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第四章
六十八話 戻ってきた日常
しおりを挟む文化祭が終わり二日が経った今日、俺は律樹さんと一緒に病院に来ていた。文化祭中にDomがグレアを発したことによる騒動による被害の影響をみるために検査をするのだそうだ。当日も昨日も律樹さんとはプレイをしたので別に良いのに思わなくもないが、どうやらそういうわけにもいかないらしい。
待合室のソファーに並んで座りながら順番が来るのを待つ。いつもであれば事前に予約をしているので比較的待ち時間は少ないのだが、今日は朝から電話をして急遽来院予約を入れたためいつもよりも待ち時間が長い。
何人もの人が呼ばれては去り、またやって来てはソファーに座るという光景をぼんやりと眺める。行き交う人の殆どが第二性を持っているのだと思うと少し不思議な感じがした。
パートナーに寄り添われながら目の前を歩いていく女性の姿をなんともなしに眺めていると、不意に膝に置いていた手が温もりに包まれた。視線を落とすと俺よりも大きな手が俺の手に重なっているのが見える。そういえばつい四日前に来た時は一人だったけれど、今日は律樹さんと一緒に来たんだったと思い出して口許が綻んだ。
「……疲れた?」
ただソファーに座って待っているだけなので特に疲れてはいなかったため、俺はその言葉にふるふると首を横に振る。しかしふと頭に浮かんだ考えに眉尻を下げながら律樹さんの方を向いた。大したことをしていない俺なんかよりもずっと律樹さんの方が疲れているんじゃないだろうか。その証拠に律樹さんの目の下には薄らと隈が見えていた。
俺は手を伸ばし、その隈の辺りを左手の親指でそっとなぞった。よく見ればいつもよりも少し顔色が悪いような気がする。律樹さんはいつも俺を大事にしてくれて何かあれば沢山心配してくれるけれど、俺だって律樹さんを大事にしたい。こうやって隈があったり、顔色が悪ければ心配もするし、何より俺といると休まらないんじゃないかって不安にもなる。
俺は右手に重なったままの彼の手と手のひらを重ねた。彼の指に自分のそれを絡ませ、彼の肩に寄り掛かって溜息を吐いた。指でとん、とんと彼の手の甲をゆっくりとリズムをとるように軽く叩く。まるで寝かしつけのようだと思いながらそうしていると、頭の上がほんの少し重くなった。
「……心配してくれてるの?」
律樹さんが俺の頭に軽く寄りかかりながら喜色を含んだ声で言った。それに返事をするようにトンと一度手の甲を指先で叩くと、くすくすという笑い声が聞こえてくる。
「ありがとう」
その言葉に思わず頬が綻んだ。一定のリズムをとっていた指を止めてきゅっと重ねた手に力を込めると、それに応えるようにさらに強く指が絡み合う。俺はそっと目を閉じ、律樹さんの肩に擦り寄った。
「坂薙さん、一番の診察室にお入りください」
少しの間二人して眠っていたらしい。順番を告げる声にハッとして目を開けると、隣にいた律樹さんも驚いたように目をぱちくりとさせていた。さっきよりも大分顔色が良くなっている彼の顔を見ながら、よかったと息をつく。
待合のソファーから立ち上がり、つい数日前にも来た道を迷いなく歩みを進めていく。ここには本当によくお世話になっているので、目を瞑ってでも診察室にたどり着けそうなくらいである。
見慣れた第一診察室と書かれた扉が開かれ、中に足を踏み入れる。そこには俺の担当医である竹中先生が笑顔で立っていた。
どうぞと勧められるがままに、診察用に用意された椅子に腰を下ろす。そのすぐ後ろで、看護師さんが持ってきてくれた椅子に律樹さんが腰掛ける音が聞こえた。
机の前の椅子に座った竹中先生が俺の方を向いて、ほんの少し眉尻を下げる。この反応はもしかすると律樹さんから事情をすでに聞いているのかもしれない。
「まずは心臓の音を聞きますね」
聴診器を手にした先生の言葉に、俺は胸の辺りまで上服を捲り上げた。ひやりとした感触が胸の辺りに触れ、一瞬体が跳ねる。心臓がドキドキしている音がなんとなく聞こえてくるような気がして、ぎゅっと目を閉じた。
一通り終わった後、竹中先生が机の引き出しから取り出した筆談用のノートとボールペンを受け取り、ペラペラと白紙のページを探す。前回の診察の時に使用したページの次を開きながら、俺はポールペンをノックした。
「大体のお話は瀬名さんから聞いているんだけど、念のため弓月くんからも聞かせてくれるかな?」
その言葉にこくりと頷くと、竹中先生は安心したようにほっと息をついた。そしていくつかの質問を投げかけられ、その度にノートへと答えを書き込んでいく。ノートが半分ほど埋まった頃、先生はにっこりと笑った。
「うん、ありがとう。……瀬名さんがすぐに処置できたことが大きかったのか、特に今回は異常なさそうですね。ケアもしっかりと行なっていただいているみたいで、顔色もそれほど悪くない。少し気になるところはありますが……それは次の来院時に前回の血液検査の結果と照らし合わせながらの方が良さそうですね」
「良かった……」
「ただ今週一週間はあまり無理をせず、瀬名さんと一緒にゆっくりと過ごしてくださいね。今からお渡しする書類を準備しますので、また待合でお待ちください」
「ありがとうございました」
診察が終わり、診察室を後にした俺たちは深く息を吐き出しながらソファーに腰掛けた。先程まで沢山いた患者さんはもうおらず、いつの間にか待合は俺たち二人だけになっていた。どこかから声は聞こえているからきっと他の科にはいるのだろうが姿は見えなかった。
何事もないようで本当に良かったという安堵のため息がこぼれる。まだ先週の血液検査の結果は出ていないが、それでもこの調子なら特に問題はなさそうに思えた。
「先にお会計してくるから、弓月はここで待っててね」
そう言って律樹さんは立ち上がって受付の方に向かっていった。その背中を見ながら俺は再びそっと息を吐き出したのだった。
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