点のお話です。



 とある休日の朝。
 熟睡していた俺を起こしたのは、とある人からの一本の電話だった。
 
 今日は日曜日で休みだというのに誰だよ、と内心ぐちぐちと文句を垂れながら電話に出ると、それは高校からの友人であり現在は同じ職場で働く同僚からだった。
 普段の彼からは想像もできないような何やら慌てた様子のその声に、さっきまで寝ていた頭が急速に覚醒していく。取り敢えず保健室を開けて欲しいとのことだったので、俺はわかったと返事をして通話を切った。

 ひとまず軽くシャワーを浴びる。そして歯磨きや着替えを終えたあと、必要最低限の中身しか入っていないボディバッグを手に家を出た。
 今俺が住んでいるアパートと職場である高校は目と鼻の先にあり、普段から徒歩通勤をしている。たまの荷物が多い時などは車で通勤することもあるが、大抵は歩きだった。
 特に最近はトラブル防止のため、俺たちのような養護教諭自身が学校内で怪我をした生徒を病院に連れていくこともない。特に急を要する場合は救急車等を要請するので、学校の駐車場に車がなくても問題ないのである。

 そうこう言っているうちに、校門の前に着く。警備員と幾らかのやり取りの後、やっと中に入れてもらえた。
 今日は日曜日、本来であれば休日なのだが、受験生である三年生だけは模試があるため学校に来ている。今は丁度休憩時間のようで、校内は少し賑やかだ。
 まあそれも次の模試が始まるまでの数分のこと。そんな僅かな喧騒を背に、俺はまず職員室に向かった。
 職員室内の自分の机の引き出しから保健室の鍵を取り出し、すぐに廊下に出る。九月とはいえまだ残暑は厳しい。日差しも強く、本来であれば明るいはずなのだが、職員室から保健室への道はどこか薄暗い。自分の足音が響き渡る廊下はどこか不気味さを感じる。カツン、カツンと足音を響かせながら歩いていくと、突き当たりに人影が見えた。

「律樹」

 その人影に声を掛けると、その人物は俯いていた顔をあげてへらりと笑った。いつもの余裕綽々といった様相が、今は剥がれ落ちている。表面上は冷静に見えるが、なんというか内心では焦っているのだろうなと思えるような感じだった。

「休みにごめん、助かった」
「ああ、いや、それはいいんだが……」

 壁に凭れ掛かるようにして廊下に座り込んだ律樹が誰かを抱えていることに気付くと同時に、普段とは違う彼の様子に納得した。俺の視線が腕の中に移ったことがわかったのか、律樹の腕に力がこもる。それはまるで大事な宝物を奪われないようにする子供のようだった。

 律樹に背を向け、保健室の扉に向き直る。鍵を開けた後、ガラガラと扉を開いて中に入った。たった一日、されど一日というべきか。締め切ったままだった部屋の中の空気は少し澱んでいた。
 空気を入れ替えようと、部屋の奥にある窓を全て開け放っていく。すると開いた窓から心地よい風が入ってきた。
 後ろから足音がして振り返ると、そこには見知らぬ誰かを大事そうに抱えた律樹が立っていた。俺は自分が今いる窓からほど近い部屋の奥に位置するベッドを指差し、そこを使うように指示をする。すると彼は返事もそこそこにベッドに駆け寄り、抱えていたその人を横たわらせた。

「少し出てくる。何かあったら呼んでくれ」
「ああ……ありがとう」
「……もしこの部屋の中を見学したいのならしてもいい。その代わり、あまり備品には触れるな」
「わかった」

 そう言って俺は足早に保健室を出て、後ろ手に扉を閉めた。くしゃりと前髪を掻き上げ、壁に背を預ける。

 律樹がベッドに横たわらせた人物に俺は心当たりがある。顔も、どんな奴なのかさえ知らないが、その名前だけは知っていた。

 ――坂薙弓月。
 律樹の母方の従兄弟であり、律樹の想い人。
 長い付き合いであるからこそ、律樹の本気度がどれほどのものなのか、俺は嫌というほど知っている。もし知らなかったとしても、律樹のあの表情を見れば、彼がどれほどその人を想っているのかいやでもわかるだろう。

「……はぁ」

 別に俺は律樹に恋愛感情を抱いているわけではないが、それでもあの表情には当てられてしまったらしい。
 あんな愛おしいという感情を全面に押し出した表情なんて俺は今まで見たことがなかったが、こんなにも人の心を揺さぶるものなのかと思った。

 保健室を出たとはいえ、何か目的があったわけではない。取り敢えず起きてから何も飲んでいなかったことを思い出し、学食の前にある自動販売機へと向かった。三台並んだうちの一つから冷たいブラックコーヒーを選択し、ガコンという音と共に取り出し口に出てきたそれを取り出す。
 九月とはいえまだまだ残暑は厳しい。それでも真夏の猛暑日と比べれば大分ましにはなったが、未だ外気は熱を含んでいる。その証拠に買ったばかりだというのに、冷たい缶の表面はすぐに小さな水滴に覆われていった。
 自動販売機の隣に設置されている大手メーカーのロゴが描かれた赤色のベンチに腰掛け、缶コーヒーを飲む。口の中に広がる苦味と香りに少し気分が晴れていく気がした。
 ぼんやりと空を見上げながらコーヒーをちびちびと飲んでいく休日、というのもたまにはありかもしれない。
 
 今日は休日だが、校内にはそれなりに人がいる。ただ今は模試の最中なのか、しんと静まっていた。
 そういえば模試は何時までだったか。昨日も模試をしていた気がするが、自分に関係があるわけではないので日程や時間割が曖昧だ。
 
 どれくらいそうしていただろう。
 静寂を切り裂くようにチャイムが鳴り響いた。それを合図に重い腰を上げ、ベンチの横に設置されているゴミ箱に缶を押し入れる。そして口元に手を当て、ため息を吐いた。

「……はぁ」

 気持ち急いで出てきたために髭を剃り忘れたらしく、顎の辺りを手で撫でるとざらざらとして痛い。今日は休日だから髭が生えていたところで誰かに指摘されることもないだろうが、明日は気をつけないとなと思う。

 そういえば律樹の連れはもう目が覚めただろうか。あの連れが本当に坂薙弓月だったのならば、困っている可能性が高いだろう。
 律樹から聞いた坂薙弓月は声が出ない。発声によるコミュニケーションが難しいとなれば必然的に必要となるのは、声の代わりに言葉を伝える手段である。
 どこが痛い、どこがどういう風に変だと教えてもらえないと、こっちとしても対処の仕様がない。正直、それは困る。
 さてどうしたものかと空を見上げた時、ふとあるものの存在を思い出した。そういえばあれがあった、あれなら彼も使いやすいだろうと、空になったコーヒーの缶をゴミ箱に入れながら次の目的地を思い浮かべた。
 職員室に向かい、自分の席の引き出しを開ける。目的のものはすぐに見つかった。俺はそれを手にゆっくりとした足取りで保健室へと足を向けた。
 さっきよりも少し明るくなったような気がする廊下を進んでいく。静かな空間にゆっくりとした足音が反響する。そうして十分も経たず、俺は保健室に辿り着いた。
 少し躊躇いつつ、扉をコンコンと叩く。本当はノックなんてしなくてもいいのだろうが、この扉の向こうにいる人物たちを思えばそうせざるを得ないだろう。

「どうぞ」

 そう部屋の中から声がした。入ってもいいのかと思いながら扉を開けて中に足を踏み入れると、心地いい風が頬を撫でた。
 一番奥、窓際近くまで歩いていく。目の前にある間仕切り用のカーテンを開けると、そこには白いベッドが一台。そしてそこに横たわる一人の青年――黒色の艶やかな髪に病的なまでに白い肌、ほっそりとした印象の、とても儚そうな綺麗な青年だった。

「……この子が坂薙弓月か」

 気付けばそう口にしていた。
 これが、この子が律樹が思いを寄せる坂薙弓月という青年か。
 確かに少し前に律樹が言っていた通り、目を離したら消えてしまいそうな儚さを持った青年――いや、本当に青年か?
 歳は十八と聞いていたはずだが、それにしては少し幼い気がする。それとも握ったら折れてしまいそうな体躯のせいでそう見えるだけなのだろうか。

「保科先生、そこじゃ弓月が見えなくて怖がるのでこっちに来てください」
「……お前に敬語を使われると寒気がする」

 律樹の声にはっと我に返り、その言葉に眉間に皺を寄せる。今までこいつに敬語を使われることなんて仕事の時だけだったからか変な感じがした。俺は律樹に促されるがままに窓側のベッド脇に移動し、彼の横に立つ。

「弓月、紹介するね。この学校の養護教諭の保科慶士、俺の高校からの友人なんだ」
「……よろしく」

 お前のその口調はなんなんだと律樹を睨むと、あいつは普段からは考えられないほど穏やかな表情を貼り付けながら俺を見てきた。多分黙ってろってことなんだろう。俺は溜息を吐きながら、ベッド脇に置いてあった椅子を引き寄せて腰を下ろした。
 この青年の前ではこういう感じで振る舞いたいんだろうなということは伝わってくるが、それにしては俺に対してボロが出過ぎではないだろうか。

 俺は座ると同時に、手に持っていた黒い板のようなものを差し出した。弓月と呼ばれた青年が俺を見て戸惑っているのがわかる。どういうわけかさっきよりも顔や体から強張りが解けているような気がするが、実際のところはわからない。戸惑ったまま受け取ろうとしない彼を見兼ねてか、律樹が俺の手からその板を取った。

「これはね電子メモパッドだよ。このペンで書いて……このボタンを押すと消えて、また書くことができる」

 まるで実演販売のような紹介の仕方だなと思った。律樹の説明に使い方を知った彼は、横たわったまま律樹の手からペンを受け取ると、さらさらと画面にペン先を滑らせていく。
 そうして書き終わったのだろうパッドを、彼は律樹に手渡した。それを律樹が俺の方に画面を向ける。するとそこには『ありがとうございます』と書かれていた。最初に書く言葉がそれかと少し気が抜け、思わず頬が緩んだ。

 その後は起きた後の調子なんかを聞いたり、律樹と少しばかり話をした。この短時間で分かったことは、坂薙弓月という子はとても礼儀正しい子だということだ。いくら声が出ないとは言ってもしっかりと礼をするその行動に感心した。
 そしてもう一つ分かったこと、それは不安や戸惑いがあればすぐに律樹を見るということだ。余程律樹を信用し、信頼しているのだろうということはわかるが、それに対する律樹の反応がそれはもう甘かった。
 多分本人たちは気づいていないだろうが、二人が視線を合わせた瞬間からこの場の空気が砂糖ほどの甘さになっている。これで付き合ってないのかと言いたくなるほどの甘さに、俺は早速帰りたくなった。


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